5.慟哭、あるいは届かぬ声
sideラウファ
………………。…………………………。
……………………………………………………………………?
………………。
ねえ。
僕は今、“僕が欲しがるべきもの”を手に入れたんだよね?
“記憶を失う前の『僕』”のことを、今、僕は知ることができたんだよね?
「ねえ」
そのはずだ。そのはずなのに。
やっぱり劇的なものなんて何一つなくて、衝撃的なものも何もなくて。何も感じなかった。首を傾げるしかなかった。まるで『お芝居』を聞かされているようだった。僕はただ一人舞台の上でおいてけぼりを食らっているようだった。……僕はどうしたらいいんだろう。どうすれば『正しい』反応なのかな。喜べばいいのかな? 悲しめばいいのかな? 驚けばいいのかな? ……全て他人事の様なのに?
記憶の無い人間が“当然求めるであろうこと”を手に入れることが、知ることができたはずなのに。僕には何の感情も湧かなかった。昔話も、村のことも、『僕』のことも、何もかも“全く現実味が湧かなかった”。そして、きっと、それはとても“おかしい”ことなんだろう。
だから、僕はこう聞くしかない。
「ねえ、『エルグ』」
だって、僕には“わからない”んだから。
sideエルグ(ゾロアーク)
せせら笑ってやるつもりだった。
自分の正体を知って今、どんな気分かと。
そうだ、指を指して嘲ってやるつもりだったのだ。
てめえはこんなにもおぞましい、呪われた化け物だったのだと。どうだ、失くした記憶の中身は醜かろうと。てめえはどこまでも忌み嫌われ、疎まれ、忌避され続けた怪物だったのだと。ただ喰い物にされるはずだった愚かな
消耗品だったのだと。そう、溶けたばかりの熱い鉛を呑ませるように、丁寧に丁寧にこの『亡霊』に教えてやったはずだった。
はず、なのに。
「ねえ」
たじろぐはずだった。驚愕の表情を浮かべるはずだった。恐ろしいと逃げ出すそぶりを見せるはずだった。震えて泣くはずだった。自分は何も知らなかったとその愚かさを嘆くべきだった。“そうすれば、彼はそれで満足した”のに。満足して、目の前の『亡霊』の愚鈍さを嗤って、それで済むはずだったのに。それなのに。
それなのに、今身体を震わせ、目を見開き、口を戦慄かせているのは、全てを語り終えた獣の方。
「ねえ、『エルグ』」
大人しく座って話を聞いていた『亡霊』は、困り果てたように首を傾げ、恥ずかしそうに笑って、――こともあろうか彼にこう尋ねるのだ。
「それで? それを聞いて、僕は今からどうしたらいいのかな?」
己の過去に、何の感想も抱かない声で。
話始める前と同じ、呆けた間抜け面で。
「だって、僕にはわからないよ」
ぱちん、と。黒い獣の中で、何かが、弾けた。
sideエルグ
しばらくの、沈黙があった。
それは情報を整理する時間で、感情を処理する時間で、互いにとって必要な静寂だった。
――あの子は、あの子は人を殺せますか? フェデレ家のお嬢様のために人を殺せるんじゃないですか?
殺せる子だと、そう思った。エルグはそう確信を持って子爵に尋ねた。初めてで会った時に、祭りの盛況を眺めながら話をした時に、薄らと感じた『それ』は勿論その時はただの勘でしかなかったけれど。けれど『ルノア』を調べれば調べるほど、『セレス・ローチェ』を探れば探るほど、それはエルグの中で確信へと変わって行った。あの“死者をなぞるような歪で醜い道化”を見れば、子爵からその経緯を聞けば、そう思わざるを得なかった。
死した者を探すのは彼もまた『同じ』であったから。
しかし、彼女はエルグの姿をした獣に怒り、彼の話に焦り、そして彼の手を握った。“ラウファを殺せない”とそう示した。ならば彼が最後に語るべくは一つだけ。
「……これで、大体話したかな? それから、君に謝罪を。脅すような真似を何度もしてすまんかった。ただ、警告したのはそういう理由があったから。君らに知られたくなくて曖昧な言い方になったのが仇になってしまったけど」
「……いいえ。お話ありがとう、エルグ。こちらこそ、ごめんなさい。あなたはずっとラウを探していたのに」
ラウファを託した時と同じように頭を下げるエルグに、ルノアの声が柔らかく落ちてくる。疲れを、焦りを、怒りを、悲しみを。まぜこぜになった感情を滲ませながらも随分、落ち着いた声だった。劇が終われば『観客』だった者は再び舞台上に戻る。エルグは、その『セレス』の声に顔を上げ、肩の荷を降ろすように長く息を吐き、脱力した。
「……今、ロアが屋敷の方に潜り込んでる。上手くやってくれるはずや。だから、待っている間に何か聞きたいことがあれば」
身体をほぐすように、土の上に胡坐を組む。随分話したはずだが、こちらは“話を知っている”者だ。聞き手からすれば説明が足りないところもあったかもしれない。そしてやはり。ルノアは少しばかり思案するように首を傾げ――尋ねる。
「なら、いくつか。……あなたはわたしに何度も聞いたけれど、そんな“死んでから時間の経った遺体”でも生き返らせることができるものなの?」
問われたその質問にエルグは一瞬顔をしかめたが――少女の顔に『期待』の表情がないことを見て、首を振った。
「いいや。あれはあくまで君を揺さぶる為の喩え話や。……ただまあ、そうやね。ラウファを『前例』と同じと仮定するなら何でもかんでも生き返らせることができるわけやない。“戻れる肉体”があることが大前提。やから季節にもよるけどせいぜい死んでから半日から一日くらいがリミットってとこやろう。身体が傷んで、臓物が腐ってくるともう無理やったらしいわ。勿論これは記録に残ってる限りの『前例』の話やけど、多分ラウファも同じくらいが限度やと思う」
ラウファはエルグの致死の傷を癒している。無論エルグもそれは承知だが、それはエルグが“死んだ直後”に受けていた傷を“生き返らせた”時に癒したと考えるのが自然で、自然に腐っていった死体まで“死ぬ前と同じ状態まで”時間を巻き戻せるとは考えづらい。いや、考えたくない。そんなことができるのならばそれはもう、神というよりは悪魔の所業だ。遺体から、遺灰から、ミイラから、骨から、人が蘇るのならば、ここは地獄と変わりがなくなってしまう。
「なら、次。二人目の、“わたしの知るラウファ”はどのタイミングで?」
「……それは悪いけど俺にも正確にはわからん。わからんけど、俺を生き返らせた直後くらいやろうとは思う。だって、屋敷のもん誰にも見られんかったわけやし。ただ、あの子はラウファって名前を“知っていた”な? ならそれは“覚えていた”わけやなくて。……俺が、最後に、ラウファの最期に呼んだ。ラウファ、逃げろって。もしかしたらそれが“生まれて初めて聞く言葉”だったんかもしれん」
逃げろ、と。
叫んだ、叫んだはずだ。それがきちんと音に、意味のある言葉になったのかどうかはもはやわからないけれど。
小っ恥ずかしいやろ、と。誤魔化すように苦笑を浮かべ、少女から僅かに目線を逸らす。けれど、ヘーゼルの視線は揺らぐことはなかった。非情なほど真っ直ぐなそれが、けれどどうして心地良い。
「あなた、色んな所を探し回ったって言っていたわね」
「ん。ああ、そうやで? ラウファ探して、駆け回ったよ。国境も跨いだし、遠くの国も見に行った。その国の言葉を覚えて、探した。俺の言葉はいろんなとこのが混じってちょっと変で、って話は確かしたな? うん、ほんまにいろいろ探し回ったんよ」
ルノアはそれに頷き、顎に指を当ててしばし考え込む。ぱちり、ぱちり。ゆっくりとした瞬き二つ。行儀よく座ったスカートの裾が少しだけ揺れる。それから、年齢相応の幼い顔立ちが、少しだけはにかんだ。
「十二のときに逃げたと言ったけれど何年くらい探したの? ……いいえ、ラウは幾つなの?」
『本筋』から離れたであろう、けれど“少女にとってはそれなりに重要な問題”にエルグはしばし呆気にとられ、けれどすぐにそれはそうだと納得する。つい漏れた失笑に、少女は少しばつが悪そうに目を伏せた。炎の影が、ルノアに落ちる。コーラルのはずの髪色は光の加減か金にも見えた。
「十三なる歳の十二の時に見つかって、逃げてしたから一年と少しくらいかな? そのまま数えてもええなら今年十四歳やろ。冬の生まれやから」
国内も、国外も。エルグはラウファを探して歩いた。一年ぽっちの短くて永い時間を、彼は全て費やした。たった一年で見つかるなんて、彼は思ってもみなかったのに。もっとずっと探し続けなければならないと思っていたのに。そう思って過ごした日々はあっという間に過ぎ去って行ったのに。見つかってしまえば闇雲に探していた時間はひどく永く感じた。
「ねえ、エルグ」
「何? 何でも聞いてぇや」
にっ、と笑って見せるエルグにルノアはその表情を緩めなかった。迷うように視線を宙に彷徨わせ、しばらく。意を決したように彼を見据える。
「“過去の戻る方法”。わたしとあなたが出会った時、あなたは後悔があるとそう言ったわ」
「言ったね」
肩を竦め、苦笑いを作ろうとして、失敗する。そうだ、そんなことも言った。“過去に戻る方法”。なんて言葉を吐いたことだろう。ああ、そうだ。自分に目の前の少女のことを嗤えるものか。“愛しい人を取り戻せるなら?”などと問う権利などあるものか。なぜならエルグもまた、願ったのだから。彼女と同じく“あの日の後悔をやり直せるなら”と。一体何度願ったことか。“どんな犠牲を払ってでも”と。“たとえ死んでも構わないから”と。“誰かを殺してでもあの人に会いたい”と。容易く、無邪気に。……何度血を吐くまで叫んだことか。
全くもって、笑えない。
「口から出まかせの言葉だとあなたは言ったけれど。けれど、違うでしょう。あなたは、今でもラウを。いいえ『ラウファ』を、」
けれど。
「いいや」
大人の声になりきっていない、その幼い声を彼の声がかき消す。
猫の目のように収縮するヘーゼルブラウンに、エルグはもう一度首を振った。ぎこちなく、けれど今度はもう少し上手に笑って見せる。
「いいや、それはない。“してはいけない”。だから、そんな心配はせんでええ。それをしたら、俺は先祖たちと同類や。だから、それはないよ」
「でも」
無意識の間に右手の指がズボンのポケット淵に引っかかる。体勢のせいかポケットの中身に、そのガラス質の触感に触れることができたのは親指一本だけ。
「ルノアちゃん。それは、あかんよ。わかってるはずや。だってそれは結局は輪の中にいるだけ。俺が零してしまったものを、ルノアちゃんに押し付けるわけにはいかんよ」
いけない、と。
それ以上はいけない、と。
それ以上言わないで欲しい、と。
黙するエルグに、
「ごめんなさい。なら、きっと。これ以上の言葉はあなたに対する侮辱にしかならないわ」
少女もその先の言葉を飲み込んだ。
「……ごめんなさい。あと一つだけ、いいかしら?」
溶けゆく蝋の長さが時間を告げる。一分にも満たないほどの短い沈黙があって、それを先に破ったのは彼女の方だった。申し訳なさそうにおずおずと口を開く少女に、エルグは勿論と頷く。
「確か、あなたは“今日明日の命の心配はない”って言ったわね。それは、一年前もそうだったからかしら?」
「……そうやね、もし本物ならば『怪物』を表に出すわけには行かんから。だから彼らは必死でラウファを連れ戻した。大急ぎで連れ帰った。君に居場所を伝えなかったのもそう。化物だとわかったら、それがこの村から出るとわかったら。そんな恐ろしいことはないやろ? だから君を拒絶した。記憶が無いと言われてもそんなこと安心できる材料にはならない。彼らにとってあれは絶対に外に出してはいけない恐怖の塊なんやから。でも彼らには確信がない。本当にあれが『ラウファ』なのか。ラウファがぼろ出したらおしまいやけど、それまでは大丈夫のはず。それに言ったやろ? あれは知る人ほど恐ろしいものなんよ。暴れれば人の手におえない災いの種や。一度彼らの手を離れてしまったあれは制御できる子供じゃない。なら迂闊に手を出せん」
安堵させるように、できうる限りの優しい声と表情でエルグはルノアを言い宥める。そう、大丈夫。“大丈夫のはず”だ。先程から右親指が撫でているそれは相変わらずつるりと涼しい。
――それこそ。それこそ、“もう一度殺してしまおう”とでもしない限りは。
「……ただ。ラウファのことがどこまであっちにわかってるのかどうかは微妙なんよな。『ホウオウ』というタネが割れてんのかそれさえまだ掴めてないのか。そのあたりがいまいちはっきりせん。俺も当時気を失ってたし。その辺教えてもらえるわけないし。先走ったりはないように、ロアを付けたんやけど」
殺してしまえばいい。“そうでなかったならば”処分すればいい。記憶を失った、“どこの誰かもわからない子供”。保護者もおらず、付いているのはそれよりも幼い少女だけ。ならば、“たとえいなくなってもわからない”と。……そこまで考える狂人は多分いない。いない、はずだ。だが。
蝋燭の火が揺らぐ。山積みにされた羊皮紙の束の影が部屋の隅まで大きく延びる。恐怖は人を狂わせる。思った以上に、考えている以上に。影の巨大さを知る者は、実物の大きさを確認することさえもできなくなるのだから。可愛い子犬は巨大な獣に、束ねた縄はとぐろを巻く大蛇に。本質を見れば、分かったかもしれないこと。だが、その言葉はすでに遅い。彼らは『影』を見てしまったから。『影』だけをみてしまったから。
ぞわり、と首筋の皮膚が粟立った。
「ラウファは」
気づいてしまった恐怖を押し殺すように、彼は言葉を発する。沈黙は、静寂は、“余計なこと”を考えてしまう。だから、エルグは余計なことと知りながらもう少しだけ、“口を滑らせる”。
「え?」
「さっき俺は、ラウファは“自分が死ぬことで相手を生き返らせる”って言ったやろ。ここでいうラウファの『死』っていうのは、ルノアちゃんもわかってるとは思うけど『精神的な死』や。想い出、記憶、感情、そういった“その人を構築する経験”の喪失。といっても、ラウファが“肉体的な死と精神的な死の二つをもって死者を生き返らせる”のか、それとも“記憶だの感情だのだけを生贄にして、その過程で一度死んでるけど結局自分も他人も生き返らせる”のかは、わからんけど。それはまあ表面的な結果だけ見れば同じやからここでの議論やない。でも、反面“生き返らせてもらった”人間は記憶も何もなくなってない。俺は何も忘れてへんからな。この“他者を生き返らせる”っていうプロセスの中で、代償はラウファの記憶と、一時的な肉体の死なんよ」
「……ええ。そうね?」
同じ説明の繰り返しだからだろう、首を傾げる少女にエルグは少しだけ微笑んだ。
「人を“生き返らせる”。大仰なことやろ。それやのに、生き返らせてもらった人間が何の代償もないって言うのは、惨いよな」
「……エルグ、あなた」
何かに気づいたように、口を噤む少女に。
――昔々のお話です。
――人を生き返らせるほどの力を持った獣が神として祀られていました。
――怒った神は、彼らに呪いをかけました。
――獣に堕ちる呪いを。
「どうやろうね?」
エルグはただただ、微笑んでいた。
sideエルグ(ゾロアーク)
“獣に成り損なった”者達が、“獣になってしまった”者達が最も恐れるのは何か。――簡単だ。なによりもことの『発覚』だろう。
己が獣の呪いを受けたと、そう一族に知られてしまうこと。それから逃れるために彼らは記録を残し、秘密を共有し、自らの身体を偽った。しかし、細心の注意を支払い、精神が磨り減るほどの策を弄し、“それでもなお、誰かに見咎められてしまったならば”? “疑いの目を向けられたならば”?
自分がエルグの『何』であるか。それをロアは――エルグが知っているかどうかは定かではないが――エルグに会ったときからきちんと理解していた。なぜなら、彼は『それ』を“決定事項である”として先代の『秘密の番人』に教え込まれていたから。ぼんぐりという首輪を付けられたゾロアの頃の彼にはその『命令』に抗う術を持たなかったから。
彼はエルグの『身代わり』だった。
簡単な、とても簡単な話だ。メタモンでも、ゾロアークでも、ゾロアでも、構わない。人の言葉を解し、“人間の姿に化けられる”のであればそれで良い。もしもの時に、“いやいや獣が化け損なっただけですよ”と言えるのであればそれで良い。万が一に、“こいつがそうだ”と差し出せるのであればそれで良い。ロアに与えられた『命令』は、最後の砦の役目。
――ロア、ちゃん。ロアちゃん。
だから、その幼い
子供を見た時に、何も知らず自分に触れた時に、彼は何も思わなかった。何も感じなかった。これのお守りをしなければならないのだと、そう漠然と理解しただけ。自分の運命を呪っただけ。それでも時間と言うやつは恐ろしいもので、家族として過ごして、友人として遊んで、兄弟だとして育った。ああ、そうだ。単純だと笑うなら笑えばいい。あれこれ世話を焼いているうちに気づけば底なし沼に嵌まっていたのだと、肩を竦めて溜息をついてやることくらいわけはない。それがたとえぼんぐりのもたらす効果だったのだとしても。ロアにとってその感情は紛れもなく『本物』だった。
そして、ロアの感情がそう変化している間にもあちらはあちらで変化が起こっていた。臆病な子供だったものはにょきにょきとキノコのように背丈が伸びて、進化した自分とだって目線が合うようになっていて。初めはまるで歳の離れた兄弟のようだったのに、思考も背丈も双子のように揃ってしまって。過ごした時間の分だけ『兄弟』の立ち位置は逆転して行った。
そんな、彼の半身が。彼に縋りついて泣いたのだ。
――ロア。ロアちゃ……たすけて、助けて。おねがい。
――ラウ、ファが。ラウ、を、殺してしまった! 僕が! 僕がラウちゃんを殺してしまった!!
――死んでしまった、殺してしまった。僕が失敗したから! 僕が! 間違えたから! 僕のっ、せいだ、僕がころしてしまった。死んでしまった。嫌だ、いやだ。いやだ、捜さなきゃ、見つけなきゃ。僕が。『俺』が、探さないと。
嗚咽と共に吐き出される言葉は意味をなさず、涙だか鼻水だか涎だかもわからない液体が自慢の毛並を汚し、震える指はロアの皮膚に食い込んでいた。
言ってみろ、と。そう、彼がエルグに尋ねるのに多くの時間はかからなかった。
――『エルグ』になって。俺の、代わりになって。
大切な人を、『弟』を探したいのだと。震えた声で縋りつくそれを、壊れたように何度も何度も詫びながら頼むそれを、叶えてやるのにわけはなかった。他のどんな願いよりも簡単だった。なぜなら、それは彼の本来の存在理由そのものだったのだから。
そうして彼は、エルグに化けた。エルグの『身代わり』に、『エルグ』になった。
そして、だからこそ。
「それで? それを聞いて、僕は今からどうしたらいいのかな?」
だからこそ。彼は、赦せなかった。
《てっ、ぇめっ、えはっ!!》
嘲ってやるはずだった、泣き顔を拝んでやるつもりだったソレの吐いた言葉にぶつり、と頭が真っ白になった。
景気の良い打撃音がして、蛙の潰れたような耳障りな音が聞こえて。子猫の制止は遠く、忌まわしい『亡霊』が呼吸するための喉の奥で潰れた咳をした。顔を歪め、ぱくぱくと魚のように呼吸を求める様は滑稽極まりなく――そこでようやく彼は自分の行動に気づく。
大切な片割れの。大切な『弟』姿をした『何か』の首を、絞めていた。
《い……ッいい加減にしろ! どこまで……どこまでエルグを! 馬鹿にしてやがるのか!? てめえはあいつを愚弄するのか!? おい、答えろ! 答えて見せろ!》
けれど気づいてなお、彼は止まれなかった。理性とこのまま縊り殺したいという衝動のぶつかるぎりぎりのところまで力を加えながら、床に倒れたソレに馬乗りになり吼える。こちらに向かって飛び込んでくるエネコを横一文字に部屋の隅まで払い退け、抵抗しかけた『亡霊』の腕は反射的に足で踏みつけた。部屋の隅に子猫が激突する音とほぼ同時に踏みつけられた手首がびくりと跳ねて力を失う。視界の端で羽根が数枚散って融けて消えた。痛みを訴える声は彼の手によって喉で握り潰され、代わりに吐き出されたえずくような咳も彼には耳障りでしかない。エネコが何か言ったようだが聞こえるはずもなく、物音を聞きつけて誰かが様子を見に来るかもしれないことも黒狐には知ったことじゃなかった。
あんなにもエルグは泣いていたのに。てめえを失って、自分のせいだと責め続けて。死にもの狂いで街を渡り歩いて、国まで越えててめえを探していたのに。体中傷だらけになって、何度も死にかけて。なのにどうして、こいつは何も知りません覚えてませんってとぼけたことを抜かしやがるんだ? どうして。どうしてエルグだけが思いつめて抱え込んで、それでも笑わなきゃなねえんだ。壊れたように“大丈夫だ”と呪詛のように繰り返さなきゃなんねえんだ。ああそうだ、俺の大切な片割れはてめえのせいで自分を殺してしまったのに!
《“大丈夫”だと!? 大丈夫なわけあるか! そんなわけあるはずねえだろ! あんなにぼろぼろになって、端から端まで捜し歩いて、言葉も通じねえようなところにまで捜しに行って! 何度も泣いて、飽きるほど大丈夫だって笑って!! 大丈夫なわけがねえだろ! 大丈夫なもんか! そんなずたずたになったエルグにてめえは! てめえはわかりませんだと!? “自分がどうしたらいいか”だと!? ふざけてんじゃねえぞこの死にぞこない!》
赦せなかった。赦せるはずがなかった。“腹が立つ”なんて言葉で収まりきらないほど腹が煮えくり返っていた。そんなこと、エルグが望んじゃいないと。そんな
正論は彼にもわかりきっていて、それでもその獣の耳には届かない。
ラウファの吐いた言葉は、ロアの『弟』への、『兄』への、最低の侮辱だった。
エルグの行動への、冒涜だった。
どうして。どうしてだ。ロアは、本当はラウファが戦慄き、震え、恐怖に駆られれば――ずっと探していたエルグに”思い出せなくてごめんなさい“と。“それでも探してくれていて嬉しかった”と。ただ、少しでもそう言ってくれれば、エルグにそう言ってくれれば。彼はそれだけで溜飲を下げることができたのに。それだけで、良かったのに。
この仕打ちを、黒狐は許せるはずがなかった。
《て、ッめ、なんざ! 死んでたら良かったんだ! ああそうだ、死んでたら良かったんだ! 一度死んだなら大人しく死んでろ!》
死んでたら、良かったのに。
かつて祭りの最中に。気絶させたコレに向かって吐き捨てた言葉を、呪いのように繰り返す。
ああ、そうだ、死んでたら、良かったのに。大人しく、消えてなくなっていたら良かったのに。エルグのいないところで勝手に野たれ死んでたら良かったのに。
戻ってきたと聞いたとき、どれだけ彼は恐れただろう。戻って来くれば、『弟』を救うためにエルグはどれほど自らを危険に晒すかわからないのに。
隠し事をしていたことにどれだけエルグに腹を立てただろう。それでもコレが戻って来なければ、ルノアがエルグとロアの『警告』を聞いていたなら今も互いに平穏でいられただろうに。
自分を殺してしまった『兄弟』を見せられて。彼は、どれだけ、この『化物』を、殺してやりたかっただろう!
《死んでろ! 死んでたら良かったんだ! 死んでからさえエルグを縛るのか! いい加減にしやがれ! もう十分だろうが! もう十分苦しめただろうが!!》
それでも、『弟』が、それを望むから。
だから、彼は従っていたのに。
視界が歪む。毛並が濡れて、塩分を含んだ水が口の中に流れ込む。ああ、とことん“人間の真似”が染みついてしまったと彼の頭のどこかが告げる。……だって、エルグが泣かないから。代わりに泣いてやらなきゃ、釣り合いが取れねえじゃねえか。
「……ごめ、なさ、っい」
掠れた声が、歪んだ顔で。涙で潤む視界の向こうで。“何もわからない”と当惑に満ちた、目で。咳と共に何とかそれを吐き出した。
「わか、なくて……ごめ、な……。『僕』は、エルグ……ひど、こと……し、たの……?」
その言葉に。首に噛みついていた腕の力がなくなって、だらりと落ちる。
失望が。声にならない慟哭が。生暖かい吐息に変わって消えた。