第1話:ヒーロー
それから13年後。
セキエイスタジアム内のロッカールームは電気をつけていないため薄暗く、大型テレビのみが煌々と辺りを照らしている。
ワタルはソファに横たわりながら、ぼんやりとその画面を眺めていた。
「お待たせしました!続いてはセキエイ・タイトルマッチのニュースです!ポケモンバトル担当のワタヌキがお送りしまーす!」
淡々と進んでいたテレビのニュースが、途端に華やかな画面に切り替わる。
「昨日行われたタイトルマッチですが、挑戦者は三名!一人目では四天王ワタルさんが指名され、見事ストレート勝ちを収めました。ではこの試合をダイジェストでどうぞ!」
アップで映される昨日の自分。
衣装のマントをはためかせながら、カイリューを従えて5万人収容のセキエイスタジアムのバトルフィールドに現れると、満員の観客からスタンディングオベーションの嵐が吹き荒れる。このステージに立てるのは、南側に各地のジムを回ってトレーナーバッジを8個以上揃えた者。相当な実力を持ったトレーナー達だ。その反対――フィールド北側に立てるのはそれより遥かに狭き門を潜り抜け、難関を突破した選ばれしエリートポケモントレーナー。四天王、もしくはそれをも超える「チャンピオン」と呼ばれる存在だ。
全国に5000万人はいるというポケモントレーナーから選ばれた、たった5人しかそちら側のベンチにつくことはできない。
誰もが夢見るスターの舞台に、画面の向こうの自分は立っていた。右腕を掲げて観客の声援に応えると、スタジアム全体が震える様な大歓声が巻き起こる。中には挑戦者へのブーイングも交じっており、百戦錬磨のトレーナーをも怖気づかせるのだ。
「1回戦、挑戦者はハガネールを繰り出す!対するワタルはカイリューで攻めた!ドラゴンポケモン使いの一番の相棒!」
キャスターの解説と共にダイジェスト映像が流れる。
「豪快に尾を振り回すハガネールの巨体を、カイリューが高速移動で回り込み、尻尾を絡ませ叩きつける!怯んだ顔面に炎の大文字を叩き込み……、KO!!いやはや、相変わらず豪快な戦いっぷりですねぇ。続いて、挑戦者はゲンガーを繰り出した!」
今度はゲンガーが相手。ワタルはカイリューを下げない。
「カイリューの影に隠れて闇討ちを狙うゲンガーを、なんと強風を巻き起こして強引に引きずり出す!フィールドの隅まで追いやられた隙を狙って電磁波で動きを止めぇ……決まったぁぁぁ雷!!」
眩いフラッシュと、けたたましい轟音がテレビ越しに控えめに鳴り響く。モニターひとつ通すだけで、あの時の迫力も半減して見えた。
「最後に挑戦者が繰り出したのはフシギバナ!!我らがチャンピオン、グリーンも相棒にする実力派だっ。ワタルはカイリューを〜……下げない!このまま行くようだ!」
カイリューは両手を広げ、淡い光に包まれる。
「神秘の守りで、フシギバナの粉攻撃対策をする!フシギバナ、ツルの鞭でカイリューの尻尾を捕えます!しかし、この100kgという体重差!綱引きで勝てるはずがなく、逆に叩きつけられてしまうっ!!」
叩きつけられた衝撃で、フィールドの破片がカメラの前まで飛んできた。フィールドを取り囲む、トレーナーがポケモンに指示を行う『テクニカルエリア』に設置されたカメラは、既に数えきれないほど破壊されている。被害総額など考えただけでも恐ろしい。
「フシギバナは体制を立て直し、葉っぱカッターで威嚇してカイリューと距離をとる!その隙に花に光を集め始めた!」
アップになったフシギバナが背負う花が光彩を放つ。
これを見るとポケモンがソーラービームを発射するだろうという情報しか入ってこない。枠の外で、カイリューもパワーを充填していることが視聴者には伝わらないのだ。やはりテレビ中継ではポケモンバトルの魅力が半減する、とワタルは感じた。
「ソーラービーーーム!!!!しかしっ、カイリューも応戦する!破壊、光線ーーーーっ!!!!」
カメラが引いて、両者が光線を放つ姿が映された。ここへ持ち込めば力の差は圧倒的である。カイリューの破壊光線はソーラービームを押し切り、フシギバナを吹き飛ばした。
「力の差は歴然だったーーっ!!強い、強いぞワタルー!彼こそまさしく、スーパーヒーロー!!!」
絶叫するキャスターの声が次第に遠く聞こえる。
ワタルは長い溜め息をついた。
(誰でも気軽にヒーローって呼ばれるんだな……)
幼い頃、崖に落ちた自分を救ってくれたあの男のような存在こそがヒーローだと思っていた。
スポットライトに照らされて登場した彼はとても格好良く、本気であのように気高く強いポケモントレーナーになりたいと努力してきた。
そして、5年前にとうとう四天王の座を掴み取り、今に至る。
ヒーローに近付いたと思っていた。
だが、期待は裏切られた。
ワタルはソファに転がったままパンツのポケットからパスケースを取り出した。二つ折りの革のケースには、10歳から取得できる端末型のポケモントレーナー免許証と自分が四天王であることを示すプラチナ色のプロトレーナー証明証が収められている。その奥のポケットから、皺が寄った名刺を取り出した。
トキワシティジムリーダー、サカキ。
表向きは、彼は伝説の天才ジムリーダーだった。
ジムリーダー史上、最高の逸材。チャンピオンと同等とも言われる実力――幼い頃のワタルは、これを聞いてさらにサカキに憧れを抱いたものだ。
だが、見せつけられた現実はヒーローとは真逆の彼の姿。
「さて、ニュースに戻ります。今朝7時ごろ、タマムシシティの飲食店にてロケット団の末端構成員と思われる男が3名逮捕されました。先月のシルフカンパニー占領事件にも関与しているとみられ……」
テレビの画面が、アナウンサーのいるスタジオからタマムシシティの歓楽街の映像に切り替わる。警察に囲まれ、ジャンパーを被せられて連行される男達と、その名前と年齢が画面に映った。
20代が二人、30代が一人。意外に若い。
画面が再びスタジオに切り替わり、アナウンサーの斜め後ろに見覚えのある男の顔写真が表示された。
「……しかし、未だ首領と思われるサカキの行方も分からず、幹部も誰一人として逮捕されておりません。組織の規模も不明なままです。警察の迅速な対応が求められています」
憧れヒーローは、凶悪な犯罪組織ロケット団の首領だったのだ。
それが明るみになったのは、5年前。万を時してトキワジムへ挑戦しようとした矢先、サカキがジムの資金を自らが経営する会社に横流ししていたことが判明し、すぐに彼はリーダーを退任。結局ワタルはサカキに挑むことが叶わないまま、その年四天王に就任した。
それ以降ロケット団という組織の犯罪が目立つようになってきた。ポケモンやドラッグの売買、武器の密輸に恐喝横領など――そうしているうちに、サカキとロケット団が繋がっていたことが発覚する。
目標としていた存在に裏切られ、ワタルはこの5年ひどく落胆していた。
ヒーローを失ってしまったショックは大きい。
ポケモンバトルを仕事とするプロとして、その心境の変化がポケモンバトルに影響を及ぼすことはないが、彼自身は心の中にぽっかりと穴が空いていた。
(でも5年も引きずってるなんてな……)
ワタルは再び溜め息をつく。
失意の原因はこれだけではない。
ヒーロー凋落の傷に、塩を両手で塗りこむような男が現れたのだ。
ワタルはこの静かなロッカールームのあちこちに張られている『NEW HERO』のコピーがついたポスターを見渡すと、そこに載っているチャンピオン・グリーンを不満げに睨みつけた。
この国では10歳になると、試験を受けた上でポケモントレーナーになる資格を得られる。
義務教育を休み、3年間修行の旅へ出ることも可能だ。世界へ飛び出す彼らの目標はただ一つ、トレーナー界の頂点に立つこと。つまりチャンピオンだ。グリーンは僅か11歳にして四天王を破り、その座に君臨した若きヒーロー。ビッグマウスで、軽薄で、練習なんか大嫌い。
まさに天賦の才だけでやってきたような男で、同じ四天王のシバは彼のことをひどく嫌っていた。硬派な彼が最も癇に障るタイプだ。
しかし有言実行で天才肌なことから、世間ではかなり好意的な目で見られていた。見た目も爽やかな美少年であり、あのポケモンの世界的権威・オーキド博士の孫という経歴も好かれるには十分な理由だったのかもしれない。
彼は連日テレビやラジオに引っ張りだこで、CM等の広告にも多数出演している。
ニュースがCMに切り替わると、早速グリーンが出演するポテトチップスの宣伝映像が流れ始め、ワタルは反射的にテレビの電源を消した。もう見るのもうんざりだ。
実力は申し分ない。トレーナーとしては天才的だ。
しかし口は悪いし練習もあまりしない。ポケモンも自分を飾る道具みたいに扱っている。
このヒーローをどうしても認めることはできなかった。
だが、タレント性のあるチャンピオンを手に入れ、ポケモンリーグ本部は彼を使って稼ぐことに必死だ。
ロッカーの冷蔵庫には、彼がCM出演してパッケージにもなっているスポーツ飲料やチョコレート、アイスクリームが詰まっている。スポンサーから提供されたものだが、四天王ではキクコしか口にしない。
『外装だけじゃないか。中身にまでプリントされている訳じゃあるまいし』
そう言いながら、いつも素早く開封して口へ運ぶのだ。老いた彼女は細かいことを気にしない。
『おれはどうしても駄目だ!』
シバは怒ってわざわざ新しい小型冷蔵庫を買った。見るのも嫌らしい。
『私も、ちょっと嫌だわ……。あの子っていちいちデートに誘ってきて面倒くさいんだもの』
冷蔵庫を買ってから、カンナはそれをシバと共用するようになった。彼女の気持ちもワタルにはよく理解できたのだが、二人もあからさまなため、ワタルは気にしないふりをして古い冷蔵庫を使っている。とはいえ、自分もほとほと呆れ返っていた。
ワタルはロッカールームの窓から、外に広がるセキエイの風景を眺める。スタジアムの屋根、周囲に広がる興業施設。
それから、ここに隣接するポケモンリーグ本部の高層ビル。
+++
「グリーンくん!今度はシルフカンパニーからポケモン関連商品の広告出演依頼が来ていてね。かなり大口なんだが……引き受けてくれるよね」
本部とスタジアムの連絡通路を歩きながら、セキエイスタジアム支配人のマツノがグリーンの後をついていきながら息巻く。背が低く小太りの彼は、足が長くスマートなグリーンについていくのがやっとだ。
「えっ、シルフカンパニー!?こないだロケット団に占領された、あの間抜け企業?」
グリーンが嫌悪感を露わにした顔で振り返ると、マツノは慌てて彼の前に回り込んだ。
「声が大きい!シルフはうちのお得意さんなんだよ。でさ、例の占領事件。シルフにもセキュリティの甘さがあって、あれが原因で世間から糾弾されたでしょ?」
「ああ、自業自得だろ」
大声で切り捨てるグリーンを、マツノは再び止めた。
「しーっ、それは分かってても言わないの!それでほら、イメージ回復を図るために今大人気の君を広告に使いたいってことなのさ」
「えー、やだし」
あっさりと一蹴するグリーンに、マツノの肩が跳ね上がる。
「えええっ!?な、何言ってるんだよ、それは……本気?」
「うん。だってあの会社助けてロケット団ぶっ飛ばしたのさ、オレの幼馴染なんだよ」
「う、うん。ニュースで見たよ。今度、セキエイに挑戦するとか……しないとか……」
「はぁ!?そしたらぶっつすだけだ!オレあいつ大嫌いなんだよ。いつもボーッとしてて根暗で、何考えてるかわかんねーし。あいつが救った会社なんて手助けしたくねえ!」
グリーンはそう叫ぶと、マツノに背を向けて靴底を乱暴に鳴らしながらスタジアムへと向かう。
「ま、待ってくれよ!困るよー!」
「絶対嫌だからな!」
スタジアムへと繋がるドアが自動で開いたとき、目の前に長身の大男が現れた。鍛え上げられた屈強な肉体はさながら岩石の様で、グリーンは思わずたじろいだ。
「や、やあシバくん」
ようやくグリーンに追いついたマツノが、緊張気味に大男に会釈した。小柄な彼には迫力がありすぎる。
「なんだよ、筋肉野郎」
怯んでいたグリーンだが、気を取り直しシバを睨み返した。
「ふん、つまらん我が儘で仕事を選ぶなど大層なご身分だな」
シバは気にすることなく彼の脇をすりぬけていく。何も纏っていない上半身は隆々とした筋肉が引き締まり、グリーンとは二回りほど体格差があった。
「盗み聞きかよ、感じ悪!」
「グリーンくん、辞めようよー」
吐き捨てるように罵倒するグリーンをマツノは慌てて止めにかかる。しかし、彼は止まらない。
「うるせえな。おれは大層なご身分だから、面倒な仕事なんてやらなくていーんだよ、格闘オタク!悔しかったらCM貰ってこいよ!オレより本数少ないくせに」
その一言に、シバが鬼の形相で振り返った。あまりの恐ろしさに、二人は数歩後ずさる。
「お前もおれも、ポケモントレーナーだろう。バトルより広告が重要なのか?お前は間違っている。驕れる者は、そのうち必ず痛い目を見るぞ」
怒りを抑えた野太い声が連絡通路に反響する。それだけ言うと、シバは再びグリーンに背を向けて立ち去った。
「な、な……!」
グリーンの頭に血が上る。
カッとなって叫ぼうとしたが、マツノに諭されて何も言えなかった。
「気にしないで、ね。ね……?」
「うぜー、あんなうぜーの首にしたいんだけど!チャンピオン権限で代えられないの?カンナちゃんとタメとは思えないんだけど」
「うーん、そういうのはね、本部のかなり上の権限だからね。ボクには何とも…」
しどろもどろのマツノに苛立ったグリーンは、苛立ちを発散するように通路脇にあった自販機のゴミ箱へ蹴りを入れた。大量の缶が床に散乱する。
「使えねー。マジ使えねー。筋肉もだけど、あのババアやダサマントもいらねーよ。みんなカンナちゃんみたいな可愛い女の子にすりゃいいのに」
グリーンはそう言うと、缶を広い集めるマツノを放置してスタジアムへと歩いていった。
「あー、待ってよグリーンくん……」
通路に響き渡るマツノの寂しい声が、グリーンの苛立ちを増長させた。
うるせえ。
うるせえんだよ。
「オレは、チャンピオンだ!誰もが認めるポケモンマスターなんだよ!」
それなのに、思ったより世の中が自由にならないことがもどかしい。
メディアでは持て囃されても、裏では制限ばかりだ。
プロトレーナーになってから、許可なくアマチュアトレーナーとバトルをすることは禁止されている。
その上私生活は常にメディアに監視され、気楽に女の子とも遊べない。
「つっまんねー…」
これではアマとして、ポケモンマスターを夢見てあちこち旅していた頃のほうが遥かにマシだ。
夢にたどり着いた。
そして、そこから先は?
……わからない。
+++
それから3日後。
ワタルはテクニカルエリア内で呆然と立ち尽くしていた。
(……このままじゃ負ける)
今まで、負けたことなど殆どなかった。四天王になってからは尚更だ。
「おいっ、何やってんだよ!しっかり戦えよ!!何ピカチュウごときに苦戦してんだっ」
後方のベンチから、グリーンの罵声が飛ぶ。それを止めるカンナやシバの声も聞こえたが、次第に耳から消えていった。目の前で、相棒のカイリュー♀は息も絶え絶えに立っているのもやっとの状態だ。ドラゴンが苦戦しているのは、その半分もない小さなポケモン。
(まさかピカチュウにやられるなんて……)
これは、なんという屈辱だろうか。
しかし何故かこのピカチュウは圧倒的に強い。
今まで出会ったどんなポケモンより、強い気がする。
小さな体躯のその奥で、挑戦者がこちらを射るように睨み据えていた。
赤い帽子を被った少年。試合開始前に握手した時は、大人しそうな雰囲気があったのだが……その双眸は、ドラゴンを狩る戦士の眼差しへと変わっていた。恐怖が電撃となって身体に走る。
「……カイリュー、高速移動!そして――」
負けたくない。
カイリューが重い身体に鞭打ってピカチュウへ飛びかかる。同時に、口の中へエネルギーを蓄積した。
「アレン!高速移動!」
ピカチュウも高速移動でカイリューの鼻先へジャンプすると、素早く背中へ回り込んだ。小さな電気ネズミを、カイリューはすぐに捉えることができない。
「たたきつけろ!」
ワタルの指示で、カイリューは身体を捻って尻尾へ張り付いていたピカチュウを振りほどく。視界に入った小さな身体に、ドラゴンは直ぐに狙いを定めた。ここで破壊光線を撃って仕留めるつもりだったのが、ピカチュウはそれより速い。空中で身体を素早く回転させ、口を開いたカイリュー向けて最大出力の電撃を放つ。
「アレン!10万ボルトーー!!!」
挑戦者の声が届くより早く、凄まじい電流がカイリューを駆け抜ける。とどめの一撃だった。
カイリューはワタルの方へ飛ばされ、あちこちに電気熱傷を負ったまま気絶する。
「カイリュー!」
審判がフラッグを掲げ、ポケモンの気絶を宣告すると同時に、ワタルは弾かれるように相棒の元に駆け寄った。この瞬間ワタルの敗北は決定し、会場は挑戦者を祝福する大歓声に包まれる。
「ああ、何だよ弱っちいなクズがー!!」
グリーンが地団駄踏みながら罵声を浴びせかけた。これにはさすがのワタルも唇を噛みしめ、拳を握りしめながら勢いよく立ち上がる。「ワタルさん」後ろから、それを止めるような穏やかな声がした。フィールドを囲むテクニカルエリアを回りながら、挑戦者の少年が笑顔でやって来る。
「ありがとうございました。素晴らしい戦いでした」
「レッド君……」
彼の表情からはバトル時のような剛勇な雰囲気は消え、物柔らかな微笑みへと変わっていた。そしてまるで何事も無かったかのように右手を差し出す。
「また、機会があればお願いします」
「……」
ワタルはその表情の変化に戸惑いつつ、ぎこちなく右手を差し出し握手を交わした。2人の健闘を称える温かな拍手が会場に降り注ぐ。北側ベンチから観戦していたシバ、カンナ、キクコもそれに習うように手を叩いていた。唯一、グリーンだけは面白くなさそうにベンチシートを蹴り上げている。
「なんだよこの馴れ合い……!ピカチュウに負けるなんて恥だろうがっ!」
「……うるさいねぇ、次はあんたなんだよ。できるもんなら見返してやんなよ!」
キクコが顔をしかめながらグリーンを睨みつけた。
苛立ちが募る。
「あったりまえだろっ!!」
+++
(……イライラする)
チャンピオンになってプロトレーナーの道を即選択したとき、祖父が言っていた。
「プロ入りおめでとう。しかし、本当に苦しいのはこれからだぞ。この世界は、才能だけではやっていけないのだ。決して努力を怠るなよ」
『うるせえ、じじい』
自分はそう返答した。聞き流して忘れていた言葉が、今、ふとリフレインする。
思い出したのは、まさに今それを思い知ったからだ。
スタジアムの南側に設置されている、ハイビジョンスクリーンに表示されたスコアを何度も見た。
かっこつけて英字表記した自分の名前。
その隣には、挑戦者のカタカナ名が並ぶ。大嫌いな、あいつの名前。
その下には手もちの上限を示すモンスターボールのアイコンが6つずつ並んでいる。
四天王は手持ち三対三でポケモンバトルを行うが、チャンピオンは六対六で勝負するのだ。そしてポケモンが戦闘不能になるとアイコンは黒く消灯する。
《GREEN》の下には、6つの黒丸。
(おかしい)
何度もそれを見た。
腰のベルトに付けているボールに触れるが、スイッチ部分が赤く点滅し、ビープ音が虚しく鳴るのみ。それはポケモンが『きぜつ』してしまった時、召喚できないことを知らせるボールの動作だ。
(おかしい、おかしい)
もう一度スコアボードを見た。
挑戦者《レッド》の下に、ボールランプが2つ点灯している。
(おかしい、おかしい、おかしい)
グリーンの目の前に、ピカチュウと抱き合って喜ぶ少年の姿が見えた。
大嫌いな、毛嫌いするライバルの姿。
スタンドの防護ネットが取り外され、観客が投げ入れる紙吹雪がグリーンに降りかかる。
「すごいぞ、少年!」
「素晴らしい勝負だったわ…」
新たな王者を称える、スタンディングオベーション。5万人の観客の心がひとつになる。
(おかしい、おかしい、おかしい、おかしい)
ふと、グリーンは後ろの控えベンチを振り返った。
四天王達が冷ややかな眼差しをこちらへ向けている。キクコやカンナは既に立ち去る準備をしていた。
ワタルに至っては哀れむような眼で見ている。
それを避けるように前を向けば、ポケモンと喜びを分かち合う幼馴染み。記者席からフラッシュが飛び交った。視線を向ける先がない……。
「さあ、スタジアムの皆様!お待たせしました、ヒーローインタビューの時間です!新しいヒーローにお話を…、」
(新しいヒーロー?)
インタビュアーがマイクを持って挑戦者に近づく。
(違う。ヒーローは、オレなんだ。オレだけなんだ)
「違うっっ!!!!」
絶叫がスタジアムに響いた。
場はたちまち水を打ったように沈黙する。
「おかしい、おかしいだろ!なんでオレが負けるんだよ…。この、オレが!チャンピオンの、オレが…!」
グリーンはテクニカルエリアを越え、フィールドに立ち入ってレッドの元へ早足で歩んでいた。そこは本来、人は踏み入ってはならないポケモンのみが戦うことを許された神聖な舞台である。
不穏な空気を感じ、ベンチに座り込んでいたシバが思わず立ち上がった。次いで腰を上げたワタルと共に、ベンチを飛び出す。
「チャンピオンは、オレなんだよ!お前じゃない、オレだ!……このブラックカード!!ほら、チャンピオンは、オレだ!!!」
グリーンは黒光りするプロトレーナー証明証を、高らかに見せつける。しかしレッドは何も言わない。それどころか見るに忍びない、という顔をしていた。
焦った彼はベルトからモンスターボールを全て外し、レッドの前に付きつける。
「それからっ、この最強のポケモン、見たか?強かっただろ、この…」
しかし、グリーンのボールの中に見えるのは戦闘不能で気絶しているポケモン達である。
オープン不可のビープ音が、彼の引き金をひいた。
「つっ…かえねえなぁ…っ!!」
その刹那、グリーンはフィールドにボールを思いきり叩きつけた。レッドは愕然とし、会場も騒然となる。
「大嫌いなんだよ、お前なんて……!どうしていつもいつも、オレのあとからやってきて全部かっさらうんだよ!ムカつくんだよ!ピカチュウとかふざけてんのか!?カスでわざわざ挑んできやがって……っ!いいか、聞けよ……」
足元に転がる相棒フシギバナのボールを蹴り、グリーンはレッドに掴みかかる。
「てめえがチャンピオンなんて認めない!このオレが!世界で一番!強いんだよ!だから――」
捲し立てるその双眸は、耐えがたい恐怖に支配されていた。「もうやめろ!」がたがたと震えながら罵倒を続けるグリーンを、シバが羽交い締めにして裏へ引きずっていく。ワタルは急いでフィールドに転がったグリーンのボールを拾い集めた。
「ポケモン達は大丈夫ですか?」
全て回収し終え立ち上がったワタルに、レッドが声をかけた。両手に抱えたボールを一瞥し、彼は振り返る。
「あ、ああ。恐らくね。もちろん、すぐにポケモンセンターへ連れていくよ」
「お願いします」
「……すまないね。見苦しいチャンピオンで」
レッドは何も言わずに会釈する。
途端にスタジアムはブーイングに包まれた。
グリーンの応援グッズが、豪雨のように競技場内へ投げ込まれる。
ワタルはマントをはためかせながら、逃げるようにその場を立ち去った。とにかく早く会場から出ることを考え、足元に転がっていたグリーンの写真入りメガホンを踏んでしまったことにも気づかなかった。