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第3章
第7話:訪問者
 その日は全国的に、朝から梅雨入り前のからりとした初夏の晴天が広がっていた。そんな空の下、コガネシティのビジネス街では背広を纏った会社員が皆引き締まった顔つきで最寄駅から職場を目指し、同じ方向を歩いている。
 とある新卒の女性社員はこの毎朝の行進の途中、大通りのコンビニで缶コーヒーを買い、職場裏手の小さな公園で一日分の外気を取り込むのが既に習慣と化していた。彼女のオフィスは窓がない上にセキュリティが厳しく、一度入ってしまうとちょっとした用事で外に出るのが煩わしくなる。
 その公園はビルの谷間にあって、近くのオフィスで働く会社員の憩いの場になっていた。上司の話によると、以前は都会の公園にありがちなホームレスの溜まり場化するほど薄汚れていたそうだが、八年ほど前に大規模な改修があった際にそれらを残らず追い払い、敷地の周囲に桜を植えてベンチを置き、中央にポケモンバトル用のフィールドを設置してから現在のように近隣の会社員達で賑わうようになったという。出社前と昼休みは必ず誰かがポケモンバトルに興じており、彼女はベンチでそれをぼんやりと眺めながらコーヒーを口にするのが好きだった。その中でも、ミニリュウを使うどこかの会社の若い男性社員は憧れの存在だ。スラリと引き締まった長身の好青年で、大ファンであるチャンピオンに少しだけ似ていると思っている。同僚や上司は共感してくれず「全く似てない」と一蹴されてしまったが。
 しかしこの日はミニリュウ使いの青年どころかフィールドを使用する者は誰もいない。皆遠慮がちに中央を開けながらベンチに腰掛け、そわそわと出社に備えている。
「今日はバトルできない日なんだよねえ……」
 コーヒーで頭を刺激した後、彼女は残念そうに呟いた。
 今日は今年度から施行されている、“ポケモンの休日”である。娯楽や捕獲目的のバトルを控え、手持ちポケモンを休ませよう――という大義名分を掲げているが、実際の所いたずらに不満を蓄積しているだけだ。戦闘本能が強いポケモンは戦わねばストレスになるケースが多いし、トレーナーも同様である。ポケモンバトルを興行化して民衆の娯楽となったセキエイリーグが再開未定の休止をしていることもそれに拍車をかけた。
「早くセキエイリーグ再開しないかな」
 リーグに所属するプロの一人が傷害事件に巻き込まれたから仕方ないとはいえ、働き詰めの彼女にとってリーグ戦は休日の何よりの楽しみだ。テレビ中継で観客と興奮を分かち合い、深夜のスポーツニュースで再びその余韻を噛み締める――こんな風に過ごしている人間は彼女に限った話ではない。フィールドをぼんやり見つめる視界を遮るように現れた彼女の上司だって同様だ。
「おはよう。これだけベンチが混んでるってのに、真ん中だけ空洞なんて異質だな」
「おはようございます、課長。やっぱり施行二回目じゃまだまだ慣れませんよね」
 反射的に立ち上がり、コーヒーを抱えたまま頭を下げる。こっそり一瞥した周囲のベンチは、確かに出社前の会社員達で埋まっていた。同じ会社の顔見知りも多い。
「バトルができないって意外に堪えるんだよな。ま、でも流れ弾が電線に当たって通信断の原因になることは起こらないか。今日だけだろうがな」
「ああ、言われてみればそうですね。技術さん、ちょっとだけ気が休まるかもしれません」
 彼女達の職場は公園のすぐ傍、この界隈のオフィスビルの中でも一際頑丈な要塞・コガネ電話基地局である。ジョウト経済の中枢であるコガネシティ・オフィスエリアのモバイル及びインターネット回線を管理している基地局で、その役割故にセキュリティは大変に強固――のはずなのだが、朝から公園を揺らしながら見慣れぬ二トントラックが四台並んで裏口の駐車場へと吸い込まれていく。彼女は目を丸くした。
「何ですか、あれ?」
「ああ、エアコンの一斉メンテナンスだってさ。最近あちこちで調子が悪かったから、暑くなる前にまとめ診ようってことらしい。にしてもありゃ大袈裟だな。そっくり入れ替えるつもりかね」
 最近オフィスエリアや機械室のエアコンの利きが悪く男性社員を中心に不満が噴出していたことを彼女は思い出した。そして上司の言うとおり、全館メンテナンスとはいえトラック四台は大仰である。人海戦術で手早く済ませてしまうつもりなのだろうか。
「タマムシの局でも同じ状況のようで、今日実施するらしいよ。珍しいよな、揃って調子が悪くなるなんて。ロトムが悪さしてるんじゃないかってもっぱらの噂だ」
 上司が冗談っぽく笑う。ロトムと言えば一部の電化製品に取りついて悪戯することで有名なポケモンだ。この辺の地方では滅多にお目にかかることがない外来種で、彼女がその名を耳にしたのは先月のタイトルマッチでシンオウ地方出身の挑戦者が繰り出し話題になって以来である。
「あら、それは困ります。交換機に潜り込む前に駆除していただきたいですね……捕獲バトルが見られるかしら?」
 照れくさそうにジョークに乗りつつ、彼女も頬を緩めた。そもそも館内はポケモンの持ち込みが禁じられているから、実現することはありえないのだが。

+++

 それから二時間ほど過ぎた頃、イツキがトキワシティの自宅マンションからリトルカブで出勤した。赤と青のツートンカラーの車体は昨年キョウがカブを紛失した際に弁償してくれた特注品で、荷台に乗せたネイティオの緑がよく映える。そして大変目立つ訳だが、マンションから本部までの道のりは車の通りが緩やかで人通りも少なく、イツキは日々快適な通勤時間を過ごしている。自家用車やバスの列を横切って本部タワービルが見えてくると、仕事場であるスタジアムは目と鼻の先だ。車道をゆったり走っているとクラクションを鳴らされ、慌てて運送会社らしき四トントラックの列に道を譲った。巨大なトラックが三台も連なっているのは珍しい光景だ。
「僕へのファンレターかなー!」
 この道を通る運送会社の目的地は十中八九リーグ本部なので、そんな戯言を飛ばしながら車を見送った。本来ならばとっくに出勤して朝の訓練をしている時間帯だが、この日は法的にそれが認められておらず、気の緩みから寝坊してしまった。
「ポケモンの休日なのにだらしない、ってシバに怒られるかな」
 バックミラー越しに相棒に尋ねると、ネイティオは無表情のまま頷いた。
「でもさ、毎朝怒鳴られながらシバと訓練してるとウンザリするんだ。それが終わったら警察と未来予知作業でしょ……疲れてきた。違うことしたいな」
 普段どんな会話でも弾んでいたキョウが入院中で、話を合わせてくれるワタルも体調不良で休暇。この気が回る二人が開けた穴は大きい。シバは相変わらず不愛想だし、昨年振られた一件からカリンもマンツーマンで会話すると今だ緊張で舌が回らない。リーグ再開を目指して警察のサポートに尽力しているが何故か進展は見られず、イツキは不満を募らせていた。そもそも犯人の姿まではっきりと映し出してやっているのに、尻尾が掴めないなんて可笑しな話である。
「もしかして、警察にランスやロケット団関係者がいるんじゃないの!」
 ふいに湧き出た陰謀論を出勤直後にロッカールームで披露すると、シバとカリンは揃って呆れ顔だ。室内までイツキに付き添っていたネイティオは申し訳なさそうに彼らに頭を下げるが、主人はどこ吹く風である。
「そもそもロケット団ってさ、三年も幹部や首領が捕まってないって可笑しいじゃん。きっと上層部と誰かが通じているんだよ。キョウさんはそれを掴んで刺されたとか! 絶対そうに違いない!」
 朝早くから出勤し自身の筋力トレーニングに励んでいたシバは、上半身に染み出た汗を拭きとりながらソファへ腰を下ろし、溜め息をつく。
「単純にポケモン犯罪への対処が追いついていないだけだ。警察の戦力は平均バッジ三個以下――これじゃ、かつて史上最強と謳われたジムリーダー・サカキが指導した部下すら倒せんし、容易く出し抜かれてしまうだろう」
 これは彼自身が警察を訓練して知った惨状である。カリンも「お巡りさんってそんなに弱いの。ビックリしちゃう」と愕然とした様子だ。治安を守る者としてあるまじき現実だが、彼らは対人間には武術でポケモンには麻酔銃頼りでスキルの均一化を図っており、優秀な指導者を欠いたバトル術は組織内で大きな偏りがあった。このトレーニングにはプロトレーナーがコーチに適しているが、地域ごとにポケモンジムからの支援がまちまちだった問題がここで露呈したのである。
「リーグ本部側のサポートの遅れが響いたな。今から少しでも多くの力になればいいのだが……サカキは強い。並大抵のトレーナーじゃ敵わん」
 昨年ハナダの洞窟で対峙したロケット団との一件は、今だシバの心に残る汚点だった。名前を尋ねた途端、飛んできた鉛玉とボスゴドラを薙ぎ払ったゴローニャの一撃。躊躇のなく圧倒的な力は、日々鍛錬を積んでいる四天王のシバに実力差を見せつけたのだ。傷害事件までこの顛末を仲間達に話さなかったのは、この時プライドがへし折られたことが大きく影響している。だが、それは今や後悔でしかない。
「かつて弟子だったオジサマが早く目覚めてくれれば、対処法が聞けるかもしれないのにね」
 カリンの言う通りだ。考えてみればキョウのプレースタイルにも巧妙にトレーナーを狙い指示を妨害するという、サカキに影響されているかもしれない部分がある。正々堂々と戦うポリシーが邪魔してこれまで理解しようとも思わなかったが、早くからその原点を突き詰めていれば対策できたのかもしれない。
「ジム時代の資料やバトルビデオ、リーグの汚点だからって残らず処分されてるらしいよね。少しくらい残ってたら対策が練られたのにな……ヤナさん辺り、隠し持っていたりして?」
 イツキが警察やマツノから聞いた事実を話題に出し、ふと世話になったサカキの師の顔が浮かんだ。
「あら、一昨日聞けば良かったわ。ワタルのお見舞いだけして忘れてた」
「そういえばワタルっていつ復帰するの?」
「今日の昼過ぎにはこっちに出て来るらしいわよ。お見舞い、行けば良かったのに。貴方は警察の訓練をするシバ程忙しくなかったでしょ」
 カリンは遠慮なく男の痛い所を突いてくる。振られた後はこれが効果抜群でイツキは単独で会話できないのだ。彼はネイティオの長く垂れたトサカを突きながら、うじうじと尻込みする。
「そうなんだけどさー、今だヤナさんに着信拒否されててお見舞い行き辛いんだよね。病院でも怒らせちゃったし……」
 少年はネイティオに嫌がられながらもぶつぶつと落ち込んでいる様子だが、一昨日ヤナギと会話したカリンはそのような印象を受けなかった。むしろイツキの存在が転機になっているような口ぶりだ。
「あら。お爺様、貴方のこと結構気にかけている様子よ。若手の指導を再開したのも、あのスランプの一件がきっかけだったようだし……設定解除し忘れているだけじゃないかしら。顔見せに行ったらきっと喜ぶわよ」
 それを聞き、イツキの顔つきが瞬く間に明るくなる。
「ほ、ほんと? じゃあ仕事帰りに訪問がてらお見舞い行ってこようかな!」
「訪問がてらって……順序が逆でしょ」
 無作法な言い草にカリンが呆れて息を吐く。だが、今日は会議があると言っていたような――詳細を思い出そうとした時、ドアがノックされ「やあ、イツキくん。ちょっといいかな」と顔を出した副総監のフジがそれを補完してくれた。
「これからコガネでジムリーダーの合同会議が開かれるんだけどね、会議前に若手の勉強会を行うんだ。君もどうだい? これはヤナギさんからのお誘いだよ。その後は、『挫折への向き合い方』について少しスピーチして欲しいそうだ」
 そう、今日はその会議が行われるためヤナギはコガネに出向いているはずである。フジは副総監にしてジムリーダー管理部門も司っているから、会議に出席するのだろう。しかし四天王はこれから本部タワービルで警察との事情聴取である。戸惑いながら仲間へ視線を向けるイツキに、カリンが嬉しそうに背中を押してくれた。
「あら、チョウジへ行く手間が省けたわね。行ってきたら? 聴取は私達で対応するから」
 傍らでやり取りを眺めていたシバも無言で頷く。これで決まりだ。イツキはロッカーに詰め込んだばかりのボディバッグを引っ張り出すと、両手でネイティオの翼とフジの腕を掴んで部屋を飛び出した。
「ありがとう、じゃあ早速行ってきます! マツにも会えるし一石二鳥だ」
 開け放した扉の先の通路から、軽妙な声がはっきりと響いてくる。まだ殺傷事件も解決していないしリーグ再開も未定、不穏な空気は続いているが、それでも皆憂いだまま立ち止まることはしなかった。そんな雰囲気がカリンには何より心地良い。イツキを真似したくなって、彼女は徐にヘルガーを傍へ召喚した。
「じゃ、私達も聴取に行きましょうか。今回は一旦エントランスで待ち合わせて、五十階の会議室だっけ?」
 静かに脇に侍る相棒を撫でながら、シバに尋ねる。彼は首を縦に振りながら、ロッカーからポケモンを六匹選んで黙々とベルトに装着していた。筆記用具も持たず、まるでこれから訓練に行く格好だ。カリンは肩をすくめる。
「二時間くらい話し込んで終わりよ」
「トレーナーであることを一秒たりとも忘れたくない」
 リーグが休止して一月近く経過する。一昨年とは違い、先が見えない状況にシバも困惑している様子だった。そんな姿にカリンも共感し、ボールと必要最小限の小物を収納したクラッチバックを持って外に出ることにした。フラップ部分に丸い金属のモチーフが付いた艶やかな黒革のクラッチは、爪先のみ金属の装飾が施された黒いピンヒールとテーマを揃えており、胸元が大きく開いた紺色のシルクブラウスと膝下丈の黒いペンシルスカートにも程良く馴染んでカリンの妖艶な魅力を強調する。が、シバはその機能に懐疑的だ。
「いつも思うんだが、そういう鞄には収納能力があるのか?」
「ええ、ボール三個に免許にお財布、手帳とスマホ。それと最低限のアメニティは収まるわ。これだけ入れば十分でしょう?」
 それだけ仕舞えて、カイリキーのチャンピオンベルトより小さい。シバは少しだけ感心したが、やはり常時抱えておくのは煩わしく見えた。
「軽蔑してるでしょ」
 並んで本部への連絡通路を通りエレベーターへ乗り込んだ途端、見透かすようにカリンとヘルガーがこちらを睨んだ。尖らせたルビーの唇が、きめ細やかで艶のあるシルクの紺色によく映えてシバの網膜を刺激する。
「そういう訳じゃない。まあ三年もよく気を遣っていられるものだと思う」
「貴方には理解できないでしょうね……」
 カリンは眉を顰めながら、シバの古びた靴とひどく擦り切れたジーンズ、そして何も纏っていない上半身を睨む。年中ほぼこのスタイルで体調を崩さないのだから大したものだ。別の意味で感服していると、エレベーターはエントランスに到着した。劇場のように広大な玄関口では大理石の床の上を職員達が忙しく行き交い、彼女達プロの姿を目に留めてはその状況を悔やむように神妙な面持ちで会釈していく。広報員が中に入っていると思しきピクシーとグランブルの着ぐるみにも挨拶され、カリンとシバは目を丸くした。あれは開幕戦後、カントー・ジョウト地方にフェアリータイプを普及させる活動の一環として導入された広報マスコットである。
「リーグは休止しているのに、本部も色々と大変ね」
「そうだな……」
 ピンクと紫の着ぐるみがいなくなると、その向かいからブレザーのラテルに似た色のハート形のバッジを取り付けた制服姿の女学生が現れた。突然の美少女にシバは声を失い後ずさる。
「あら、アンズちゃんじゃない」
 カリンがごく普段通りに声を掛けると、スマートフォンに目を落としていた少女は高く結い上げた黒髪を揺らしながら太陽のような微笑みを浮かべた。
「カリンさん、シバさん! おはようございます。奇遇ですね」
 最後に病院で見た弱々しい姿が嘘のようだ――エントランスに差す柔らかな日差しに揺れる天使を直視できないシバを横目に、カリンは世話話を続ける。そういえば一昨日、会議前にここへ来る話を聞いていた。
「ああ、リーダー会議前にお父さんの免許を取りに来たんだっけ」
「そうなんです。システム部のマサキさんの所へ……でもさっきの広報さん達が可愛くて、思わず写真を頼んじゃいました。ほら、この組み合わせピンクバッジみたいでしょう?」
 嬉しそうにアンズが掲げるスマートフォンに表示されていたのは、先ほどのフェアリーポケモンの着ぐるみ写真だ。肩を組んで二体が並ぶと、確かにピンクと紫で彩られたピンクバッジを思わせる。カリンも思わず「ホントだー、そっくり」と声を弾ませながら共感した。不意に近寄る美女の香気にぐらりと理性が揺れたアンズは、慌てて後退し心の奥底へ本能を押し込む。
「カリンさん、今日のお洋服素敵ですね。凄くセクシーでヘルガーともぴったり! シバさんもそのデニム、いい感じにこなれてますね。父はそういう服装をしないので、デニム似合う人って新鮮に見えます」
 それで真っ先に反応したのはシバである。これまで一度も服装を褒められたことがない彼は、微妙な言い回しのお世辞にも「ほ、本当か」とエントランスに声を響かせ手放しで喜んだ。気になる美少女だから興奮もひとしおだ。
「お父さん、調子はどう?」
 話の流れでカリンが同僚の容体を尋ねると、彼女は顔を曇らせ俯き気味に首を左右に振った。
「診てくれているお弟子さんによると、まだ……でも、この前受け取ったポケモンを昨日、一旦預かって貰ったんです。クロちゃん達が傍にいれば、もっと想いが届くかもしれませんし」
 何て健気な子なのだろう――苦しげに微笑む姿はシバの胸を打ち、励ますように前に出た。
「ああ、きっと良くなることだろう。だが、あいつのポケモンは神経質だ。ケアを素人に一任しないようにな」
 ぶっきらぼうな言動にカリンは心底呆れたが、アンズは不安を内に隠し元気よく頷いた。
「勿論です。会議が終わったら病院に立ち寄って様子を見てこようと思います。お気遣い、ありがとうございます。時間が押しているので、あたしはこれで」
 彼女は結った髪を振り動かしながら丁寧にお辞儀すると、制服のスカートをふわりと揺らしながらエレベーターホールへと向かう。品の良さが滲み出る制服姿に、シバの心は益々惹きつけられた。
「システム部は四十六階だぞ」
 と、更に忠告すると彼女はわざわざ「はーい」と笑顔で振り返りエレベーターの中へと消えて行った。しばらく身体を向けたまま、じっくりと余韻を味わっていると傍にいたカリンが果報をくれる。
「そういえば前にアンズちゃんがシバの連絡先聞きたがっていたわよ」
「ほ、本当か……! ならば今すぐ契約してこよう」
 シバの胸が大きく弾んで目線がエントランスの出入り口へと動く――そこへすかさずカリンとヘルガーが回り込んで、腹の底から卑しめるように彼を睨みつけた。
「ふぅん、日頃ワタルが『携帯持つか免許に通話アプリ入れろ』って煩く言っても聞かないのに、好きな子となら連絡先交換してもいいんだ、このロリコン」
 激しく躍動していたシバの心臓が急停止する。
「お、お前……カマかけたな……!」
 カリンはヘルガーと顔を見合わせながら、呆れるように肩をすくめた。
「って言うかバレバレよ。貴方が少女趣味じゃないことは分かるけど、親が同僚なんだから露骨な反応は控えなさいよ。傍で見ててヒヤヒヤするわ」
「いつから気付いていた……?」
「去年くらいから。ワタルも知ってるでしょ。アンズちゃんが遊びに来た時、いつも貴方がヘマしないか必死で見守っているもの。良い親友を持ったわね、感謝しなさい」
「ほ、他の二人は……」
「イツキとオジサマは気付いてないんじゃないかしら。どっちもバトル以外のことで同僚に無関心なシバにわざわざ踏み込んでくることはないしね……だけどバレたらどうなることやら。変な気を起こしてトラブルを招くのはやめてね」
 それはお前も同じだろう――露骨に息を吐くカリンを見て、シバは昨年末の一時ギクシャクしたチームを思い出し、こっそりと顔をひきつらせた。そんな会話をしている間に、受付を済ませたトキワ市警の刑事達がやって来て彼らも再びエレベーターホールへと踵を返す。
 ガラス張りのエントランスは上りかけた太陽光が差し込み、やや汗ばむ程だ。出入り口を守る警備が目を細め、受付嬢達がこっそりと額を拭っていると、最寄駅の方向から小太りの紳士が二人の部下らしき男達を伴って歩いてくる。紳士は派手なネクタイに幅広ストライプ柄のダブルのスーツ姿をしており懐古的で悪趣味、まるで“一昔前の三流マフィア”だ。
 だが、本部へ訪れる役員関係者達の中にはバブル期の服装を引きずっている者も多い。警備員は嘲笑を内に秘めながら、にこやかに会釈して彼を中へ通した。すれ違いざま、男のてかてかのオールバックを作る整髪剤と葉巻の甘い香りが混ざった体臭が警備にむせ返るような不快感を及ぼしたが顔に出すことはできない。
 男はその不愉快な香りを撒き散らしながらのしのしと受付へ歩み寄ると、身を乗り出しながら受付嬢へ馴れ馴れしく尋ねた。
「総監と約束しているんだけど。名前はね……」

 総監の耳に来客の連絡が届いたのは、それから五分後だった。
 同時刻に行われていた役員会議のさ中、知らせを受けた秘書が総監に来客の名を耳打ちするなり、彼は愕然となった。その人物は総監にとって今や再会はありえない存在のはずだからである。
「そんなはずは……」
 真っ青になりながら聞き返すと、こちらの様子をちらちらと窺っていた本部役員達や同席していたスタジアム支配人のマツノが心配そうな視線を向ける。それに急かされた秘書が不安げな面持ちで総監に追い打ちを掛けた。
「ですが、確かに下でお待ちです。提示された身分証明書も確かにその方のお名前で……」
 その男に覚えがない秘書は提示された身分証の情報を囁く。総監は周囲にそれが漏れないよう気を配りながら、少しもずれていないネクタイを正して頷いた。
「私の部屋に案内してくれるかな」
 秘書が足早に退室した後、総監は深呼吸しながらテーブルにつく役員達の顔を見渡した。目が合った同胞らの中にはその来客の名を知る者も僅かながら存在する。だが彼がここで頼りにしたかったのは、右腕である副総監のフジだ。この件は共にリーグ本部を築き上げるために尽力した彼無くしては触れることができない。いや、触れたくもなかった。しかし、役員会議を優先しようとしたフジを制してリーダー会議に出席させたのは他ならぬ総監自身である。ワタルに影響されて今こそプロトレーナーの役目を見直すべきだと、フジの背中を押したのだ。全ては自分の責任。
「来客だ。少し、席を外す……」
 彼は重い腰をゆっくりと持ち上げながら出入り口の扉へと歩を進める。いつも役員が開けてくれるカードキー式の扉が今はやけに重く感じられた。
(いや、おかしい……そんなはずはない……)
 役員会議室は六十五階。総監室までたった五階分の距離が今はもう少し伸びて欲しいと願うばかり。エレベーターを避け、わざわざ階段からオフィスへ戻ることにした。無機質な灰色の空間に迷いを湛えた足音が反響し、耳朶を震わせる。
(間違いなく別人のはずだ、通報する手もある。しかしそれでは……)
 それでは不都合があるのだ――
 心構えに反し、踊り場の扉に記された階数を示す分子が少しずつ目的階に近付いていく。運動といえばゴルフ程度しか嗜んでいないというのに、足腰はまるで根を上げなかった。七十の数字が見えたその瞬間、背広の裏ポケットが震えて思わず転げ落ちそうになり、慌てて手摺にしがみ付いた。その弾みで階段の上にモンスターボールが転がり落ちる。苦楽を共にした長年の相棒の仕業だ。唖然としながら中を覗くと、老いたギャロップは逞しい双眸でこちらを見守っていた。まるで私がいるから心配ない、と言うかのように。それは今の総監にとって何より頼もしい。
「そうだな。きっと昔を知る者の冷やかしだ。あの男は死んでいるはずなんだ」
 彼は深く息を吐き出すと、ボールを大事に懐へ仕舞い込み、七十階へと続く扉を開けた。脇腹に触れるボールの感触は温かく、男と対峙する総監の不安を焼き払ってくれる。何も怖れるものはない。臆病者は、戦士に非ずだ。
 来客に物怖じ気味の秘書達を励ますように颯爽と彼女らのオフィススペースを抜け、両開きの扉をさっとこじ開けた。セキエイの青空が差し込む総監室の応接スペースで、満面の笑みを湛えた男がさっと腰を上げる。
「やァやァ、ご無沙汰しています。四十数年ぶりですなあ、総監!」
 確かにあの男だった。
 十年近く前にコガネで亡くなったと聞いていたはずの――元ロケット団、首領。

鈴志木 ( 2014/10/09(木) 19:39 )