M-63 禁忌の切札
倒れたフーディンの様子を確認し、チルムはサファイア達を手招きで呼び寄せた。
恐る恐る木立の間から出て来たサファイアとエレッタは、ぴくりとも動かないフーディンを見てほっと息をつく。その身体には、さっきのソーラービームを受けてえぐれたような跡が残っていた。
「大丈夫ですよ。フーディンはもう倒れています……まあ、しっかり生きているんで、そのうちまた立ち上がるでしょうけどね……傷も、しばらく経てば自然に消えます」
チルムはサファイアが差し出したオレンの実を受け取り、口に運ぶ。それから瞬く間に青くて少し苦い実はチルムの手から消えていき、実のヘタだけが綺麗に残った。
「チルムさん、ものすごく強いんだね……ねえ、フーディンって昔からここにいたの? 他のポケモンとえらく強さが違ったみたいけど」
エレッタはチルムに、戦闘中にずっと疑問に思っていたことを聞いた。チルムは何回か大湧泉群に行ったことがあるはずで、だからフーディンのことも知っていたのだろうかと思ったのだ。
ところがチルムは首を横に振り、フーディンをじっと観察しながら話し出した。
「いえ……大湧泉群(ここ)にこんなに強いポケモンがいるなんて知りませんでした。ですが……ダンジョンボスのポケモンでもないでしょうから……何か、おかしいです」
チルムの話によれば、こんなに強いポケモンが大湧泉群に出たためしはないらしい。しかも、住みよい環境が調っている最奥部に陣取るならともかく、こんな中途半端な位置に強ポケモンが居座るとは考えにくいという。
「何か、理由があるのでしょうか……いずれにせよ、今ははっきりした答えは出せません。さて、もう日も沈みましたし、階段を降りたら中継地点ですから……明日の朝早く、奥地へと出発しましょうか」
チルムの提案に、異論はなかった。サファイアやエレッタも、広いフロアや敵ポケモンの戦闘で疲れているのだ。
もちろんこの3人は、今最奥部へと続く道で、一体何が起こっているかなど知る由もない。
〜★〜
今まで感覚ごと無くなっていた猛毒特有の痺れが舞い戻って来るような気がして、ミラは閉じていた目をうっすらと開けた。
ぼやけた視界にすぐに入った色は、緑。それに水色、時々紫。
傷付いた身体を爪でがっちりと挟まれ、先程よりも強い痛みが身体の中を駆け抜ける。
そこで初めて――ミラは先程まで気を失っていたこと、そして今ドラピオンに掴まれ、空中に持ち上げられていることを知った。
ミラの目が少し開いたのに気付いて、ドラピオンの爪が少し拘束を強めた。爪が傷に食い込み、ただでさえ鈍く感じていた痛みが更に増す。
鋭い痛みを辛うじて堪えていたその時、爪が――また、ミラを襲った。
「う……あぅっ……!」
さっきまでなら、毒によって時間が経つにつれ神経も鈍感になっていったせいで、何とか堪えられた。けれど、"オレンの実"を食べさせられて若干ながら復活した神経は、痛みをそのまま伝え……ついに堪えきれず、微かな声が零れる。
ドラピオンはその微かな声を聞いて――調子に乗ったのか、また爪を振り上げてミラを引っ掻き……今までの爪痕の上を狙った攻撃は、蓄積されていた痛みを一気に解放してしまう。
「きゃ、ぅ……っ!」
一度外れてしまったリミッターは、なかなか止まらない。頭では堪えようと努力したつもりだったが、既に限界に到達していたようだ。
傷口から、血は出ない。あくまで表面を傷付けているだけ。
それは直接的には大したダメージにはならないということを意味するが、精神面にかけられる負荷は尋常ではない。
「へっ、やっとか……なるほど、そういうことならもうちょっと力を強めた方がいいか?」
ドラピオンはミラの苦しむ声を聞き、にやりと不気味に笑うと更に爪を構える。それからゆっくりと爪をミラの傷に当て……傷跡をなぞるように、突き立てた腕を引いた。
「……っ! も、や……め……」
ミラはドラピオンの攻撃を受けながら息も絶え絶えな様子で訴え……同時に無意識のうちに、ドラピオンの死角に位置する右手に不思議な色の葉っぱ"マジカルリーフ"を数枚作り出していた。ドラピオンは、ミラがマジカルリーフを出したことに気付いていない。
……気絶しても毒が消えなかったということは、当然拘束を受ける前に放った"チャージビーム"の効果だって残っているはずだ。
いつまでもこうしていたら、殺される――
危険な賭けになることは分かっていて、それでも――ミラはドラピオンに気付かれないように、1枚だけ葉を放った。あわよくば僅かな隙を作り出し、まともに思考が働く時間を稼ぐことを期待して。
どうして、自分は無意識にマジカルリーフを作り出したのだろう――本当は、自分が取ろうとしている行動の意味を掴み損ね、戸惑っていた。
けれど、多分頭のどこかでぼんやり願っていたのだと思う。まだ死にたくない、と。
1枚の葉っぱはドラピオンに当たるその瞬間まで存在に気付かれず、ドラピオンの首に見事に刺さった。
「ぐっ! ……痛ぇ……何だ、これ……」
ドラピオンはミラを掴んでいる腕とは反対の腕を自分の首に回し、異物を器用に取り除いた。
そして……爪に挟まれた1枚の葉っぱを見て、ドラピオンの頭に一気に血が上る。葉を掴んだ腕を地に打ち付け、爪で簡単にそれを切り裂いてしまった。
いくら威力が上がっていたとは言っても、相性の関係で大したダメージにはならなかったらしい。
むしろ、葉っぱはドラピオンの怒りを引き起こした、それだけ。
「……き……貴様ぁ!」
ドラピオンはミラを掴んだ手に更に力を込め、反対の腕も総動員してミラを締め上げた。
「……あ、が……」
「さっき、俺は警告をしたはずだ。それにも関わらず抵抗したということは……覚悟はできているんだな!?」
ドラピオンはミラを掴んだ腕を振り上げ、思い切りミラを地面へ投げ付けた。
このままいけば、ドラピオンの身長1.5倍増しの高さ……ミラにしてみればかなりの高度から地面へと叩き付けられることは容易に想像できた。思わず本能的に身を小さくして、おそらく電撃のように縦横無尽に走り回るであろう痛みに備える。
それでも、普通だったらまだ全身強打で済んだ。そのはずだったのだが、運悪くミラが投げられた場所には大木が密集しており、それ故にミラの首元に地面から顔を覗かせていた木の根がストレートパンチを食らわせた。
地面に叩き付けられた時に発した全身の痛みに加え、何よりも堅い根に当たってしまった項がとんでもなく痛む。
もう押し止めることも叶わず、出かかった悲鳴は……ごぼり、と聞いたことのない音に止められた。
同時に、窒息しそうな狭い空間から解放された喉の奥に――どろりと生温かい液体が流れ落ちる。
例え立ち上がろうとしても、猛毒にすっかり侵された手足に力は入らない。
気体と液体が混じったものが喉の奥に迫り、咳込もうとする身体を無理矢理押し止めた。その際に僅かに口の中へと広がった味から、生温かい液体の正体が判明する。
が、この液体は息を止めていれば、何とか持つ。
が、今のミラの状態では……30秒、頑張ってせいぜい1分が限界だろう。
その後は、どうしたらいいか分からない。
何が、出来る?
こんなドラピオンに、言うことを聞かない身でどう対処すればいい?
持っている力が違いすぎる、この化け物相手に、どうやって……
ミラは目を閉じて、1つ1つ自分が使える技を思い出していった。
けれど、そのどれもがこの状況で役に立ちそうもないものばかり。
とても、この状況を打破出来るような技は見付けられなくて……
――本当に?
技は、それだけなの?
本当に、何もない?
何故、そんなことが疑問に思えたのかは分からない。意識したわけでもないのに、勝手に頭の中に思考が浮かんできたのだ。
その浮かんだ言葉を、本気で疑問に思ってみた、その時――まるで天からの啓示のように、思い出す。
そうだ。
1つだけ、たった1つ……だけど、ないわけではない。
――どうして、今まで忘れていたのだろう。3年ほど使っていなかったからだろうか?
……そう、この技は、今までどんな状況に陥ろうとも、使おうとすらしなかった。
この技は、使い所が難しい。強力ではあるが、こちらにも多大なリスクを強いる。それに……
頭の中に浮かぶ幾つもの懸念を、知ったことかと一蹴する。
力が抜けた身体で、酷い目眩に襲われながらもゆっくりと目を開けると……ドラピオンは爪の先にエネルギーをじっくりと溜め込んでいた。
二重に見えるその光景は、ひどくゆっくりと進んでいるように思える。時が進むのが、遅い。
だが、いつ"シザークロス"のスタンバイが完了しようと、あれを食らえば本当に命はないのは揺るぎない事実――
ドラピオンの、勝利を確信したような笑み。今までだったら何とも思わなかったはずの、憎たらしいまでの醜い笑顔を見て、散々痛め付けられて動かなかったはずの身体に再び力が舞い戻る。
それと同時に思い出したのは、技の使い方。今なら、絶対に――ちゃんと機能してくれるはず。
「……ほら、とどめだ!!」
ドラピオンは木にもたれつつ身体を起こしたミラに多少驚きつつも、収まらない怒りに任せて"シザークロス"を放つ。
一方のミラはその場から逃げ出そうとはせず、飛んでくるドラピオンの腕をしっかりと見据え――
何か強いものの意志にに引きずられるかのように、しっかりと片手を宙へ伸ばした。
弱ったミラの身体を貫くことなどたやすい程にエネルギーを溜め込んだドラピオンの爪は、何故か――ミラの目の前で、まるで石像のように固まっていた。
正確に言えば……腕が、動かないのだ。前に伸ばすどころか、上に持ち上げることも、いや腕をあるべき場所へ引っ込めることさえも叶わない。
しかも……腕だけではない。
首も、足も、何もかもが硬直して、身動きがとれなくなっている。
そして、ドラピオンの前には……ふらつきながらも片手をぴんと伸ばし、息を止めてドラピオンを見据えるミラがいた。
こちらも毒のダメージを受けているくせに、今にも倒れそうなくせに……動く気配は全くない。
口を開かずに、冷静にこちらを見据えている……その酷く落ち着いた様は、余計にドラピオンの癪に障った。
「……貴様……何を……言え!! この俺に、何をしたっ!?」
しんと静まり返った空間を撃ち破ったのは、ドラピオンだった。
先程までの余裕っぷりは何処へやら、ドラピオンは固まったままミラに怒鳴り付ける。
シザークロスのエネルギーが、とうとう時間切れで発散されてしまう。ミラはその絶妙なタイミングを逃さずに……伸ばした手に、ありったけの力をこめた。
ミラが片手に力を集め、やがて紫色のオーラを纏うのに比例し――ドラピオンの身体の感覚が、だんだんと薄れていく。
やがて身体への締め付けが終わり、今度は傷をほとんど受けていないはずのドラピオンの意識が何処かへ飛び始めた。
頭を働かせてこの状態を突破する方法を探しているようだが、意識が飛ぶにつれ考えることが億劫になっていく。
「やめろ……止めろ止めろ止めろおぉぉ!!!」
ドラピオンはミラに最大限声を張り上げるが、ミラの纏うオーラは次第に傷付いた全身へと広がり行く。
やがて、増幅された紫色のオーラはミラの身体を包み込み、ふと――吸収でもされたかのようにぱっと姿を消した。
それと同時に、動けないドラピオンに僅かに残されていた、荒々しい意識の欠片は……怒りと焦りの混じった怒鳴り声が次第に小さくなるのと共に、ついに……深い闇へと落ちていった。
気が付けば、もう夕日はすっかり沈んでいた。変わりに青白く輝く半月が、このダンジョンの奥地を鈍く照らしている。
ここに来てからずっと毒に蝕まれ、体力も限界に近付いているのだろう、ミラは先程から息を止めたまま、いつの間にか身体から抜け落ちていたトレジャーバッグに近寄り、中からモモンの実を取り出した。
そこまでは、よかった。
だがミラは、突然ぷっつりと糸が切れた人形のように力をなくし、その場へ倒れ込む。
モモンの実を片手に持ったまま、もう片方の手を口元へ持ってくる。
そして、倒れたまま今まで止めていた息を吸い込もうと、口を開けた――その時だった。
「……っけほっ! う、ぐ、くはっ、かはっ……」
息を吸い込んだその瞬間、ミラの喉の奥から空気の塊が押し出される。
その圧力を抑えることが出来ず、激しく咳込むと……今まで息を止めることで堪えていたはずの赤い液体が――飛沫となって辺りへと飛び散った。
どうやらさっきの根がまずかったらしい。もともと窒息させられかけて弱っていた首を爪で掴まれ、根に勢いよくぶつけられた。
おそらくその時に喉からの出血が始まって――息を止めて喉に留めていたせいか、新しい空気が補充された途端に一気に押し出されたらしい。
それから数秒もたたないうちに、口の中がまた鉄のような味がする液体で満たされる。
一体、この小さな身体にどれ程の血液が流れているのだろう――再びせり上がって来た血を咳と共に吐き出し、ミラは自分の喉を押さえつつモモンの実を口に運んだ。
いくら柔らかいモモンの実とは言っても、ろくに噛まずに急いで食べたものだから、固形物が傷付いた喉に当たって酷い痛みを生む。おまけにやたらと甘味の強いモモンの実と独特の味がする血が混じり合ったものだから、口に押し込む僅かな時間の中でもとてつもないミスマッチテイストとなっていく。
それでもモモンの実の効果はすぐに現れ、そして質も高かった。
ミラが実を食べ終わる頃には毒による身体の痺れは解け、何もかもが二重に見えていた世界から解放された。
そして、しばらく横になり傷口も手で押さえ付けていると、気付けば喉の嫌な感触は消えていた。
ミラは横になっていた身を何とか起こし、近くの木にもたれて前を向く。
先程まで、好きなだけミラを痛め付けていたドラピオンは、今――虚ろな目でミラを見下ろしている。
攻撃してくる気配は一切ない。当たり前だ。
このドラピオンとミラは、立場が逆転している。先程とは打って変わり、今は"ミラの思うがままに"ドラピオンを動かすことが出来るのだから。
だが、今のミラにはそんな気力など残っていない。毒が治ったところで体力が回復するわけでもない。それに――ドラピオンがこの状態である限りは、オレンの実を食べても体力は回復しないことは分かっている。少しでも体力を回復しなければまともに動けそうもないが、今のミラにとって唯一の回復手段は――眠って身体を休める、それに尽きる。
ミラは熱を持っている喉を押さえ付けないように、首に巻いていたスペシャルリボンを緩めた。そして、ドラピオンから目を逸らし、木に力無く寄り掛かって無理のない体勢を取り――しばらくして、小さな寝息を立て始める。
それは、とても健全なものとは言えない、時々苦しそうに息を吸い込む若干危険なもの。けれど、ミラにはこうするより他に方法は残されていなかった。