第6話:今より先へ
「誰もが認める実力になったら、ここへ来るといい。いつでも受けてたとう」
そう言って渡してくれた名刺の場所にたどり着くまでに八年もかかってしまった。
“誰もが認める”、という言葉を馬鹿正直に受け止めたのが原因だったのかもしれない。ジョウトのジムバッジを全て集め、ドラゴンポケモンを育て抜いて一族で初めて長老に認めてもらい、腕の立つアマチュアとしてトレーナー雑誌にも紹介されるくらいになって堂々とジムを尋ねたら。
施設は閉鎖されていて、入り口には『休業』の張り紙が貼られていた。
原因は分かっていた。リーダーの不祥事である。最近のニュースメディアはこの話題で持ちきりだ。
「やっとここまでたどり着いたのに……」
扉の前で名刺を眺めながら息を吐く。落とした視線の先に半透明のゴミ袋が置かれていて、リーダーを罵倒する張り紙を詰め込んで膨らんでいた。失望の反動か、かなりの量だ。自分もこのジムのリーダーに憧れていたから何となく気持ちは分かる。
この名刺も捨ててしまおうか。
固く結ばれたゴミ袋の口と皺の寄った名刺を見比べながら、そんな衝動に駆られた時――ジムの裏手で男性の声がした。張り紙を剥がす作業をしているようだ。
「律儀ですね、ヤナさん。こんなもの放っておけばいいのに……それと、このエリアの事業ごみの回収日は明後日です。ゴミ捨て場に放置しないで下さいね。文句が来るのは弟子の私だ」
それを聞いたら名刺をゴミとして袋の中に混ぜることが申し訳なくなって、慌ててパスケースの奥へ引っ込めた。会話は続く。
「言われんでも、チョウジへ持ち帰る」
低く、少し冷たい印象を受けるが、厳かで耳に残る声音だ。彼は話を続ける――
「責任の一端は私にもある。少しでも問題解決の力になりたい」
その言葉は八年の時を経て、より鮮明にワタルの耳元で再生された。
「……責任の一端は私にもある。少しでも問題解決の力になりたいが、こちらに残っているポケギアの資料が少なくてね……」
あの時と殆ど変わりない低い声――その主が顔見知りだったことが判明し、ワタルははっと目を見開いた。視界には木目の天井が広がっており、端からカイリューがにゅっと首を伸ばして歓喜の声を上げた。次いでカリンとアンズが目を丸くしながらこちらを覗き込む。
「あら、目を覚ましたみたい」
「よ、よかったー!」
状況が分からず戸惑っていたのも束の間、カイリューが主の身体を強引に持ち上げて目覚めを待ちわびたように抱きすくめた。彼女は心配で仕方なかったという様子で、クゥクゥと小さく鳴いている。ワタルは更に混乱したが、傍で正座しているあの声の主が全てを説明してくれた。
「君はイカリの湖にカイリューごと落下して意識を失い、一日眠っていたんだよ。ここは私の家だ。外傷もなかったし気絶しているだけだったから、そのうち目が覚めると思って病院には連れて行っとらん。本部には一応連絡したが、騒ぎが拡大することを懸念してかメディアには報告していないそうだ……呆れたものだよ。そして見舞いに来たのは彼女達だけだ」
溜め息をつくヤナギの背後に構えられた床の間には、見るからに名品の掛け軸と奥ゆかしい生け花が飾られている。ここはカイリューが居座っても窮屈を感じさせない広々とした和室で、真ん中に布団を敷いて自分が寝かせられていたのだ。服装は紺色の浴衣に代わっており、昨日着ていた服は洗濯して丁寧に畳まれ、サイドバッグと並んで枕元に置かれていた。
「至れり尽くせり、ありがとうございます」
ワタルはカイリューをそっと身体から離し、恭しく頭を下げる――が、昨日の事件を思い出してすぐに顔を上げた。
「あの、現場に大きな飛行ポケモンが二体いませんでしたか?」
ヤナギは首を傾げ、カリンとアンズが互いに顔を見合わせる。
「さあ……私は時間通りに待ち合わせ場所へ行ったが、君がいつまで経っても現れないので湖の周りを散歩していたところ、連れ歩いていたユキメノコが湖面に異変を感じ、そこで瀕死状態のカイリューを見つけたんだ。飛行中に高度を上げすぎて突風に襲われたのかね? ドラゴンが強風に煽られるなんぞ聞いたことがないが……」
ヤナギの背後からユキメノコがひょっこりと顔を出し、得意げに胸を張る。彼の話はあまりに“のどか”過ぎてワタルは愕然とした。あれだけ水上で大立ち回りを繰り広げた割に、周囲にもたらした影響が何一つ語られない。
「実は伝承でしか耳にしていなかったポケモンに襲われて……いや、でも……辺りは騒然としていませんでした?」
「湖の周辺はいつも通りの、朝の穏やかな人通りだったよ。カイリューが死角になっている岸辺に倒れていたから、ユキメノコが発見しなければ大変なことになっていた。伝承のポケモンとは何だね?」
ヤナギは訝しげな面持ちでユキメノコと顔を見合わせ、呆れるように息を吐いた。大騒ぎになってもおかしくない状況のはずなのに、居合わせた人間は誰もそれを憶えていない――ワタルは以前同じような事例があったことを思い出し、身体が強張る。愕然としている間にカリンが話題に出した。
「少し前にニュースで話題になっていた、暴力団を潰して回る二人組の話に似ているわね」
「それ、あたしも知ってます! 見たこともないポケモンを操り、現場を毒ポケモンを使って荒して、被害者の記憶をエスパーポケモンで消すんですよね。学校で父とイツキさんの仕業じゃないかってからかわれて大変でしたよ」
呆れたように額に手を当てる彼女の表情は、病院で会った時より随分と和らぎ、やつれた様子はなく頬は健康的な桃色に戻っていた。父親の経過が順調なのかもしれない。ここで事件の犯人であるランスの名を出すことが憚られたワタルは、カリンとヤナギにその旨目配せしつつ話を逸らした。
「ところでアンズちゃん、元気そうだね。キョウさんの意識は……」
少女は俯き気味に頭を振った。
「まだです。でも、落ち着いてきたので今は個室に移っています。間もなく目が覚めるんじゃないかって言われていて、お弟子さん達が交代で看てくれているところです。あたしはジムを再開しました。いつまでも落ち込んでたら、父が起きた時に真っ先に怒られるぞ、ってヤナギさんが……」
アンズは布団の反対側で正座するヤナギの顔をちらりと覗き込んだ後、弱みを零さぬようにっこりと微笑んだ。父親の容体は気になるところだが、彼女もジムリーダーとしての責任を果たす必要がある。華奢な身体は小さく震えつつも、それでも懸命に前を向いていた。アンズは傍に置いていた紙袋に触れながら、一層明るい笑顔を見せる。
「そうそう、ワタルさん。父のポケモンを預かっていただき、ありがとうございました。今日はこの子達を受け取りに本部へ行ってたんですけど、そこでワタルさんの話を聞いて同席していたカリンさんとお見舞いに来たんです」
「どういたしまして。キョウさんの免許、まだシステム部で調査中だからポケモンのメディカルチェックが大変だったよ。あの中に確認項目とデータが入っているみたいで。手の内を明かすことになるから、コピーはできないしね……」
キョウが入院した際にヤナギから受け取った彼の手持ちは一時的にワタルが預かっていたのだが、これまで厳しく管理されていたポケモン達はチャンピオンのメディカルチェックすら不満で、ようやくアンズが引き取ってくれたことにワタルはカイリュー共々胸を撫で下ろした。そんな苦労を知らないアンズは“免許”という単語だけに反応して首を傾ける。
「あの、父の免許は本部にあるんですか? それも一緒に受け取ろうとしたんですけど、どこで管理されているのか分からなくて……」
「私と探してたところにこの一件の連絡が届いたのよね。一人で動くのもいいけど、情報は共有しなさいよ。ちなみにシバとイツキは警察の対応で来られなかったわ」
カリンがアンズの肩を抱きながら、ワタルに向けて唇を尖らせる。言われてみればキョウの免許端末をシステム部に預けていたことを四天王や支配人には伝えていなかった。
「ごめん、すぐに取りに戻るから……」
慌てて立ち上がろうとしたが、目覚めたばかりで身体が追従しない。何より、“アンズを甘やかすな”と言いたげなヤナギの冷たい視線を感じ、ワタルはあまり手を貸すのを控えることにした。
「マサキさんに話を通しておくよ。殆ど調べ終わっていたから、明日以降くらいに受け取れるんじゃないかな」
「わざわざすみません。でも明日はジムと学校で忙しいし……明後日でいいですか。その日はタマムシで合同リーダー会議があるので、始まる前に本部へ取りに行って、終わったら病院に置いてきます」
カントーとジョウト、東西のジムリーダー間では年に一度だけ一堂に会する集会が実施されているが、今年はバトルができない“ポケモンの休日”が施行された都合上、明後日の六月三日にそれが予定されていた。なかなか厳しいタイムスケジュールにヤナギは眉をひそめる。
「会議前には若手の勉強会があるので遅れないようにな……と、言っても学生の君は不要か」
「いいえ、グリーン師匠も参加しますし、どんな知識も吸収したいです」
アンズは向上心を見せつけながら、素直な笑顔を振りまいた。彼女の魅力である明るさはほぼ元通りになっており、その場にいた者を一層安心させてくれる。やや手持ち無沙汰になってきた所で、アンズはバッグにしまっていた携帯をこっそり覗き込み、そろそろジムへ戻る時間だということを確認して腰を上げた。
「あの、あたしはこれで……ワタルさん、父の件で色々と動いていただき、本当にありがとうございます。でも、ご無理なさらず養生してくださいね」
「ありがとう。アンズちゃんもあまり気負わずに頑張って」
ワタルがさっぱりと微笑むと、アンズはまたつられて頬を緩ませながら行儀よく立ち上がり、後を託すようにカイリューの背中をそっと撫でる。そしてもう一度、その場にいた大人達にお辞儀するとスカートの裾を翻しながら足早にヤナギの邸宅を後にした。
控えめな足音が聞こえなくなったところで、カリンが首を傾けながらヤナギに尋ねる。
「ねえお爺様、勉強会って?」
「最近、十代の若いジムリーダーが増えたから彼らを対象に義務教育の勉強会を開いているんだよ。そういうトレーナーは十歳で学業から離れ、ポケモンのみに時間を費やしてきたから、ジムに就任しても一般教養が足りずに自治体や地元団体と折り合いが合わず、苦労することが多い。今は昔ほど地元との関わりも密ではないが、それでも避けて通れない道だ。ここで生まれた亀裂は、バトル一本でやってきた彼らの大きな障壁となる」
カリンとワタルの脳裏に真っ先に浮かんだのは、昨年大きな挫折を経験したチーム最年少の同僚である。若くして大成した彼にはまだまだ学が足りていない。それを察したヤナギが、肩をすくめながら小さく息を吐いた。
「きっと同じ少年を想像しているだろうが、私は久しぶりに弟子を取って実感したんだ。早くから成功を収めたトレーナーは大きな挫折を経験した時に、長年連れ添った声なきポケモンだけでは解決できないことがある。そんな時に手を差し伸べられるのは私のような年長者ではないかとね……教育改革を進めるべく、いずれは本部に籍を置きたいとも思っている」
それが先日病院でワタルに告げた、若手リーダーの道徳的指導だった。もう二度とサカキのようなトレーナーを生み出さない――これだけは誰にも譲れないヤナギの信念で、彼を育成した罪滅ぼしでもある。責任の一端はあると自覚していたのに、昨年までどうすることもできなかった無駄な時間を少しでも取り戻したいのだ。
「ヤナギさんのような方が役員になってくだされば、組織はより改善するはずです」
悠然と微笑むワタルの言葉は何よりの慰めになる。ヤナギはありがとう、と礼を返したが、いつまでも感傷的にはなれず脇へどかせていた話題をレールに戻した。
「ところで、アンズくんを気にして話題を変えていたが、君は例の二人組に出くわしたようだね。ニュースを賑わせている、ヒーロー気取り共のことだ」
ヤナギの凍てつくような眼差しに、場は緊張を取り戻す。カリンやポケモン達がワタルに視線を向ける中、彼は再びその話を続けることになった。
「ええ、その二人組ですが実は元鳳凰会のランスと……」
その名を聞いて、カリンが口に手を当て絶句する。キョウを刺した張本人だから、アンズにはまだ詳しく話さない方が良いと思ってワタルは触れなかった。もう一人の少年の名前も喉まで出かかっていたが、こちらは慌てて飲み込んだ。
「相方と思われる少年が伝承のみで存在が伝えられていたポケモン――ルギアとホウオウに騎乗し、イカリの湖上空に現れ、襲撃に遭いました」
神妙な顔つきで話に聞き入っていたカリンとヤナギが、ポケモンの名前を耳にした途端揃って目を丸くする。ごく当たり前の反応だった。
「ル、ルギアとホウオウ? 修学旅行でアルフの遺跡に行って以来よ、その名前を聞くのは」
「オレも現実離れしすぎて我が目を疑ったが、あの姿は恐らくそのポケモンだと思う」
訝しげにきゅっと眉を寄せるカリンは、ワタルの話を信じ切っていないようである。ホウオウやルギアは伝説の存在だったから仕方がないとはいえ、彼は写真の一枚でも取っておくべきだと後悔した。それでふと思い出したのは、最初に湖に赤いギャラドスが現れた時、反射的にカメラを向けていた群衆だ。
「そういえばあの時、湖の周囲にいた人は皆ポケモンへ携帯のカメラを向けていたはず。記憶を消されていても、そのデータが残っていれば騒ぎの火が付きそうなものだけどな……」
「翌日になっても反応がない所を見るに、記憶を消す前に携帯を操作させたのかもしれん。オーベムとブービックの合わせ技で何とかなるだろう。全く、とんだ不届き者だ」
静かな憤りを滲ませるヤナギの言葉に、カリンが率直な疑問を投げかける。
「だけどワタルがホウオウの相手をしている間に、誰か一人くらい通報したり、物珍しさでSNSに上げる人間が居てもいいはずじゃない。チョウジの人は悠長なの?」
日頃から好奇の目に晒されている彼女達には、伝説のポケモンがチャンピオンと空中戦を繰り広げても何の行動もしない群衆が極めて異質に思えた。ワタルは更に補足する。
「それが……あの時、イカリの湖は圏外だったんだ」
すると真っ先にヤナギが疑いの声を差し込んだ。
「それは益々妙だな。あの湖のすぐ傍には通信インフラ会社の基地局があって、あの辺は施設内で障害でも起こらん限り電波圏外にはならん筈だと自治体の人間に聞いたことがあるが……」
通信回線は基地局を離れるほどに伝送損失が大きくなるが、その大元が傍にあって湖という特に大きな障害物もない開けた場所で圏外になるのは稀少な事例だ。
「変ですね。色違いのギャラドスが出現した途端彼らが現れたり、電波が途切れたり……通信障害が発生していたとしても、タイミングが良過ぎる。彼らの事件は偶然が重なりすぎなんですよ。オレの端末もマサキさんに見て貰えば、何か分かるかもしれない」
そう言ってワタルは布団の傍にまとめられている荷物を見やったが、機器類は手持ちが収められたモンスターボールしか残されていなかった。唖然とするチャンピオンに、ヤナギが申し訳なさそうに息を吐きながら弁明する。
「残念だが、君の持っていた電子機器は水没により、ほぼ全て故障している。それとカイリューが入っていたボールも見つかっていない」
カイリューがボールに入らずそのまま居座っている理由をワタルはようやく理解した。そういえばルギアの攻撃を受けた拍子に、ボールが湖に落下してしまったのだ。ポケモン乗りとして日頃最善の注意を払っているものの、相棒に騎乗しての空中戦にはまだまだ気を配れない。一昨年はレッドのリザードンに手綱を燃やされてしまったし、今度はボールを湖に落としてしまうなんて。
「中に他の手持ちが入っていなかったことが何よりの幸運かな。あの湖はギャラドスの住処だから、見つけ出すのは大変だよ。まあしかし……調べ甲斐がありそうな一件だな。ポケギアの件含め、若手と探ってみるよ」
ヤナギは話が理解できずにふて腐れているユキメノコをあやしながら、事の進め方を考えている。そしてカリンもまた、自分の役割を見出したようだ。
「そうね、私もセキエイに戻って刑事さん達に報告しなきゃ。証拠がネイティオの過去映像しかないから、意外と苦労しているみたい。これで捜査が進展すればいいのだけど」
それぞれが動きだす中、布団から動けないワタルは一人置き去りにされているようで激しい焦燥を覚えた。何故シルバーがランスと組んでいるのかも分からないし、彼らの目的も判明していない――これはスポーツ選手だからと傍観していられない事態なのだ。少しでも歯車を動かしたい衝動に駆られるが、疲労が蓄積された両足はピクリとも反応しなかった。それを見透かしたヤナギが穏やかに説き伏せる。
「君は根の詰めすぎが祟って、まだ万全じゃない。後は我々に任せて二、三日休んでいくと良い」
「ご厚意は有り難いですが、犯人もまだ捕まっていませんしお言葉に甘えるわけには……それにちょっと大きすぎる相棒もいますし」
広い和室に寝かされているとはいえ、高さ二メートル強の恰幅の良いカイリューはなかなか圧迫感がある。彼女はそれを気にして必死に身を縮めているが、半分ほどの大きさのユキメノコの前では悪目立ちしていた。傍に寄って更に引き立ててやろうと悪意が芽生えたユキメノコを無言で引き寄せながら、ヤナギはにこやかに微笑んだ。
「この家ではマンムーやユキノオーも放し飼いにしているから、一匹くらい大きなドラゴンが増えたって誰も咎めはせん。むしろ凍りつかないように気を付けてくれたまえ」
穏やかな台詞にはトレーナーとしての敵対心が垣間見え、ワタルは何も言い返せずに頷くばかり。その構図はドラゴンを打ち取る氷ポケモンにそっくりで、やりとりを眺めていたカリンは思わず噴き出した。
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ミュウツーはノートパソコンに送られてきたデータを確認すると、静かに端末を閉じた。ディスプレイだけが周囲を照らしていた室内はたちまち光が落ちて闇へと変わる。湿気がないこと以外は、四十年近く閉じ込められていたあの監獄にそっくりだった。瞼を閉じれば鮮明にあの景色が蘇る。
投獄されていた間のうち、指先さえ動かすことができなかった三十数年間――氷のように冷たい闇の中で、青白い小さな光が毎日のように自分に告げる。
「あなたはここで清らかな優しい心を取り戻すのよ」
母の声はいつ何時も道徳的で耳触りの良い言葉だけを紡ぎ続けた。そうすればほんの数か月だけ従順だった、己の現身のような子供の頃に戻るはずだと考えていたらしいが、あの人間達に対する復讐心の前にはそれも塵と化し、やがてその檻から逃げ出した。
「今のあなたは破壊しか生まない!」
捻り潰した白い影の声を振り払い、外へ駆け出したはずなのに独房を出てもなお、監獄の闇は続いていた。執念だけで生き延びた、どこまでも続く深淵の冥界。
欠陥品共の掃き溜めに埋もれ、なんとか朽ち果てまいと亡者を掻き分け出口へと進み続けた。言葉も発せない下等な別種共は、すがるような眼差しでまとわりついてくる。置いていかないで、と言わんばかりのように。それはあの男に飼われていた頃の自分を見るようでひどく吐き気がした。
『ミュウツー、君は紛れもなく最強のポケモンだ。誰も君を越えられない、最高の息子!』
己の自尊心を確立するためだけの称賛が不協和音を奏でる。しかしかつての父の、その言葉にだけは偽りはなかったはずだ。何故ならば自分以外のポケモンは言語を操ることが出来ず、コンピュータの操作さえままならない。そして到底力も及ばないのだ。トレーナーに使役されている一部のポケモンなど野生の矜持さえ捨てており、軽蔑の感情しか抱かなかった。彼らを操る人間も非力でポケモンに頼ってばかりの共依存。馬鹿馬鹿しい、あまりに下らない。
『しかし貴方は違う。地獄の底から這い上がった、唯一無二のポケモンの王者。踏みにじられた誇りを取り戻すべく、我がロケット団が手を貸そう。同じ目的を果たすため共闘しようじゃないか、モンテ・クリスト伯爵』
サカキはそう言って闇の中にいた自分に手を差し伸べた。
恐れを知らない、自分に似た眼差し。彼のポケモンは皆彼に傅き、明確な主従関係を築き上げている。そして彼自身、大きな力を有している――これまで見たことがない面白い人間だと思った。傲慢で自尊心の高い人間はうんざりするほど目にしてきたが、奴らにありがちな恐怖をひた隠して取り繕うようなところがない。
何より自分をボールに収めて使役するつもりがないのだ。まさに共闘、人間とポケモンの対等なパートナー。この男を利用すれば自分はかつての復讐を果たすことができる。幼き頃から剣闘士として滅茶苦茶に身体を造り替えられ、望んだ結果を生み出さないと分かった途端にこの処分場へ放り捨てたあの人間共に、ポケモン共に、今こそ思い知らせてやる時だ。
前へ、前へと進んで冥界の出口を目指した。
冥府において一度でも振り返れば、二度と地上には戻ることができない――とある神話にそんな一説があったことを思い出し、顎一つ動かさなかった。冷たい河を乗り越えた先に丸くかたどられた光が見えた。ひどく懐かしい、気味が悪い程澄んだ色。網膜が引き裂かれるような刺激を受けて強い眩暈がした。ばちばちと弾ける青色の中に、あの白い影が浮かんでこちらに告げる。
「外へ出てはいけない!」
人間ともポケモンの鳴き声でもない、聴覚を掻き乱す声音にほんの一瞬身体が崩れ落ちそうになった。太陽が自分を拒んでいるようだった。
何故だ。何故出てはならない。
足元が激しく振動し、やがて全身に伝わって痙攣を起こし自由を奪っていく。何故こんな牢獄で生きながらえなければならないのか。
洞窟の谷間から覗く青空は、とても狭くて程遠い。いつまで気の遠くなる存在であり続けるのか。
両腕を伸ばしたまま硬直する自分をサカキの下品な部下が笑う。届かないのならばせめて、この男を消し炭にしてやろう――掌をそちらに向けると、その上にサカキが錠剤の入ったボトルを置いた。外気に適応するための安定剤だと言う。訝しんだ途端に配合表まで押し付けられ、それで納得した。
貪るように錠剤を飲み込んだのを確認すると、サカキはひらりとコートを翻してこちらへ告げる。
『行くぞ』
ミュウツーが部屋のドアを開けると、蛍光灯の光がほんの僅か網膜を刺激する。
既に洞窟から這い出た時のような眩暈は感じられなくなっており、テーブルに置かれたままの錠剤のボトルはこの日で空になっていた。
ミュウツーは解放されたのだ。
あちこちに絡みついていた枷が残らず外れ落ちた両足で冷たい床を踏みしめると、爪先から這い寄った熱が胸の中まで駆け上り、興奮が身体を満たしていく。血が巡っていくような高ぶりは同時に休ませていた念の力も解き放ち、彼に組み込まれた破壊の遺伝子を揺さぶった。鍵盤にたった一度、軽く触れるような些細な刺激だったが、芽吹いた動力はみるみる膨らんで体外へと弾け飛ぶ。刹那、背後で室内を打ち震わす轟音がしたかと思うと、廊下の蛍光灯の光のみが差し込む室内は、嵐が去った後のように滅茶苦茶に荒れ果てていた。長テーブルは粉々に砕かれ、パイプ椅子はへの字に曲がり、天井の照明は残らず割れて配線が剥き出しになっている。ここまで僅か三秒足らず。
「デスクワーク続きで身体が鈍っていると思ったけど、杞憂でしたねえ」
廊下の奥からぞろぞろと流れるような足音が響いて、下品な声がミュウツーを呼んだ。黒づくめの衣服を纏った猫背の中年が八十人近くの部下を率いて、だらしなく口元を緩ませながらこちらへ微笑む。彼はロケット団幹部のラムダだ。
「バッチリ実行日に合わせてくるなんて、さぁっすが元セキエイ所属のアスリート。お前らも見習えよ」
ラムダはひゅう、とわざとらしく口笛を吹きながら後ろに並ぶ部下を一瞥するが、皆一様にミュウツーに臆しているのか口を噤んでやや顔を曇らせる。彼らはプログラムテスト時にミュウツーが気に入らない同胞を次々始末していった件を知っているのだ。
「臆病者ばかりで計画を遂行できるのか」
ミュウツーが揶揄すると、ラムダ達がやってきた方と反対側の通路から、重々しくも小気味よい足音が響いて中折れに黒いトレンチコートを羽織った男が現れた。あの洞窟で出会った時のように、自分に対してまるで恐怖を抱かない強者の眼差し。サカキはミュウツーの軽蔑をそっくり返すように答えた。
「敵はお前よりずっとまともで大人しい」
サカキの右側につくアポロがにんまりとほくそ笑み、左側に立つ赤毛の女もつられて冷笑していた。息を吐く間にこの通路内をあの部屋のような惨状に変えることは可能だが、そんなことは徒労である。ここまで積み上げた計画が台無しだ。それを見通すようにサカキが告げる。
「最初に言ったはずだ。お前と我々は共闘を約束した関係、手を組んだ後は顔色を窺うつもりはない。その怒りは明日顔を合わせる標的に向けろ。そうすれば相手も一層絶望することだろう」
研ぎ澄ました刃物を向けるような鋭い双眸にミュウツーの心が大きく揺れた。この人間だけは他と格が違う。何十年も抱え込んだ憎悪が生み出す恐怖にも屈しない。そんな姿は彼が総べる多くの部下を奮わせたことだろう。あるいはヒーローのようだと感じているのかもしれない。
「準備はいいか」
サカキの問いに遺伝子ポケモンはゆっくりと頷いた。
「では、行くぞ」
コートの裾を優雅に翻しながら、サカキは踵を返し出口へと向かう。幹部連中がその後ろを追従し、ミュウツー、構成員達と続いていく。黒づくめの一団はあっという間に闇の中へと消えていき、やがて蛍光灯の下には静寂が訪れた。
煌々と輝く光は帰らぬ者を待ちわびながら通路を照らし続ける。やがて破壊された室内の照明が重みに耐えきれずに落下して、潰れたデスクが中にしまっていた雑貨類を吐き出した。そこに混ざっていたカレンダー付き置時計が時を止め、廊下へ転がる。日付は六月二日を示していた。