プロローグ
少年は丸くかたどられた空を見上げた。
切り立った崖の谷間から覗く青空は、とても狭くて程遠い。
こんなにも気の遠くなる存在だったなんて。彼は傷だらけの腕を太陽に伸ばしてみる。
届くはずかない。
(誰か、助けて……)
全身に駆け巡る痛みが声さえも奪う。
正面に顔を向けると、エアームドが鋼の翼を広げて少年を威嚇し、じりじりと近寄ってきていた。
このまま崖の下で、鋼の猛獣に食われておしまいなのだろうか?
仕留め損ねたオニスズメを追ってエアームドに襲われ、巣穴に落とされるなんて情けない。落下の際、相棒のミニリュウがクッションになって痛みは若干軽減されたものの、身動きすらできない状態だった。更には唯一の手持ちであるミニリュウも、落下の衝撃で気絶している。
彼女も早くポケモンセンターへ連れて行って精密検査を受けさせなければならない。
少年は身体を震わせながら、必死で救助を呼ぶ方法を考えていた。不運は重なるもので、彼は今丸腰だ。助けを呼ぶ術がなにもない。
真上にやってきた太陽が彼を焦らし始める。何もできない、無力な己が非常に悔しい。
エアームドの眼が鋭く光った刹那、その重厚な鋼の身体が上空へ浮き上がった。
吃驚する少年の足元からダグドリオが顔を出す。エアームドはまるでボールのように軽々と穴の外へ放り出されると、正面から紫色の尾が鞭のように飛んできた。そのまま数メートル吹っ飛ばされ、慌てて体勢を立て直そうとするも、すかさず眼前にニドキングの拳が飛んでくる。首を捻られ、その場に突っ伏した。
突然の事態に、状況が飲み込めない少年がダグドリオを前に固まっていると、穴の上から男の声がした。
「大丈夫か?」
少年は思わず空を見上げる。
逆光に浮かび上がるシルエット。
少年にはスポットライトを背負って現れた、ヒーローのように見えた。
「今、助けてやる。待ってろ」
アーボックが崖の岩肌を伝いながらするすると降りてくる。ダグドリオもいる中、巨大な体躯が近寄るとさすがに穴の中は窮屈だったが、長い尾で少年とミニリュウを器用に巻き取ってゆっくりと引き上げてくれた。眩い光に目を細めながら、彼は広がっていく空を見て安堵する。そのまま崖の前の草むらに寝かせられた。
「……りがと……う」
ようやく絞り出せた声を振り絞って礼を言った。
「喋るな、手当てしてやる」
アーボックのトレーナーらしき男が、消毒薬を取り出して黙々と止血を行う。痺れるような痛みが身体を駆け巡り、少年は鋭い悲鳴を上げた。あまりの激痛に、頭が朦朧とする。
「すぐに病院に連れていくからな」
「……い、しま……す」
「それにしても、よく耐えたものだ。頑張ったな、根性がある」
「……」
男は少年を抱え、サイホーンに乗って病院へと急いだ。
風を切る音が少年の耳元で響いてくる。ぼんやりとした視界の中、男のジャケットのラペルに羽根型のバッジが光っていた。
それは当時、天才トレーナーと名高きジムリーダーが所有していたジムバッジである。
(この人、強いのかな)
怪我でそれどころではないのに、少年はふとそんなことを考えた。
病院につくと、少年はそのまま入院が決定した。彼の姿を見るなり、医師や看護師は浮き足立つ。
「まあ、ワタル坊っちゃんじゃないですか!早く、こちらへ」
看護師は急いで治療室を開け、少年をベッドへ運び込んだ。あまりに大仰な扱いに、男は呆気にとられたように立ち尽くしながらこの様子を眺めるばかり。そうしているうちに、医者が彼の元へやってきた。
「……あなたは?」
「崖の下に落ちた彼を引き上げた者だ」
「ありがとうございます。お話を聞きたいので少し留まってていただいてもよろしいですか?お名前は?」
「名乗るほどの者ではない。ただのトレーナーさ」
男は肩をすくめて微笑んだ。
その後すぐに治療が行われ、少年は目を閉じたまま生きている喜びを噛み締める。
耳に入ってくるのは、医師や男の会話、看護師の声。そこで彼は自分が浅い切り傷と足を捻った位で、比較的軽傷だったことを聞き安堵した。クッションになってくれたミニリュウも無事らしい。
(ああ、良かった…)
あの男が助けてくれなければ、誰にも見つからずエアームドの餌食になっていたのかもしれない。
「それでは、俺はこれで」
男の声が聞こえる。
「え、もう行かれるんですか?」
医師の驚く声。
「あまり時間がないんでな」
「ありがとうございました。彼のご両親には、私から説明しておきますね」
あの人が行ってしまう。
少年はぱちりと目を開けて、まだ痛む右腕を持ち上げた。
「あの……っ」
男がさっと振り返る。
「ありがとう…」
ようやく紡げた感謝の言葉を受け、男は頬を緩めた。彼はベッドに歩み寄ると、少年の頭をそっと撫でる。
「軽傷で良かったな。次から気を付けるんだぞ」
「この人はワタル坊ちゃんのヒーローだねぇ!」
横から口を挟んだ医者の言葉に男は目を丸くし、思わず噴き出した。病室に響く豪快な笑い声に、状況が分からない看護士達が足を止め、何事かと彼に注目する。
「ははは、ヒーローか。面白いな!俺がヒーロー、ね……」
次第にその笑いは自嘲気味になり、不思議に思った少年は首を傾げた。
「おじさん、かっこよかったよ」
「そうか。それは嬉しいな。今までヒーローなんて、呼ばれたことがなかったからな」
「トレーナーなんだよね?」
「ああ」
少年は男の腰に巻かれたベルトを見ながら尋ねる。そこにはモンスターボールが6個装着されており、彼がポケモントレーナーであることを表していた。先ほど見たポケモンは、一見してもかなり鍛えられていることが分かる。おそらくポケモンバトルの腕は相当なものだろう。
「強い?」
「強いぞ」
男ははっきりと答えた。
その瞬間、彼の雰囲気がぐっと引き締まり、獅子のような勇ましい戦士の風格へと変わる。
少年は思わず息を飲んだが――同時に込み上げてくる好奇心。ポケモンバトルは何より好きなスポーツだった。
「今度、僕と勝負しようよ」
「ふん、相手にならんぞ。ミニリュウ程度ではな」
男はニヤリと口角を上げた。自信たっぷりの彼は本当に強そうだが、少年はますます挑んでみたいと思った。
「すぐに強くなって、おじさんを追い抜くよ」
「ふふ、崖の下で何もできずうずくまっていた君が?……面白いな!しかし良い心がけだ」
このやり取りを傍で楽しそうに聞いていた医師が、看護士に呼ばれてその場を離れる。その姿を目で追いつつ、男はジャケットの裏からさっと名刺入れを取り出すと、一枚抜いて少年の掌へ押し込んだ。そして囁きながら微笑む。
「誰もが認める実力になったら、ここへ来るといい。いつでも受けてたとう」
少年は名刺をこっそりと覗きこんだ。
――トキワシティジムリーダー、サカキ。
その肩書きを見て少年は仰天し、身体を跳ね上がらせた。期待通りの反応に、男は白い歯を見せ満足げだ。
「うん……、分かった。強くなったら、ここへ行く」
「お?思ったより怖気づかないな」
「言ったでしょ。すぐに追い抜くって」
おそらく見抜かれているだろう畏怖の念と共に、少年は枕の下へ名刺を隠した。
「その闘争心を忘れずに突き進め。挑戦者は常に誇り高くあるべきだ」
そう告げながら、男は少年の前に拳を突き出した。まるで岩のような、固く結ばれた右手には強い信念が滲み出ている。
少年その言葉を受け止める様にしっかりと頷くと、己の右掌を丸め、ゆっくりとそれに突き当てた。