第28話:王者の証明・後編
サカキはスタンドから、試合の様子をただじっと眺めていた。
熱狂的な歓声を送っている周囲に対し、一人冷静に座席に座って観戦している様は試合が進むにつれ周囲の目を引いており、隣で観戦しているアポロは犯罪組織ロケット団の首領サカキとばれないか心配で気が気ではなかった。周りに注意しつつ、アポロは彼に話しかける。
「意外に苦戦していますね」
「ああ……。レッドはそこら辺のアマトレーナーとは全く違うからな」
彼は数年かけて策を練ったシルフカンパニー占領計画を、たった一人で打ち崩した人物である。それどころかロケット団の悪行を度々阻んでおり、直接対決をしたことがあるサカキはその実力を嫌と言う程理解していた。組織にとって、今最も邪魔な存在である。
「ええ、私も敗北しましたから分かります。我が組織にとって、これ以上野放しにするには危険すぎる」
小さな背中を睨みつけるアポロを、サカキは鼻で笑う。
「……ふん、しかし所詮はバトルが上手いだけのただのガキだ。こちらがその気になれば、仕留めるのは容易い。今はヒーローごっこをさせておけばいい」
「では、今日は始末しなくて構わないと……?」
アポロはやや落胆するような口ぶりで肩を落とした。
「何度も言っているだろう、今回はただ試合を見に来ただけだからな。……しかし、お坊ちゃんもなかなか実力をつけたものだ。欲を言うなら、もう少し余裕を持って勝ってほしいところ。チャンピオンならば、圧倒的な実力を見せてもらいたいな」
「相手が相手ですからね……」
苦笑する部下を横目に、サカキは再びワタルに注視する。
彼はモンスターボールを握りしめ、鼻先に近づけて何か話しているようだった。
(君の実力はこんなものか?――違うだろう。王座を前に逸るな、冷静になって本気を見せろ)
+++
ただ、勝利だけをもぎ取る。
ワタルはベルトから四番手のボールを取り外すと、そっと視線を合わせた。ポケモンは既に鼻息荒く息まいている。
「……いいかい、オレが必ず勝利に導く。信じて、ついてきてくれよ?」
勢いよく頷くポケモンにワタルは微笑むと、ボールをフィールドへ投げ込んだ。けたたましい鳴き声を上げながら、キングドラが現れる。研ぎ澄まされた雄大かつ神秘的佇まいに、スタンドから感嘆の声が漏れる。レッドも反射的に感心の声を上げたが、気を持ち直してボールを投げた。
「いけっ、レオナルド!」
繰り出したのは甲羅が傷だらけのカメックスだった。それは幾多の激戦を潜り抜けてきたことを物語っている。まるで第一線で活躍してきた軍人のような姿に、ワタルは思わず感心した。
「水ポケモン同士か……。相手にとって、不足はない。キングドラ、雨乞いだ!」
その指示を聞いてキングドラが鋭い声で鳴くと、あっという間にスタジアムに強い雨が降り注いだ。初戦でイツキがヤドランに振らせた雨より、やや雨量が多い。傘を握って動こうとしたスタッフをワタルは右手で制した。「構わないです」続いてレッドも頷く。
「レオナルド、高速スピンで攻めるよ!」
カメックスは殻に籠ると、濡れたフィールドを滑走しながらキングドラに攻めかかる。晴天時より水の摩擦でスピードは増していた。避けきれない速度――だがワタルは迎撃する気でいた。キングドラの背後に回り込み、自分も巻き込まれる覚悟で指示を出す。
「引っ込んだ穴を狙うんだ。……ラスターカノン!」
キングドラは少し身を引くと、スピンしながら襲い掛かってくるカメックスへ狙いを定めた。寸前まで引きつけ、絶妙なタイミングで甲羅の穴を撃ち抜く。非常に精度の高い射撃技術は、カメックスの急所を狙い撃ちし、悲鳴を上げながら後方へ倒れさせた。
「レオナルド!」
レッドは動揺を隠せない。体勢を整えるため、カメックスはさっと甲羅から四肢を出すが、右腕を負傷してしまっていた。だがワタルは容赦なく吼え猛る。
「キングドラ、竜巻!」
キングドラはカメックスが起き上るより早く、場内にハリケーンを巻き起こした。篠突く雨と相まって、まるで台風のようである。見えない壁一つ隔て、フィールドの大荒れの天候を目の当たりにしながら観客は思わず息を呑んだ。自分たちが全くの無傷であることが信じられない。同時に、これほどの嵐を呼ぶポケモンはなかなかお目にかかることができず、チャンピオンの育成力に誰もが舌を巻いた。
その一方、雨風吹き込むベンチではシバ以外の四天王がそれをしのぐようにビニールのレインコートを被っていた。
「ちょっと!衣装が台無しなんだけど……っ!」
カリンは小さく悲鳴を上げる。最も薄着している彼女は、レインコートで身体を包みながら震えていた。見かねたキョウが羽織を脱ぐより早く、シバが裏からベンチコートを引っ張りだし、ぶっきらぼうに彼女の頭に乗せる。
「……あ、ありがと」
カリンは目を丸くしながらも、素早くコートに身を包んだ。
「そんな薄着をするからだ!」
「半裸のあなたには言われたくないわよ」
「おれは鍛えているから問題ない」
「あっそ……」
シバはレインコートを羽織らず一人腕組みをして堂々とベンチに座っていたが、フィールドでカメックスがふわりと浮き上がったのを見て思わず動揺の声を上げた。吹き荒れる竜巻は、カメックスの巨体をも風に乗せたのだ。
「そんな……!」
レッドは絶句した。このような事例は初めてである。カメックスもどうしていいのか分からず、困惑しているようだった。
「レオナルド……、のしかかりで床に着地を……!」
「キングドラ、そのまま渦潮でカメックスを捕えるんだ」
ワタルは雨風を気に留めることなく、キングドラへ指示を促す。彼は頷くと竜巻に渦潮を乗せ、空でカメックスを捕えた。こうなると体重をかけて地上へ降りることもままならない。
「そして……、煙幕!」
キングドラは渦潮へ煙幕を混ぜ、カメックスの視界を塞ぐ。暗黒の渦に巻き込まれながら、彼はなすがままに翻弄されていた。レッドは対策を考えながら、カメックスの下へ走る。
「レオナルド!ハイドロカノンで脱出するんだ!上へ……っ」
ワタルはフィールドから渦潮を支配するキングドラの背後へ回り込むと、小声で囁いた。
「キングドラ、相手が抜ける時を狙って仕留めよう。君の射撃能力は抜群だからね、……やれるだろう?」
キングドラは自信たっぷりに頭を下げると、嵐に逆らいながら渦潮へと距離を詰めていく。神経を研ぎ澄ませると、暴風雨やスタジアムの喧騒も次第にキングドラの耳から消えていった。レッドの死角へ回り込み、悟られないように狙いを定める――と、渦潮の隙間から水流が噴射された。カメックスがハイドロカノンを放ったのだ。
「今だっ!破壊光線!!」
主人の声と共に、キングドラは渾身の破壊光線を発射した。渦潮からカメックスが脱出するその瞬間を狙い、巨大な亀を撃墜する。照準ぴったりに放たれた光線はカメックスを甲羅ごと吹き飛ばし、向かいのフェンスへ叩きつけた。再び急所を突かれ、カメックスは声にならない悲鳴を上げながらフィールドに崩れ落ちる。レッドが愕然と立ち尽くす中、無情にもフラッグがカメックスの敗北を告げた。
『カメックス、戦闘不能!』
その瞬間、篠突く雨にも負けないような大きな歓声と拍手がスタジアムに巻き起こった。圧倒的な実力を見せつけたワタルを称えるような大声援。DJも絶叫する。
『ついに新チャンピオン、勝ち越したーっ!!!』
ワタルはキングドラにやや雨脚を落ち着かせるよう命じると、歓声に応えながら戦友を労った。
「お疲れ様!さすがだな」
キングドラは彼に小さく頭を下げると、満足そうに微笑んだ。ボールから出すまではあれほど息巻いていたというのに、今はすっかり落ち着いた表情を取り戻している。
ワタルもほっとしたように息をつくと、キングドラをボールへ戻した。たちまち緊張が押し寄せてくる。まるで数か月ぶりに勝利を掴んだような気分だった。余裕があったとはいえ、この一勝はとても重い。四天王の頃とは全く異なる勝利の重み。
(チルタリスが勝った時には気付かなかったが……、勝利が重すぎる。こんなに勝つことが難しいとはな……)
一度は取り払ったチャンピオンの重責が、再び肩にかかってくる。降り注ぐ雨粒も、鉛玉のように感じられた。
(でもオレは……それも含めてチャンピオンになる覚悟を決めたんだ)
ワタルは雨水を吸ったマントを軽く絞って翻すと、五番手のボールを迷いなく掴んでレッドをじっと見据えた。少しずつ戻ってくる、王者のような凛とした佇まいが観客の視線を奪う。
「……さて、次に行こうか」
射抜くような鋭い視線に、レッドは思わずたじろいだ。
(雰囲気、変わった……?)
疑問を持ちつつ、彼も気持ちを入れ直した。
「次は絶対に、落としません」
レッドはベルトから稲妻マークのシールを貼ったモンスターボールを取り出すと、まだ雨の降るフィールドに投げ入れた。
「任せたよ、アレン!」
可憐な鳴き声を上げながら、現れたのは小さなピカチュウ。彼の相棒であり、レッドを象徴するポケモンである。その事情を知らない観客たちは呆気にとられていた。ここでピカチュウ?しかし彼のことを少しでも知る者は、いよいよやってきた相棒の出番に心を震わせるのだ。それはワタルも同様であった。
「……やっぱり来たか。リベンジさせてもらうよ。行け――リザードン!」
ワタルは雨が降りしきるフィールドにリザードンを召喚した。圧倒的な体格差の中――両者、静かに睨み合う。
「えーっ、ピカチュウ!?ここでピカチュウ出すって勇気あるわね」
ベンチコートに身を包んだカリンが目を丸くしながら腰を浮かせると、イツキが得意げに喋り出した。
「ピカチュウはレッドのシンボルみたいなものなんだよね。超強いって噂だし」
「そうだな。ワタルのカイリューもあいつにやられてしまった。おれは手合せしなかったが……戦ってみたい!」
シバは大変悔しそうに身体を揺らす。すると、ピカチュウをじっと眺めていたキョウがふいに膝を打った。
「……思い出した。俺、あいつと戦ってたな」
「だからそうって言ってるじゃん!」
「あのピカチュウな!確かレベル40台の試合を申し込んできたくせに、ピカチュウとか出してきて……弟子に罵声浴びせられて泣きそうになってたなー。懐かしい……って去年の話か、あれは」
あっけらかんと笑い飛ばす彼を、カリンがちくりと咎めた。
「あら、どんなポケモンで戦ってもいいじゃない!罵声なんて」
「うちの弟子は血の気が荒かったからな……申し訳ないことをしたと思うよ」
彼は苦笑しながら当時のことをしみじみと回想する。強面の弟子に慄いてジムの前で右往左往しており、半泣きで戦っていた小さな少年。試合の内容は殆ど覚えていないが、あの彼がここまで成長していたことに感心していた。
「くっ、羨ましい!おれもピカチュウと試合がしたい」
その話を聞いてシバは更に唸りを上げると、イツキが鬱陶しそうに眉をひそめる。
「もーシバ、うるさいよ。後でアドレス交換すればいいじゃん」
「……おれは、携帯を持ってないしプロだから試合ができん」
「あ、そうだったね。ざんねーん!……じゃ、これが見納めかもね?ピカチュウとリザードンじゃ普通実力が違いすぎるけど……雨が降ってるし、レッドの相棒ってことで向こうに有利かな?」
「それは分からんぞ。ワタルも力を付けたからな」
シバはスイッチを切り替え、フィールドへ向き直った。それを聞いて、カリンも小さく頷く。
「そうよね。……ワタル、さっきとちょっと顔つきが変わった気がする」
「案外、早く片付くかもな」
キョウも頷きながら、シートに座り直して背筋を伸ばす。チャンピオンのその僅かな変化を、皆は敏感に察していた。それが明確に何であるのかは、まだ分からない。
+++
リザードンはその尾に燃え盛る炎の火力で、秘めたる実力が分かるという。
レッドはワタルのリザードンと対決するのは初めてだったが、これまで見てきたどの火炎ポケモンよりも鍛え上げられていることを直ぐに察知した。大変出来の良いそのポケモンを見て、彼の胸は静かに高鳴る。
(……リザードンとは、最後に戦ってみたかったけど)
恐らく、ワタルが最後に残しているのはあのカイリューであろう。
「アレン、すごくいいリザードンだ。精いっぱい戦おう!」
ピカチュウが頷く――レッドは直ぐに先制をかけた。
「行け、アレン!高速移動ッ」
主の命に弾かれ、ピカチュウは両頬の内側に電気を充電しながらリザードンめがけて疾駆する。目にも留まらぬスピードに、観客は驚嘆しながら口をぽかんと開けていた。とても追うことができないその動きは、ワタルも身に染みて実感している。
「リザードン、アイアンテールで薙ぎ払え!」
あっという間に眼前に現れたピカチュウを、リザードンは軽々と弾き飛ばす。ピカチュウは受け身を取りつつ空中で一回転すると、再び体勢を整えて電気を集めた。
「アレン、10万ボルト!!」
レッドの声と共にフィールド内に轟音が鳴り響くと、ピカチュウから放たれた稲妻がリザードンを強襲する。すかさずワタルはリザードンを後退させて守りの体勢を取らせたが、技の効果は抜群だ。強力な電撃を受け、リザードンはふらつきながらもなんとか持ち直した。そこへピカチュウが容赦なく攻めかかる。
「そして……、放電!とどめだっ」
「飛べ!リザードン!!」
濡れたフィールドめがけてピカチュウが放電する寸前で、リザードンは床を蹴って空高く飛翔した。間一髪で攻撃をかわしたものの、その行動は非常に危険である。レッドは口元を緩ませてリザードンを見上げた。その様子はワタルの目にも入っている。
(“かみなり”で狙われるのは想定済みだ)
「アレン!リザードンを――」
その指示を遮るように、ワタルはリザードンへ咆哮する。
「リザードン、雨など蒸発させてしまおう!……オーバーヒート!!」
リザードンは頷くと、更に高く羽ばたきフィールドめがけて猛火を発射した。ワタル以外を狙って、当たりかまわず紅蓮の炎をまき散らし、あっという間に火の海を作り出す。灼熱は瞬く間に降り続いていた雨を消し飛ばし、身を屈めていたレッドは唖然となった。
「すごい炎っ……!」
明らかに通常のリザードンとは異なる強力な炎。火の海に紛れたピカチュウを探していると、炎の隙間からワタルの姿が見えた。熱風にマントをはためかせ、リザードンを追う姿は威風堂々として勇ましい――息を呑んだ。
(やっぱり四天王の頃とは、全然違う……)
温度が急上昇したのはベンチも同様である。ベンチコートを被っていたカリンは、即座にそれを脱ぎ放った。
「暑ーいっ!」
隣に座っているキョウも堪らずに羽織を脱ぎ、帯に差していた扇子で扇ぎ始める。
「ベンチにも見えない壁を設置すべきだよな……。被害が多すぎる」
「そんなもの不要だ!これも修行のひとつなのだ」
シバは滝のような汗を流しつつも、腕を組んでしっかりと耐え抜いていた。やせ我慢しているくせに……とイツキは思いつつも、手団扇で気休めにもならない風を送りながらぐったりと項垂れる。
「じゃあせめて扇風機入れようよー。めっちゃ暑いよー。あのリザードンはんぱない!」
「うむ、前より火力が上がっている。ワタル……相当作り上げてきたな」
シバは親友の成長に大変満足していた。だが、それにしても暑すぎる。
「アレン、大丈夫かっ?」
レッドは炎を掻い潜りながらテクニカルエリア越しに相棒へ声をかけた。それに反応するように、ピカチュウが灼熱の海を跳び跳ねながら生存をアピールする。だが、その行為は非常に命とりである。リザードンは小さな悲鳴を聞き逃さなかった。上空からピカチュウを発見したことをワタルへ報せると、主人は纏わりつくような炎熱を気にも留めることなく、フィールドから指示を送る。
「分かった。フレアドライブを準備」
リザードンは静かに頷くと、徐々に身体に炎を纏わせていく――太陽のような神々しい姿に、観客からため息にも似た驚嘆の声が上がる。一方、フィールドではピカチュウが炎の中で一心不乱に電気を溜めていた。レッドはその様子をテクニカルエリアからじっと見守っている。
(……降りてきたところを、狙う!)
ピカチュウの全身の毛が針のように逆立っていく。強力な電磁波が、炎を揺らし始めた。尋常ではないピカチュウの様子が目の端にかかり、ワタルはやや警戒する。
(捨て身でくるか……)
上空のリザードンとアイコンタクトを取る――すでに準備は万全だ。
「行くぞリザードン!……フレアドライブ!!」
リザードンは全身から炎を噴火させると、身体を一回転させピカチュウめがけて急降下する。小さな電気ネズミは、勇敢にもその落下点へ疾駆した。全てを焼き尽くすような業火にも臆することなく、真っ向から迎撃する覚悟であった。電光石火の如く駆けながら、勢いよく飛び上がる。
「いっけええ、アレン!!」
レッドは声を振り絞って絶叫した。
「ボルテッカーッ!!!」
ピカチュウは捨て身でリザードンに突撃すると、最大限に溜めこんだ電流を解き放った。スタジアム全体を稲妻が覆う――だが、リザードンも躊躇することなく業火を纏った身体でそのまま特攻をかけ、ピカチュウを跳ね飛ばした。強大な力が衝突して、破裂する。ポケモンバトルとは思えない大爆発が巻き起こり、フィールドを焼き尽くす――爆風がスタジアムを包み込んだ。
「……くっ!」
これには百戦錬磨のワタルもフィールドに突っ伏した。背後のベンチでは煽りを食らった四天王の悲鳴が聞こえる。レッドの赤い帽子も空高くへ飛ばされた。彼は爆風を気にすることなく、相棒の名を叫ぶ。
「アレン!」
こんな大爆発の中心にいては最悪の事態さえ考えてしまうが、今は彼を守ることすら許されない。試合中のトレーナーは、テクニカルエリアとフィールドを隔てる一本のラインを越えてはならないのだ。そのルールの枷が、レッドをプロへの道へ進めなくしている一番の原因だった。
「アレーンッ!」
爆発はすぐに収まり、徐々に白煙が薄らいでいく。
フィールドに浮かび上がったシルエット。
スタジアムが大きなどよめきへと変化していく。DJが慌ててマイクを手に取った。
『最後に立っていたのは――』
両足をフィールドに踏みしめ、雄気堂々とした姿が明らかになる。
残り火の中に立っていたのは、リザードンだった。
電撃を真っ向から受けていたというのに、彼はまっすぐに身体を伸ばしながら得意げにワタルに胸を張る。その足元には、ぼろぼろに焼け焦げたピカチュウが気絶している。
「ピカチュウ、戦闘不能!」
審判の赤い旗に弾かれるように、互いの勇敢な姿を称える嵐のようなスタンディングオベーションが巻き起こった。レッドはアンパイヤのコール後、すぐにフィールドで気絶しているピカチュウへ駆け寄ると、その小さな身体を抱き起した。
「……アレン!」
ピカチュウは完全に意識を失っており、ぴくりとも動かない。レッドは身体を震わせながら相棒を力強く抱きしめた。少し焦げ付くような臭いが鼻につく。ピカチュウがここまで打ちのめされたのは久しぶりである。彼はやりきれない敗北感を感じながら唇を噛みしめた。
(アレンが……)
ピカチュウは相棒であり、親友だった。
勝利を分かち合い、一喜一憂を共にしてきた一番の仲間。それだけに、今回も相手がワタルとはいえ勝利は確信していた。その反動で、胸を深く突き刺されたような気分に襲われる。次で勝利しても、白星は相手が上。自分の負けである。
『さすが新チャンピオン・ワタル!リザードンも圧倒的だあっ!これで勝利をものにしたぞー!!』
レッドは打ちひしがれながらテクニカルエリアへと戻っていった。ふいにワタルへ目をやると、リザードンと勝利を分かち合っているところだった。二人でフィストバンプをして、喜びを共にする。
「よくやったな、リザードン!」
リザードンは嬉々とした笑顔を見せ、誰よりも敬する主人へ王座を贈ったことを誇りに感じていた。勇ましく気高いリザードンの破願に、レッドは思わず目を見張る。
(リザードン……あんな表情もできるんだ)
自分の持っているリザードンさえ、あのような心を許した表情を見たことがない。レッドは深いため息をついた。
(僕は……まだまだだなあ……。ちょっと……図に乗ってたかも。人のこと、言えたものじゃないな)
降り注ぐワタルコールが、小さな胸をさらに痞えさせる。彼はピカチュウをボールに戻すと、最後の1匹が入ったモンスターボールを手に取った。中に入っているリザードンと目を合わせると、早くフィールドへ出せと言わんばかりにレッドを睨みつけていた。
「そうだね、最後まで戦わないと……」
ボールを握りしめ、帽子を被り直してチャンピオンと正対する。
「最後まで、正々堂々とやろうな」
ワタルはまだ勝利を完全には掴みとっていない、そんな表情でレッドに微笑みかけた。リザードンをボールに戻し、姿勢を正す――そうやってマントを翻す勇壮な姿は、まるでヒーローの様だ。全国5000万人の頂点に立つに相応しい風格にその実力。
(ヒーロー……)
自分はまだそのポジションには立てない。
毎日あれだけ報道されて、バッシングを受け。メンタルを保っていられる自信がない。どこかでグリーンのように心折れていただろう。
圧倒的なワタルコールを耳にしながら、チャンピオンマッチの企画が決定した後にオーキドがレッドに見せてくれた動画を思い出す。
「これを見ておくといい。もう知っているかもしれんが」
「なんですか?」
それは、中継された鳳凰会糾弾の動画であった。
『バトルで金もうけするなんて間違ってる!!ポケモンを、道具にしているだけじゃないのか?』
自分と同じセリフをワタルに吐き捨てる男。レッドは目を見張った。それに対し、ワタルはカイリューを繰り出すと、凛とした表情で言い放つ。
『オレにとって、ポケモンは夢です。目標を達成するための、仲間であり、夢そのもの。……みんなオレの夢のために、ついてきてくれたんです。種族も違うし、言葉も通じない。でも……意志は共有できる。共に成長し……試合で勝利を共に喜びあえる。それは決して道具などではない』
「これを聞いてね、グリーンは部屋から出てきたんだよ」
嬉しそうに話すオーキドに、レッドははっとした。チャンピオンを倒す、といきなり言い出した幼馴染の真意を今やっと理解したのだ。どれだけ自分が説得しようとも応じることがなかったあのグリーンを、たった一言で彼は動かしたのだ。唖然としているレッドへ追い打ちをかけるように、更にワタルは言明する。
『たとえどんな手を使って阻もうとも、オレは誇りを守るために迎え撃つ。このセキエイにはすべての夢がかかっているんだ』
すかさずオーキドが膝を打った。
「ワタル君のプロ意識は素晴らしい!すっかりチャンピオンだなぁ……」
「そうですね……」
それがチャンピオンを拒否した自分を皮肉っているように聞こえて、レッドはふてくされるように苦笑いする。オーキドは慌てて訂正した。
「あっ、すまん……!そういう訳じゃ」
「いえ、大丈夫です。僕はプロには向いてないですから」
――オレはプロだから、それでも前に進み続ける道を選ぶんだよ。
そう自分に言い放ち、約半年で見違えるほど精悍な姿になったワタルは本物のプロトレーナーだった。
レッドはスタンドをじっくりと見回す――この観客の誰一人として、ポケモンバトルを見世物なんて批判していない。皆一様に、チャンピオンの人並み外れたバトルを楽しんでいる。ポケモン達と同じく、勝利の喜びや敗北の悔しさ――一喜一憂をワタルと共有しているのだ。チャンピオンは観客を楽しませ、興奮を呼び、そして試合を観戦しているトレーナー達を圧倒する。夢を抱かせる。誰もが彼のようになりたいと憧れ、セキエイに挑戦すべく旅をする。そしてここで得られた利益は、その夢の旅を支える一部となる。まさに自分もそれに支えられた一人だった。
(そんな当たり前の仕組みに、今更気づくなんて……)
レッドは深呼吸すると、モンスターボールをワタルに掲げて見せた。
「僕はあなたと戦えて光栄です。最後、よろしくお願いします!……行け、ジョニー!」
現れたのはリザードン。
鳴り続いていたスタンディングオベーションが、あっという間にざわつきへと変わった。――またリザードン?そんな反応。だが、その尾に燃え盛る炎は先程のワタルと遜色ない。見るからに異なるのは、リザードンの背に飛行用の鞍が装着されていることである。ポケモンで飛行する際に取り付けが義務付けられているその鞍を、予め装備しているということは。
(まさか……公式戦で、飛ぶのか?)
ワタルは目を疑った。それは公式戦では禁止されている行為である。レッドは唖然とするチャンピオンに許可を求めるように、リザードンへ飛び乗った。これにはDJも思わず口を挟む。
『あーっと!レッド選手、これは空中戦に持ち込もうというのか?一体何を考えて…』
観衆の困惑がどよめきの嵐となってスタジアムに吹き荒れ始めた。すかさずアンパイヤが声を上げる。
「君!セキエイの公式試合ではトレーナーの空中戦は禁止されているぞ!」
「分かってます」
「だったら、速やかに降りなさい!違反行為で失格と見なすぞ」
レッドはワタルを真っ直ぐに見据えながら、はっきりと告げた。
「どうせ僕の負けです。ならば最後に……最高のエンターテイメントショーをお見せしたいんです」
ワタルは耳を疑った。
「これは興行でしょ?ラストは面白く終わった方がいいと思いませんか」
「確かにそうだが……。でも、悪いけどオレは――」
チャンピオンとして、プロトレーナーとして、公式ルールを破るのはタブーである。ワタルが躊躇していると、ベンチに備え付けてある電話がけたたましく鳴り響いた。傍にいたイツキの肩が跳ね上がる。仲間の視線を感じ、彼はそそくさと受話器を取った。
「ハ、ハイ……」
声の主を聞いて、彼は瞬く間に硬直する。何度か頷くと、すぐに受話器を置いてベンチ裏の道具棚に走った。
「ワタル!」
名前を呼ばれてワタルが振り向くと、ベンチ前でイツキがカイリュー用の鞍を掲げて白い歯を見せていた。
「総監が空中戦オッケーってさ!最後は、この子でしょ?」
その言葉にワタルは声を呑んだ。ベンチ上の観客席に座る総監をすぐに探し出して目線を合わすと、彼は右手の拳を握りしめ、にこやかにワタルに向けて掲げている。それを見るなり、ワタルは安堵と同時に口元が思わず緩んだ。会釈で返して、イツキに鞍を投げるように指示する。
「イツキくん、鞍を」
「オッケー!……そーれっ!」
イツキは思い切り助走をつけ、鞍を放り投げた。その危なっかしいパスを受け取ると、ワタルは右手をさっと上げて彼に微笑む。
「ありがとう!」
「頑張ってねー。……ふふ。僕、お手柄!」
と、イツキは大変機嫌が良くベンチシートに戻ってくる。カリンは目を丸くしていた。
「ホントに総監だったの?」
「うん、本人だったよ!面白いから空中戦やりなー、って」
「ここで空中戦を禁止するなど、つまらんからな!総監も何だかんだ、話が分かる人だ……」
シバの称賛の言葉を手前の席で聞き流しながら、キョウはため息をついた。
「“お気に入りのワタル君”には甘いよなぁ、あのジジイ……」
「あら、陰口。言ってやろ♪」
隣に座っているカリンが無邪気に微笑んだ。彼女もまた、総監に目に入れても痛くない程可愛がられている。
「ああ、お前もお気に入りだっけ。……ってか“コレ”か?」
キョウが左手の小指を立てると、すかさずカリンはヒールの先で彼の足袋を踏んづけた。再び襲いかかる激痛に、彼は言葉にならない悲鳴を上げながら悶絶する。僅か直径1センチながら、全体重がかかればその痛みは計り知れない。
「そんなことせずに上へ行くのが私のポリシーなの。安い女だと思わないでね」
涼しげに微笑むカリンを見上げながら、キョウは激痛を抑えながらも悔しそうに舌打ちする。
+++
鞍を受け取ったワタルは腰に巻いたベルトから相棒が入っているモンスターボールを手に取ると、ゆっくり顔を見合わせた。
「……さて、準備はいいかい?」
ボールの中にいたカイリューが、待ちわびていたとばかり勢いよく頷いた。ワタルは目を細めると、そのままフィールドへボールを投げ込む――期待に満ちる観客の視線を一身に受け、カイリューは優雅に地上へ降り立った。まるで女神が降臨したような崇高で神秘的な様相に、スタンドからため息に似た歓声が聞こえる。気高く美しいその姿は、並みのカイリューとは一線を画していた。これにはレッドも緊張の色を示す。ワタルはカイリューに近寄ると、慣れた手つきで鞍を装着し、マントを翻しながら軽やかに彼女へ飛び移った。非常に様になるその精悍な姿に、スタンドから大きな歓声が上がった。慌ててDJが補足を挟む。
『今カードのみ特別ルールとして、空中戦が許可されました!みなさん!前代未聞のハイレベルな戦いをお楽しみください!』
「仕事が早いですねぇ……」
カイリューに騎乗したワタルの後姿を見つめながら、副総監のフジが満足そうな面持ちで告げる。話しかけられた総監は、フィールドを向いたまま、やや照れるようにぽつりと漏らした。
「もたつくのは客に悪いだろう」
「ほほう……!」
ワタルへの信頼っぷりに、フジは思わず感心の声を上げた。総監がここまで心を許している男は、なかなかいない。
「だが……、どちらかが怪我でもしたら……大変だな。また鳳凰会みたいな連中に袋叩きにされてしまう」
「責任を負うのが我々の責任ですよ?それを承知の上で許可されたんですよね」
「もちろんだ。念のため、レスキューを配置させておいてくれ」
「畏まりました」
傍にいた部下に命じようと身体を捻るフジを横目に、総監は顎髭を解しながら満足そうに微笑んだ。
(やはりワタル君はドラゴンポケモンに乗っている姿が良く似合う)
たまに総監室の窓から彼がカイリューに乗って移動する姿を目撃して、しみじみ感心していた。本当に竜がよく似合う男だと――空中戦を許可したのは、エンターテイメント性を高める理由もある。だが、あの竜騎士のような姿を多くの観衆に見せつけたい。チャンピオンの真の姿をアピールしたい。そんな真意も含まれていた。
全観客の期待を受け、ワタルを乗せたカイリューが飛翔した。マントを背負って空へ舞う勇壮な姿は、まさにチャンピオンの名に値する。その姿を捉えようと、流星群のごとく幾多のフラッシュが瞬いた。
+++
「ジョニー、いくよ!火炎放射!」
レッドはリザードンを羽ばたかせながら、間髪入れずに先制をかける。ワタルはカイリューの首に巻いた手綱を引きながら、それを軽やかに回避した。直撃しなかったとはいえ、その火力は己のリザードンにも匹敵する。手綱を握る手が、じわりと汗ばんだ。
「なかなか鍛えられてるリザードンだな。……だが、こちらも負けていない!カイリュー、高速移動だ」
カイリューは少し前屈みになると、リザードンめがけて突風のように滑翔する。ワタルは鐙に立ち、腰を浮かせて手綱を固く握りしめた。油断していると弾き飛ばされそうな風圧が彼を襲う。ただ、カイリューをコントロールすることに集中した。研ぎ澄まされた神経は、スタジアムの喧騒をシャットアウトする。眼前にリザードンを捉えると、軌道を逸らして不意を突くように技を放った。
「破壊光線!」
カイリューがリザードンの足元から渾身の破壊光線を放った。閃光がスタジアムを包みこむ。
「怯むなジョニー、オーバーヒート!」
レッドはそれを迎え撃つ――リザードンの位置をずらしながら、一点集中の業火を放射した。ワタルのリザードンは雨を蒸発させるために“オーバーヒート”でフィールド全体を放火したが、レッドはそのパワーを、破壊光線を迎撃するために凝縮させた。汗が噴き出るような熱風が小柄な彼を襲う。だが臆している暇はない。
「行けえっ!」
二つの強大な力が、衝突する――その寸前に、ワタルは手綱を強く引いた。
(かち合うのは危険すぎる!)
カイリューの首を少し逸らしながら脇へと逃げる。光線は炎をぎりぎりで避けてリザードンの脇腹を掠め、見えないフェンスを大きく揺らした。すれすれの攻撃だったとはいえ、並みのドラゴンポケモンの破壊光線とは一線を画す威力に、リザードンは思わず動揺する。レッドは振り落されないように両足に力を込めると、竜の首筋を撫でて精神を落ち着かせた。
「ジョニー、大丈夫か?」
ポケモンを宥めている一方で、レッドは半年前より精度を上げた破壊光線にやや狼狽していた。
(……明らかに、強くなってる)
あの破壊光線が直撃すれば、ポケモンに騎乗している自分も無傷では済まされない。最悪、命を落としてしまうかもしれない――そう考えると、途端に身体から血の気が引いていく。
(でも……!)
ここで逃げるなんて、殿堂入りトレーナーの名に恥じる。湧き上がってくる闘争心が、死の恐怖心をも乗り越えてしまおうとしていた。そんな主人の気持ちを察したのか、リザードンは首を引いてレッドに次の指示を求める。
「……うん、戦おう!」
彼は手綱を引いてリザードンをカイリューへ接近させた。
「ドラゴンクロー!!」
宙を疾駆しながら、すかさず鉤爪を振りかざす。ワタルごと切り裂かんばかりに切り込んできたが、彼は臆さずそれをカイリューの尾で受け止めた。それは鋼の如く硬化させており、爪を立てることすら許さない。
「カイリュー、そのままリザードンを撃て!アイアンテール!」
カイリューは強引に爪を押しのけ、リザードンの腕を振り払う。投げ飛ばされそうな衝撃が、ワタルへ襲い掛かった。彼女は何より主人の安否が気がかりでヒヤリとしたが、すぐに自分の身体を撫で、心配ないことを知らせてくれた。
「オレは大丈夫。……だから思いっきり行こう、ドラゴンダイブ!」
カイリューは空中で軽快に一回転すると、怯んだリザードンめがけて突進した。ワタルはカイリューにぴったりと張り付いて身体を伏せる。一方、レッドは反射的に手綱を引き、その攻撃をリザードンに受け止めさせたが、強い衝撃が彼にも襲い掛かった。
「くっ……、ジョニー!大文字だっ」
カイリューに押しつぶされそうになりながら、リザードンが豪快な大の字型の猛火を放った。とても避けられるような距離ではなく、直撃は免れない。カイリューは即座に己の翼でワタルを守ると、その炎を受け止めた。皮膚が焼かれるような苦痛に、彼女は鋭い悲鳴を上げる。焦げ付くような臭いがワタルの鼻先にも伝わった。
「……下へ、逃げろ!」
手綱を引きながら、彼は体重を前にかける。その時、右の手綱が焼切れた。途端にバランスを崩し、身体が宙へ浮き上がる――ふわりとした感覚に、血の気が引いた。それを察したカイリューは直ちに上昇すると、ワタルが落下しないよう気圧を利用して自分の身体に押さえつける。
「ありがとう、カイリュー」
ワタルは体勢を立て直すと、バランスを取りながらリザードンとの距離を離していく。彼女がカイリューに進化してからずっと足代りにしてきたため、手綱が切れたときの対処も万全である。彼は右手だけで腰のベルトを外すと、北側ベンチ前へ旋回し、ベルトを一振りして装着していたモンスターボールを全て取り外した。
「これ、頼む!」
「えっ!?」
突如ベンチへ投げ入れられたモンスターボールを、四天王は目を丸くしつつも反射的にキャッチする。彼らが顔を上げると、既にワタルはリザードンを撃つべくフィールドへ飛び立っていた。
「何?何か仕掛けるつもり?」
チルタリスと顔を見合わせながら、イツキがぽかんと口を開ける。キョウも呆れたようにチャンピオンの背中を眺めていた。
「……仕掛けるというより、手綱が切れていたな。あれで補修するつもりか?タイム取って付け替えればいいと思うんだが」
「タイムなど、戦場に水を差す!男ならそのままやるべきだ」
シバが両手にワタルのモンスターボールを握りしめながら、唸るように告げた。
「死ぬリスク考えたらタイムを取るべきだと思うけど……ワタルはそのままやるんでしょうね」
そんな仲間の心配をよそに、ワタルは切れた手綱を片手で握りながらフェンス際を飛行する。絶妙なバランス感覚に、観客から吃驚の声が漏れた。
(よし、今なら綱を直せる)
油断した隙を突き、リザードンの攻撃が飛んできた。
「ジョニー!つばめがえしだ!」
「……っ!」
ワタルは両脚をぐっと締め付けてカイリューを反転させながら滑空すると、それを間一髪で回避した。
「馬鹿野郎!ヒモ切れてんのに何狙ってんだっ」
傍で見ていた観客から強烈なブーイングを浴び、レッドは驚きを隠せない。
「えっ?切れるって……」
即座にワタルを向くと、彼は右側が千切れた手綱を握りしめながら再びふわりと浮き上がってくる。そこでレッドは初めて、大文字で手綱を焼き切ってしまったことを認識した。
(……全然、気づかなかった。ベンチにボールを投げてたのは、ベルトで直すため……?)
手綱が切れていることすら感じさせない飛行能力。ワタルはレッドに「気にするな」と手で合図を送りながら、切れた手綱をベルトで繋ぎ合わせて修復した。鮮やかな手つきに、スタンドからチャンピオンの名を叫ぶ大歓声が巻き起こった。
「これはただの事故!君を失格にはさせないから……遠慮なくきてくれよ!」
動揺するレッドを宥めるように、ワタルは微笑みながら大きく飛翔した。本来の感覚を取り戻したカイリューの動きは、研ぎ澄まされている。
「分かりました。……ジョニー、行くぞっ!」
レッドはカイリューめがけてリザードンをけしかけた。
「火炎……放射ぁーっ!!」
猛火が再び竜を強襲する。カイリューはワタルのリードのもと、さっと横へ逸れながら首を振り下ろし、衝撃波を撃ち放った。
「竜の波動!」
身体が遠くへ飛んでいくような振動がレッドに伝わる。しかし怯んでいる場合ではない。リザードンは投げ出されそうな主を引っ張るように、果敢にカイリューへ接近した。
「……ジョニー、僕は大丈夫だから!」
とはいえ、空中戦でここまで苦戦を強いられたのは初めてである。これまでは圧倒的なパワーで押し、これほど時間をかけて戦うことはなかった。ワタルはレベルが違いすぎる――このままでは、トレーナーである自分の体力がもたない。
(カイリューとの連携が、すごく良くできてる……!)
「リザードンが来た!カイリュー、ドラゴンテールだ!」
ワタルは相棒に張り付きながら、鐙を踏み込んでカイリューを反転させた。突撃するリザードンを尾で受け止め、渾身の力で弾き飛ばす。少し離したところで、ワタルは声を上げた。
「よし……、暴風で相手を捕えよう」
カイリューが唸るように吼え猛ると、足元から軟風が吹き上がってくる。それは徐々に風力を増し、ワタルのマントのはためきがより激しく変化していった。
「リザードン、逃げ――」
レッドが手綱を握りしめたころには、既に風はリザードンの両足を捕えていた。疾風がレッドの帽子を奪い、遠くへ吹き飛ばす――彼の目線がほんの僅かにそちらへ動いた刹那、一気に嵐へと変化した風がリザードンを捕縛する。暴風はその巨体を軽々と上空へ舞い上げ、レッドは必死で彼の首にしがみついた。
「う……わっ……!」
その下を追うように、吹き荒れる嵐の渦中へワタルはしっかりと身体を固定しながら突入していった。強風で暴れ回るベルトのバックルでなるべくカイリューを傷つけないよう、手綱を固く握りしめる。
「オレのことは気にしなくていいから、しっかりリザードンを狙って突き進むんだ」
ワタルはカイリューの角をそっと撫でて安心させると、そのスピードを増すように指示を出した。彼女はやや躊躇したものの、主人を信じて疾風に乗りながら急加速する。風に翻弄されるリザードンを、その視界に捉えた。
次の指示が恐らく最後。何を命じられるのかは、予想できている。
カイリューは体内にありったけのエネルギーを充填し、その声を待った。
――絶対に負けない。
『助けて……』
もう二度と、主人をポケモンに襲われるような危機に晒したりはしない。
『何だよ弱っちいなクズが!』
あんな暴言を、主人に浴びさせはしない。
命を賭しても、彼に従う。
自分は、全国5000万人のトレーナーの頂点に立つチャンピオンの相棒なのだから。
それはカイリューの何にも代えがたいプライドだった。
「カイリュー!」
ワタルの声だけがカイリューの聴覚を支配する。
耳に付けた青いスワロフスキーのマーカーが、照明に反射して煌めいた。
「破壊光線!!」
自分が彼をチャンピオンにさせるのだ。
真のチャンピオンに相応しいのは、我が主のみ。
スタジアムが瞬いた。時間が止まる様な瞬間。
誰も見たこともないような技が来る――それを察したリザードンは、すかさず身体を発火させて手綱を焼切ると、レッドを身体から振り落とした。
「ジョ……」
レッドが手を伸ばすより早く、すぐにリザードンは視界からかき消された。
ポケモンから発せられたとは思えない猛威の閃光が、世界を白へ変える。彼は何が起こったのか理解できなかった。
神の粛清かと見紛う程の光線を前に、全思考が停止する。
ただ宙で浮いているような、そんな感覚がほんの一瞬あったかと思うと――レッドは、フィールドへ落下していることに気付いた。
「あ……」
死、という一文字が脳裏によぎる。
(終わる……)
絶望さえ感じる余韻もなかった。
ホワイトアウトする視界を、ワタルの声が遮った。
「カイリュー!」
激突2メートル手前。
レッドの小さな身体がふんわりと宙へ浮き上がった。カイリューが彼の下へ滑り込み、ジャケットの端を咥えて掬い上げる。そして両手を掲げ、少年を大事そうに抱え込んだ。
「大丈夫かい?」
ワタルはすぐに腰を浮かせ、急いでレッドの様子を伺った。彼は呆然としながらも、何とか声を絞って頷いた。
「……は、はい」
「無事で良かった!」
ワタルが爽やかな笑みを浮かべて、レッドの無事を喜ぶ――すると同時に、新チャンピオンの勝利を称えるような割れんばかりのスタンディングオベーションが巻き起こった。レッドがグリーンを破ったあの試合を遥かに凌ぐ、観客総立ちの史上稀に見る大歓声。しかしワタルはそれにはすぐに反応せず、真っ直ぐにレッドを見据える。
「すぐ降ろすから」
まだスタジアムに漂うそよ風に、漆黒のマントがふわりと揺れる。精悍で猛々しいその姿を見て、レッドはぽつりと呟いた。
「ヒーロー……」
「ん?」
鞍に腰を下ろそうとしたワタルが頭を傾ける。
「ワタルさんはヒーローですね」
はにかむように称えるレッドの言葉を聞き、ワタルはほっとしたように頬を緩ませた。
「ありがとう。ようやくなれて、嬉しいよ。夢だったんだ」
肩の荷が半分ほど下りた気分だった。ワタルは次第に激しくなる鼓動を抑えながら、気持ちを落ち着かせてカイリューをフィールドへ着陸させる。レッドは彼に深く頭を下げると、すぐに隅で気絶しているリザードンに駆け寄っていった。その後ろ姿を目で追おうとすると、カイリューの頭がそれを遮った。褒められるのを待つように、彼女はワタルの前で頭を垂れる。
「ありがとう、カイリュー。君のお陰で、チャンピオンになれたよ」
スタジアムを揺らさんばかりの大歓声が、彼の勝利を褒め称えてくれる。北側のベンチでも、四天王が立ち上がって拍手を送っていた。集中する視線にワタルは一瞬迷いながらも、思い切ってカイリューの頭を両腕で包み込み、湧き出る喜びを噛みしめた。
「君が相棒で良かった!」
その姿に万雷の拍手が降り注ぎ、フェンスの端から興奮を煽るように黄金色の紙吹雪が一斉に舞い上がった。フィールドを覆いつくすような黄金の雨を受け、スタジアムDJが絶叫する。
『今ここに、新たなヒーローが誕生しました!その名は――ワタル!!』
ワタルはマントを翻し、右手を高くかかげて大観衆に応える。栄光に輝くスタジアムの照明は試合開始前より一層眩しく、まるで太陽のように感じられ――夜明けは過ぎたのだと、彼は確信した。