第26話:悪の華
『やはり四天王の実力は本物!!迫力のあるバトルが続きます!さあタイトルマッチもいよいよ最後!最後に花を飾るのは――やはりこの方でしょう。カリーーーン!!』
大歓声に迎えられ、カリンがアンパイヤ席へと歩んでくる。
『対して挑戦者はこの方!免許取得1年未満でバッジを揃えた天才美少女トレーナー!クリスタル!』
南側ベンチから現れたのは帽子を被った小さな少女であった。興奮渦巻くスタジアムの熱気に臆しつつ、胸を張りながら懸命にカリンの前へと歩んでくる。右手を差し出すクリスタルの手は小刻みに震えていた。
「よ、よろしくお願いします」
「あなたがクリスタルちゃんね、いい試合をしましょう」
その緊張を解すようにカリンが柔和な微笑みを浮かべると、少女はほっと安堵したように息をつく。二人は、一見和やかにポジションへと戻った。北側ベンチではこの様子を男たちが見守っている。
「10歳って……、うちの娘と同い年だ。うちは免許取り立てでまだ小さいポケモンを従えるのがやっとなのに、あの子はもうタイトル挑戦だもんなぁ。世界は広い」
思わず背筋を伸ばすキョウの話を聞きながら、ワタルも感心したように頷く。
「ええ、殿堂入りしたレッドを彷彿とさせますね。最後に脅威が来たな……」
「カリンだって、バッジは持ってないけど超強いよ!?負けないよっ」
驚嘆する二人の間を割って、イツキが首を突っ込んでくる。だが彼は内心、あの天才トレーナーが当たらなかったことに安心していた。スーパールーキーとはいえ免許取得1年未満のトレーナーに負けるなど、屈辱以外の何物でもない。
+++
(……たとえ天才だろうと、私は負けるわけにはいかないのよ)
カリンは表面をスワロフスキーで飾り付けたモンスターボールを構えた。ベンチで見守る仲間の視線が、彼女にプレッシャーを与える。彼らは、比較的容易く公約通りの勝利を収めた。最後の自分が敗北し、台無しにするなんてありえない。
(大丈夫。私には、無二のパートナーがついてる)
アンパイヤ席からフラッグが降りる。
(ポケモン達のため……そしておじさんのためにも、負けられない!)
赤いフラッグが勢いよく舞い上がった。
『プレイボール!』
両者、一斉にモンスターボールをフィールドへ投げ入れる。カリンはブラッキーを、挑戦者クリスタルはオドシシを繰り出した。歓声が一気に高まる。飲み込まれてはいけない――カリンは呼吸を整え、ブラッキー♂にそっと近寄る。彼は、緊張で足が竦んでいた。
「大丈夫。……まずは私がリードするから、ついてきて」
優しく抱き寄せて耳打ちすると、ブラッキーはほっとしたように頷いた。その緊張の解し方に、観客は羨望の眼差しを送る。ブラッキーがカリンの手から離れると、すかさずクリスタルはオドシシをけしかけた。
「いきますよ!オッシー、踏みつけっ」
オドシシがブラッキーめがけて疾駆し、飛び上がった。カリンは冷静に指示を出す。
「ブラッキー、あの顔に“砂かけ”よ」
ブラッキーは素早くオドシシの懐へ飛び込むと、その顔面めがけて砂を発射した。オドシシはやや怯みつつも前足でブラッキーを蹴飛ばすが、砂に脅かされ軌道がズレて威力が低下する。カリンはオドシシの着地前に手を叩いた。
「しっぺ返し!」
ブラッキーは痛みの余韻を堪えながら、オドシシにカギ爪をお見舞いした。鋭い痛みに鹿は悲鳴を上げる。
「オッシー、引いて!」
クリスタルはオドシシにバックのサインを出す。少し距離を取ったところで、「催眠術!」曲がった角から不思議な念波を出し、ブラッキーを眠りに誘う。カリンはブラッキーの視界に回り、アイコンタクトを取る――やがてブラッキーはこの大歓声の中、深い眠りについてしまった。その場で身体を丸め、寝息を立てる。
「あら……」
カリンは思わず目を丸くする。
「いけっ!夢食い!」
クリスタルの指示にオドシシは精神的なダメージを与える術を唱えようとするが、途中で硬直してしまう。彼女はすぐに手持ちの異変に気付いた。
「どうしたの?」
オドシシが困惑した表情でクリスタルに振り向いた。催眠術が効いていない――そうアピールしようとした背後を狙って、黒い影が起き上る。
「あっ、オッシー、後ろっ……」
クリスタルが指さす前に、ブラッキーがオドシシの首筋へ噛みついた。カリンが不敵な笑みを浮かべる。
「ふふ、だまし討ちよ♪ごめんなさいね、寝たふりしてたの」
攻撃後、ブラッキーは素早く横に跳ね、蹴られないよう距離を取った。油断していたため、オドシシは思いの外深手を負ってしまう。
「くっ……、突進!」
クリスタルの声に弾かれ、オドシシは前足を蹴ってブラッキーへ飛びかかる。
「ブラッキー、ひきつけて……受け身を取りなさい」
カリンは落ち着いた口調で指示を出す。その命令通りに、ブラッキーはオドシシの突進にも臆さず目の前に立ちはだかった。凛と立つその姿に、スタンドがざわつく。ワタルも思わず目を見張った。何と勇敢で美しいことだろう。ブラッキーは身体を低く構えると、さながらマタドールのように直撃寸前で身を翻した。思わずつんのめったオドシシのその眼前めがけて、ブラッキーは後ろ脚を蹴りあげる。『ダメ押し』の強烈な一撃に、オドシシは悲鳴を上げてひっくり返った。
「電光石火!」
隙を逃さず、カリンはトドメを命じる。クリスタルが対策を指示するより早く、ブラッキーは悶絶するオドシシめがけてハイスピードの体当たり。気絶させるには十分の威力であった。
「オドシシ、戦闘不能!」
アンパイヤから赤いフラッグが上がり、スタンドが沸き上がる。カリンはブラッキーへ歩み寄ってその身体を抱きしめると、初白星の喜びを分かち合った。一目で分かる、信頼感――反対側でそれを見つめながら、クリスタルは思わず息を呑む。
「……あの人、強い」
+++
「カリンやったねーっ!!」
ベンチシートから身を乗り出しながら、イツキが歓声を上げた。うるさい仲間をシバは怪訝そうに睨みつける。
「……ま、なかなかやるな。口うるさいだけじゃない」
「そうだよ、カリンは選考試験トップ通過だもん!悔しいけど今のとこ四天王最強でしょ」
「な……、最強はこのおれだ!」
思わず声を荒げるシバにイツキは意地の悪い笑顔を浮かべた。
「3位だったくせにー」
「お前は6位だろうがっ」
イツキは唇を尖らせて反論しようとするが、間髪入れずにワタルが腰を浮かせ、叱責する。
「二人とも、程度が低すぎる!あと、そういうのカメラに抜かれてイメージ悪くなるから辞めてくれよ」
あっという間にイツキは小さくなった。ふてくされたようにシートの上で膝を抱えつつ、ぽつりと呟く。
「……でもカリン凄いよね、ポケモンとの信頼関係がとれてるもん。どのポケモンもまんべんなく可愛がってる。僕なんてデビューに間に合うようにどうにか20匹鍛えたけど、まだまだ足りなくて……。全部に愛情を行き届かせるのは大変だよね」
「うん、彼女は一匹一匹をパートナーと呼んでいるが、素晴らしい育成センスだと思う」
ワタルは感心しながら頷くと、正面を向き直った。
+++
「いけっ、ハーちゃん!」
クリスタルがボールをフィールドへ投げ込んだ。現れたのはハッサム。鉄を含んだハサミで威嚇されると、顔が三つある様な錯覚を覚え、ブラッキーはたじろいだ。
「大丈夫。……ブラッキー、日本晴れよ」
その声を聞いて、ブラッキーは空を仰いでスタジアムの熱気を少し上げる。照明の光度がやや上昇した。
「ハーちゃん、メタルクローッ!」
そこへすかさず、ハッサムのハサミが一閃する。油断していたため、ブラッキーは勢いよく後方へ弾き飛ばされた。カリンがそちらへ駆け寄るが、ブラッキーは伏せたまま顔を上げない。彼女は思わず息を呑んだ。
ついに四天王、初黒星か……?
ベンチやスタンドからどよめきが巻き起こるが――ブラッキーは、よろめきながらもなんとか立ち上がった。途端に、拍手喝采。
「……お疲れ様。よくやったわ」
カリンはほっとしたようにブラッキーの頭を撫でながら、アンパイヤへ右手を上げて交代をアピールする。代わりに繰り出したのは、ラフレシアだった。ボールからひらりと舞い上がり、華やかにフィールドへ着地すると、大きな拍手で迎えられた。得意げな表情をするラフレシアに、カリンはそっと近づき耳打ちする。
「ラフレシア、フィールドのスタンバイはできたから……ハッサムの動きを止めてどんどん狙っていきましょう」
ラフレシアは頷くと、フィールドで優雅な舞を披露する。桃色の花びらがふわりと舞い上がり、幻想的な風景を演出した。観客たちはうっとりとその情景に見入ってしまう。踊るほど増えていく花びらに、ハッサムは目を白黒させた。
「ハーちゃん、そんなの切り裂いて振り払っちゃえ!」
クリスタルの声を聞き、ハッサムは花吹雪を振り払う。その隙間を狙い――「ソーラービーム!」ラフレシアが、頭の中心の穴から強力な光線を発射した。
「ハーちゃん、避けてっ」
すかさずハッサムは回避しようとするが、ラフレシアは狙いを外さなかった。ビームが直撃し、やや後退したところへ花吹雪が舞い上がる。ラフレシアは休むことなくソーラービームを撃ち込んだ。ハッサムが怯んだところへ更にもう一発――だが今度はクリスタルが先にフォローを出した。
「高速移動で逃げて!」
間一髪でハッサムは光線を回避した。身体に纏わりつく花びらを掻い潜りながら、ラフレシアの前に躍り出る。
「いっけぇ!シザークロスッ」
ハッサムがハサミを振り上げた。ラフレシアもさっと屈んで花弁を向け、光彩を集める。
(またソーラービーム!?)
クリスタルが眉をひそめたとき――ラフレシアが燦然と発光する。照明よりも眩い光に、ハッサムは思わず目を細めた。これは光線ではない、“フラッシュ”だ。相手がそれに気づく前に、カリンが畳み掛ける。
「破壊光線!」
ソーラービームを凌駕する強力な光線がラフレシアから放たれ、眼前のハッサムを南側フェンスまで弾き飛ばした。不意打ちの攻撃に、ハッサムは深手を負ってクリスタルの前へ倒れ込む。
「ハーちゃん!」
彼女はハッサムに駆け寄り、傷だらけの身体を抱き起した。まだなんとか意識はある。
(……ソーラービームかと思ったら、フラッシュだった……。フェイントかけられた……)
クリスタルは唇を噛みしめながら、カリンを見つめる。彼女は笑顔でラフレシアを褒めていた。主人に撫でられて喜ぶラフレシアは幸せに溢れている。
「ハーちゃん、やれる……?」
クリスタルはもう一度、腕の中のハッサムを見つめる――ぎりぎり意識を保っているが、あと攻撃を一発食らってしまえば終わりである。彼女は意を決し、アンパイヤ向けて両手をクロスさせた。それはポケモンの戦闘不能をトレーナーから知らせるアピールである。フラッグが振られラフレシアの勝利が確定するや、スタンドは再び沸き上がった。
「あら……」
カリンは思わず目を見張った。
「ごめんなさい、ハーちゃんはもう戦えません。でも次で、取り戻します!」
「分かったわ。こちらも容赦しないけどね」
ハッサムをボールへ戻す彼女を見つめながら、カリンは口元を緩ませる。
+++
観客席から、ハッサムの健闘を称える拍手が巻き起こった。それを耳にしながら、うんざりしたようにサカキは悪態をつく。
「ふん、甘すぎる」
「あのガキですか?」
アポロがおそるおそるサカキの顔を覗き込む。
「ああ。まだ力を振り絞れば、渾身の一撃を食らわせることができただろうに……。ポケモンに気を遣って降参するなど、愚の骨頂だ。死を覚悟しても攻めきる――それが真に強いトレーナーのはず。ポケモンバトルは馴れ合いではない」
「なるほど……」
深淵の闇を秘めたサカキの瞳を見て、アポロは息を呑んだ。
+++
クリスタルは最後のボールを握りしめると、覚悟を決めてフィールドに投げつけた。
「……最後だよ。頼むね、フローラ!」
現れたのはメガニウムである。カリンもすぐに右手を上げ、交代をアピールする。
「行きなさい、ヘルガー」
白と黒のスワロフスキーで飾ったボールを投げ入れると、彼女の相棒のヘルガー♂が登場する。美しい毛並みに、凛とした佇まい。スタンドから溜め息のような声が漏れる。彼はこの圧倒的な雰囲気にも飲まれることなく、威風堂々と構えていた。
(……おじさん、ヘルガーは今日も完璧よ)
彼を見ていると最後のカードも乗り越えられそうで、自信が湧いてくる。カリンはヘルガーの頭をそっと撫でると、耳元で囁いた。
「……まだ日本晴れの効果は消えてないから、相手は最初、ソーラービームで攻めてくると思う。高速移動で避けながら……炎で勝負をかけるわよ」
ヘルガーはコクリと頷くと、彼女から離れてポジションについた。両者が睨み合い、一瞬の沈黙が流れる――「ヘルガー、高速移動!」先制を掛けたのはカリンだった。ヘルガーがメガニウムの懐へ疾駆し、火炎を含んだ口を開く。
「火炎放射!」「ソーラービームで防いでっ」
二人のトレーナーの指示が重なる。技が同時に放たれ、僅かな差でメガニウムがヘルガーを押し返した。
「フローラ、はっぱカッターで切り傷を……!」
メガニウムは再び襲いかかってくるヘルガーめがけ、鋭い青葉を繰り出すとその皮膚を容赦なく切り裂いた。と、いっても細い血の筋を付けた程度で、あまり効果はない。ヘルガーはその痛みを物ともせず、メガニウムの首へ牙を向ける。
「炎の牙よ!」
火炎の牙に噛みつかれ、メガニウムは悲鳴を上げてのたうち回った。
「頑張れ、フローラ!毒の粉だよっ」
クリスタルの命令を聞き、メガニウムは全身から毒粉を噴射してヘルガーを突き放した。スコアボードのヘルガーのコンディション枠に、毒を知らせるランプが点灯する。カリンは思わず眉をひそめた。
「あらやだ……。毒消しは持たせていないのよね」
「相性的には不利だから、持久戦でいきます」
クリスタルがカリンを睨み据えた。
「そうね、こっちも……毒に倒れる前にすぐに決めるわ」
彼女も負けてはいられない。この勝負に勝てれば、四天王は公約を達成できる――ヘルガーも、じわじわと身体を蝕む毒を感じながらメガニウムを睨みつけた。
「お、あの子さすがだな。うちの娘より毒の使い方分かってる」
この様子を観戦しながらキョウは思わず舌を巻いた。ワタルがそれに反応する。
「どういうことですか?」
「多数の切り傷へまんべんなく毒を塗りこめば、かなりの効果が見込めるんだよ。だが、もったいないなー。動脈狙えば神経を冒して毒粉程度でも致命傷を与えられるかもしれないんだが……」
さらりと告げるキョウに、ワタルは思わず苦笑する。
「さすがにそれは運じゃないかなあ……」
とはいえ、キョウならば的確に指示ができそうな気がしないこともない。そんなことを考えていると、イツキが後ろから割り込んできた。
「二人ともカリンを応援する気あるの!?あの女の子に感心してる場合じゃないよ!仲間を応援しなきゃ!」
「ごもっとも。すみませんでした」
キョウは一笑に付しながら、試合を見守る。
「ヘルガー、火炎放射!」
カリンは再度、ヘルガーに指示を出した。彼は体内に残る不快感に耐えつつ、紅蓮の炎をメガニウム向けて放つ。さっと後退されて直撃とはならなかったが、炎はメガニウムの首に生えた花に引火する。
「フローラ……っ!」
メガニウムは慌ててフィールドへ身を擦り付けながら、消火を試みる――その間にヘルガーが駆け寄り、メガニウムの腹へ再び炎の牙を突き立てた。抜群の効果にメガニウムは絶叫するが、それでもなんとか耐えてみせる。
「フローラ、ソーラービーム!」
日差しは弱まりかけていたが、まだソーラービームを即発射できるには十分な光が残っている。牙を抜く前に、メガニウムが光線を放つ――近距離でのソーラービームの衝撃は、ヘルガーをフェンスまで吹き飛ばすには十分の威力を誇っていた。
「ヘルガー!」
動揺したカリンはピンヒールを脱ぎ捨てると、テクニカルエリア内に倒れたヘルガーに疾駆する。無我夢中で抱き起し、容体を確認した。彼は何とか頭を持ち上げるが、かなり深手を負っている。
「……大丈夫?」
心配そうに自分を見つめる主人を見て、ヘルガーは歯を噛みしめながら身体を起こした。強烈な痛みに加え、毒が意識を朦朧とさせる。
「ラフレシアと交代するから……」
アンパイヤへ振り上げようとしたカリンの右腕を、ヘルガーが頭を乗せて制止させる。彼女は度肝を抜かれた。
ヘルガーは勇を鼓しながら立ち上がり、メガニウムを睨みつける。そして主人へ向けて、そっと微笑んだ。カラ元気――カリンにはすぐに察知できた。その勇壮な姿に、拍手が巻き起こる。無責任な賞賛に彼女は苛立ちを覚えたが、気を持ち直してヘルガーの顔を両手で包み込んだ。
「……分かった、あなたを信じるわ。たとえ負けても批判からあなたを守るから、全力で行きなさい!」
心中を覚悟してくれた主人に、ヘルガーは深く頷く。そして軽やかに身を翻すると、最後の力を絞り出し、メガニウムめがけて力走した。
「フローラ、花びらの舞いっ!」
花吹雪が、ヘルガーへ襲い掛かる。彼はそれをかわしながら、メガニウムの正面に現れた。前足を落とし、飛びかかろうとすると、クリスタルが口を開いた。「ソーラー……、」指示が紡がれるより早く、、ヘルガーは横に跳んでフェイントをかけ、メガニウムの横腹へ斬りかかった。その技、“だまし討ち”は見事に決まり、そのままヘルガーは空中で一回転して背後を取る。
「ヘルガー、大文字!」
うろたえながら振り向くメガニウムの背中へ、ヘルガーが猛火の大文字を叩き込む。これ以上ない、身体の火種を結集させた炎は、メガニウムを一撃で昏倒させるには十分であった。灼熱の炎に包まれ、メガニウムは悲鳴を上げながらフィールドへ崩れ落ちる。
「フローラ……!」
駆け寄ろうとするクリスタルを制し、消火器を抱えたスタッフが即座にメガニウムの炎を鎮火させた。
「メガニウム、戦闘不能!」
アンパイヤからフラッグが振られると、スタンドから大歓声がしのつくように降り注ぐ。ヘルガーはメガニウムを一瞥すると、そのまま身を翻してカリンの元へ戻った。その猛々しい姿に、再び賞賛の拍手が送られる。カリンはヒールを手に持ったままヘルガーを抱き寄せると、観客向けて丁寧にお辞儀をした。三度スタジアムが拍手に包まれる中――テクニカルエリアをとぼとぼと歩きながら、沈んだ面持ちのクリスタルがカリンの元へやって来る。
「……負けました」
大きな瞳が次第に潤んでくる。カリンは唇を綻ばせながら、彼女の頬を優しく撫でた。
「残念でした。プロは甘くはないのよ?」
「……は、はいぃ」
涙が止まらず、擦れ声は次第に嗚咽へと変わる。彼女はワンピースのポケットからレースのハンカチを取り出すと、クリスタルの涙を拭いながら柔らかい笑顔を浮かべた。少女を包み込むような、とても優しい微笑みだった。
「で、も。正直ちょっと、危なかった。あなたとっても強いんだもの。まだまだチャンスはあるわ。また……挑戦してね!」
「わ、わがりまじだ……」
カリンはそのままハンカチを手渡すと、そっと背中を押してクリスタルに別れを告げる。少女はこのままでは終わらないだろう。カリンは南側ベンチへ下がっていく小さな背中が消えるまで、見送り続けていた。スタジアムに二人の健闘を称える、温かな拍手が降り注ぐ中――ふと、カリンはいつの間にか緊張感が消え失せていることに気付いた。まるでずっと前からこの場所に立っているかのような、不思議な感覚。観客の声援に応えていると、どこかに亡き恩師が座っているような気もしてくる。
(……おじさん、見ててくれてる?)
スタンドを見回しながら、いるはずのない男を探していた。
(本当はもうちょっと鮮やかに試合を決めたかったけど……。ちょっと危なかった。プロは厳しいわね。……でも)
北側ベンチを向くと、仲間たちが大げさに手を叩きながら彼女を迎えてくれている。思わず、頬が緩んだ。
(私はこれからも、大丈夫。きっとやれるから。……見守っててね)
+++
彼女は足を速めてベンチの前に立つと、仲間を見回し、やや控えめに拳を振り上げた。
「ふふっ、四天王公約達成よ♪」
「カリン最高っ!さすがだね!」
最も熱く称賛するイツキをよそに、キョウは「危なかったな」と意地の悪い笑みを浮かべる。その足袋をヒールでわざとらしく踏んづけて、カリンは彼の隣に腰を下ろした。
「った!!!おま……っ、ヒールは……!!!」
電撃のような鋭い激痛を受け、キョウは思わずその場に突っ伏せた。
「危なくなんてないわ。メガニウムに押され気味だったけど、まだ手持ちは残ってたもの」
「ははは、ともあれカリン。初勝利おめでとう。はい、これ」
ワタルは預かっていたショールをカリンへ手渡す。
「ありがと」
彼女はそれを肩に掛けながら、イツキから手渡されたドリンクを口にした。爽やかなスポーツドリンクが喉を通ると、プレッシャーもみるみるうちに解けていく。爽快だった。
「勝利って気持ちいいわね」
心から勝利を喜ぶその笑顔にワタルも安堵した。イツキが後ろから身を乗り出し、煩く口を挟んでくる。
「だよね!僕も勝った時すごく気分良かったもん。この仕事天職かもしんない」
「ふん、デビュー戦で浮かれるな。本当に大変なのは、シーズンが始まるこれからだ」
シバが腕を組みながら牽制した。
「分かってるわよ。で、も!ポケモンバトルで勝利することがこんなに心地いいなんて、初めて。……ねえワタル」
「ん?」カリンに呼ばれ、ワタルはそちらに顔を向ける。
「私を選んでくれてありがとう」
艶麗な彼女が見せた、一点の曇りもない無垢な笑顔にワタルは目を見張った。すぐに我に返り、見惚れてしまったことを反省しながら、慌てて視線を逸らす。
「え……。あ、ああ。ど、どういたしまして」
ほんの一瞬だが、心を掴まれてしまうなんて。
「……場所変わろうか?」
その様子を横目に、二人の間に挟まれているキョウは居心地悪そうに腰を浮かせるが、すかさず後ろからイツキが彼の肩を掴んで座らせた。
「ダメ!!キョウさんはそこで壁になって!動いちゃだめだからね!」
「いや……俺ここに座ってたらダメだろ……」
「邪魔しといてよっ」
そんなやり取りを意に介さず、カリンはワタルに話しかける。
「でーもー、次でワタルが負けたら台無しなのよ。分かってる?」
「ああ、分かってるさ……!」
「良かった。それじゃ、さすがに黒星なしとまではいかないだろうけど……勝ちなさいよ」
「もちろん」
ワタルはほんの少しだけ微笑むと、フィールドに向き直った。観客たちの期待が膨れ上がる中、次の試合に向けてスタッフが大急ぎで整備している。それに感謝の意を表しながら、彼はゆっくりと目を閉じた。
『さすが新生四天王!公約通り、一つも落とすことなくデビュー戦を飾ることができました――』
スタジアムを盛り上げるDJの声が、次第に遠くへ消えていく。やがて歓声や仲間の声もフェードアウトした。
(いよいよオレの出番だ……)
――9割はチャンピオンだけどね。残り1割は、君の試合を見て皆が決めるんだよ。
ブラックカードを受け取ったときに告げられた、総監の言葉。
その審判の時が、あと数分で始まる。
たった数か月の準備期間が、途方もなく長く感じられた。
ひどいバッシングを受け、仲間を傷付け、その決意が揺らぎかけたこともあった。
だが、そんなときに手を差し伸べてくれたのは時間をかけて選び抜いた四天王や、本部スタッフ達。
そして、ここまで苦楽を共にし、チャンピオンの座を掴み取った自軍のポケモン。
(皆には感謝しきれない。オレの誇りだ)
その誇りを、「敗北」で台無しにすることなどあってはならない。
(この誇りは、絶対に守る。勝利してみせる……)
ワタルはゆっくりと目を開いた。
スタジアムの興奮が大波のように耳へ押し寄せてくる。同時に、フィールドの準備も終わっていた。
南側のベンチに、赤いシルエットが現れた。
「レッドだ!」
イツキが一番に声を上げた。
沸き立つ大観衆に迎えられ、レッドはベンチからゆっくりと歩み出る。
ワタルもベンチシートから腰を上げた。
床を踏みしめる足はとても重い。肩にかかる重圧も、まるで鉛の様だ。
ひどく緊張していることに今更気づく。
ふいに、後ろで座っていたシバが、それを取り払うように彼の肩を勢いよく叩いた。不思議と痛みは感じなかった。
「……お前なら勝てる」
ワタルは、ただ黙って頷いた。
『お待たせいたしました!いよいよ始まります、新旧チャンピオン・リベンジマッチ!!新チャンピオン・ワタルは、果たしてその名に相応しい実力を見せられるのか!?ただどちらが強いのかを決めるのではありません!この試合には、セキエイの未来がかかっているのです!』
スタジアムDJの煽りも、ワタルには少しも大げさには感じられない。
彼はベンチ脇に置いたボールを装着済みのベルトを手に取ると、手持ちポケモン達と目を合わせた。
皆、闘志に満ち溢れている。コンディションは問題ない。
「準備万全だな」
目配せして頷き合い、ベルトを腰に巻く。
数か月ぶりの動作に、プロトレーナーとしての感覚がはっきりと戻ってくる。緊張感に加え、興奮さえも込み上げてきた。
ワタルはベンチに座る四天王の前に立ち、居住まいを正す。
「みんな、ここまで素晴らしい試合をありがとう。オレは最高の仲間に出会えたことを誇りに思っているよ。最後にオレが、ショーのフィナーレを飾り――セキエイの栄光を取り戻してくる!」
その精悍な眼差しは、勝利しか見えていない――仲間たちは、満足そうに黙って頷いた。
既にスタジアムの興奮は頂点に達していた。観客は皆一様に立ち上がり、手を叩きながら新旧二人のチャンピオンを出迎える。
ワタルはフィールドに向けて敬意を表すように一礼すると、そのまま颯爽と歩み出した。風を切って漆黒のマントがはためく。
(リーグチャンピオンとして、ドラゴン使いワタル。――いざ、参る)