M-81 これからの事
『サファイア。本当に、やる気なの?』
――暗い闇の中から、凛とした声が聞こえて来る。その高さは男とも女とも断言出来ないような、しかしどこか懐かしい、中性的な声。それが、闇に浮かぶもう一人の少女――ニンゲンの姿のサファイアにかけられる。
そんなサファイアは呼び掛けに一言も返さず、ただじっと俯いて固まっている。
『この世界と、対の世界。本音を言えば、いつものように千年のサイクルで動いて欲しかった。でもこんなことになった以上、それはもう諦めた』
声の主の姿は、見えない。ただ闇の中から、サファイアに語りかけるように上から降り注ぐ、声。
『正直、今はどっちの世界も荒れている。でも、飛び散ったカケラを集めても、完成形は一つだけ。同時に二つの世界を救うことは、できない』
そして、声はここが重要とでも言うように、そこで一度言葉を切り――続ける。
『まだ調整の終わってない世界。七年前から荒れに荒れた世界。ニンゲンである君は、どっちに肩入れする気かな――』
闇が辺りを支配する時間帯に、サファイアはふと目を開けた。隣を見ると、エレッタとミラの規則的な寝息が聞こえて来る。
サファイアは、離れた場所に置いてある、宝石箱に視線を向ける。今見ていた夢の声が、何度も蘇る。
――数日前、エレッタの兄ルクスとその相棒レイダーから譲り受けた新しい宝石、アメシスト。期待に胸を躍らせながら触れたサファイアの頭に呼び出された声は、その期待を凍らせるようなものだった。
何かを思い出したにも関わらずそれを伝えないサファイアだったが、エレッタもミラもそっとしてくれている。言うのが辛いのなら、言わなくてもいい、と。
確かに、そうだ。あの謎の声の言う通り、珠玉を完全な形に戻した所で、こちらの世界に置くか、ニンゲンの世界に返すのか――その選択によって、今回の騒動の結末は変わる。
あの声曰く、こちらの世界に置き続けるのなら、こちらの世界の歪みは十数年で消え去るらしい。が、ニンゲンの世界はその間暫くは荒れ続け、もしかすると滅ぶ可能性もある。こちらの世界が、星の停止未遂によって荒れたように。
ニンゲンの世界に返した場合は、珠玉は従来の安定したサイクルに戻り、最終的には双方の世界に長い平穏が訪れる。一方で、ポケモンの世界は荒れ続け、回復には百年単位の時間を必要とする。
世界の荒れによって引き起こされるのは、異常気象が少し増えたり、一部地域がダンジョン化するといったものが主だという。口で言うのは簡単だが、生活するに当たって生易しいものではない。
珠玉を完成させたところで、これをニンゲンの世界に返していいものなのか――サファイアの中で、既に決めていた気持ちが揺らぐ。
サファイアは元々ニンゲンで、飛び散った珠玉の破片を集め、元の世界に返す。今はこんな姿だが、それが彼女の使命であった。
それなのに。
(私は、元はニンゲン。だから、どちらかに肩入れするとすれば当然、ニンゲンの世界になる。でも……)
サファイアは暗く沈んだ気持ちのまま、再びエレッタとミラに視線を移す。
エレッタは何やらムニャムニャと寝言を呟いていた。長い間離れていた兄と再開出来た喜びで、心なしか笑顔に見える。
ミラは、今夜も平常運転。寝返りを打つこともなく、静かに眠っているようだ。
――この二人を始めとした、元ニンゲンという異質な自分を受け入れてくれたポケモン達。この温かい関係を壊しかねない選択を、サファイアは下すことが出来ずにいた。
(……私は、どうすればいいの? 教えてよ、"セカイジュ"――)
サファイアは再びベッドに身体を横たえ、再び眠る体勢になる。
今までサファイアを助けてきたというその声は、自らを"世界樹"と名乗っていた。
〜★〜
その翌日、サファイア達は親方ハーブにマロンを通じて呼び出され、親方部屋を訪れていた。ハーブの隣にはマロンが静かに佇み、双方がどことなく緊張に包まれる。
部屋の静かな空気に戸惑うサファイア達が全員揃ったことを確認して、ハーブは口を開く。
「さて、単刀直入に言うわ。エルテス姉さんからも大体"手紙"で聞いてるけど……サファイア、珠玉のカケラ集めの調子はどう?」
やっぱり、守護者の妹であるらしいハーブはサファイアの行動の目的を知っているらしい。
残りのカケラは二つ、場所が分からないものとなると一つだと正直に話すと、ハーブは少し難しい顔つきになる。
「そう……じゃあ、もう言っちゃおうかな。あなた達が集めているカケラの一つ、ダイヤモンドは、既に私が持っている」
「……えぇ!? そうだったんですか!?」
サファイアは一瞬だけ驚いた様子を見せるものの、すぐに表情を引き締める。ハーブの目つきもまた、サファイアや後ろで静かにしている二人を品定めするような視線を送っていたからだ。
「本当ならすぐにでも渡したいところなんだけど……諸事情があって、まだ渡す訳にはいかないの。それで、こっからが本題なんだけど」
ハーブは蔓で資料の山から不思議な地図を引っこ抜くと、きょとんとするサファイアの目の前に持ってきた。そしてもう片方の蔓も伸ばし、地図の中のとある山を指す。
「……えっと、ここは?」
「ここは、"ヘルメス神殿"っていう建物。あなた達にはまずそこに行って、とある場所の鍵を取ってきてもらうわ」
「鍵、ですか?」
サファイアが首を傾げると、ハーブは不思議そうにサファイアを見る。その表情には、少しだけ困惑と思われるものも混じっていた。
「あれ? エルテス姉さんから手紙で聞いたけど、サファイアはニンゲンの"守護者"なんでしょ? 鍵の存在くらい知ってるでしょうに」
このハーブの疑問を聞いて、やっぱりハーブの姉はこちらの世界での"守護者"なんだ、と再確認するサファイア。その姉は、何かしらの方法でこちらの様子を掴んでいる、ということも。
ただ、サファイアが元ニンゲンであることは知られていても、記憶喪失であるということまでは分からなかったらしい。
「私は、ニンゲン時代の記憶がないもので……カケラを集めていけば記憶の一部を思い出すことは出来るのですが、珠玉を完成させたらそれをどうすればいいのかとか、そういうのはまだ分からなくて」
ハーブに本当のことを告げると、ハーブは「むむ」と唸った後に、そういうことなら、と話し出す。
「珠玉はね、本来は世界のとある場所――"白の力"が濃密に集まっている場所に置かなきゃいけないの。ニンゲンの世界に珠玉を返す場合も、ここから送る必要がある」
「どちらにせよ、そこに行かないといけない、って事ですか?」
「そういうこと。まあここだけじゃなくて、もう一カ所寄ってもらう場所があるけど、それはまた今度」
そこまで言い終えて、ハーブは地図を引っ込める。そして入れ替わりのように蔓で掴んだ手紙のようなものを、サファイアに渡した。
「これは……何ですか?」
「通行許可証、みたいなものかな? 本来あの神殿はよっぽどの用がない限り立入禁止なの。今回はそこを無理矢理話をつけて強引に許可をもぎ取ってきたようなものだから、絶対に無くしちゃダメよ」
通行許可証を受け取ったサファイアは、それをトレジャーバッグの奥底に仕舞う。こうすればよっぽどのことがない限り、途中でなくすことはない。
「それと、あの神殿には門番、というか管理人がいるんだけど……そいつがまたすっごいガチガチの石頭なのよ。だから下手に機嫌を損ねないようにね」
「はあ……」
門番を頑固と断言され、サファイア達の顔が僅かに引きつる。頑固は頑固でも、せめて難癖をつけられたりすることのないよう祈るしかない。
「ま、そういうことだから。出来れば今日にでも行ってきて欲しいの。それじゃ、頑張ってね!」
ハーブの話が終わり、地図を見ながら出ていくエレッタとミラ。サファイアもそれに続こうとして、ハーブの蔓に道を塞がれた。
その隙にマロンがエレッタにこそこそと何かを耳打ちし、先に二人を部屋から出して扉を閉める。
「え、あれ? まだ何か……?」
扉を閉め、部屋の中に戻ったマロンの姿を見て、サファイアは疑問を感じつつ振り向く。
すると――そこにいたのは、さっきまでの威厳のある雰囲気とは全く違う、重苦しい空気を纏ったハーブだった。
「……サファイア。一つ、聞いていい?」
サファイアの行く手を遮った蔓を戻し、ハーブは言葉を続ける。
その姿に不安を感じながら、サファイアはハーブに向き直った。
「……何でしょうか?」
「珠玉が、元の形に戻ったら。サファイアは、どっちの世界に珠玉を置くつもりなの?」
「…………」
昨日の夜、サファイアが悩みながら考え、結論を出せないままにしていた問題。それを引き出され、サファイアは言葉に詰まる。
「ま、そう簡単には決められないわよね。サファイアがどこまで事実を知っているか怪しいものだし」
「……親方様は、どちらの世界に置く方がいいと思うんですか?」
「私としては、元のようにニンゲンの世界に返して欲しい……いや、違う」
言いかけた言葉を途中で止め、ハーブは"あること"を決める。
それは、サファイアに事実をありのまま伝える、ということ。
「本音を言えば、ニンゲンの世界に返す方が、結果的には平和になる。けど、サファイアのことを思えば、ニンゲンの世界には渡したくない、かな……」
辛そうに告げるハーブの様子は、世界樹の森へ行かないようにと命令したあの時酷似していて――
「私のことを思えば? それは……どういうことですか?」
ハーブの様子はもとより、扉を塞ぐマロンも暗い顔をして俯いている。
が、嫌な予感がしながらも思い切って聞いたサファイアに、ハーブはゆっくりと口を開いた。
その言葉は、サファイアにとって思いもよらないもので――
「……どちらの世界に置くにしても、珠玉を手放せば……サファイア、貴方はこの世界から消えてしまうのよ」