第14話:デモバトルショー
電話をかけて2時間後、すぐにケーシィ・テックのイイダ社長と設計士がセキエイへ飛んできた。
電話口で提案するなり、一刻も早く現場調査をさせてほしい!と非常に乗り気だったのだが、スタジアムへ案内されると二人はその規模に圧倒されてしばらく呆然と立ち尽くしていた。彼らはポケモンバトルが趣味で、ここに立つことは憧れでもあったのだ。
「すみません、急にお呼びだてして」
北側のベンチから、キョウとワタルが現れる。風格あるチャンピオンと四天王の登場に、社長と設計士は腰が千切れそうなほど恭しくお辞儀をしながら名刺を差し出した。
「この度は、ありがとうございます!」
「こんな素晴らしいお話をいただけるなんて光栄です……」
既に泣き出しそうな二人にワタルは恐縮する。
「まだ設置が決まった訳ではありません。まだ役員たちに提案する段階なのですが、これほど素晴らしい装置はないと思います!これがあればセキエイでの試合は面白くなります。ぜひ、協力してください!!」
彼は社長の手を取るなり、狼狽えるその瞳を真っ直ぐに見つめた。その精悍な姿はやる気に満ち溢れ、恐縮しきりの社長の心を一瞬で掴み取る。
「……もちろんです!なんでもします!」
顔立ちが変わった社長を見て、キョウも羨ましげに感心する。
それからじっくり2時間をかけて、借りてきたスタジアムの設計書などを基に見積もりを作成した。見えない壁の仕組みは、特殊な装置を四隅に設置して物理的な衝撃を防ぐバリアーを張るというもので、取りつけはさほど困難ではなく、提案が通ればすぐにでも導入が可能だった。サファリパークに試験導入した機器が余っているので、在庫も豊富らしい。
4人はテクニカルエリアに座って熱心に話し合う。
「単純にフェンスとしてではなく、スタンド内の柱に機器を取り付ければ客席に見えない屋根を作ることが可能です!“雨乞い”なんかでもお客さんは濡れません」
得意げに話す設計士の説明に、ワタルは益々その魅力に感心した。これはファンのためにもなるだろう。
「いいですね。それを設置する方向でいきましょう。安全性はどうですか?」
「一応、ギャラドス3匹の同時破壊光線にも耐えられます。定期的にメンテナンスが必要ですけど、かなり精度は高いですよ。これは自信を持って言えます!」
社長が鼻息荒く答えるその横で、キョウは黙々と提案書を作成していた。資料を読み込み、ノートに文章やレイアウトを書き込んでいく。時折電卓を叩いては、首を捻っていた。着用している衣服が着物ではなくスーツなら、さながらベテラン営業マンのようだ。
「……イイダさん、値段なんとかなりません?導入費用抑えて、ランニングで回収して……」
彼は電卓を社長だけに見せながら、低い声で尋ねる。
「キョウさん、これはちょっと……」
「でも入れられたら、かなりの宣伝効果になると思いますよ。俺もテレビで紹介するんで」
「そうだけどねぇ……」
「本部が大赤字出してるところに挑戦するんだからさ……。出来る限り通りやすい金額を……」
「でもこれは……」
数十分以上続く金額の攻防を見かねたワタルは、突然社長に向けて勢いよく頭を下げた。まさかチャンピオンが自分にお辞儀するとは思わず、彼は腰を抜かしてしまう。このスタンドプレーにはキョウも目を見張った。
「お願いします!これはセキエイの希望なんです。なんとか導入しやすいようご配慮いただけないでしょうか」
「あ……、頭上げてください。そんなチャンピオン様に……」
「チャンピオンはまだ肩書だけですよ。それが証明されるのはこれからです」
ワタルは白い歯を見せて微笑んだ。
利益だけを求めている訳ではない。これはリーグを盛り上げるために必要なものだ。よりドラマティックなバトルを展開しファンの心を掴む。失った信頼を取り戻すためには、バトルで魅せるしかない。ワタルはその気持ちを社長と設計士にぶつけてみた。値下げだけ考えていたキョウも、その姿に驚くばかり。そんな実直な姿勢が伝わり、社長も大幅な値下げに応じてくれた。
+++
ケーシィ・テックが帰った後、ワタルは本部のミーティングスペースでキョウの下書きを基に提案書を作成していた。明日にすればとキョウに軽く窘められたのだが、今は一分たりとも無駄にはしたくなかったのでそのまま居残りを決めたのだ。現在、夜の8時である。夢中でPCに向かっていると、入り口がノックされてキョウが現れた。その手には缶コーヒーが2本。
「あれ、帰ったんじゃ……」
「本部でジムリーダー退任の手続きしてた。今日はそのためにここに来たのを忘れてたよ」
彼は肩をすくめながら、ワタルの前に缶コーヒーを差し出す。
「ありがとう。すみません、付き合わせてしまって……」
「別に構わんよ。セキチクの町工場が救えるならこっちとしても有り難いしな」
ワタルはコーヒーを飲みながら、再度下書きに目を落とす。
「……これ、すごいですね。簡潔で見やすくて。さすが大企業で勤務経験があると違うな」
「チャンピオン様に持ち上げられるなんて嬉しいねえ」
皮肉と受け取られたのか、彼の目は全く笑っていない。ワタルは慌てて訂正した。
「いやいや、本当ですよ。でも、そこからジムリーダーになってここに来るまでに相当苦労されたでしょう?」
「今の君の比じゃないくらい叩かれたね」
キョウは自重的な笑みを浮かべる。これは完全に地雷を踏んでしまったらしい。ワタルは黙りこくった。
「ま、当然だよな。なりたい奴は腐るほどいるのに、ペーパーがその椅子に座ったんだから」
「……あの、すみません」
「構わんよ。……むしろ、今ちょっと気分がいいんだよ」
「え?」
「死ぬほど中傷してた連中を黙らせるのは、気分が良いよ。ガキの頃も……旅に出ずに周りに散々馬鹿にされてたけど、いい大学出ていい会社行ったころにはそいつらとは埋められない格差ができてる。そうなると、まぁ面白いように掌返して擦り寄ってくるんだよ。その上トレーナーとしても見返したら、もう奴らには立つ瀬がないね。……って、夢を売る四天王がこんなこと言っちゃマズイか。これは、聞かなかったことにしてくれよ。またメディアの目の敵にされる」
「わかりました」
冗談混じりに語るキョウの表情はどこか暗い影を落としていた。
これは最初からトレーナー以外の道で成功すべく努力してきた彼ならではの経験だろう。ワタル自身は一度もポケモン未経験者を見下したことがないが、多くのトレーナーはペーパーを蔑ろにしている。これはトレーナー界に長く根ざす問題であった。
「……こういう、未経験者を馬鹿にする問題、何とかしたいですね」
ワタルが真剣な口調で呟くと、キョウが呆れたように口を挟んだ。
「優等生だね、君」
「いや、オレは真面目に……」
その言葉を遮るように、彼はひどく醒めた眼差しで現実を叩きつけた。
「“スーパーエリートトレーナー”のワタル君がアピールしたところで、何の説得にもならないだろ。俺も同じ。こういうのは、結局コケにした本人が夢から覚めてみないと分からないもんだよ。旅に出て3年過ぎる、得たものは何もない……そしてようやく気づくんだよ、自分には向いてないって。そこで殻を閉じた人間は、学校に戻ってもモチベーションが上がらず勉強が身に入らなくなって、うだつの上がらない大人になる。君が立ってるピラミッドの一番下は、そういうゴミみたいな奴で溢れてる」
それは43年の人生で、彼が見てきた暗部である。教室や会社の片隅に、いつも夢敗れた者たちがいた。保護司として受け入れた前科者の殆どは、道を外した元トレーナーだ。
「本部は何もフォローしないがね。ここで腰を上げるべきなのは、君じゃなくて本部の方だと思うんだが」
「本部にも相談し、解決の道を探っていかなければなりませんね」
あまりに真摯で理想的な回答に、キョウは苛立ちを覚えた。お前みたいな苦労知らずの若造に何が分かるんだ?チャンピオンの鶴の一声で解決できる問題じゃない――脳裏をかすめたそんな言葉を掻き消して、彼は大げさに笑いながら話を終わらせる。
「本当に真面目だな!背負い込みすぎんなよ、今すべきことは見えない壁の提案だ。我々は気にせず、未来あるトレーナー達に壮大な夢を提供しようじゃないか。そっちの方はもっと詳しい奴が何とかするだろう。“スポーツ選手”で何とかなる問題じゃないから」
スポーツ選手、という言葉を強調しながら彼は手元の資料をテーブルに叩きつけた。
「そうですね、今はフェンスの話が先だ」
ワタルは一笑しながら気持ちを切り替え、再び資料作成の手を動かした。その姿を眺めながら、キョウはコーヒーを口へ運ぶ。喉を通るほろ苦い味。理想ばかり唱えるチャンピオンは、あまりに真っ直ぐで、いつか潰れてしまいそうなほど危なっかしい。
とはいえ、彼にはどんな障壁にも正面から乗り越える力を持っていそうな気がしてならない。トレーナーの頂点に立つ実力に、誠実で威風堂々とした佇まい。まるでヒーローのように何でも解決してしまいそうな男だ。それはキョウにとって、ただ羨ましく感じた。
+++
翌日、ワタルは早速マツノ支配人を呼び出して『見えない壁』を提案した。キョウにも同席を依頼したかったのだが、他の仕事が入っているとのことで残念ながら叶わずじまい。しかし彼は「お前なら大丈夫」とにこやかに肩を叩いてくれた。一晩かけて資料を隅々まで読み込み、不明点は調べ上げ、そこそこ専門的な質問にも答えられる構えだ。
「こ、こんな高いの入れられるとでも……?」
マツノはまず見積もりを見て驚愕していた。かなりケーシィ・テックに譲歩してもらったものの、それでも高い。当然これを指摘されるのは最初から覚悟していた。
「かなり無理を言って、下げてもらいました。値段に見合う価値は十分あります」
「ネットでいいじゃないですかぁ〜」
「防護ネットではこれまで観客に被害が出ていました。これ、見てください」
ワタルはセキエイの年間観客負傷者のデータをマツノに提示する。原因の内訳が細かく記載されており、そのほとんどがポケモンの技のとばっちりによるものだ。決して多くはないが、毎年クレームが来ている。
「見えない壁を設置すると、それも無くなります。使用できる技の範囲も広がり、試合はより盛り上がります!」
「でもさぁ……」
「これは、セキエイを復活させるためになくてはならないものですよ、マツノさん」
「高いし……」
「良い物ですからね。それと、設置もすぐにできます。一月あればいいとのことで……」
「そうなんだ……」
ワタルの気迫に押され、マツノは段々と反論ができなくなってきた。実際、提案書を読むと『見えない壁』は大変魅力的である。だがやはり一番のネックはその金額……総監に伺いを立てるのは自分なのに何故自分に言うのか――マツノは思わず涙目になった。
「スタジアムの臨場感が増し、観客にも満足していただける。支配人としても誇らしいと思いませんか!?」
とどめの一言。
「……はい」
ワタルの提案が終わったその足で、マツノは役員会議にてこの件を早速持ち出した。黙々と資料を読む総監の前で、彼はすっかり委縮しきっている。しばらくして総監がテーブルの上に提案書をそっと置いた。ほんのわずかな音にも関わらず、肩が大きく跳ね上がる。
「こんなのそのまま持ってきて。キョウくんに丸めこまれたでしょ」
総監は引きつった笑いを浮かべながら、マツノに尋ねた。彼は窒息死しそうなほど青ざめながらかぶりを振る。
「あ、いや……チャンピオンに頼まれました」
「ワタルくん?」
総監は目を見張った。彼が提案してきたとは意外である。いずれにせよ差し金はあの男だろうが。
「ひ……、非常に熱意あるアピールでして……。わ、私もこれは良いなと思うんですが……あの、い、いかんせん値段が……」
「うん、値段が高すぎる」
苦笑するマツノに、総監はコクリと頷いた。
「し、しかし、か、かなり交渉したそうです……。そ、それでこの金額に……」
「ふーん、これでマシな額なのか」
少し考え込む総監に、マツノは希望の光を見出した。
「良い物は高いですよねえ〜!」
と、思わず甲高い声を上げてしまい、張りつめていた会議室の空気が凍りつく。その様子をヒヤヒヤしながら眺めているオーキドに、総監は提案書を掲げた。
「……これ、どう思う?値段はおいといて」
「わしは有りだと思うぞ。こんな画期的な装置があるとは、知らんかった。町工場の技術らしいな。地道に頑張っている会社の製品を採用したら、ウチの印象も良くなるんじゃないのか?」
「なるほど、そういうメリットもあるなぁ。……ならオーキド、お前ワタルくん連れてデモ見てきなよ。実用的なら設置してもいい」
「本当ですか!?」
マツノはとても嬉しそうに総監の前に出るが、その表情が真顔だったので彼は瞬時に後ずさった。総監は呆れつつ、ほんの僅か口角を引き上げる。
「試合が面白いことが、何より重要だからね。君にしては、いい我が儘聞いたんじゃないの」
心が籠っていない平坦な口調の褒め言葉だが、魅力的な設備が導入されそうな喜びに、マツノから抑えきれない笑みがこぼれる。ワタル君!僕はやったよ!と、彼は隠れて両拳を握り締めた。
「一応、多数決とります。『見えない壁』導入に賛成の方」
総監は立ち上がると、両手を広げて役員たちに問いかけた。
+++
三日後、オーキドは自家用のハイラックス・ダブルキャブでセキチクへと向かっていた。助手席にはワタルが座り、後部座席には大きなサングラスをかけたカリンが長い足を組んでくつろいでいる。
「オーキド博士ってハイラックス乗ってるんだー。高級外車乗れるほど稼いでるんじゃないの?」
カリンが腰を浮かせて運転席のオーキドに尋ねる。吐息のような艶やかな声色に、彼の胸は高鳴った。
「わ、わしは車にはあまり興味ないからな。ポケモンや機材が乗せやすければ、それで」
「ふーん……、ワタルは?車持ってるの?」
カリンは首を傾けながら質問する。謹慎の件ですっかり立場は弱くなり、彼女はワタルに対してフランクな態度を取る様になっていた。
「あるけど、ほとんど乗ってない。移動は殆どカイリューだから」
「男はいいわねー。ポケモンに乗ると髪が崩れちゃうから、私は嫌だわ」
と、言いながら彼女はウェーブのかかった美しい髪に指を絡ませ、唇を尖らせる。
「君の方はどうしているんだ?」
「電車かバス……。コガネの都市部は交通機関が発達しているから、車はいらないの。でも四天王として成功したらまずミニを買うわ♪年俸、あんなに貰えるんだもの。ね、博士?」
カリンは再びオーキドに顔を近づけた。鼻孔をくすぐる甘い香りに彼は再び赤面する。「…あ、ああ。成功すればな!」
「うふ、頑張らなくっちゃ」
四天王やチャンピオンはトレーナー界のスターなので、契約金や年俸は非常に高額だ。ワタルは元々裕福な家庭に育っているので給料はあまり気にならないのだが、契約時カリンはその金額を見て大変喜んでいた。
「…それにしても、3日でセットを用意するとはあちらさんも流石だなあ」
オーキドがワタルを一瞥しながら問いかける。役員の審議が通りデモの打診をしたところ、ケーシィ・テックの社長はすぐに動いてくれた。セキチクの河川敷にある市営バトルフィールドを借り、そこに装置をセットしてテストを実施するらしい。その情熱にはワタルでさえも舌を巻く。
「プロですよね。オレも見習わないと……」
「うむ、良い心がけだ。ポケモンだけでなく他の分野に多く触れることも、トレーナーの成長には欠かせんからな」
「わお、博士良いこと言う!」カリンが身を乗り出して、茶化しながらオーキドの頬をつついた。
「そ、そう?ありがと」
鼻の下を伸ばすオーキドに呆れつつ、ワタルは窓の外を眺める。そろそろ到着だ。
「お越しいただき、ありがとうございます!」
現場に到着し、車から降りた三人をケーシィテックのイイダ社長が恭しく出迎える。背後には揃いのジャンパーを着た10名ほどの社員らしき者たちが、ワタルらを興奮気味に見つめていた。河川敷には他にも3〜4つのバトルフィールドがあり、アマチュアトレーナー達が練習に励んでいたが、この異様な光景を見るなり皆手を止めて集まってくる。そして三人を見て騒ぎ出すのだ。
「あれ、チャンピオンのワタルじゃない?」「仲間に怪我させたやつか」「あの女の子美人ー!」「オーキド博士もいる」
言われ放題で眉をひそめるカリンを見た社長が平謝りする。
「ギャラリーが多くてすみません……。場所が確保できず……」
「大丈夫ですよ。設置は済んでいるんですか?」
ワタルは笑顔でさらりと流し、早速本題に入った。社長はほっとしたように頷くと、装置の元に彼らを案内する。
「もう見えない壁は張ってあるんです。分かります?」
「え……?」
目の前は、長方形に区切られたごく普通のフィールドが存在し、四隅にポールを立ててあり、その上下に発電機のような装置が置かれているだけだ。ワタルはおそるおそるフィールドに手を差し伸べた。外周ライン上で指が止まる――そこから先の空気を破ることができない。まるで磨き上げられたガラスの壁が存在しているような感触だ。しかし本当に何も『見えない』。彼は興奮気味に声を上げた。
「おお……!こんなしっかりと!」
「ガラスみたいでしょ?でも、強度はそれよりずっとあるんですよ!」
社長が自信満々に答える。カリンやオーキドもそこへ近づいて、『見えない壁』を確認した。空気をノックすると、確かに音がする。
「おおっ、こりゃすごい」
「どうなってるのこれ?」
カリンが発電機やポールを眺めながら、不思議そうに尋ねる。その姿に社長はますます誇らしげだ。
「フィールドを壁で囲っているんです。仕組みはもちろん、企業秘密ですよ♪どうです?お分かりいただけました?」
「ええ、これは本当に素晴らしい。ぜひ導入したいですよね、博士?」
ワタルは何度も壁に触れながら、胸の高鳴りを抑えきれずにオーキドに同意を求めた。
「う、うむ……。あとは強度だが……」
オーキドも研究者としての血が疼くのか、本来の目的を忘れてあちこち触れて回っていた。設計士から資料を手渡されると読みふけり、彼はすっかり本来の目的を忘れている。それに呆れたワタルが周囲を見回すと、いつの間にか土手には多くのギャラリーが集まっていた。皆、好奇の目を自分や装置に向けている。
+++
小学生の男女が二人、ランドセルを背負ってセキチクシティの土手の上を歩いていた。二人は少し距離をとり、男の子の方が前を歩いている。その手には小さな花束が握られており、ぶっきらぼうに振り回していた。
「ねーゴールドくん、お花可哀想だよー」
後ろを歩くポニーテールの女の子が見かねて注意する。ゴールド少年は思わず反発した。
「うるさいなぁっ、こんなのいらねーし。男に花は合わない!」
「今日でみんなとお別れだったから貰ったんでしょ。それ、お花を選んでカード書いたのあたしとサトミちゃんなんだけどー」
「お、お前が?……じゃ、もらう」
少女に聞こえない程の小声で呟きながら、彼は花束に付いているメッセージカードを大事そうに短パンのポケットにしまった。少女は首を傾げていたが、特に気にせず話を続ける。
「……夜にはワカバタウンに行くの?」
「そうそう。だから、その前にアンズの父ちゃんに勝つ!」
少年は自信たっぷりに、日も傾きかけている空へモンスターボールを掲げた。少女アンズは目を丸くする。
「ゴールドくん、知らないの?プロのトレーナーは普通の人と戦っちゃだめなんだよ」
「知ってら!でもまだジムリーダーだろ?」
「もう四天王だもん!ジムも受付終わったよっ」
アンズは得意げに笑って見せる。それを聞いて、ゴールドは思わず青ざめた。
「えーっ!?頑張ってサファリでポケモン集めたのに!」
「っていうか免許取りたてのゴールドくんが、あたしのお父さんに勝てるわけないじゃん。お父さんは世界一強い毒ポケモン使いなんだー♪」
と言いながら目を輝かせるアンズの姿は、ゴールドにとって面白くないことこの上ない。本当はこの町で強くなって、ジムリーダーであるアンズの父を破ってみせたかった。つい最近親の転勤で引っ越しが決まり、慌てて免許を取りに行ったことなど彼女は知る由もないだろう。彼は悔しくて、思わず毒づいてしまう。
「うるせーな、このファザコーン!」
「なによー、ひどい!待てえっ」
怒ったアンズが彼を追いかける。慌てて逃げた。もちろん、わざと罵ったのだ。顔を真っ赤にして自分に向かってくる彼女はとても可愛らしくて、つい捻くれた態度を取ってしまう。
こんなやり取りも、今日で終わるなんて。
ゴールドはしばらく逃げていたが、目の前の人ごみを見てその足を止めた。皆、一斉に土手の下を眺めている――そちらに目をやると、河川敷のフィールドには黒山の人だかり。
「何かやってるぜー!」
「何、なに?」
アンズが追いつく。フィールドの四隅に立っている装置を見ながら首を傾げた。
「あれ何かな」
「分かった、セレビィを呼ぶんだよ!その実験をしてるんじゃね」
「セレビィって森の奥に棲んでるんじゃないの?昔絵本で読んだよ。……あっ、見て!」
何かを見つけたアンズが、目の色を変えて飛び跳ねた。
「ワタルさんだー!!」
指さした先には、ジャンパーを着た男たちの話を聞く赤毛の青年。遠くからでもはっきりと分かる、そのオーラ。ゴールドは思わず息を呑んだ。セキエイの新チャンピオン、ワタルだ。今、最もメディアを騒がせている男である。
「かっこいいなぁ〜。あたしファンなんだー!ワタルマント持ってるよっ」
マントはワタルのトレードマークで、レプリカも多く販売されている。熱に浮かされたようにはしゃぐ彼女を見ていると、ゴールドはまたも面白くない。
「何だよ、アイツ仲間を崖から落としたんだろ?サイテーじゃん」
「違うよ!あれは事故だったって、お父さんも言ってるもん。テレビが間違ってるよ!」
激しい剣幕で返され、ゴールドは思わずたじろいだ。彼女の父親は四天王なので、信憑性は高い。しかし素直に納得ができない。
(なんだよ、お父さんお父さんって……。かと思えばワタルとか……)
悔しさが積もり積もって爆発する。
「やーい、繰り上がりチャンピオン!ほんとは仲間にも勝てないから怪我させたんだろー!」
絶叫が、土手に響き渡った。
一瞬の沈黙の後――野次馬が、一斉に彼を向く。
「ゴールドくん、サイテー!何言ってんの」
アンズが顔を真っ赤にしながら掴みかかってきた。肩越しにワタルと目が合う。
背筋が凍りついた。
+++
ワタルは首を傾げながら野次の方へ視線を向けた。土手の人ごみから少し離れたところで、小学生らしき男女が何やら揉めている。
「何だ、あれは!注意せんと……」
社長がいきり立ちながらそちらへ向かおうとする。ワタルは慌てて止めた。
「大丈夫です、慣れてますから。ああいうのを見返すのが、これからの仕事です」
「でも……」
狼狽える社長を押しのけ、カリンが彼の前に立ちはだかった。彼女は納得できない様子で、眉間に皺を寄せている。
「ムカつく。見せつけてやりましょ」
「え……?」
「テストプレーをするのよ、今から。そのためにここに来たんでしょ?ちょうどいいじゃない、プロのポケモンバトルを見せてあげましょう」
「オレと、君で……?」ワタルは目を丸くした。
「他に誰がいるの?それにデモプレイだって、私たちがやった方が効果的でしょ。ね、社長サン?」
カリンは社長へ艶めかしい笑顔を向ける。彼は頬を染め、だらしなく口を開けたまま頷いた。
「でも博士、試合許可降りますか?」
ワタルは慌ててオーキドに尋ねた。プロ同士の非公式な試合は、スタジアムと一部の場所でしか許されていない。彼の心配をよそに、オーキドは愉快そうに頷いた。
「構わんよ。折角だし、プロモーションだと思えばいい」
「決まりね!一対一でやりましょう。……ね、これどうやってフィールドにボールを投げるの?」
「はい、出入り口の枠を作りますので、そこへ投げ込んでいただければ……」
社長が鼻の下を伸ばしながら部下に指示を出すと、見えない壁の前に赤い枠が現れた。そこが出入り口なのだろう。彼女はすでに定位置に移動しており、すっかり試合をするつもりでいる。野次馬たちも試合への期待を寄せており、「バトルするの?」「見たいな」等と言い合う声が次第に大きくなっていく。人々がワタルに抱いていた不信感が和らいでいくのを感じた。
(やっぱり、何だかんだ皆ポケモンバトルが好きなんだな…)
ワタルは口許を綻ばせながら、颯爽と人々の前に歩み出た。場はおもわずどよめく。
「セキチクシティのみなさん、こんにちは!この度、チャンピオンに就任しましたワタルです。今日はケーシィ・テックさんの素晴らしい技術、『見えない壁』の視察に来ました。分かります?ここ、壁なんですよ」
ワタルは壁を軽く叩いてみる。コンコンと軽快な音が鳴り、そこには何もないと思っていた群衆から驚きの声が漏れた。予期せぬアピールに社長含む従業員は顔を見合わせ、嬉しそうに笑顔を溢す。
「ね、素晴らしいでしょう?これはセキチクシティで二番目に誇れる功績ですよ!一番は、我々の仲間……四天王のキョウさんだけど!」
と、ワタルが破顔するとその場がどっと湧き上がった。
「その通り!」「この町のヒーロー!」とあちこちから声が上がる。ケーシィ・テックの社員たちも拍手を送った。
「彼は今、ジムリーダーの引き継ぎが忙しくてなかなかメディアには出られないけれど、それだけこの町に貢献したということです。言わなくても、オレよりみなさんの方がご存じかな?……こちらしか知らないところでは、彼の真の実力は本当に素晴らしいですよ!ぜひ、3ヶ月後のデビュー戦を観に来てくださいね」
ワタルが頭を少し傾けてにこやかに尋ねると、あちこちで歓声が上がる。土手の上で見ていたアンズも、自慢の父親を憧れのチャンピオンに褒められ心底嬉しそうだ。
「さて!では今から……、彼と同等――いやもしかするとそれ以上の実力を持つ……!四天王紅一点のカリンと、ケーシィ・テックさんの見えない壁のテストを兼ねたポケモンバトルをしたいと思います!」
ワタルが大袈裟に両手を広げるなり、辺りは大歓声に包み込まれた。彼は丁寧にお辞儀すると、ゆっくりと顔を上げながらゴールドに向かって右手を掲げる。突然のアピールに少年の身体は跳ね上がった。
(見ててくれよ?)
+++
「さっすが、元四天王のチャンピオン様。こういう対応慣れてるのね。参考にさせていただくわ」
フィールドの反対側でカリンが茶化すように微笑んだ。
「君も接客業をしていたんだろう?似たようなものだと思うけど」
「ショップ店員は相手を褒めればいいだけだもの。全然違うわ」
今の方が気が楽、と小声で呟きカリンはボールを構えた。ワタルも一つ選び出す。そして同時に枠の中へボールを投げ込んだ。――プレイボール。フィールドに現れたのは、ワタル側はリザードン。そしてカリンはデンリュウである。
「上空の高さは、ポールまでです!」
社長が空を指さしながら彼らに説明した。ポールは5m程しかなく、ややリザードンには窮屈か。カリンはせせら笑いながらデンリュウに囁いた。
「ちょっと飛行は難しそうね。……デンリュウ、相手を空に飛ばさせなさい。そこを“かみなり”で狙い撃ちよ。それまでは他の電気技でいたぶりましょう。でもまずは……、“わたほうし”!」
デンリュウは頷くと、ふわりとした胞子をフィールド全体にまき散らした。たちまち膨らむ桃色の胞子はまるで綿あめのようだ。見えない壁の中で散布され、ファンタジックな雰囲気を演出するが、ポケモンの足をとる厄介な障害である。
「リザードン、火炎放射!綿ごと焼いてしまうんだ」
リザードンが業火を放ち、目の前の綿を焼き払った。これでも壁はびくともせず、観衆は驚愕の声を上げる。炎を放ち終わった隙をついて、デンリュウのかみなりパンチが飛んできた。リザードンのボディめがけて、右ストレート。電撃が炸裂する――効果は抜群だった。
「リザードン、反撃しよう――切り裂く!」
リザードンはかみなりパンチにカウンターを合わせる様に、デンリュウに鉤爪を食らわせる。そのまま押し付けるように壁まで叩きつけた。デンリュウは怯んでしまったが、ワタルは容赦なく攻め込む。
「炎の渦でデンリュウをとらえろ!」
リザードンの放った灼熱の渦が、綿胞子を燃え尽くしながらデンリュウに襲いかかる。カリンは直ぐに声を上げた。
「光の壁で防いで!」
デンリュウは回転しながら、周囲に光の壁を形成する。確実に防げるわけではないが、幾分熱は軽減された。だが猛火がデンリュウの周りを渦巻いている状況に変わりはない。炎越しにデンリュウは主人の顔を見た。カリンは黙って頷く。
(……“充電”よ)
じりじりと焦げ付く渦の中、デンリュウはじっとリザードンの様子を窺っている。緊迫した空気が流れる中――リザードンも、ワタルを一瞥した。
(上がったら“かみなり”で狙われるな。でも――避ければいい)
「よし、リザードン。飛翔しよう!」
リザードンが大きく翼をなびかせながら、3m程の高さに浮き上がった。
「きたわ!」
待ってましたとばかりにカリンが声を上げると、デンリュウは渦の中からスピードスターを放った。不意を突いたところへ“かみなり”を叩き込む策だったのだが――リザードンは星形の光線を容易く受け止めると、その痛みをもろともせず全身に紅蓮の炎をまとう。その姿はまるで、太陽。
「そのまま突っ込め!フレアドライブ!!」
ワタルが果敢に指示を出すと、リザードンは火炎を放ちながら上空からデンリュウに急降下する。
「かみなりっ!」
カリンが慌てて悲鳴混じりに声を荒げると、デンリュウも蓄電したとっておきの電撃を放つ。フィールド内に雷と炎が吹き荒れ、一閃した。観客たちが皆一様に驚嘆を漏らす。やがて閃光が消えたとき、綿胞子がひとつ残らず消失したフィールドにはあちこち焦げ付いたリザードンが直立しており、少し離れたところに気絶したデンリュウが転がっていた。どよめきが徐々に歓声へと変化していく中――オーキドがワタルに向けて手を掲げた。
「勝者――チャンピオン・ワタル!」
それを引き金に、拍手喝采。ワタルとカリンの健闘を称える、大歓声が沸き起こった。チャンピオンは両手を振ってそれに応えていたが、カリンはふて腐れた様にデンリュウを回収しながら肩を落とす。
「悔しい。もっと練習しなきゃ……」
「曲がりなりにもチャンピオンだからね。簡単に負けるわけにはいかないよ。だけど、君は仲間だ。これから共に頑張ろう」
余裕たっぷりに微笑むワタルを見て、カリンは少しだけ彼を見直した。普段は誠実で紳士的な態度を取っているが、やはりバトルとなると容赦ない。ギャップのある雰囲気は彼女の心をちくりと刺激した。
(……真面目くさってるけど、結構いい男じゃない)
とはいえ、仲間として負けたのは本当に悔しい。いつか負かしてやりたい。
「余裕こいてられるのも、今のうち。すぐに抜いてやるわ、繰り上がりさん♪」
カリンは嫌味をたっぷり含んだウインクを彼に送ると、表情を切り替え、観客たちに向けて笑顔で応えていた。ワタルは少し呆れつつ、土手の上の少年を向く。
再びチャンピオンと目が合ったことで、ゴールドはひどく動揺した。
「わー、ワタルがこっち向いてくれたー!」隣でアンズが跳ね上がりながら歓喜する。
「違う、オレの方見てんの!」
ゴールドはムキになりながらアンズに突っかかった。
「あたし!」「オレ!」二人はしばらく言い合い、そして沈黙した。しばらくして落ち着いた後、おもむろにゴールドが口を開く。
「あんな風になりたいなあ…」
この土手がまるでセキエイスタジアムかと錯覚するほどに、チャンピオンは輝いていた。ドラゴンを率いて戦い、勝利を収めて観客に応える姿はまるで……、
「ヒーローみたいだ」
「えっ、ヒーロー?……なんで?」
アンズが首を傾げる。
「女にはわからない世界なんだよ!」
と、言って彼は咄嗟に掌を丸め、ワタルに向けて突き出す。するとチャンピオンも理解したようで、微笑みながら彼に向けて拳を上げてくれた。雲の上の人が、自分の想いに応えてくれるなんて――感激のあまり、その姿は一層輝いて見える。
「……オレ、決めた!ワカバへ行ったらトレーナーの旅に出る」
「えっ?」
「お前の父ちゃんなんか目じゃないくらい強くなって、いつかワタルみたいなチャンピオンになるぜ!見てろよ〜」
少年は拳を振り上げたまま、帰路へ向けて駆け出していく。それを聞き、アンズは後を追いながら憤慨した。
「何よ!お父さんは世界一強いんだもん。ゴールドくんなんか絶っっ対勝てっこなーいよー!」
その様子を、ワタルは楽しそうに眺めていた。
少年はこの試合に満足してくれただろうか。このままトレーナーを目指し、セキエイに来てくれればチャンピオン冥利に尽きるというものだ。
(チャンピオンは……、トレーナーの夢なんだな)
そう考えると自然と頬が緩む。かつて自分がそうであったように、チャンピオンとはここにいるトレーナー全ての目標なのだ。
「こうやって、実力を見せつけることが信頼回復には一番だな!」
オーキドが彼の肩を叩く。
「そうですね」
ワタルは頷くと、再度観客に向けてにこやかに手を振った。