第13話:始動
病院を出て本部へと移動する途中、ワタルは総監の秘書から呼び出された。
要件は間違いなくイツキの負傷だろう。駆け足で本部に向かうと、ビルの目の前で多くのマスコミが屯しているのが目についた。解散してからほぼ毎日張り込まれていたが今日は特に多い。しかしよく見ると、本部から出てくる関係者を待ち伏せしているわけではなく、ノボリを掲げた数名の人間を取り囲んでいるようだった。
「……我々はポケモンはもちろんのこと、人間にまで危害を加える者たちを許すわけにはいきません!」
どこかで聞いたことのある声。
目を凝らしていると、記者の一人がワタルに気付いて「チャンピオンだ!」と声を上げる。人ごみはあっという間に彼に殺到した。
「ワタルさん、お話を聞かせてください!」
「ワタルさん!」
一斉にマイクが向けられ、フラッシュが瞬いた。ワタルは目を細めながら、この状況に困惑する。
「ちょっと、状況が……」
「知らないとは言わせない!」
記者陣をかき分け、タブレット端末を抱えた青年がワタルの前に現れた。憎悪のこもった険しい瞳で彼を睨み据えている。
「ランスさん……」
ワタルもほんの数回顔を合わせたことがある男――NPO『鳳凰会』のリーダー、ランスである。カンナの恋人で、シバの友人。その伝で会ったことがあるものの、当たり障りのない会話しか交わしたことがない。あまり人物像が掴めていなかったが、突然色を成して現れたためワタルは戸惑いを隠せなかった。
「速報で出た、四天王負傷の件です!あなた、自分の部下に岩落としといてしらばっくれるつもりですか!?」
そう言うとランスはタブレット上である動画を再生する。あの特訓の映像だった。イツキの上に岩石が降り注ぎ、そのまま落下していく様子が隠し撮りされており、ワタルは絶句する。
「なぜ、これを……」
「これは匿名で我が団体に送られてきたものです!どういうことですか?特訓のつもりですか?命綱を付けずに……」
痛ましい動画は、何度もリピート再生された。
巨大な岩石に呑まれたイツキが、一人谷底へ消えていく――思い出したくない惨状に、ワタルは吐き気を抑えながら目を逸らしたが、一斉にマイクが眼前に突き出され、叱責とフラッシュが彼に襲いかかってきた。
「それはおれが原因だ。ワタルは悪くない!」突然の喚声。ランスや記者陣が一斉に声の方を向いた。
本部エントランスからシバが猛々しく歩んでくる。そのまま記者陣が開けた道を通り、ワタルとランスの前で立ち止まった。
「シバ……!」
「久しぶりだな、ランス。この動画の件だが、イツキの特訓はおれがした。極限を求めた、おれが悪い。ワタルはプテラを飛ばして彼を守ってくれたのだ」
断言するシバに、ランスはややたじろいだ。よく見ると、この動画からはプテラが救出に向かうまでがカットされている。反射的に記者がそれを指摘した。
「プテラなんて、動画にありませんが?」
「動画にはないかもしれんが、調べればすぐ分かる。お陰でイツキは奇跡的に全治3か月で済んだのだ」
怯みかけたランスが、言葉尻をとらえて反撃に出た。
「プテラも犠牲になったのか!?尊いポケモンが、また!お前たちのせいで傷ついたんだぞ!何を安心しているんだ!!一歩間違えれば、殺人犯じゃないか!!!調子に乗るな!」
「ランス……」旧友の変貌ぶりにシバは絶句した。共に訓練に励んでいた頃とはまるで違う、何かに憑りつかれているような姿。
「ワタルさん、コメントを!」
マスコミは絶望する二人に容赦なくカメラやマイクを向けた。ランスの罵詈雑言、記者陣の質問、豪雨のようなフラッシュ。幾多のノイズが、右から左へ抜けていく。どうすればいいのか分からない――「申し訳ありませんでした……」ワタルはようやくその言葉だけを紡ぎだし、頭を下げた。
すぐにエントランスからスタッフが数名飛んできて、二人を引きずるように本部へ連行して行く。そのままエレベーターに乗せられ、総監室へ。部屋に案内されると、オーキドと総監が腕を組み、険しい表情で備え付けのテレビから流れる生中継のニュースを眺めていた。先ほどビルの前で繰り広げられていた様子が、もう編集されて世間に流れている。
「……やってくれるね」
総監がテレビに向いたまま冷厳な声で呟いた。
「申し訳ございません……」
二人揃って頭を下げる。すると総監はわざとらしい溜め息をつきながら天井を仰いだ。
「ああいう訓練は、珍しくはないんだよ。私らも昔、やってたからね。……ただ見つかった相手が悪い。厄介な相手に捕まってしまったね」
「鳳凰会ですか……」
その言葉を聞いて、オーキドが二人の前に出る。
「そう。過剰なほどにポケモンの保護を訴えて、あまり世間の相手はされてないし、最近運営も縮小気味らしいが……それでもまだ全国で一定数の支持はある。最近は反バトルを異常に持ち上げて本部へのクレームも凄い。わしらも手をこまねいているんだ」
「……ランスは、昔はあんな男じゃなかった」
まだ現実を受け入れきれないシバが、驚くほどか細い声でぽつりと漏らした
「何であんな風に……」
この親友の反応を見るに、やはり数年前にワタルが顔を合わせた頃から、彼はだいぶ変貌しているようだ。信頼していた友人に離れられたことは、シバという男にも衝撃だったらしい。
「でも事実だからね、どうすることもできない。ま、鳳凰会は言ってることが極端だからすぐ熱も冷めるでしょう」
総監はテレビを消してデスクに戻ると、上等な椅子に身を投げ出した。聞こえよがしの溜め息が、その苛立ちを表している。
「ついでに、君たちも頭を冷やしなさい。チャンピオンは一週間謹慎。シバくんは二週間。世間の前に出てこないように、ひっそりとトレーニングしてるんだな」
「……分かりました」
二人は素直に頭を下げる。しかしワタルは一点だけ気にかかり、恐る恐る総監に尋ねた。
「あの、イツキくんの件は……」
「丸腰で訓練するなと注意した後、早急にリハビリを進めさせます」
「それはオレの管理不足で……!」と、言いかけたワタルの弁解を遮る様に、総監は力強くデスクを叩いて声を張り上げる。
「わかっとるわ!貴様は部下の管理もできんのか!!」
地鳴りのような怒号が部屋を震わせ、息もできない程に凍りつかせる。百戦錬磨のプロトレーナーたちは反射的に背筋を伸ばした。総監は息を吐くと、ワタルを睨みながら極めて冷静な口調で告げる。
「私は怒っているんだよ。それと、デビューの日程はずらさない。これ以上、セキエイを落ちぶれさせたくないんでね。君だけじゃないんだよ、我々だってセキエイにプライドを持ってる。これだけ失望させといて、失敗したら許さんぞ」
刃を向ける様な、鋭利な眼差し。
ワタルは何も言えずにただお辞儀だけすると、そのままシバと部屋を出た。
「ちょっと言い過ぎなんじゃないのか?」
二人が退室したことを確認すると、オーキドは凍りついた身体を温めるように両手を擦り合わせながらデスクに近づく。
「期待の裏返しだよ」
「分かりにくいなー」
「これで分からんかったら、それこそただの繰り上がりのチャンピオンだよ。トレーナー暗黒時代に突入だ。やだなぁ、そんなときに総監なんてさ。まるで私の責任みたいじゃないか。お前、代わってくれない?」
総監は白い歯を見せ、飄々と尋ねる。
「断る」
オーキドは即答した。
「だよね」
総監は窓越しにビルの下を眺める。まだまだ記者陣が蟻のように集まり、騒いでいるようだった。
「ま、彼はきっと挽回してくれると思うけどね。今回の件は、気を引き締め直してくれればそれでいい」
「お前は彼を四天王になったころから気に入ってたからなぁ……」
オーキドは肩をすくめながら笑みを溢した。
「そうそう、だからこの程度で折れてもらっては困るんだ。臆病者は戦士に非ず、って言ったあの意気込みはまだ見られるはずなんだがね」
総監は椅子に身体を預けると、窓の外に広がる夕刻の空を愉快気に見上げた。
+++
その夜。
ワタルは久々にフスベシティの実家に帰宅した。彼はこの町のドラゴン使い一族の本家長男で、それは見事な和風邸宅を受け継いでいる。突然の主の帰還に、小間使い達は上を下への大騒ぎ。荷物を片付けていると、近所に住むイブキが話を聞いて駆けつけてきた。
「お、お兄様!聞きましたよ、お気を悪くしていませんか!?」
「……ああ。平気だよ」
ワタルは平坦な口調で頷く。明らかにダメージを負っている憧れの従兄を、イブキは自分のことのように心配した。
「あんなの気にすることありませんっ!世のマスコミは鳳凰会の回し者ですが、私はお兄様を信じます!!」
「ありがとう……」
彼が苦笑すると、イブキはうっとりと悦に浸った。彼女にはワタルが心底喜んでいるように見えるらしい。やや扱いに困っていると、町の長老が飛んできてイブキを叱りつける。
「こらイブキ!ワタルに迷惑をかけるんじゃない!」
「でも長老……!お兄様は……」
「こんな時に女はいらんのだ」
長老はそう告げるなり、半ば無理やり彼女を追いだして屋敷へ上がりこんだ。彼はフスベシティに住む老練なドラゴン使いである。分家の長だが、実力は計り知れない。ワタルが幼いころから訓練を付けてもらった師の一人でもある。
ワタルは長老お気に入りの場所――フスベシティが一望できる、屋敷の2階ベランダへと案内した。酒を出し、月を見ながら最近の事情を彼に説明する。心地よい夜風に吹かれ、静寂の中にいると胸中を何でも吐露してしまう。
「ちょっと……めげそうでした」
「君はこれまで比較的何でも上手くいってたからな。突然の下り坂……戸惑うだろう」
「そうですね。でもオレは支えてくれる人に恵まれています。なんとか這い上がれそうです」
ワタルは猪口を口に運びながら、姿勢を正して微笑んだ。
「そうそう。終わって振り返ってみれば、大した坂じゃなかったと気づくものだ」
長老も酒を飲み干しながら、にこやかに白い歯を見せる。思ったより弟子が落ち込んでいないと分かり、安心したのだ。
「デビュー、楽しみにしてるぞ。この町に住む者の多くが、君のファンなんだからな。プロはファンありきの存在だ」
「はい、もちろんです」
彼は恭しく、頭を下げる。
着実に頼もしくなっていく元弟子に満足し、長老はそれ以上何も言わず帰宅することにした。
見送りを断った長老をベランダから見守りながら、ワタルは残りの酒を飲み干した。それほど飲まない日本酒だが、不思議と酔いは回ってこない。月光に照らされ、灰色の雲が夜空を緩やかに流れていく。彼はおもむろにボールから相棒のカイリューを呼び出した。彼女は屋根瓦の上に着地する。
「……気持ちいい夜だなあ」
ほっとしたように頬を緩ませる主人を見て、カイリューも嬉しそうに頷いた。
「なんだろう……。段々、絶望感も消えていくよ」
なかなか状況は好転しないにもかかわらず、周囲は自分に協力してくれる。すべてが敵という訳ではない――寝静まった世界を包む夜空の下、心は次第に穏やかに変化していく。自分を支えてくれる人々のため、再び立ち上がらなければ。
「さて。今からフスベの祠へ行って修行をしようか」
彼は身体を伸ばして立ち上がると、窓からそのまま屋根の上に出た。カイリューが頭を下げて主人を迎える。
夜明けはまだまだこれからだ。
+++
一週間後。
ワタルはスタジアムの裏口からバトルフィールドに向かっていた。謹慎が解かれてから初めてやってきたスタジアムは相変わらず閑散としているが、漂う空気感はどこか新鮮だ。ロッカールームを抜け、無人の通路を歩いていると前方からカリンが現れる。彼女はワタルの姿を見つけるなり、顔をしかめながら早足で近寄ってきた。
「お久しぶりね」
と、言い終わる前に渾身の右ストレートパンチが炸裂する。指輪を嵌めているので痛みは倍増し、鼻血が垂れた。ワタルは思わず壁にもたれ込んだ。
「ちょっ……!?」
「あなたがいない一週間、鳳凰会やマスコミが押し寄せてきて大変だったの。ほとんど本部タワーで寝泊まりしたわ。メディアの対応にも追われて、本部もチケットのキャンセル処理で大わらわ。これくらい、当然でしょ。みんなの怒りを代弁してやったまで」
カリンは直視できないほど恐ろしい形相で、ワタルを睨み据えている。
「……すまない」
鼻を押さえたまま素直に頭を下げるワタルの姿に、彼女の怒りもすぐに鎮火した。
「イツキは自業自得よ。気を病むことはないわ。今は塞ぎ込んでるみたいだけど、私がとっととリハビリ進めなさいって言っとくわ」
「あまり無理させるのは……」
と、遠慮がちに言うワタルにカリンが厳しく切り込んだ。
「悔しくないの?カルトNPOとマスコミから言われ放題なのよ!あなたは気にならないかもしれないけど、他はそんなに打たれ強くないのよ」
非難対象になっているのは自分だけではない。ワタルはそれを改めて思い知らされた。彼女は一歩前に出ると、ワタルを煽る様にその顔を覗き込む。
「このまま黙っているつもり?」
彼は鼻血を拭うと、居住まいを正して言明した。「まさか!これ以上、セキエイの評判を落とすわけにはいかない」
お人よしなワタルの雰囲気が見せた勇猛果敢な王者の風格に、カリンは口角を上げ、満足そうに微笑んだ。
「それでなきゃ。男がすたるわ」
彼女は人差し指でワタルの胸元を小突くと、愉快気に身を翻し、そのままロッカールーム方向へと消えていった。足取り軽そうな彼女を見送っていると、鼻血が再び垂れてくる。
(殴ってそのままかよ……)
ワタルは一度ロッカールームに戻ってティッシュを取ってこようと考えたが、フィールドの方から聞き覚えのある声がするので、軽く血を拭って足早にそちらへと向かう。
ベンチ席に出ると、シートに紺色の帆布のビジネスバッグが置いてあるのが目にく。すぐに彼の姿を探す――スタンドの真下で、スタッフに防護ネットを張るよう指示を出していた。
「キョウさん」
ワタルが声を出すと、キョウがこちらに気付き左手を上げて応えてくれた。その手元にクロバットが降りてくる。ワタルはフィールドを回りながら彼に近づくが――段々と距離が縮まるにつれ、キョウが呆気にとられたような顔になっていく。
「久しぶり。……女王様にやられた?」
指摘され、また鼻血が垂れてきていることに気が付いた。すかさずワタルの目の前にピッピ柄のキュートなポケットティッシュが差し出される。彼は目を疑った。
「ちょうどよかった。これ、うちの娘からの差し入れ」
「あ、ありがとう……」
ティッシュで血を拭き取りながら裏側を見ると、ビニールケースに《負けないでください!》というメッセージと共に、あんず味のキャンディが張り付けられていた。
「君の大ファンなんだよ。最近の過熱報道に毎日怒ってる」
「助かりました。ありがとう、ってお伝えください。ご迷惑おかけしてすみません……」
「平気だよ、あれくらい。うちはセキュリティが厳しいから、マスコミ連中は自宅まで来られないんだよ。だがシロガネまで乗り込んで隠し撮りなんて……、暇だよなあ。そこまでして陥れたいのかと思わないか?」
キョウは何か含みがあるような表情でワタルに問いかけた。
「……こういう職業ですからね。それだけ、注目されてしまう。グリーンの件もあるし……」
「だがカリンは相当参ってるようだな。さっきここへ来て、散々文句垂れていった。やっと時間ができてスタジアムで調整できるって時に……」
そう溢しながら、キョウは帯に挟んでいた扇子を取り出してサッと振り上げた。彼の傍にいたクロバットが、天井高く舞い上がる。
「皆集まらなくて、はけ口がなかったんでしょうね。すみません、お忙しいのに」
「いや、それはこっちの台詞だよ。なかなか会議に出られなくてすまないね。……ところでイツキは大丈夫なのか?まだ見舞いにすら行けてないんだが」
彼はクロバットに注目しながら扇子を開く。それと共に蝙蝠は大きく一回転しながらネット際を滑空した。作業をしていたスタッフが思わずのけぞる。
「リハビリ込みで全治三か月だそうです。間に合うかどうか……」
「ふーん、相当悔しがってるだろうなあ」キョウはまるで他人事のように、扇子を動かしながら呟いた。「あの性格だ、どうせ調子こいて自分で落ちたんだろ?」
「いや、命綱とジャケットをさせなかったオレに責任が……」
「確かにそれもあるが。あいつ、15だっけ……?旅もしててその年で自己管理ができないなんて、ただの自業自得だよな。カリンがきつくお灸据えるらしいぞ。ほどほどにしとけって言ったけど、君でそれなら半殺しかもな」
「……手厳しいですね。カリンには注意しておかないと……」
さすが、面接で『プロの世界は甘くない』と断言しただけある。仲間の故障にも彼はとてもドライだ。淡々と話すその口ぶりは、激務や過熱報道に少しも影響を受けていない。そんな姿に、ワタルは少しだけ羨望を抱いた。会話を続けながらキョウが扇子を右に振ると、クロバットがネット際を軽やかに飛行する。よく見ると、その耳には小型のヘッドフォンが取り付けられていた。
「ところで、さっきからその扇子……」
「ああ、これ?指示の補助道具だよ。こいつは視力が同種の半分もなくってな、使用許可はオーキド教授に貰ったから。本部にも申請済み」
彼が扇子を前に倒すと、ワタルの目の前にクロバットがひらりと舞い降りてくる。見事なコントロールに思わず舌を巻いた。
「この耳にしているのは?」
「イヤホンでスタジアムの喧騒を流してる。実戦はさすがにここまで静かじゃないだろう?伝達は問題なさそうだ」
と、言いながらキョウは扇子を上へと動かし、クロバットを再び天井まで飛ばして見せる。ラジコンさながらの技巧にワタルは感銘を受け、惚れ惚れとクロバットを眺めていた。サイン自体、ポケモンに覚えさせることが大変だというのに、これほど見事に操ることができるとは。しかもトレーナー自身は全く関係ない会話を続けており、ポケモンは主人の声と扇子の音をしっかり聞き分けているのである。これには相当な鍛錬と連携が必要だろう。
「これは見事な腕前ですね。他にも……?」
「いやいや、ハンデ持ちはこいつ一匹で精一杯。他の手持ちはブロックサインで指示を補っているくらいかな」
「おお、素晴らしい!プロでもサインを身に付けている人、なかなかいませんよ。是非今度教えてくれませんか」
目を輝かせるチャンピオンに、キョウは苦笑した。
「神聖なるドラゴン軍団を率いているチャンピオン様にお教えすることなんかありませんよ。うちは変化球で勝負しなきゃなかなか勝てないからね、企業秘密ということで。……あ、引っかかる」
キョウはすかさず扇子を振って、ネット際を飛ぶクロバットを網から少し離した。とはいえ、ワタルにもよく分からない程微妙な間隔だ。スレスレを飛ぶ訓練をしているのだろうか。
「ところでこの網、邪魔だと思わないか?気にしてるとポケモンバトルがコンパクトになるな」
彼は苦い顔をしながらネットを指差す。
「そうですね。オレはもう慣れちゃいましたけど、最初は苦労するかもしれません。水などは通過してしまうので、あまり意味はないなと思ってるんですけど……」
「だよなあ。……チャンピオン様もそう感じるんなら、これは提案したら通るかもしれんな」
「えっ?」
キョウはワタルをベンチに導くと、バッグから分厚い書類が収められているクリアファイルを取り出した。その中から地味なパンフレットを抜き、彼に手渡す。
「最初見たときに、いけるんじゃないかって思ったんだよ」
それはケーシィ・テックという会社の『見えない壁』と呼ばれる製品のパンフレットであった。表紙はあまり心惹かれないデザインだったのだが、その内容を見てワタルは思わず感嘆の声を上げた。ポケモンの『リフレクター』の技術を応用し、高い透過度と安全性を誇る壁。設置も比較的楽である。
「……すごい!こんな素晴らしい物があるんですか」
「だろ?地元の町工場の傑作なんだが……透過度が高すぎてあんまり売れてないらしい。でもここなんか、うってつけだろう?あの魚網を取り払って見えない壁のフェンスを張れば、トレーナーはダイナミックなバトルもできるし、観客も安全で快適な観戦ができてまさに一石何鳥も……」
「これ、ぜひ導入しよう!!!」得意げに語るキョウの言葉を遮り、ワタルはパンフレットを握りしめて立ち上がった。
これは今まで以上にファンを満足させることができる、画期的な装置である。新生セキエイの目玉のひとつになるかもしれない。メリットは多く、導入する価値はある。
「……良かった。それじゃ早速、担当者呼んで提案書と見積もり作ろうか」
予想以上に乗り気のワタルを見て、キョウは呆気にとられつつ他の書類も見せた。やや値が張るのがネックだが、資料に目を通すほど素晴らしい技術であることが分かる。
「そうですね、時間もないことだし。オレから総監に相談してみます」
「いやいや、ここはマツノ支配人から言ってもらおうよ」キョウは企むように笑った。
「あの人に……?スタジアム支配人とは言っても、什器導入の最終的な決定権は総監に……」
「確かにそうなんだが……あの人は一応このスタジアムのボスだし、顔を立てないとな。それに君、謹慎解かれたばかりだろう?こんな高いのノコノコ持って行ったところで、火事にガソリン注ぐだけだ。俺もあのタヌキジジイとはあまり会いたくないし」
確かにそう言われると、自分が出しゃばるよりは支配人に任せた方が得策だろう。早速着物の袂からスマートフォンを取出し、ケーシィ・テックに電話をかけ始めるキョウの姿を眺めながら、ワタルは元社会人ジムリーダーの手際の良さに感心するのであった。