M-66 凍えた心を溶かすもの
エレッタの"合図"を聞いて、タヌキ寝入りを決め込んでいたサファイアものっそり立ち上がった。
チルムさんの言った通りだ、とサファイアは心の中で思う。
ミラは絶対にここに戻って来る。だから、それまで寝たふりをしてミラを近づけさせろと言われたのだ。
そして、ミラが来たら囲むか腕を掴むかして逃げ道を断て、とも。傷付いたミラとの体力差は一目瞭然であり、逃げることを不可能にするために。
「ミラ、一緒にフロールタウンに帰ろ?」
まず単刀直入にエレッタはミラに呼び掛ける。だがミラは顔を逸らして俯き、黙りこくってしまった。ミラの気持ちは目を見ればある程度分かるのだが、俯かれてしまうと感情がさっぱり分からない。
「解毒薬を飲ませてくれたの、ミラなんでしょ? 今もオレンの実を取り出そうとしていたし」
極めて明るく振る舞うエレッタにも、ミラは無反応を突き通す。
その時サファイアには、ほんの少しだけミラに"変化"が表れたことに気付く。
けれどそれは、エレッタの意見に甘えるような穏やかなものではなく――
「ね? あたし、もうミラに怒ってなんかいないから、さ。電撃なんて飛ばさないし、ミラを責めたりする気はないし……」
無反応のミラに対し、このまま押し切ろうとしたのかエレッタは一気に思いを伝えていく。
しかし、この言葉は――精神的に追い詰められていたミラの心に、容赦なく牙を向いた。
「……して」
蚊の泣くようなか細い声が、聞こえて来る。
「え? 今、何て――」
「……離してっ!!」
突如発せられた、ミラからの言葉。その予想を超えた思わぬ激しさに、危うくエレッタは掴んだ手を離しそうになってしまった。
それを見たサファイアは慌ててミラの斜め前に回り込む。つまり――サファイア自身もこんなことをしたくはないが――ミラを、泉を背にして囲む形になる、ということ。
「……何で……どうして、こんなところまで、追ってきたの!?」
サファイアが何か言いかけた、その瞬間。一足早く、ミラがやっと口を開いた。
しかし、途切れながらも出されたその言葉の重みに、サファイアの動きは完全に止まってしまう。それは、エレッタも同じだ。
「……エレッタは、わたしのことが、憎いんじゃ、なかったの? ……だったら、わたしのことなんて、放っておけばよかったのに……それなのに、どうして……どうしてこんなことを!?」
「…………」
サファイアとエレッタは、完全にミラに圧倒される形となっている。お互い顔を見合わせるも、何も言えない。
「……やっと、離れることが出来たのに……どうして、追ってきたりなんてするの!? どうして……そんなに、いつも……お人よしで、いられるの!?」
一気に怒鳴ってさすがにに息が切れたのか、ミラはぜいぜいと肩で息をする。
サファイアとエレッタはその間に、ミラの言葉を噛み砕いて……その言葉に含まれた意味を知ることになる。
「……ミラ。"やっと離れることが出来た"って……どういうこと?」
サファイア達にとって、この言葉は極めて重要な、聞き流すことが出来ない問題だった。
言葉の持つ意味によっては――最悪の場合、"依頼失敗"に直結する。
「……あの時……雷が落ちる、直前に――」
ミラは目を逸らしたままではあるが、こちらの質問には答えてくれた。
そのことにとりあえずはほっとしたサファイア達は、しかし次に飛び出した言葉に再び硬直してしまった。
「――エレッタの、両親に……言われたの……。『消えてしまえ』と、『私達の子供の前に、姿を見せるな』と……」
――何だって?
エレッタは思わず我が耳を疑った。
自分の親が、ミラに何と言ったか。そして、その言葉がミラに与えている影響……これを無視することは出来ないが、それにしても。
いくら状況が状況とはいえ、余りにも酷い。
「……昔、メリナから聞いた、あの言葉……わたし達は、一緒にいてはいけないと、そう言った……あの言葉の意味が分かった、その時から……ずっと、離れなきゃいけないって……。だからもう、2人に関わらなければいいんじゃないかって、そう、思ってたのに……!」
エレッタの両親からかけられた、冷たい呪詛の言葉。
朝日の塔でメリナから告げられた、あの言葉。
その繋がりを知った時から、ミラはずっと悩み続けてきた。
エレッタ達2人にそのことを告げようとして、けれど後に待つ結末を恐れて告げることが出来ずにいた。
そして、タイムリミットにより否応なしに訪れた結末は、ミラが恐れていた通りのもので……だから今でもミラは、サファイア達の求めに素直に応じることが出来なかった。
一方のサファイアとエレッタも、さっきまで自分達が求めていたものの間違いに気付かされた。
自分達は、今までミラを探検隊に連れ戻すことを強く望んでいた。それはいい。
だが急ぐあまり、自分達はミラの気持ちを汲み取ることを怠った。連れ戻してしまえば後はどうにでもなる問題ではないのに、焦ってミラの気持ちも考えず一方的に"仲直り"を達成しようとしていた。
けれど、それでは根本的な解決には程遠い。ミラの心を縛り付ける鎖を断ち切るのが先決だった。
だから――
「ごめんね、ミラ」
ぴくりとミラが反応するのをエレッタは感じ取った。
エレッタは、電撃を放ったことに対して『そんなつもりじゃなかった』などと言おうとはしなかった。ミラはそんな安易な慰めを求めてはいない。そんなことを言えば、またミラを傷付けてしまうことに気付いてしまったから。
「あたし、そんなミラの気持ち……分かってあげられなかった。でも、ミラも……足りないものがあるなら、あたし達に言ってよ。出来る限り、頑張るから……さ」
「……足りないもの?」
「ミラだって、何か欲しい時だって絶対にあるでしょ? 特に、心も身体も冷え切った、そんな状態の時は」
エレッタの謎めいた言葉の意味をいまいち理解することが出来ず、ミラは口を開かない。
「今の凍えたミラに決定的に欠乏していて、尚且つ一番必要なもの……それは、"誰かの温もり"。違う?」
その言葉に反応したミラに、エレッタは優しく笑いかけた。
〜☆〜
エレッタの言葉を聞いて、昔の記憶が蘇る。
今のわたしは、あの時――プロテアを飛び出した時――と同じだ。何も変わってなどいない。
あの事件の後、プロテアの住人達がかけてくれた、優しい言葉の数々を思い出す。
わたしはそれを素直に受け止めることが出来なくて、もう温かい言葉を聞きたくなくて……夜のうちにプロテアを抜け出し、けれどいざ出ると寂しくて、誰かの温もりを求め、そんな矛盾した思いを押し殺していた――あの頃と、何一つ。
確かに、見ず知らずのポケモンは信用出来なかった。だが一方では、誰でもいいから側にいて欲しかったのも、また事実。
でも、わたしはエレッタの両親から――いや、それ以上に私自身、エレッタの側に立つことは憚られる。
過去の所業で幸せな日常を奪い、今もそのことを黙っていたわたしに気を遣わせ、これからもおそらく苦しめ続けるであろう相手。
そして、エレッタに苦しみを与えた分だけ、同じようにわたしにも返ってくる。
だから、せめて手遅れになる前に――
「ミラは、あたしの親から言われたことを気にしてるみたいだけど……でも、あたしはそんなこと思ってないもん。例えその事件の時、両親が何を思っていたとしても……あたしの気持ちは変えさせない」
それは、あくまでことの引き金でしかない。わたしが本当に懸念しているのは、そうじゃなくて……
「……でも、エレッタは……わたしのせいで幸せな生活を奪われた……これ以上一緒にいても、辛いでしょ? お互いに」
それこそが、最大の理由だと言っても過言ではないかもしれない。
それなのに。
「大丈夫だよ」
エレッタはさっきからずっと笑ったまま。このお人よしが浮かべる笑みには、悪意の類は一切感じられない。
「大丈夫。サファイアもミラのことを受け入れてくれる。ハーブ達だってもちろんそうだし……あたしも同じ。だから……もう、いいんだよ」
エレッタはわたしの腕を掴んでいた手を離して、正面に向けた。きっと、一緒に帰ろう、そういう意味なのだろう。
けれど、わたしの手はなかなか動いてくれなかった。傷が悪化したという訳でもないから……きっとまだ心の何処かに迷いが残っているんだと思う。
この2人と、一緒にいたい。でも、帰ったところでまた前のように自然に振る舞うことが出来るか……不安だった。
それでも、そんな重い腕をどうにかこうにか動かしてエレッタの手を握ろうとした、その時――“邪魔”が、入った。
〜☆〜
今までミラの説得をエレッタに任せ、2人の様子を見守っていたサファイアは、突如手を伸ばしたミラの身体が黒いオーラに包まれるのを見て慌てて側に駆け寄った。
黒い謎のエネルギーは時間が経つにつれてじわじわと発散されていくが、今のミラは傷が広がっている訳でもないのに明らかに苦しそうな表情へと変わっていく。
そして、黒いエネルギーが完全に発散されるのとほぼ同時に……今の黒いオーラに僅かに残っていた体力を奪われたのか、ミラは前に倒れ込む。
泉の側に追い込んでいたせいで、あわや泉に転落しそうになったミラを受け止め支えたのは……他でもない、エレッタだった。
「――ッ! ねえ、ミラ! 大丈夫!?」
エレッタに強く揺すぶられ、ミラは力無く目を開けた。
何があったのか分からないが、呼吸の速さから言ってもあまりよくない状態なのは一目瞭然だ。
「み、ミラさん? 大丈夫ですか!?」
ちょうどその時、近くの茂みに隠れて同じくエレッタとミラのことを見守っていたチルムが駆けてきた。
チルムはずっと気になっていた、例のドラピオンのことを口にする。
「そういえば! ミラさん、あのドラピオンは一体何者なんですか?」
「……お尋ね、者…………い、ままでに、多くの探検隊を、毒殺……して、きたみたい……」
ミラは先程よりも一層途切れながらも説明する。そんな状態のミラに話し掛けることを躊躇(ためら)い、サファイアはチルムに急いで尋ねた。
「チルムさん、あのミラから出ていった黒いオーラは一体何なの!?」
「"ウィルベリシアル"の操り状態が解除された証です! もうすぐドラピオンがここに来ます……それもミラさんへの強い復讐心を抱いて!」
「……!」
チルムは耳を澄ませ、最奥部入口の方へ精神を研ぎ澄ませた。
すると、微かにこちらへ近付いてくるような足音と、狂ったような叫び声が聞こえて来る。
「これは……私は今からドラピオンを倒してきます! サファイアさん達はここから逃げて、ミラさんの治療を……」
「あ、私もドラピオンのところへ行くよ! 私がいないとドラピオンを逮捕出来ないし……」
「分かりました。エレッタさん、そちらは頼みますよ!」
チルムはエレッタに告げると、サファイアと共に最奥部入口の方へ駆けていく。
一方のエレッタは、歩くのがやっとらしいミラを連れ、目立たない木の陰に隠れた。
多分サファイアがチルムさんと一緒にドラピオンの方に行ったのは、逮捕の意味も確かにあっただろうけど――あたし達に気を使ってくれたんだな、と思いながら、エレッタはミラを木に寄り掛からせ、トレジャーバッグの中を漁る。
すると、この状況にピッタリで、またエレッタとミラにとって懐かしいものが転がり出て来た。
エレッタはそれを持ち、とある瓶の蓋を開ける。
中に入った青い液体が、瓶の中で激しく揺れた。
「エレッタ、それ……」
「もちろん。ほら、これ飲んで!」
エレッタはそのままミラに飛び掛かるように素早く近付くと、瓶の中身――そう、あのオレンの実から作った薬を一気にミラの口へ流し込む。
念のために言っておくと、ミラの喉の痛みは2日前と比べてもほとんど回復していない。
案の定と言うべきか、ミラはなかなか激しく咳込んだ。が、エレッタはそんなことは気にしていない。
「う、く……けほっ……喉、まだ、痛、い……のに……」
「え、痛い? んー、でもこの薬を飲めば大丈夫でしょ。その操る技の効果が切れたんなら、体力の回復だって出来る訳だし……そういえば、前にもこんなことあったよね?」
エレッタは、昔サファイアとはぐれていた時のことを思い出した。記憶が正しければ、確か氷で覆われた抜け道だったはずだ。
「あたし達の関係は、もう変わっちゃった。でも、咄嗟にとる行動はあの時と変わんなかったね、何も」
エレッタは空になった瓶をトレジャーバッグに戻し、ミラにオレンの実を差し出した。
薬が効いているのか、ミラがずっと感じていた傷の痛みは和らぎ、小さなものは既に治り始めている。
そうか、とミラは気付かされた。
――サファイアとわたしが海食洞の下に落ち、キングラーとの戦闘になったあの時。
そこから無事に脱出し、探検隊に誘われたわたしには素直に2人への興味が湧いた。
ほとんど接点のないわたしを、逃げようと思えば逃げられたその時間を使ってキングラーの攻撃から守ってくれた。
探検隊に誘われたあの時、もちろん宝石への興味もあったが、2人が持っていた純粋な感情に引かれたのもまた事実。
あの抜け道の時に限らずとも、わたしはいつもサファイアとエレッタに支えられてきた。
今まで意識せずともずっと求めていた温もりは、自分のすぐ近くに既に存在していた。
どうして気付くことが出来なかったかは、今となっては分からない。
けれど気付けた今なら、もう、大丈夫――
遠くから、ドラピオンのものらしい叫び声が微かに聞こえてきた。どうやら向こうはサファイアとチルムがさっくりと片付けてくれたらしい。
「さて、と。あっちも終わったみたいだし、傷も大体治ってきたみたいだし……合流して、ギルドに帰ろっか!」
エレッタが出してきた手をミラは迷わず取り、立ち上がって入口の方向へと歩き出す。頭の中に残っていた、エレッタ達に対する暗い声をすぐに外へと追い出した。
サファイアとチルムが向こうから近付いてきて、誇らしげにバッジを掲げる。どうやらドラピオンはもう保安官に送り届けたらしい。
3人とも、笑っていた。
(……ありがとう、エレッタ、みんな……)
エレッタに引っ張られながら、ミラは心の中でこう呟いていた。
本当に気を許した相手以外にはほとんど見せることのない、穏やかな笑みを浮かべながら。