第21話:夜明け前
「一匹も倒させないってどういうことよ!?」
会見終了後、控室へ移動したカリンは即座にシバへ詰め寄る。緩めかけていた彼のネクタイを強く引っ張り、首を絞めた。
「ぐおっ!?……ぐぐ、お前、プロならそれくらいできるだろう!?」
「それでもいきなりハードル上げすぎよ!!『デビュー戦では』って限定してなかったらあの場で張り倒すところだった」
「デビュー戦だからね、黒星なしだといきなり印象良くなるかなぁ」
イツキもまんざらではなさそうだ。キョウも頷く。
「確かに。まあいいんじゃないか?お嬢さん、選考試験成績トップなんだろ?ふがいない我々に実力を見せつけてくださいよ」
「……そうね。分かった」
カリンは渋々、シバのネクタイを手放す。自由になった彼は、ジャケットを脱ぎつつキョウを向いた。
「ところでキョウ、この会見は娘も今テレビで見ているのか?」
「平日だから、学校」
彼は控室内にある自販機へ歩み、缶コーヒーを買いながら答えた。
「あ、ああなるほど……」
シバは心底残念そうに項垂れる。勇姿を生で見てもらえなかった……。
「録画してないの?僕はセットしてきたよ!」
イツキが自慢げに口を挟んだ。
彼は最近、セキエイ近くにアパートを借りて住んでいる。
「気合入ってんなぁ。……まあ、夕方のニュースで目につくだろ」
缶コーヒーを飲みながら、キョウがしみじみと話す。それを聞いて、シバが「なるほど!」と顔を輝かせた。そこでは自分の勇姿が放送されるに違いない。
そのやりとりをワタルは楽しそうに眺めていた。まだ会見の余韻が残る。心地よい感覚。大事を言ったつもりなどない。負ける前提で構えていてはチャンピオンの名が廃る。
「大変、大変!」
ふいに控室のドアが開いて、支配人のマツノが飛んでくる。
「どうされました?」
ワタルは顔を上げた。マツノが、肩で息をしながら彼の元へ歩む。
「さっきオーキド博士から電話があったんだけど……、この間殿堂入りしたレッド君がさっきの会見を見て、君に挑みたくなったって。……それで、デビュー戦で新旧チャンピオンの試合を企画したいと……」
控え室にどよめきの声が上がる。ワタルも耳を疑った。
あの少年が、自分に挑みたいって?
「ワタル君、これはチャンスだよ!この試合に勝てば……繰り上がりの汚名を返上でき――」
「もちろん、その挑戦受けます」
興奮気味に話すマツノの言葉を遮って、ワタルは彼に詰め寄った。火がついた闘争心に、思わず口元が綻ぶ。楽しくて仕方がなかった。四天王たちを振り返ると、彼らも『迎え撃ってやれ』とばかりに頷く。拒否する理由がなかった。
「相手が相手だから、さすがに私たちみたいに全勝って訳にはいかないと思うけど。負けたらその程度のチャンピオンだってことよ。分かってる?」
カリンがワタルの前へ歩み、彼をまっすぐに睨み据えた。
「もちろん、負けないさ。セキエイのチャンピオンとして、勝利を掴み取る!」
勇ましく四天王たちに宣言する。
レッドに勝つことで新しい自分は完成するのだ。
この試合で得られる勝利は、これまで経験したどれよりも重みが違う。セキエイの将来がかかる重要な一戦。
絶対に、負けられない。
+++
会見及びレッドとの再戦の件が大々的に取り上げられ、全国で話題となってデビュー戦の残りチケットはあっという間に完売した。
スポンサーの打診も次々舞い込んできた。セキエイの信用はかなり回復したといっていいだろう。メンバーたちは毎日各々トレーニングに励んでいた。
周囲の期待が膨れ上がる中、いよいよデビュー戦前日を迎えた。
ワタルが朝からスタジアムロッカールームへ行くと、既に四天王分の荷物が置かれている。
(もう来てるのか……久々に最後だ)
いつも一番乗りだった彼は、敗北感を味わいつつ、周囲を見回した。人気はない。
ふと、壁際のホワイトボードが目についた。明日の対戦者リストが貼られている。
近寄ってみると、明日の挑戦者はレッドを含め5名であることが書かれていた。ちょうど、四天王が一人ずつ指名されており全員見せ場があるということだ。デビュー戦ということで、本部側が配慮したのだろう。
ワタルは仲間たちを探すことにした。
通路のあちこちで、スタッフたちが世話しそうに行きかう。休業中の荒んだ雰囲気はなくなり、すっかり当時の活気を取り戻している。通路にはスポンサーやファンから贈られた花が並べられ、一層華やいで見えた。
明日から、いよいよ自分の本業が始まるのだ。はやる気持ちを押さえながら、フィールドへ。彼らはきっと、そこにいるだろう。
そこへ向かう通路を歩いていると、一人の清掃員に止められた。
「あ、今は辞めといたほうがいいよ」
「え?……あ、あなたは!」
よく見ると彼は休業中にワタルが帽子にサインをした老人である。思い出して、互いに目を丸くする。
「うわあっ、ご、ごめんなさい。チャンピオン様に失礼しちゃった」
男は腰を抜かして、慌てて脱帽する。
「いえいえ、構わないですよ。そんな大げさな人間じゃない」
「でもね……。あ、この前はサインありがとうございました。あれ、孫にあげたら大喜びで」
「良かった。明日の試合、ぜひ見てください。きっとサインの価値が上がります」
ワタルはいたずらっぽく笑って見せる。
自分がチャンピオンに認められれば、そのサインも十分な価値を得られるはずなのだ。
「もちろん!あのね、日程が決まってからすぐにチケット買ったんですよ。最前列!あなたを信じて良かった」
「ありがとう。最前列はとても見応えありますよ。応援、よろしくお願いします」
ワタルはそう言いながら、老人の前に右手を差し出して握手を求める。彼は目を潤ませて感動しながら、その手を力強く握りしめた。
「頑張ってね。もうずっとワタルさんのファンだから」
「オレも感謝しています。裏方さんのお陰で、ここは成り立っているから。いつもありがとう」
ワタルも誠実な礼を返す。チャンピオンに言われ、男は感無量だった。
「照れ臭いなあ。そんな気を使わなくても……あ、フィールドは今立て込んでるんで、行かない方がいいですよ。でもワタルさんなら別かな?」
「?」
ワタルは清掃員と別れ、フィールドが見える位置まで歩み寄る。
ベンチの前で四天王が一列に並んでいた。それを囲むスーツを着た男達。すぐに、役員連中だということが分かった。様子を伺っていると、四天王の前に総監が現れる。
+++
「忙しい中、時間をとっていただきありがとう。用事はすぐ終わります。じゃ、まずイツキくんから」
総監はイツキの前に歩み出た。本部のトップを前にして、彼は棒のようにぴんと硬直する。
「足、治って良かったね」
「あ、はい……」
「もう無茶しちゃ駄目だよー。はい、これ」
そう言って手渡されたのは、プラチナ色に輝くプロトレーナー認定証。イツキは目を見開き、思わず息を飲んだ。四天王であることを示す、誰もが持ちたがるカードである。
「あ……ありがとございます」
震える手でそれを受け取り、イツキは信じられないという表情でそれをまじまじと眺める。総監は微笑ましそうにその様子を眺めつつ、キョウの前に移動した。
「ゴールドカードは返却した?」
「はい」
「じゃ、交換は必要ないね。はい、これ」
「ありがとうございます」
キョウは恭しく認定証を受け取ると、特に眺めることなく姿勢を正す。
「もっとイツキ君みたいに喜んでよ」
「若者の真似をするのは……」
キョウは苦笑しながら後ずさる。
「ああ、確かにアラフォーがはしゃぐのはね、ちょっとね」
総監も小さく笑いながら、次のシバへ。彼はすかさず総監へ告げた。
「おれは認定証は返却してません」
「そうなんだ。でもせっかくだから新調しておいたら?デザインが少し違うんだよ。新しい時代を記念してさ」
そう言いながら、彼はにこやかに新品のプラチナカードを差し出した。特にこだわりはないのだが、総監の勧めとあらば無下に断る訳にはいかない。シバはジーンズのポケットからくたびれた革財布を取り出すと、旧式の認定証を取り出して新品と取り替えた。
「なんでこんな傷が入ってるの。ワタル君のは綺麗だったのに」
擦り切れているカードを怪訝そうに眺めながら総監が尋ねる。シバは歯切れが悪そうに口ごもった。
「あ、いや……」
「まあいいか。次のは大事にしてね。さて……!」
総監はやや大げさにカリンの前に立つ。
「いつも通り、可愛いねえ。この服装、似合ってて完璧だよ」
「ありがとうございま〜すっ」
普段の少しドライな雰囲気はどこへやら。カリンは無邪気に微笑んだ。あまりの猫被りに、男四天王たちは愕然とする。
「またお食事行こうね〜。はい、これ認定証です」
「まあ綺麗……。これ持つのが夢だったんです、ありがとうございます」
彼女は首を少し傾けると、天使のような微笑みを浮かべた。総監は機嫌よく四人の前に立つ。咳払いして居住まいを正すと、四天王を見回して口を開いた。
「はい、これで君たちは正式に四天王となりました。トレーナー界のスターとして大手を振って歩けます」
イツキが背筋を伸ばして、嬉しそうに胸を張る。
「……でも、その仕上げとなるのが明日の試合です。黒星付けないとか見え張っちゃったんだっけ?期待してるよォ」
総監が白い歯を見せながら、茶化すように微笑む。四人は思わず目線を逸らした。
「ちょっと怖がらせすぎかもしれないけど、これからはそれくらいの心意気でやってほしい。……何故なら、四天王はプロ中のプロだから。全国5000万のトレーナーから選ばれた、真の実力者です。君たちには栄光だけでなく、一般トレーナーや我々本部の未来、期待の重圧もかかっていることを忘れないでほしい。プロは自分だけ良ければいいと言うわけではないよ」
真剣に話を聞きながら、四天王たちは各々頷いた。
彼らの真摯な顔つきに、総監は満足そうに口元を綻ばせる。
「ところで君たち以上のプレッシャーを抱えているのが、チャンピオンのワタル君です。私は、彼の実力を買っています。繰り上がりなんて思ってない」
通路の陰で話を聞いていたワタルが、ふと顔を上げた。
「余計プレッシャーになるだろうからここへは呼ばなかったんだが、彼はセキエイ復興の一番の功労者で、ヒーローだと思っています。あんなトレーナー、なかなかいません。彼のようなチャンピオンの下で四天王を務められることをぜひ、誇りに思ってください」
「もちろんです」
四天王は即答する。役員たちも次々に頷いていた。
ワタルは声を呑む。
驚きや嬉しさ――様々な感情が押し寄せ、のぼせ上がる様な感覚に襲われた。これ以上聞いているのが気恥ずかしくなり、ロッカールームへと踵を返す。
フィールドでは、総監が満足そうに四天王を眺め、微笑んだ。
「……言わなくても分かるか。じゃ、明日のショーを楽しみにしてるよ」
+++
そして、夜が訪れる。
セキエイの郊外にあるアパートで、イツキは布団の周りに目覚まし時計を並べていた。
必ず起きられるように10個ほど購入したのだ。
「7時、セット完了〜っ」
ネイティオが怪訝そうに枕元をずらりと囲む時計を眺める。
これはいささかやりすぎである。一つ鳴らせば、自分が主人を起こすのに……という気持ちは伝わらない。
「いよいよだよ、ネオ!緊張するーっ」
彼は汗ばむ両手を擦り合わせながら布団へ入った。目が冴えて全く睡魔がやってこない。身体が疼くので、枕の下に忍ばせたプラチナ色のプロトレーナー認定証を眺める。月明かりに照らされ、カードに刻印された自分の名前が一層神秘的に輝いていた。
「……ここまできたのかあ」
あっという間だった。
途中で骨折し、まだ無理は禁物とはいえ、怪我をした記憶も曖昧になりつつある。
憧れのワタルも身近な存在になった。半年前まで、雲の上の人物だったというのに。
「明日起きたら、夢でしたってことはないよね?」
隣で布団にもぐっているネイティオが首を左右に振る。
「だよねー。あー眠れないよ、催眠術かけて!」
ネイティオは先ほどと同じように首を左右に振った。彼は催眠術を使えない。
セキチクシティの自宅屋敷にて、アンズはクローゼットをひっくり返しながら明日着ていく服を吟味していた。いよいよ明日は父親の晴れ舞台。とっておきの服を選ばなければ。
チェック柄のブラウスに黒のフリルのショートパンツを合わせ、これだ、と目を輝かせた。ズバットと顔を見合わせ、二人で廊下を疾走した。
「お父さんっ、明日着てく服これどうー?」
「お前なー、廊下走るなって言ってるだろ!近所迷惑だ」
浴衣を着たキョウが縁側で煙草を吸いながら注意する。怒られたことはスルーし、アンズは父親の喫煙に腹を立てる。
「あーっ、煙草吸っちゃダメって言ってるのに!キーちゃん、エアカッター!」
アンズのズバットは頷くと、翼を羽ばたかせて風の刃を巻き起こし、キョウの指の間に挟まれた煙草を庭へ吹き飛ばした。庭で座り込んでいたベトベトンがそれをキャッチして溶かす。
「人に向けて技を放たない!傷害罪だからな、それ」
「煙草も犯罪行為だもーん。うちも禁煙区域にしたからね」
と、言いながらアンズは壁に張った『登校は全面禁煙です』の張り紙を指し示す。学校に貼られていたポスターをそのままコピーしてきたものだった。キョウは呆れたようにため息をつく。
「少しくらいいいだろ……。それと仕事の邪魔するなよ、明日はいよいよ初舞台なんだから」
「何してるの?」
アンズは首を傾げながら父親の手元を覗き込んだ。彼の手には免許が握られている。ディスプレイに映し出された細かな数字に思わず目が眩んだ。
「ポケモンの体調チェック」
それは彼が毎日、一定の時間に欠かさず行っている作業である。毒ポケモンは体調によって毒の効果が変化しやすい。プロとして毎試合万全の態勢でに臨むべく、毎日チェックが欠かせなかった。しかしいつになく真剣な父親の面持ちに、アンズは息を飲みながら、隣へ座りこむ。
「……やっぱりお父さんも緊張する?」
「そりゃ当然だろうよ。ジム戦とは全く違うから」
「ふーん……。あっ、緊張したら掌に人って3回書いて飲み込むといいらしいよ!やってみなよっ」
「はいはい、そんなの気休めだろ。それより煙草……」
「いいからやってよお」
アンズはキョウの左手を掴むと、自分で楽しそうに『人』となぞる。
気恥ずかしいが、嬉しそうな娘の姿を見ているとその気持ちも和らいでくる。
「書けたよ!」
3回なぞられた左手を、飲む真似をする。
ただ酸素を含んだだけなのに、暖かな安心感が身体へ染み渡った。
シロガネ山のコテージの外で、シバは手持ちポケモンを囲んで瞑想していた。
帰宅してそのまま眠ろうと考えていたのだが、思いのほか寝付けず精神統一することにしたのだ。
(また日常が戻ってくるだけなのにな)
胸の鼓動が普段より早いのは、何故だろうか。
緊張など、無縁だったはずだったのに。
(珍しい……)
新たな夜明けに、自分はやや尻込みしているのかもしれない。
大きく、深呼吸した。
冷たくなり始めた空気が自信へ浸透する。
(……おれは負けん)
己のため、そして親友のためにも絶対に負けられない。
コガネシティ自宅アパート近くの銭湯から、カリンがヘルガーを引き連れて出てくる。
自分の部屋にも古いユニットバスがあるのだが、今夜は特別に銭湯で汗を流したのだ。
メディアの前では華やかなイメージの彼女が銭湯を利用し、築40年越えの古いアパートで暮らしているなど誰が想像するだろう。素顔に黒縁の伊達眼鏡をかけ、野暮ったいパーカーワンピースで歩いていると、誰も彼女に気付かない。
見上げる夜の町並みはとてもレトロで、少し先に高層ビル群が広がっているなど信じられない程だ。光と影が混ざる街を、ぼんやりと歩く。
「ここもようやく……脱出ね」
スパバッグを咥えたヘルガーが、カリンを見つめながら頷いた。
四天王に内定してから、仕事をこなしつつ引っ越し先を探していたのだ。セキュリティや家賃などの兼ね合いで時間がかかっていたが、先日ようやく決定した。場所は、ここから電車で20分ほど先にあるコガネシティの都心部。
ついに光の中へ行ける。成功者の一員になれる。
もう華やかな外見を取り繕う必要がない。これからは、本当に輝かしい人生を送ることができる。
そう思えば、明日の試合への恐怖も感じなかった。
「絶対、成功するわ……」
アパートへたどり着き、鍵を開ける。玄関に置かれた一つの写真立てが目についた。
(おじさん、いよいよ明日よ。絶対勝つから……。そして、私はもうここへは戻らない)
殺風景な狭いアパートの部屋を見回し、この貧しさには二度と戻らない、と自分に戒める。
お金のない、みじめな人生は送りたくない。ようやく掴み取ったチャンス。絶対に無駄にはしたくなかった。
空が次第にほの暗く変化する暁の時刻。
重苦しい夜の空気が、段々と和らぎ清々しさを含んでくる。
ワタルは自宅の瓦屋根にカイリューと並んで腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めていた。
結局、一睡もすることができなかった。眠ろうとするほど目は冴え、それどころか寝ている時間が勿体なく感じるのだ。
(早くスタジアムの舞台に立ちたい)
もうすぐ、栄光のステージへ上がることができる。
今度は四天王ではない。夢にまで見た、チャンピオンとして人々の前に登場するのだ。
マントをはためかせ、スポットライトを浴びて、勝利を収め――その姿はまさにヒーローだろう。
ワタルはゆっくりと立ち上がった。
空に降りていた幕が次第に開いてくる。いよいよ、ショーが始まろうとしていた。