6.零れた願いが崩れたとして
sideルノア
「……ところで」
「何かしら?」
ふっと息を吐き出したエルグが、何かを思いついたようにわたしに向かって歯を見せる。好意的に見えるその表情は、けれど屋敷に現れた時のことを髣髴させる。部屋の闇が広がった気が、した。
「……さて、『
従者』の話はこれでお仕舞い。君の
舞台には関係のないお話はここまで。だから、俺はもう物語の『主役』でも語り部でもない。そして今の君ももう『観客』やない。だからルノアちゃん、いや『セレス・ローチェお嬢様』。俺は今の君に、ひとつだけ詰まらないことを聞きたかったんよ」
「何、かしら?」
緋色を受けた琥珀色の瞳は、宝石のようにも思える。けれどそれは、紛れもなく爪と牙を隠し持った狼の目だ。エルグの表情に身構えるわたしに、彼は右頬を抓って苦笑する。
「そんなに身構えられると、俺がいじめてるみたいやんか。……いやそうか。ごめんな、そういうつもりはないんやけど。でもほんまに、これはただの興味。俺には尋ねる権利の無い質問や。だから君がどう答えようと俺は否定せんよ。だって、俺は『ラウファ』を守れんかったんやから」
でも俺は手の内を全て見せたんやからそれくらいはええやろ、と。力を抜くように肩を竦め笑みの形に目を細める彼に、わたしは沈黙で続きを促す。唐茶色の髪が身体の動きに従って少し揺れた。
「いやね。君は、これからも“
セレス・フェデレの道化をし続ける”のかなって」
責めるような声ではなく、試すような声色でもなく、詰問するそれでもない。静かに微笑む表情に、憐憫は含まれていない。こちらを見上げるエルグはどこまでも穏やかだ。けれど。わたしは。
「…………」
『何か』が喉のあたりにつっかえて、けれどそれはわたしに理解される前に霧散した。
「別に、責めてるわけやないよ。単純に、聞きたかっただけ」
答えを探して口籠るわたしに、エルグはゆっくりと宥める様にそう続ける。けれど、結局わたしは開きかけた口を閉じるしかなかった。答えは浮かばなかった。吐き出された吐息は音にならなかった。あぁ、エルグ。どうしましょう。ねえ。わたし、“わからない”わ。何が“正しい答え”なのかわからないの。……いつだったかしら。ええ、そう。確か子爵に言われてパーティに出た時だわ。馬車の中で、アシェルに似たようなことで問い質された。“ラウファだけを騙ませればそれで良かった”のか、と。わたしはその時、そのとおりだと答えたのを覚えている。それが何かいけないことかと。それは何かラウに不利益をもたらしたかと。けれど、今求められている答えはその答えではない。なぜ答えられないのか はわかっているわ。わかっているの。けれど。
火の揺らぎ、どちらかの吐息、風の音、心臓の鼓動。それ以外は何の音もしないのに耳を塞ぎたくて、見える景色は何も変わっていないのに目を瞑ってしまいたかった。
黙りこくるわたしに、エルグはとうとう沈黙を破る。
「……答えづらいなら質問を変えよか。君はなんで“そんなこと”をしてるんや?」
「わからないわ」
すっと喉から飛び出してきた言葉に、エルグは驚いた様子で目を瞬かせる。けれど、それ以上を答えようもなく、わたしは無邪気に笑って首を傾げるしかない。わたしの動きに、ボロボロの椅子から木片が剥がれ落ちていく。
「わからないわ、忘れてしまったの。わたし、忘れてしまったのよ。何かを願ったはずなのに。『ルノア』はたくさん考えたのに」
ねえ、エルグ。ええ、そうなの。わたし、忘れてしまったの。
たくさんたくさん、ちいさな『ルノア』はあんなにたくさん、かんがえたのに。
sideエルグ
「……答えづらいなら質問を変えよか。君はなんで“そんなこと”をしてるんや?」
そう尋ねて、一秒。“迷子の子供”の目で、幼い少女の形をしたそれがくすりと微笑む。困ったように首を傾げて、頬に手を添えて――けれど“まるで困ってなどいない”ように。
「わからないわ」
鈴の鳴るような涼やかな声で、何とでもないような調子で。滑り落ちた言葉の中身よりもその表情にエルグは驚愕した。が、それに心を奪われる間もなく、ルノアの声が続く。
「わからないわ、忘れてしまったの。わたし、忘れてしまったのよ。何かを願ったはずなのに。『ルノア』はたくさん考えたのに」
薄い唇から言葉の上だけの困惑が吐き出される。困り果てたようなヘーゼルの目は、それでも最上の笑みを零し、喘ぐようなその言葉は、けれど優雅を滲ませる行動と合致しない。少女は自ら望んで、主人の真似事を始めたはずだ。けれども、その様子はあまりにも。
「ねえ、エルグ。わたし、忘れてしまったの。探し物があったのに、何を探していたのかわからないわ。わたしがどうしてこうすることにしたのか、わからないわ。だって、わたし、忘れてしまったの」
今にも不安に押しつぶされて泣いてしまいそうな。
そうしてエルグは確信する。ラウファの手を離してしまったことに対して“わからない”と答えた少女に。今この場で、ラウファに嘘を吐きつづけるのかという問いに“答えられなかった”少女に。どうしてお嬢様を演じるようになったのか“忘れてしまった”と答える少女に。数日前 、必死になって『お嬢様』を演じる彼女に“己を殺してまでなぜ”だと疑問を抱いたのは正しかったのだと。砂糖を注がれて、元の味の分からない紅茶。融けた砂糖はもう、固体には戻らない。紅茶も元の味には戻せない。ああそうだ。気づいたエルグは彼女に一種の畏怖さえ抱く。
そうだ、“殺してしまった”のだ。この、今自分の目の前にいる『
役者』は『
中身』をすべて捨ててしまったのだ。
「ねえ、エルグ」
その
台詞は台本にはないのだと。
エルグの理解の間にも、ちぐはぐだったそれは徐々に姿を消し、“殺されて”いく。背筋を伸ばし、溜息をつき、
彼女は、
「わたし、どうすればいいのかしら」
高価な楽器のような高く、幼く、甘い声で。
淑女のように高慢に、天使のごとき精巧な笑みを、作るのだ。
sideラウファ
ずるり、と。
喉笛に食い込んでいた痛みが引いて呼吸が戻る。噎せこみながら身体を
捩じらせ、上に乗るゾロアークの重みから抜け出した。上半身を起こして、喉をさすり、呼吸を整える。踏みつけられた腕はとりあえず折れている様子はない。その間、『エルグ』はずっと下を向いて蹲ったままだった。
「……『エルグ』?」
さっきまでの殺気が嘘のように大人しくて、静かで――眠ってしまったのかと思った。
過去の『僕』か今の僕かはわからないけど、僕はきっと彼ともう一人のエルグに悪いことをしてしまったんだろう。だって、こんなにも怒っていたのだから。それを“わからない”なんて言う僕が“おかしい”のだから。
「『エルグ』、ごめん。ごめんなさい。わからなくて、ごめんなさい。わからないけど、僕は『エルグ』にひどいことをしたんだよね? 僕が悪いんだよね。……ねえ、どうかした? どうしたの? 『エルグ』、どうして泣いてるの? ごめんね、ごめんなさい」
そういえば、どうして彼は途中から泣いていたんだろう。だって、彼は怒っていたはずなのに。
その理由がわからなくて、黒い毛皮に触れようと右手を伸ばす。そして、
《ラウファ!》
「…………アシェル?」
びくり、と良く知るその声に右手が止まった。
sideアシェル(エネコ)
《ラウファ!》
部屋の壁までふっ飛ばされて、気を失う事数十秒。さっきまで自分の首を絞めていた獣に手を出すなんて馬鹿げたことをし始めたラウファについ言葉が出た。
「…………アシェル?」
右手を伸ばしかけたまま、ぽかんと呆けた表情でこちらを見る生き物に、あたしは呆れてものも言えない。ああもう、どうしてあたしがずっとにゃも言わずに黙ってたと思ってるのよ!? あにゃたの傍にいる為じゃにゃいにゃらにゃんだと思うのよ!? あたしがひとにゃら今頃間違いにゃく頭抱えてるのよ!?
「アシェル? え、アシェル、なんで、わぁっ」
《ラウファ!?》
化け狐の黒い腕が伸びて、再度ラウファの胸ぐらを握る。慌てて駆けだすあたしに、けれどその腕は力なく、ずるずると縋りつくように下がって行った。
《なんでだよ……。なんで、違えよ、違う違う。俺じゃねえ。俺じゃねえ……俺はいいから、俺じゃねえから。なんで、なんでだよなんで。だってエルグは、エルグはてめえを探してたのに。なんで、てめえはそんなことを言うんだよ……ッ》
「『エルグ』?」
震える声。鬣で顔は隠れ、その表情を伺うことはできない。……わかっている。このゾロアークが、『エルグ』が言いたいことは分かる。訴えたいことも、彼がラウファの首を絞めた理由もあたしにはわかる。あの“人間のエルグ”がラウファをずっと探していたことをあたしは知っていたし、『エルグ』はラウファに語ったから。はっきりとしない意識の中で、確かに彼の慟哭を聞いたから。『エルグ』が怒る理由は当然で、“そんな酷いこと”を最初に言ってしまったのはラウファだから。
けれど。
《いい加減にしににゃさい! あにゃたはここにラウファの首を絞めに来たわけじゃにゃいはずにゃのよ!?》
『エルグ』のこの行動が単独のものならばこの言葉は的外れだが、あのラプラスの姉妹が上手くやってくれた結果であれば、彼は間違いなくエルグの共犯者だ。“西に来てはいけない”と、そう言った、『ラウファ』の『従者』であったエルグの。ならば、本来このゾロアークはあたしたちを助けに来ているはずなのだ。……尤も。“それでもなお”という気持ちは分からなくもないけれど。ただ、それを、
敵陣でするのは、非常にまずい。
幸いなのか何なのか、ひとが来る気配も声もしないけれど、それでもいつひとが来てもおかしくないのだから。
《俺じゃねえよ、エルグは俺じゃねえ。大丈夫だってそんなことなんでだよなんで。エルグにエルグに謝ってくれよ、謝ってやれよなんで。ずっとてめえを探してたのに。あいつはずっと探してたのに。どうして覚えてねえんだ、なんで忘れてんだ》
「ごめんなさい……。覚えてなくて、ごめんなさい。わからなくて、ごめんなさい。……僕は『僕』を知ってるエルグに謝らなきゃならないんだね?」
けれどやはりと言うかあたしの叱責は聞こえてないらしく、嗚咽と共に譫言を繰り返す獣に、ラウファはただ『ごめんなさい』を繰り返す。身体を小さく震わせ、縋りつくそれの体重を支えながら。
ごめんなさい、ごめんなさい。わからなくてごめんなさい。覚えてなくてごめんなさい。足りなくてごめんなさい。僕が『僕』じゃなくてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん。ごめんね。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい。忘れていてごめんなさい。『僕』じゃなくてごめんなさい。ごめんなさい。わからないよ。何もわからないよ。実感もないよ。だから、ごめんなさい。“わからなくて”ごめんなさい。僕は謝るから、君のエルグに謝るから。だから、ごめんなさい。
実感の全く存在しない、上っ面だけの言葉で。
軽薄なつもりはないのだろう。当然、あたしはそれをわかっている。本当にラウファは『エルグ』に申し訳ないと思っている。自分が全て悪いと信じている。けれど、実感の伴わない謝罪に誠意を感じることは難しい。ただ“謝っているだけ”に何故相手が怒ったのかの理解はない。それでも、その理由さえも“わからない”ラウファは言葉を重ねるしかない。
「ごめんね、『エルグ』。僕が悪いんだね。ごめんなさい。わからなくて、覚えてなくて。僕、わからなくて。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめん、ごめんなさい」
ラウファにとっては、言葉を繰り返すことだけが精いっぱいの『謝罪』なのだから。
sideルノア
――言い方が悪いかもしれにゃいけど、あにゃたは不気味にゃのよ。
戦慄と、憐憫。驚愕と、理解。得体の知れないものを見たようなエルグの顔に、わたしは微笑んでみせる 。ええ、アシェルにも言われたその言葉は、間違いなく的確でしょう。『不気味』だと、その言葉ほどわたしを示すのに適切な言葉はきっとないでしょう。だって、わたし、自分が不気味だって知っているもの。子爵も、瑠璃も、玻璃も。皆わたしを“おかしい”と恐れたもの。それは哀れなことだと、そう嘆いたもの。けれど。でも、エルグ。
「ええ、ごめんなさい、エルグ。わからないわ。わたし、どうすればいいのかわからないわ。わたしはきっとあなたから見たら不気味なんでしょう。でも、わたし、探しているものがあるの」
「……忘れてしまったものを?」
炎が揺らぐ。溜息を一つ、琥珀色の瞳がこちらをまっすぐに見つめる。けれど、わたしはその瞳にも問いかけにも恐れを感じない。なぜならそれは、それだけは。
たとえわたしがその理由を忘れてしまっても。エルグの問いかけにわからないとしか答えられなくても。それでも。それでもそれだけはわたしの中で揺らぐことのないものなのだから。
一切の不純物も、嫌味もない。ただただ純粋な、蕩ける様な表情に頬を緩める。そして、誇るように答えるのだ。
「ええ、だって。『
ルノア』が選んだ結果なのだもの」
瞼に瞳を融けさせるわたしに、エルグは表情を変えない。まっすぐ、ただまっすぐわたしを眺めていた。そして、
「……『従者』は思いました。主を生き返らせることができればそれは自分の罪を消すことができるのではないかと。傲慢にもたった一瞬、そう思いました。……そんな、独り善がりも甚だしい、驕傲な願いなど本当は考えてはいけなかったのに。『従者』は確かに主を喪ったのだから。大切な
主を護れず、失い、その罪に汚れたのだから。だから、自分のためにそんなことを思ってはいけなかった」
「……」
『従者』の話は終わったと彼は宣言したのに。けれど、彼は続けて口を開く。
「君は、言ったね。探し物はお嬢様を生き返らせることではな いと。けれど、君の行動は『セレス・フェデレ』を模したもので、それを望んだのは君で、その行動に意味があると言う。……なんとなく。なんとなく、やけど。俺は君が探しているものが何かわかった気がする。勿論、それはただの推論の域は出んけど」
がたり、と。椅子から立ち上がったのが自分であると気づくのにしばらくの時間がかかった。視野が広がり、わたしの背丈の分だけエルグが小さく映る。紙と、羊皮紙と、インクと、墨と。血と哀哭の文字で綴られた歴史の中に埋もれたまま、エルグはわたしを見上げて口元を緩めた。
「話したかな? 確か、子爵様に話を聞いたとき、彼はなんとなく推測はできている様子やった。考えがわからんって言いながらそれでも何かしら理解できたかもしれんって言ってはった。ああ、だから多分、俺も分かった気がする。勿論、そんな気がするだけかもしれんけど。でも、そうやね。確かにこれは、伝えることはできん。というか伝えても……俺も子爵様も、君の望むものを与えることが出来ん」
わたしを見上げて、優しい目をして、けれどエルグは首を振る。土壁から剥がれたのだろう、砂埃が彼の動きにいくつか零れ落ちて行った。
「推論でもいいからって顔やね。でも、それは君の望みやろ? 誰かに教えられるもんやないはずや」
そうなの? そうなのかしら。わたし、今、そんな顔をしているのかしら。
思考の片隅で問いが生まれ、けれどその答えを探すこともせず、言葉は喉から吐き出されていく。
「……ッ! ッでも、エルグ。わたし、わたし忘れてしまったわ! 忘れてしまったの。わたしは、『ルノア』は何かを望んでいたはずなのに。望んで、願って、たくさん考えて、だからわたしはここにいるのに。……それなのに、わたし、わからないわ。万病を癒す薬も、獣も、その獣の血族も違うわ。『わたし』の欲しかったものではないの。時を遡ることも、生き返らせることでもないわ。違うの、違うのよ。会いたいけれど、会いたいとは願うけれどそれでも違うわ。違うはずなの。それは手段であって目的ではないはずだもの。だって、ねえ、エルグ。失った ものは取り返しがつかないわ。どれだけ願っても、失った命は帰ってこないの」
わたしの口から飛び出すのは悲鳴のような、叫び声のような、声。
言葉にはできない感情を理解する前に飲み込んで消し去る 。だって、わたし、忘れてしまったわ。『ルノア』が何を望んでいたのか、何を願ったのか。あんなにたくさんたくさん考えたのに。わからなくなってしまって、忘れてしまって。それでも、今にも割れそうな氷の上を必死に歩いてきたのに。
「そうやね、失ったものは取り返しがつかない。その通りや。でも、ごめんな、ルノアちゃん。俺には答えられんよ。推測の域から出んもんやし、君の願いを勝手に作り替えることもできん。それに。それに、俺では君にそれを与えることが出来んから。……ただ、そうやね」
座り込んでいたエルグが、重たそうに身体を立ち上がらせる。ぱたぱたとズボンに付いた砂を叩き落とし、改めてこちらを見降ろす。苦虫を噛み潰したような、泣き出しそうな、笑っていそうな。そんな苦笑を浮かべた狼の眼で、エルグは続ける。
「君のラウファなら。君の探し物を、君の望むものを与えてくれるかもしれんね」
囁く様な掠れた声で、そう言い残し彼はするりとわたしの脇を抜けていく。この隠し部屋ただ一つの出入り口に向かっていくエルグを訳も分からず呼び止めると、彼は相変わらず苦笑いを浮かべたまま。
「いやね。ほら……予定変更やけどお迎えに行こか。ロアがポカするのは考えづらいけど、ちょっと遅いのが気にかかる。何事もないと、ええんやけど」
「…………え? え、ええ」
どういう理由で呼び止めたのかもわからないわたしは、彼の言葉にただ頷く。それが求めた答えではないことに気づいたときにはすでにエルグの姿はない。慌てて彼を追いかけ、部屋の外へ、家の外へと扉を開けて進んで行く。
夏の、湿気を孕んだ風が頬を撫でた。
数時間ぶりに見る外の光はただただ眩しくて。
その光に目を細めながら、綺麗ねと訳も分からず 零した。
sideアシェル(エネコ)
誰しもが『身勝手さ』というものを持っていることを否定する余地はない。
『エルグ』にも、エルグにも、お嬢様にも。そしてもちろん、あたしにも。
結局声を押し殺し、しゃくりあげる黒狐が落ち着くにはそれからしばらくの時間がかかった。それは、決して必要な時間ではなかったし、むしろ焦燥感しか生まなかったけれど、それでもあたしはその間にゾロアークから聞いた話を頭の中で咀嚼することができた。例えば、ラウファが言葉の意味を『丸呑み』するのも彼が“生まれたて”だと思えば納得ができる。ラウファの“どんな街にも既視感がない”のだって、説明がつく。見るもの全てが“初めて”ならば、それは当然の反応なのだろうから。
はめ殺しの窓から見えていた太陽の位置が随分と中天に近づいている。ひとの気配は未だないけど、それでもそろそろ昼だ。いい加減、潮時だろう。夜に行動に移すと言うのならまた話は違うだろうけど。
ふらふらと立ち上がった狐が、鬣を掻き上げこちらを見降ろす。宝石のような青い目が、涙の跡で濡れていた。
《……エルグが、待ってる。てめえのお嬢様も》
「ルノアが?」
不思議そうにゾロアークを見上げ、瞬きを繰り返す彼に、あたしは行動を促す。
《ラウファ、『エルグ』の話は分かったのよ? あにゃた、ここにいちゃいけにゃいのよ》
「……え? えっと……。ここにいたらきっと僕はまた全部失くしてしまうかもしれないんだよね?」
頷く。
「殺されてしまうかもしれないんだよね?」
再度、頷く。
けれど、ラウファはぺたりと絨毯の上で座り込んだまま動く様子がない。まるで古ぼけた――けれど柔らかなそれが足に絡みついているような。あたしとゾロアークが見守る中、ラウファはたっぷり十秒ほど固まった後、かくりと首を右に傾げる。頭に巻かれた白布の裾が、その動きに従って肩に触れた。
「でも、僕は『怪物』だよ?」
夢の中にいるような目で、ラウファは
微笑う。
だって僕はここにいたんだよね、と。なら僕はここに帰ってきたことを喜ばなきゃならないんだよね、と。ここが、僕の終着点なんだよね、と。なら、僕はここに居なきゃいけないんじゃないの? と。
だって、忌むべき『化物』は僕なのだから、と。
なんて顔で。
なんて、顔で。――――そんなおぞましいことを言うのだ。
それは自らの死への肯定ではない。自棄でもなければ、嘆きでも、穏やかな受容でもない。彼の言葉は単純に“ここにいることで起こりうる出来事を口にしただけ”だ。杓子定規に、危険に対する回避意識もこの屋敷にいる誰も彼の家族ではないという歪な関係も全て無視したうえで“無理やり『常識』に押し込んだだけ”だ。そんな、ただ“疑問を口にしただけ”のラウファに、けれどあたしは毛並が逆立つのを感じた。
違うの? と尋ねるラウファにあたしは尻尾をぴんと伸ばして抗議の準備をする。ああ、そうだったのよ! 逃げないといけないことに頭がいっぱいで失念していた。ラウファが“そういうことを言うだろう”ことはわかってたはずにゃのに!
だって誰もが僕を見て『怪物』だと指を差したよ。『化物』だとそう恐れたよ。『エルグ』のお話のとおり、僕は紛れもなく恐怖の対象なんだよ。そう言って屈託なく笑う彼にあたしは大きく首を振った。それは、違うのだと。
《いいえ、ラウファ。あにゃ、》
《てめえはエルグに謝るんだろうが!》
あたしが言いかけた言葉を『エルグ』の怒声が上書きする。しびれを切らしたらしいゾロアークの声に、あたしは驚いて飛び上がり、ラウファは目を丸くして彼を見上げた。今の今までもたもたしてたのは誰だと思ってるのよ! という怒りを挟む暇は当然ない。
「……あ、そっか。そうだね。ごめんね、『エルグ』。僕、話が繋がって無くて」
けれど、ゾロアークのそれは下手な説明よりもずっと効果があったようで、ラウファははにかむように笑って頬を掻く。あたしは “ラウファが納得した”という結果で自分を納得させてとりあえずその腑に落ちない怒りを頭の隅に追いやった。
そして、今度こそ言葉を重ねる。
《ラウファ、あにゃたは怪物ににゃってはいけにゃいのよ。あたしは言ったのよ? エルグに謝るだけではにゃくて、あにゃたは選ばにゃければにゃらにゃいのよ。ラウファ、あにゃたが欲しいものは
何? それがどれだけ常識とはずれていてもあたしは笑わにゃいから》
とぼけたような暗いグレイの瞳が、ぼんやりとあたしを映す。あたしの言葉の意味を、理解していない顔。けれど彼があたしの言葉を消化する前に、あたしは“追い打ち”をかける。それが間違っていると知りながら。
《あにゃたは、ここにいちゃいけにゃいのよ》
ここにいてはいけない。ここにいては、いけないのだ。ここにいたら、エルグの危惧は現実になるに違いない。きっとラウファは『死』んでしまう。そんなことになれば、エルグはきっと嘆くだろう。あのお嬢様だってきっと悲しむだろう。だって『エルグ』の話が本当ならば、それくらいのことをこの子はできる。ひとの価値観も倫理観も捻じ曲げる様なことを、できてしまう。
でも、本当ならば結末を選ぶのはラウファなのだ。あたしたちではない。けれど、あたしは叫ぶ。
彼に問うておきながら。『それ』は身勝手であると知りながら。
《あにゃたは、ここにいちゃいけにゃいのよ》
「エルグに謝らなきゃならないから?」
《ええ、そうにゃのよ》
そうだ、身勝手以外の何がある。けれども。この子を、誰かの身勝手のために“殺させて”たまるものか。
sideラウファ
《あにゃたは、ここにいちゃいけにゃいのよ》
ここに居ちゃいけないと、そういうアシェル。
エルグに謝るんだろうと、そういう『エルグ』。
ここが『僕』の始まりで僕の終着点なんだからここに居るのが正しいと止める声。
ねえ、僕はどうしたらいいのかなあ。
考えなきゃ、考えなきゃ。だって、ずっと前から問題は提示されていた。アシェルが僕の前にきちんと置いてくれていた。でも、どうしたらいいんだろう。僕はどうやって何を選べばいいんだろう。何を選ぶのが正しくて、何を選べば良いんだろう。
「エルグに謝らなきゃならないから?」
《ええ、そうにゃのよ》
エルグに、謝らなきゃ。なら、ここに居ちゃいけない。でも。
動きかけた身体がそれでも、動きを止める。わからない、だって僕には“わからない”。
「その、後は?」
《……にゃ?》
その後は? 僕は、エルグに謝って、その後、どうすればいいの?
何か言いかけたアシェルが、それでもその口を噤む。ぺたりと耳を伏せ、首を振り、彼女はいつもどおり細めた目のままで、僕を見上げた。
《ラウファ。あにゃたは……どうしたいのよ?》
どうしたい。どうしたいんだろう。どうしたらいいんだろう。
何がしたい? 何をすればいい? ねえ、わからないや。わからないよ、アシェル。ねえ、考えてはいたんだよ、でもわからないやって思ったんだ。その場面になっても、この期に及んでまだわからないやって。ねえ、でも、わからないよ。だって、この世界は『偽物』なのに。アシェル、ねえ、答えを教えてよ。困って首を傾げる僕に、アシェルはその笑っているような顔を歪めた。
それはきっと、失望なんだろう。僕が、彼女の期待に応えられなかったから。僕はきっとアシェルを失望させてしまったんだろう。でも、だって。僕の見ている世界は、その色さえも、
「あ」
《……ラウファ?》
――ラウ。
ぼたり、と。
それは強烈なまでの、存在感。偽物の世界に色が付く。お願いがあるの、と微笑むヘーゼルブラウン。滲むように染めていく。風に揺れるコーラルの髪。明るくて、眩しくて、“それが偽物だと知っているのに”。この世の全てを味方に付けて力強く笑って見せる少女。それでもなお。幼く甘いソプラノ。どこまでも、どこまでも、僕の見る偽物の世界を、色鮮やかに染めていく女の子。
それはまるで白い紙に絵の具を零したように。
僕の手を握って、きれいねって笑って、
ただ一人、僕を『怪物』にしなかった女の子。
「あ。……えっと、あのね、アシェル。僕」
きっと僕は、情けなく笑っていたのだろう。
「僕、ルノアに会いたいな」
sideエルグ
脈打つ心臓の音が、堪らなく五月蠅かった。
こちらが“ラウファが帰っていると知っている”ことを村長たちがとは考えづらく、それゆえにエルグは特別身を隠す必要もなく、ルノアを連れだって『屋敷』付近までたどり着く。二メートルそこそこの塀の向こうで屋敷はいつもと代わり映えせずに静かなままで、何らかの騒動が起こっているような様子はない。エルグは自分の片割れであるゾロアークを心から信頼していたし、それゆえにロアが失敗することは考えてはいなかった。
が。それでもなお、自分の鼓動が五月蠅かった。身体は冷えていくばかりで、震えを抑えるのが精いっぱいで。嫌なことばかりが思考を埋めた。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。大丈夫、大丈夫。大丈夫。大丈夫だ、大丈夫だ。大丈夫に違いない。うまく行く、今度こそきっとうまく行く。絶対にうまく行く。
自己暗示を繰り返し、自分が行けばこんな不安には陥らなかったのではという疑問に首を振る。あの『屋敷』は特別だ。“獣の血を継いだ子供たちを捕えることに特化した場所”だ。ゆえにエルグでは潜り込むことが出来ない。“ゾロアークである”ロアだけが頼りだ。ズボンのポケットに滑り込ませた硝子質のそれを壊れないよう握りしめる。
エルグは唯、彼の神様に、祈るだけ。
sideラウファ
《意外。普通に通路を通って外に出るのよ?》
《当然だろ。ここはぼんぐりの職人たちが『化物』を閉じ込めるために作った屋敷なんだぞ。ぼんぐりの木でできてやがるんだ。獣の技じゃ壊れねえよ》
《にゃるほどにゃのよ》
人気のない廊下を歩きながら『エルグ』と、肩に乗ったアシェルがそんなことを言い合って、けれど僕はいまいちわからず黙っていた。壊せないんだ、この家。……結構、簡単に壊れそうなのにな。
《ぼんぐりの特性がいろいろあってな。技が使えなかったり、毒の苦しみを抑えたり。でも、俺はここでも“化ける”ことができんだよ。だから、俺はなんとでも躱せるが、てめえらはそうはいかねえ。人気を避けて抜ける。付いて来い》
『エルグ』の言葉に頷き、彼の後ろに続く。身を屈めて、呼吸を押し殺して、必死にその影を追いかけて。
《ラウファ?》
……あれ?
アシェルの不思議そうな声に、僕も違和感に気づく。左手の甲に小さな羽根が生えていた。オニスズメのような赤い色の小さな羽根に、僕は全く覚えがない。
《おい、止まるんじゃねえ。何かあったのか》
「ううん、なんでもないよ」
けれど、それについて深く考えることはなく、ゾロアークの声に首を振り、生えた羽根を引き千切る。
手放したそれはすぐに、砂のように溶けて消えた。
sideエルグ
屋敷がざわついたのを、肌で感じた。
それはかつて経験したもの。考えなしの小さな『従者』が失敗した末路。
「……バレた、か」
「……え?」
本来ならば。本来ならば一度逃げ出した『怪物』だ。誰かの監視を付けていることが正しいだろうが、この『屋敷』の特性と、“化物の傍に居たくない”という心理を考えれば、部屋に押し込めて監視を付けなかっただろうことは予想がつく。ならば、次に様子を見るとすれば昼時だろうことも彼は予想が出来ていた。昼時に食事をするほどの余裕がこの村にあるわけではないだろうが、それでも長時間目を離すわけには行かないだろう。当然だ。だから本当ならばとっくの昔に彼らの家で落ち合うことになっていて、なんならこの時間にはすでにルノアとラウファにはこの村を離れてもらっている予定だった。ロアの行動が予定よりかなり遅いことにエルグは苛立つが、その理由を今の彼が知る由もない。
小さく舌打ちし、とっさに隣の少女を見やる。動揺を映したその目は、それでも屋敷を睨んだまま微動だにしない。どうするか、と考えを巡らせかけ、
《エルグ!》
見知った片割れの声に、エルグとルノアは声の方向に視線を移す。何かを抱えた黒い塊が軽々と塀を飛び越え、彼らから見て右の茂みに飛び込み、仕上げとばかりに地面を両手で叩く。発動した“幻影”が屋敷の周囲を包み、獣の姿をした片割れは人心地着いたようにへたり込んだ。
ざっと目を走らせ黒狐に怪我の様子がないことを確認してから、彼は叫ぶ。
「ロア、遅いやんか!?」
《がなるな、声を落とせ。もう向こうは勘付いてんぞ!?》
「わかっとるわ!」
ロアの言葉に声のトーンを落とすが、それでも予定と違いすぎる行動に怒鳴りたくもなる。何があった、と言いかけ、
「エルグ?」
彼は口を閉じた。
「えっと、『エルグ』にそっくりだから、君がエルグでいいんだよね?」
ロアが抱えていた『それ』は、茂みに飛び込んだ時に獣に放り出されていたのだろう。桃色の子猫を伴って、草木を髪に絡ませて、がさがさと獣の横に這い出てくる。そして、新しいかすり傷をいくつも作った顔で、『それ』はエルグを見上げた。
「“初めまして”。エルグ」
屈託なく笑うそれに、
髪の色に、瞳の色に、
昔巻いてやった白布に、
「あ、えっと、久しぶり? になるんだっけ?」
声の高さに、
その、姿に。
「いいや。いいや、いいやいいや。…………ああ、ああ。そうやね」
かつての主の姿をした、まったく別の『いきもの』に。
「……“初めまして、ラウファ”」
思った以上に容易く、考えていた以上に残酷に、その言葉は穏やかに零れ落ちた。