第24話:扇の要
大歓声に迎えられながらテクニカルエリアに現れたキョウに、アンズは全力で右手を振った。
「お父さーん、頑張って!」
しかしその可憐な声は、フィールドへ届く前に興奮に巻き込まれて消えてしまった。大いに盛り上がるセキチク応援団の派手な声援も、この轟音の様な歓声に飲み込まれるばかり。史上初、ジムリーダーから四天王へ転身した男の試合に全観客の期待がかかる中――キョウはアンパイヤ席の前で挑戦者と握手を交わした。彼の年の頃は、30代前半といったところか。
「……僕、ピンクバッジ持ってるんですよ」
挑戦者タカヨシは不敵な笑みを浮かべる。
「ああ、そうなんだ」
予想外の素っ気ない答えに、タカヨシはむっとした。
「覚えてます?ふふ、コンパン・モルフォン・マタドガス……ストレート勝ちでしたよ」
「へー、そうなんだ。すごいじゃないか」
まるで他人事のような彼に、タカヨシは苛立ちを感じ始める。
「……あの」
「すまないけど、ジム挑戦者の顔って昔から殆ど覚えてないんだよ。……じゃ、いい試合を」
そう言うと、キョウは身を翻しながら定位置へと戻った。あっさりした対応に、タカヨシは憤慨しつつもアンパイヤに促されてポジションへ引き返す。険悪なやりとりは、この二人にしか分からなかった。緊張から解放されたイツキが、ポジションへ戻るキョウを眺めながら小声で呟く。
「僕キョウさんの試合見るの初めて」
「えっ?」ワタルが思わず振り返った。
「誰か手合せしたことある?スタジアムで一人で調整してるところは見たことあるけど、練習頼んだらいつも断られるんだけど」
イツキが怪訝そうに話すと、シバやカリンもそれに賛同する。
「おれもだ。ジムから手が離れてからも、いつも色々理由付けて逃げられるんだが……」
「あら、みんなそうだったの?私もなの。オジサマっていい人ぶってるけど陰険なとこあるわよね」
「カリン、仲間の陰口は慎もうね……」
ワタルはそれを諭しつつ、自分にも思い当たる節があることに気が付いた。忙しいのだと思って気に留めなかったが、全員かわされているのは意図的としか思えない。何故そこまで隠し通すのか――その答えを見出すべく、ワタルは試合に注目した。
+++
アンパイヤがフラッグを振り上げ、試合開始のコールを叫ぶ。
『プレイボール!』
嵐のような歓声が吹き荒れるフィールドに、二つのボールが投げ入れられた。キョウはベトベトンを、タカヨシはドンファンをボールから繰り出す。体格はほぼ変わらないが、タイプ的にはキョウが不利である。
「牙で突いてやれ!」
先制したのはドンファンであった。フィールドを揺らしながら、ベトベトンへ鋭利な牙を向け突進する。キョウはベトベトンの横へ移動しつつ、自身の右腕と口元に触れながら「小さくなる」と指示を出す。
ドンファンが首を振って牙を振り上げた瞬間、ベトベトンは縮小して攻撃を回避した。大きく空振りし驚愕するドンファンの口へ、ビー玉程のヘドロを投げ込むと、床を転がりながら元のサイズに戻る。スコアボードのドンファンのコンディション枠に、毒に犯されたことを示すドクロマークが点灯した。それを見たタカヨシは思わず困惑する。自分の視界からでは、何が起こったのか理解できなかった。それは観衆も同様で、会場全体が疑問の色を表していた。
「あれ……毒技の指示をしたか?……とりあえず、毒消しの実を使うんだ!」
ドンファンは頷きながら、懐から木の実を取出し解毒を行った。キョウは俯きながらこっそりと舌打ちする。
「あそこに表示すると商売上がったりなんだよな……。ま、いいか。えー、ヘドロ爆弾」
彼は自身の足元を指差し、移動しながらベトベトンへ指示を送った。
「ドンファン、突進だ!お前は毒技は効きにくいんだ、ガンガン攻めていけ!」
ドンファンは少し後ずさると、ベトベトンめがけて猛突進。その足元を狙いながら、ベトベトンは後退しつつヘドロの爆弾を放り投げていく。強烈な悪臭と爆風に耐えながら、ドンファンは爆弾攻撃をくぐり抜け、ベトベトンの正面まで接近した。即座にキョウが両手をクロスさせる。体当たりするドンファンの牙を、ベトベトンががっしりと掴み、フィールドにヘドロを張って、120キロの巨体を受け止めた。スタンドから驚きの歓声が沸き起こる。
しかしパワーはドンファンが上である。徐々にベトベトンが床から剥がれ始めた時、キョウは両腕に触れ、持ち上げるような仕草をしながら指示を出した。
「溶ける」
持ち上がり始めたベトベトンが、水のようにさっとフィールドに広がった。ドンファンはガクンとつんのめってバランスを崩し、傷だらけの脚にヘドロが染み渡ると、スコアボードに再び毒のサインが点灯する。
「あ、また!……ああ、そうか。なるほど」
タカヨシが気を取られている間に、液状化していたベトベトンがドンファンの足元へ集まって両脇腹をがっしりと掴んだ。ヘドロに足を取られてドンファンは抵抗することができない。組み伏せられそうになったとき――タカヨシは「高速スピンで飛べ!」と叫んだ。その瞬間、傾きかけたドンファンがヘドロを蹴散らすようにハイスピードで回転して浮き上がり、その呪縛から抜け出した。スタンドから驚嘆の声が上がる。これにはキョウも感心した。
「お、上手いね」
「……あなたもね。さっきからポケモンの視界へ回り込んでブロックサインで動きを指示されてますよね?」
「何か問題が?口で命令するのは、手の内晒すようで好きじゃないんだよ」
「ふん!チマチマして、四天王らしくない!もっと豪快に来いよ――見せてやるよ、こうやるんだよ……ドンファン、地震!!!」
ベトベトンから距離を取ったドンファンが、雄たけびを上げながらフィールドを豪快に揺らした。ベンチが揺れ、見えないフェンスも振動する。地震は轟音を響かせながら、ベトベトンを恐怖へと陥れた。効果は抜群だ。キョウは転倒しないよう中腰になりつつ、「丸くなれ!」と左掌を空で仰ぎながら声を上げた。丸くなりつつ跳ね上がれと言うサインである。即座にベトベトンは球体に変化し、地震に身を預けて宙に浮き上がった。
「乱れ突きだ!」
球体のまま落下するベトベトンを狙い、ドンファンがトスを上げるように牙で突き上げる。うめき声を上げながら、ヘドロのボールは更に空高く舞い上がった。キョウはしゃがんだまま声を張る。
「ベトベトン、ものまね。――高速スピンを真似ろ!」
瞬時にベトベトンの顔つきが変化した。空中でヘドロをまき散らしながら高速回転を始め、タカヨシが声を上げながら避難する。これにはさすがのドンファンもたじろいだ。キョウが拳で掌をぱんと叩くと、降り注ぐヘドロが爆弾へと変化する。最初は無差別的に当り散らしていたが、主人の腕の動きに合わせて徐々に角度を変え、ドンファンを狙い始めた。その動きの正確さには、ベンチで観戦しているワタルも舌を巻く。
容赦なく降り注ぐ爆弾のシャワーに、ドンファンは身動き一つとれなかった。次第に、毒が体力を奪っていく――ドンファンの身体が、僅かに傾いた。その動作を見逃さず、キョウはさらに畳み掛ける。拳を軽く振りながら、ベトベトンに見せつけた。
(この技の次にダストシュートを仕掛けるから、すぐ準備しとけ)
ポケモンが頷いたことを確認し、彼は声を上げた。
「爆裂パンチだ!」
ベトベトンが落下しながら、ヘドロの剛腕を振り上げてドンファンへ渾身のストレートパンチを叩きつける。ドンファンはなんとか踏みとどまったが、強烈な悪臭と毒でその意識は朦朧としていた。もう立っているのがやっとの状態だ。
「ドンファン、マグニチュード!」
ヘドロを避けて前に出ながら、タカヨシは声を上げる。
対峙するベトベトンはいつの間にか巨大なゴミの塊を抱え、ドンファンより早く動き出した。事前にこの技を出すことを聞いていたから、もたつきがない。
「ベトベトン、ダストシュート!」
ベトベトンは助走をつけて前方回転をしたかと思うと、そのままゴミの塊をドンファンへ投げつけた。川底をさらったような汚物がドンファンの身体にめり込み、そのまま埋もれてしまう。それから瓦礫はピクリとも動かない。すかさず、アンパイヤがフラッグを振った。
「ドンファン、戦闘不能!」
その瞬間、大歓声と称賛の拍手がスタジアムに吹き荒れる。
ベトベトンがゴミをどかせながらドンファンを救出してフェアプレー精神を見せつけると、会場は更に沸き上がった。
「いやー、派手に汚してすまないね。でもこれ興行だから、豪快にいかないとね」
キョウがタカヨシのヘドロで汚れたジーンズを見ながら笑みを浮かべる。高速スピンの時に付着した汚れである。タカヨシは唇を噛みしめながら、ドンファンをボールへ戻した。よく見ると、キョウの着物は全くの無傷である。コケにされたような気がした。
+++
「ベトベトンでハンドスプリングスローをやるなんて、キョウさん冴えてる〜っ!」
イツキが歓喜の声を上げながら、楽しそうに手を叩く。その隣で、シバが悔しそうに唇を噛みしめた。
「……最初の毒攻撃はどうやって指示を出した?全く分からなかった」
「予想だけど、“小さくなる”の時だろうな。命令するときに何かアクションしていたから。攻撃するポイントや、次の技の準備もサインで指示していたように思う。これはかなりの技術だよ。スコアボードにコンディションが表示される仕様じゃなかったら、知らぬ間に毒を仕込まれてやられるってパターンが激増してたかも……」
ワタルは感心したように意見を述べた。ここまでサインに頼ったプレースタイルは今まで見たことがなかったので、度肝を抜かれたのだ。イツキも興奮したように立ち上がる。
「そっかー!僕全然気づかなかった……。すごいなー、あそこまで覚えさせるのって相当根気がいるよね。声だけの指示でも練習がいるのに……どうやるんだろ。教えてもらいたいな」
「それが嫌だから、誰とも練習試合しなかったんじゃないのー?サイン読まれたら元も子もないしね。やっぱ陰険だわ」
カリンは口を尖らせながらふて腐れた。ワタルは苦笑しながらそれを諭す。
+++
「いけ!ハガネール!!」
タカヨシは二番手のハガネールをフィールドへ投げ込んだ。巨大な鉄蛇の登場に、スタンドからどよめきが上がる。
「ずーるーいー!お父さんに不利なタイプばっかりー!」
憤慨しながら立ち上がるアンズに、セキチク応援団も悔しそうに苦笑する。
「あれ、対策してきたんだろうなぁ……」
その間に、キョウは左手を上げて交代をアピールする。ベトベトンを戻して、アリアドスを繰り出すが――9メートルを超えるハガネールに対し、1メートル強のアリアドスはとても小さく見えた。
「踏み潰してしまえっ」
間髪入れずに、タカヨシは声を荒げる。ハガネールの巨大な尾が、対峙するアリアドスを振り払おうとした。それだけで、トレーナーをも吹き飛ばすような風圧が襲うが、キョウは臆せず、足を踏み込んで手で合図を送る。
「尾の先にからみつけ」
アリアドスはハガネールの尻尾に糸を絡ませると、上手く飛び乗って直撃を受け流した。そのままスイングに身を任せつつ、ジャンプしてフェンスに張り付いた。見えないフェンスに巨大な毒蜘蛛が付着し、近くにいた客たちは肝を冷やす。そこへ、「アイアンテール!!」と声がしてハガネールの尾が飛んできた。
「当たるなよ、高速移動!」
キョウの指示で、アリアドスはさっと攻撃をかわす。相手が大きいため、アリアドスの方が小回りが利いた。フェンスを揺らしながら、ハガネールは休むことなく尾を振り続ける。鞭のようなしなやかな動きは、相当訓練されたものだ。これには同じハガネール使いのシバもベンチで感心していた。
アリアドスはフェンス上を逃げ回りつつ、テクニカルエリアで指示をする主人をしっかりと確認する。彼の腕の動きに合わせて、要所要所に糸を張り付けていく。ちょろちょろと逃げ惑う蜘蛛を全く仕留められないことに、タカヨシは次第に苛立ちを感じ始めていた。
「うっとうしいな!岩落としっ」
ハガネールはフェンスに張り付いていたアリアドスめがけて岩を発射する。キョウが指を鳴らしながら「それ、もらった!」と声を上げた。アリアドスが糸を吐いて岩石を絡め取り、ハガネールの顔面へ押し返す。鉄蛇が竦んだ隙に、アリアドスはその巨大な身体を伝ってフェンスの反対側へ。
「くそっ、撃ち落とせ!」
高速移動するアリアドスはなかなか捕えられない。何度も身体這う不気味な感覚に、ハガネールも徐々に腹立たしくなってきた。赤いシルエットめがけてがむしゃらに岩石をぶつけると――見事、直撃。アリアドスはぽろりとフェンスから剥がれ落ちるが――何故か空中で静止した。それを見て、タカヨシは絶句する。
「……蜘蛛の巣!」
彼はアリアドスがただ糸を吐いていたと思っていたが、フェンスを始点にフィールド上に巨大な蜘蛛の巣を張り巡らしていたのだった。糸は大変繊細で、照明の効果で肉眼ではほぼ捉えることができない。
ハガネールを取り囲む蜘蛛の巣に、体制を整えたアリアドスがそろそろと戻ってくる。巣は、ハガネールの頭の高さに合わせて張られていた。幾重にも張り巡らされたアリアドスの糸はかなりの強度を誇り、容易く切れるものではない。
「よし、準備OK。……いけ、ミサイル針!」
キョウが手を二回叩きながら、下からアリアドスへ命令した。これは目を狙えと言う合図である。アリアドスはハガネールの前にさっと出て、眼球向けて針を発射した。ハガネールは目を閉じてこれを防ぐが、瞬きと同時にアリアドスが飛びかかり、右目のわずかな隙間に毒針を突き立てる。毒耐性はあるものの、その鋭い痛みにハガネールは悶絶し反り返った。
「何してる!巣ごと引き裂いてしまうんだ!」
その声を聞いてハガネールは歯を食いしばって痛みをこらえ、頭を起こしながら蜘蛛の巣ごとアリアドスへ噛みついた。だが傷付いた右目の視力は落ち、遠近感をとらえることができない。ぎりぎり、前足を掠った程度でかわされる。
「ハガネール、ストーンエッジ!!」
すかさず鋭利な岩石を飛ばして、逃げるアリアドスへ奇襲をかける。同時に、キョウが「使える!」と指を鳴らした。無数の大岩をアリアドスが蜘蛛の糸でからめ取ると、地上で引きずりながら距離を取る。そして主人を見下ろすと、サインを確認して小さく頷いた。
「そんなお荷物引きずってどうするんですか?動きが鈍くなるだけだ」
なかなか仕留められないもどかしさを感じながら、タカヨシが吐き捨てた。
「……まあ、見てろよ」
引きずっていた鋭利な岩石がふわりと浮き上がり、会場が一斉にどよめいた。これにはベンチで食い入るように試合を見ていたイツキも腰を浮かせる。
「サイコキネシス!」
自身の右の顎に触れるキョウの命令と共に、アリアドスの強力な念力がふわりと岩石を持ち上げる――鋭利な岩が、ハガネールへまとめて襲い掛かった。右側のまだ見えづらい視界を利用し、その顎へすべての岩石をぶつけると、鉄蛇は脳震盪を起こして意識が一瞬飛んだ。その鼻先にアリアドスが糸を張り付け、飛び込んでくる。
「アリアドス、ナイトヘッド!」
戻りかけたハガネールの意識が、恐ろしい幻へと変化した。幻覚は朦朧としていた視界を容易く支配し、その巨体を戦慄させる。鉄蛇は悲鳴を上げながら、悶絶し始めた。そのタイミングを見て、すぐにキョウはアリアドス向けて両手を振る。
(でかいやつには内から攻めないと。……締め上げろ、アリアドス)
フィールド全体に張り巡らせた蜘蛛の糸が、倒れそうなハガネールに絡まってきつく締め上げた。頑丈な糸はハガネールを持ち上げ、身を切る様な鋭い痛みが襲い掛かる。
「ハガネール!なんとか脱出しろ!」
とはいうものの、鋼の身体の継ぎ目に巧妙に絡んだ糸はなかなか振りほどけるものではなかった。もがいている間に幾重にも糸が身体を這っていき、関節を締め上げる。千切れそうな激痛に、ハガネールは悲痛な叫びを上げた。何としても、アリアドスへ一矢報いたい――だが、相手は蜘蛛の巣の上でマリオネットのように自分を悠々と操っている。意識はもう限界だった。
「よーし、とどめだ。シザークロス!」
アリアドスは蜘蛛の糸を切り、ハガネールをフィールドへ叩き落とす――轟音を響かせながら、400キロの巨体が地上を派手に揺らした。舞い上がる砂埃を鬱陶しそうに防ぎながら、キョウは気絶した鉄蛇を誇らしげに見上げる。直ぐにその目の前に、機嫌良さそうなアリアドスが糸を伝って降りてきた。
「ハガネール、戦闘不能!」
ひらひらと宙に舞うフラッグを見つめながら、タカヨシは呆然と立ち尽くしていた。噴き上がるような歓声が右から左へと抜けて行く――百戦錬磨、自慢のハガネールがアリアドスのような虫けらに手玉に取られるなんて……。彼には全く理解できなかった。身体の震えが止まらない。もう目の前にいるのは、かつて毒に強いポケモンのパーティを組んで容易く打ち破ったはずのジムリーダーではない。四天王、なのだ。
+++
「ハガネールにアリアドスが勝つって……すごいねえ」
あちこちで興奮気味のどよめきが巻き起こる。そんな反応を、サカキは聞き耳を立てて悦に浸っていた。かつて散々悪態をついていた弟子が、ここまで成長するのは師として誇らしいことである。その横顔を面白くなさそうに見ながら、アポロが尋ねる。
「……あの男はサカキ様が教えていたころから、サイン中心の試合展開を?」
「いや、当時はまだ簡単な手振りだけだった。元々指示が細かく煩い奴で、マスターバッジがあるというのに最初はポケモンから総スカンだったが……。まさかここまで技術を磨き上げるとはな」
サカキは非常に感心していた。
「まあ……多くのポケモンは人間ほど賢くありませんからね」
「そこをどう利用して上手く操るか……それはトレーナーに求められる技術の一つだ。その点だけで言うと、あいつは既に俺を超えているかもしれんな」
「いや、そんなことありませんよ!サカキ様は全ておいて最強のトレーナーです」
アポロの大げさなフォローを聞き流し、サカキはビールを口にしながらフィールドを眺める。
+++
スタジアムを見回しながら、キョウは軽く腕を伸ばしてストレッチを行っていた。この雰囲気にもやっと慣れてきた――改めて見ると、ここは非常に開放的な空間である。ジムリーダー時代のように手持ちのレベル制限を受け、狭い道場で戦っていた頃とは違う。フィールドは広大で、アンパイヤも席から動かないし、これだけ多くの観客がいても自分のサインの意図には気付かれない。それは彼のプレースタイルにおいて、何よりの利点である。
(いいねえ……)
そしてのびのびと、自由に操れるポケモンで試合に臨めるのはとても気分がいい。接待やデスクワークに追われたり、便利屋扱いされることもない。久々の愉悦を感じる。
「お父さん、あと一勝だよー!頑張れっ」
ふいに、どこからか娘の声が聞こえたような気がした。
(やっぱりアンズの席、聞いとけば良かった)
少しの後悔がちくりと胸を刺す。
タカヨシは最後の手持ち、スリーパーを繰り出した。ピンクバッジ保持者ということで、最後も毒に有利なタイプで攻めてくるであろうことはキョウの想定内である。この徹底した攻めにあちこちからブーイングが聞こえてきた。対してキョウも、左手を上げて交代の合図を出す。帯に差していた扇子とクロバットの入ったモンスターボールをアンパイヤに掲げ、許可を仰いだ。すぐに『OK』サインが出る。
「よし、出てこい」
放たれたボールからクロバットが蝶のように華麗に舞い上がると、主人の傍へぴたりと停まる。キョウが扇子を開いて挑戦者へアピールすると、スクリーンに『このクロバットは視力が著しく低下しているため、扇子を指示の補助道具に使用することを許可しています』とのテロップが表示された。会場は大きなどよめきに包まれる。
「えっ、そういうのアリ?」
目を丸くしながら腰を浮かせるイツキに、ワタルは頷きながら補足した。
「ああ、ハンデのあるポケモンをバトルでフォローするために笛を使ったりするのは良くあるからね。キョウさん衣装が着物だから、扇子にしたのかな」
「しかし四天王でわざわざそんなポケモンを使う神経が信じられん」
シバが首を捻り、カリンも怪訝そうに呟く。
「でも、扇子の音でサインを送るのならポケモンがいちいちトレーナーを見なくてもいいわよね。ブロックサインの欠点を補うことができる。で、ハンデのあるポケモンを起用することでポイントも稼げる。悪い大人ねー」
「ポイント稼ぎまでは考えてないと思うんだが……」
「どうかしら?セキチクの名士様だもの。信頼を得るためにあれこれやってるじゃない。ポケモンをダシにしたっておかしくないわ。ああいう裏の分からない大人ってキライ」
露骨に不信感を示すカリンに、次第にベンチの雰囲気は曇り気味だ。慌ててワタルは両手を叩き、その空気を一掃した。
「まあ……ともかく!今は試合に集中しよう」
そう言いながら、キョウとクロバットの後姿に注視する。
彼の雰囲気は、明らかに変化していた。神経を細く尖らしたような、近寄り難い空気感が背中越しに伝わってくる。タカヨシもフィールドの反対側でそれを敏感に感じ取っていた。突き刺すような視線に臆していたが――自分にはもう失うものは何もない。なりふりかまわず、攻めるのみだ。先手を叫ぼうとした瞬間に、扇子が振り上げられる。
「クロバット、どくどく!」
クロバットがスリーパーに飛びかかり、上空へ浮上する。スコアボードに毒のサインが点灯した。
「解毒を!」と叫ぶ前にスリーパーがこちらを振り返ってクロバットを指差す。そこには、実を放り投げて遊ぶクロバットの姿――鮮やかなプレーに歓声が上がる。タカヨシは絶句した。
「“泥棒”を、同時に……」
彼女は毒消しの実を噛み潰すと、扇子を振る音に乗ってスリーパーめがけて急下降した。
「スリーパー、催眠じゅ……」
「エアスラッシュ!」
キョウが扇子を振り上げながら、タカヨシより早く指示する。クロバットが放った空気の刃は、スリーパーを斬りながら高く舞い上がらせた。もう一度、扇子を上へ。その音を聞いて、クロバットがスリーパーを悠々トスする。
「しがみつけっ、攻撃させるなあっ」
スリーパーは手元の振り子を使い、必死でクロバットの足に巻き付けると、そのまましがみついた。身体を締め付ける毒の痛みが徐々に増してくるが、なんとか我慢する。
「邪魔だな、もっと高く飛んでやれ」
キョウは扇子を掲げながら、ゆっくりと振り回した。その動きに合わせてクロバットが更に高く、照明ギリギリまで上昇して旋回する。
「ボディを殴れっ、メガトンパンチ!」
スリーパーが腕を振り上げる。キョウはアンパイヤ席を一瞥しつつ、扇子の中骨を数回弾いた。
(右側のライトに当てて、少し傾けろ……)
スタジアムのセットを故意に動かす行為は、見つかればペナルティである。彼は審判の死角を考えながら、扇子を打ち鳴らして声を上げた。
「翼で撃つ!」
拳が降りかかるより早く、クロバットは身体を大きく捻ってスリーパーを懸命に振りほどくように見せると、その身体を照明に叩きつけた。ライトが大きく揺れて傾く――そのまま悶絶するスリーパーを、間髪入れず翼で叩き落とした。一直線へ落下するスリーパー。このままフィールドに直撃すれば、そこで試合は終わる。
「リフレクタァァ!!!」
まだ終わりたくない――そんな感情を込め、タカヨシが絶叫した。スリーパーは即座に落下点にリフレクターを張り、衝撃を和らげて着地する。そのプレーを称えるように、大きな歓声が沸き上がった。更にスリーパーはその下へ潜り込むと、リフレクターを盾代わりにする。
「反撃するぞ、スリーパー!」
タカヨシが両手を広げながらスリーパーに合図を送る。彼は頷くと座禅を組んで瞑想する――ゆっくりと両手を広げると、フィールドに散乱していたダストシュートのゴミや、ハガネールの吐き出した岩石がふわりと宙へ浮き上がった。その様子はフィールド上空に羽ばたく、視力の弱いクロバットからは一切見えない。キョウが扇子を振って合図を送る。
(瓦礫の攻撃が来る……スタジアムを周って逃げろ。追い風、用意)
クロバットはこくりと頷くと、羽を大きく広げて徐々に風を巻き起こしていった。
「行け!サイコキネシス!!」
浮遊した瓦礫が蝙蝠目掛け、一斉に矢の如く飛んでいく。
「追い風!」
キョウの声とともに、クロバットは弾かれるように空を疾駆した。瓦礫はタッチの差で蝙蝠を捕え損ない、フェンスに直撃。だが落下せずにそのままクロバットを追尾する。主人の扇子の微妙な音を聞き、フェンスすれすれを滑空しながら、叩き潰さんとする攻撃を振り切っていく。
その視界は、壁はもちろん少し手前さえぼんやりと曇っていた。信じるものは、この世で最も敬愛する主人の『指揮』のみ。彼はモールス信号を応用したこのサインを自分のために考案して、ハンデのない他のポケモンと対等にしてくれた。その愛情に一生かけて報いたい――そのためには、敗北なんて考えられない!
(下降しろ。真下にターゲットがいる)
その音を聞いて、クロバットはすぐに急下降した。
「アクロバット!」
(リフレクターの下から北東へ3.5メートル弾き出して、そこで上昇しろ。次に指示するのは影分身)
キョウの声と扇子の音が重なる。瓦礫を伴いながら、リフレクターの下で座り込んでいたスリーパーを翼で弾き飛ばした。フィールドにゴミの山が降り注ぐ前に、軽やかに一回転しながら空へと逃げる。
「スリーパー、サイケ光線であいつを撃て!!」
浮き上がっていくクロバットを狙って、スリーパーが光線を放つべく焦点を合わせる。そこへ被せるように、キョウが声を張った。
「影分身!」
クロバットは分身しながら、上空へと浮き上がる。それを追うようにスリーパーが宙を見上げるが――いつになく眩い明かりに目を細めた。隣の台と光が重なるように傾けられた照明が、クロバットの薄れる影をほんの一瞬かき消した。スリーパーが光線を撃つ手を躊躇した瞬間、体内を犯す毒が喉を締め付け、身体の動きを鈍らせる。
「おい……、スリー……」
テクニカルエリアからでは、スリーパーに何が起こっているのか正確に確認できない。タカヨシが声を掛けようとする相棒のその背後に、クロバットがひらりと舞い降りた。
「クロバット、クロスポイズン!」
扇子を勢いよく開く音と同時に、クロバットは会心の一撃を食らわせ、そのままスリーパーはフィールドへ崩れ落ちた。その瞬間、フラッグが上がるより早く一人の少女が絶叫する。
「クロちゃん、最高ぉー!」
アンズの声と共に、会場に興奮が満ち潮のように押し寄せてくる。すぐにキョウの勝利を示すフラッグが振られ、感動と称賛の拍手喝采が雨の様に降り注いだ。彼は観客向けて一礼すると、唖然としているタカヨシに歩み寄って左手を差し出した。
「お疲れ様。いい試合をありがとう」
「ス、スリーパーがさっき止まらなければ……!」
慌てて弁解するタカヨシを黙らせるように、キョウはその手を取って強引に握手を行う。
「勝負の世界に“たられば”はないよ。また出直してくるんだな」
タカヨシは沈鬱な面持ちで口籠った。そこで始めて夢破れたことを認識し、大粒の涙が溢れてくる。
「そうですね……、すみませんでしたぁっ……。も、もうあなたはジムリーダーじゃない……!」
「今頃気づいたのかよ?勘弁してくれよな」
キョウは苦笑しつつ彼を南側ベンチへ戻るよう促すと、ようやく観客席にいる娘を見つけて軽く手を振った。イツキと同じ規模の興奮渦巻く歓声は、ラフプレーに気付いていない。キョウは満足そうに、ベンチへと帰還していった。
+++
ワタルはすかさず席を立ち、ベンチに備え付けてある電話を使って舞台裏に連絡した。
「あ、ワタルです。さっきの試合で照明が動いたので直ぐに修正してください。……はい、お願いします」
電話に耳を傾けていたイツキが首を捻る。
「え、動いてた?」
「ああ……。多分わざと、かもしれない。隣の照明と光が重なるようになって……そこで影分身をしたからクロバットが見えにくくなってたように思う」
ワタルの手は少し震えていた。クロバットがスリーパーを照明にぶつけて振り払ったとき、彼は違和感を覚えたのだ。ここまで用意周到な試合をしていたキョウが、あんな風にがむしゃらにスリーパーを振りほどかせるなど、やや疑問だったのである。その答えがトドメの一撃で判明した時、ワタルは“サイン”の力に鳥肌が立つような恐怖感を覚えた。
「うっそ、そこまで計算して指示できる?扇子の音だけで?そんなのありえないよー!ってか、そういうのあからさまにやったら審判に怒られるよね。警告フラッグ上がらなかったじゃん」
イツキの言うとおり、スタジアムのセットを故意に動かすと反則ポイントが取られてしまう。そもそも四天王がデビュー戦で堂々と違反をするなどありえないことだ。実際アンパイヤも気づいておらず、さすがに考えすぎだとシバやカリンも頷いていた。
「疑うのはよくないけど……。クロバットのリード技術は他と飛び抜けているし……」
「君たち。仲間が勝ったんだからさ、もっと明るく迎え入れてくれよ」
ワタルの声を遮るように、キョウが自画自賛の拍手しながらベンチへ戻ってきた。思わず肩が跳ね上がる。
「お、お疲れ様!おめでとう!!」
「オジサマ、おめでと」
にっこりと微笑むカリンの額をドリンクで軽く小突くと、キョウは引きつった笑顔を浮かべた。
「ありがとう、陰険ですまないね。大人はガキと違って手の内を曝け出さないものなんだよ、お嬢ちゃん」
「聞いてたのー!?」
カリンは顔を真っ赤にしながら絶句した。
「あんなデカイ声で喋ってたら聞こえる!ポイント稼ぎとか、ふざけた事抜かすな。お前、会見で強い弱いは関係ないとか言ってただろ?矛盾してるぞ」
「そうだけど、オジサマに限っては下心もあるかと思ってたの。ごめんなさいね!」
と、苦笑しつつカリンは奥に座っているイツキの隣へ速やかに避難する。キョウは呆れながらシート最前列で観戦しているワタルの隣に腰を降ろすと、彼にだけ聞こえるような声で呟いた。
「……照明直すよう言ってくれてありがとう。直ぐに気付くなんて、さすがチャンピオン」
にこやかだが含みのある口調に、ワタルは肝を冷やした。疑う気持ちがさらに強くなる。彼はなるべく悟られないように、いつもの爽やかな笑顔で褒め称えた。
「あ、いえ。……素晴らしい指揮でした。最後のクロバットなんか、職人レベルのリード技術ですね。今度是非、教えてくれませんか」
「お断りだね。……それだけの洞察力があれば、盗めるだろ?」
「え……」
挑発的な鋭い視線に、ワタルは思わず怖気づいた。これ以上踏み込む隙すら与えない気迫に押され、沈黙していると、後ろからシバが鼻息荒く身を乗り出す。
「すごいじゃないか!おれはあんな小細工はやりたいとも思わんしそもそもできんが、お前の技術の高さは本当に素晴らしい!サインを読んだりしないから、明日から練習で手合せしてほしい。お前みたいなトレーナーは倒し甲斐がある!」
ぎこちない空気を破る様な言葉にキョウは仰天しつつ、すぐに気を入れ替えて飄々とした笑顔を浮かべた。
「それ褒めてんのか?……ああ、次は“先輩”だな!あんな大口叩いた張本人なんだし、いっちょ我々にカッコいいとこ見せてくださいよ。な!」
そう焚きつけつつ、彼はイツキとカリンを振り返った。イツキも意地悪く白い歯を見せる。
「うん、ここで一匹でも倒されたらちょ〜うカッコ悪いよね!」
「確かに。あんなこと言ったんだもの。負けるはずがないわよね」
「……当然だ!!!おれが負けるなんてありえない」
シバは厚い胸板を思い切り叩くと、息を荒げてベンチを出ていく。その瞬間、盛大な歓声がスタジアムから吹き上がった。
「シバ、頑張れよ!」
堂々と歩んでいく彼の背中へ、ワタルがエールを送る。シバは振り返ることなく、右腕を豪快に振り上げた。