3.サダクビアは神様なんて信じちゃいない
sideルノア
――化け物なんだって。
時計塔の上で。借用書の紙吹雪が空を舞っていて、街の鐘が時を告げていた。僕は怖いんだって、と子供のようにそう笑う彼。きれいだとそう言ったわたしに、“そんなことを言うのはルノアだけだよ”と言った彼。辛いとか、痛いとか、そんな感情すらきっと彼にはわかっていなかった。“
そんなこと”を言うのはわたしだけで、“
そんなこと”を言われることこそ彼にとって当たり前だった。
座って、と。再度促され、椅子に戻る。肘を机の上に置き、体重を預けた。明るいオレンジをした小さな光が横目に入る。
「ちょっと今までの話を整理しようか。俺もその方がわかりやすい。茶でも出せればええんやけど、紙類が多いから堪忍な。まあ、一息ついてて」
断りを入れるエルグの声に、ただ頷く。上から声が降ってくる。多くのことを話したように思えるけれど、要約してしまえばなんてことはない。語ってきたのはこの村の歴史だ。
「昔々、ある一族が暮らしていて、その一族は迫害された。なぜならその一族には時折獣に呪われたような『怪物』が生まれたから。人とは違う、獣の特徴を持った化物。それはとてもおぞましいもので、誰もが忌み嫌った。それゆえに彼らは迫害から逃げてきた。ずっとずっと逃げて、その間に沢山の血を混ぜて、ずっとずっと遠くに逃げてきた。獣を従わせる道具を作る技術だけが彼らの救いだった。それらの技術がようやく辿り着いた国にはなかったから。それで、彼らは結局ここに住みついた。かつての故郷を忘れるほど長く、自分達が迫害されていたことさえ忘れるほど、日々平穏に。……さっき、“ぼんぐりには日々の暮らしに困る程度の利益しか生まん”って言ったけどそれは訂正する。そう言った方が“ここに住みつく理由がない”理由としてわかりやすいかと思ったからそう言ったけど、実際市井に流れてるぼんぐりは――知ってるかもしれんけど――どれも目が飛び出るくらいの高級品や。ただ実際問題この村では“日々の暮らしに困らん程度”の利益しか生んでない。それは、俺らがあまりに目立った立場になるのを恐れたためとも貴族に安く叩かれたとも言われてる。まあぼんぐり自体はあまり話に関係ない」
噛み合っていなかった説明に訂正を加え、順序を時系列順に並び替えて、エルグの声は続く。淡く影を落とすエルグの目は虚ろで。その声は淡々とした、感情を殺した声だった。彼の言葉に頭の中が整理されていく。そして、冷めていく頭は尋ねかけた言葉を思い出す。
「でも、きっと彼らは安く叩かれても構わんかったんやと思う。彼らにとっては安定こそが重要で、『化物』を表に出さんことが大切やった。折角辿り着いた安住の地を、『怪物』に奪われるわけには行かなかったから。彼らにとっては再び迫害され、追い立てられ、流浪の身にされ、狩られることになることこそ避けねばならないことだったんよ。ここまでが、大前提」
「待って頂戴、エルグ。なら、ラウのような人たちは、“この村でどういう扱いを受けて”きたの?」
口角を下げ、目尻を下げ、微かに微笑んでいるようにも思えるそれは疲れ切った者の顔だった。その目はもう、何の感情も映さない無気力なそれだった。
「端的に言うなら、殺してた」
なんでもないように、当然のように。
何の温度もない言葉が、耳の奥に流し込まれた。
「ッあ」
「ルノアちゃん」
自分でさえ理解の追いつかないうちに声が漏れる。けれどその何の意味もない咆哮は彼によって止められた。鈍く殴られるような声に身体が跳ね、言葉が止まる。
「言ったはずや。これは理不尽な話やと。どうしようもなく不合理で、吐き気のするほど下らない話やと。君はそれでも聞くと言った。構わないとそう同意した。なら君は黙って聞いてくれ。今の君は『観客』でしかない。
君がどれだけ騒いでも舞台の上の『物語』は変わらず、台本は変更されない。過去の話は修正されない。俺もただの『語り部』でしかない。だから、席に座ったのなら君にできるのは劇が終わるのを見届けるだけ。君はそれを知ってるはずや。……そうやろう?」
わたしが叫んでも騒いでも何もかわらないのだと。
わたしが何を言っても、嘆き悲しみ、理不尽だと叫んでも無駄なのだと。
それを知っているはずだろうと彼は言っていた。そして確かにわたしはそれをよく知っていた。よくわかっていた。なぜならわたしもまた、何を言われても変わらない『役者』であったから。
口を噤み、頷くわたしにエルグもまた、ぎこちなく口元を緩ませる。
「声あげてごめんな、ルノアちゃん。ただ、少し、黙って欲しい。順番に、全部、話す、から」
「…………ええ。ごめんなさい、エルグ。どうぞ、話して頂戴」
わたしの声に、エルグはおもむろにぐしゃりと前髪を掻き上げた。その掌がその目を覆う。長い呼吸が彼から漏れた。ばさりと前髪が落ち、狼の眼がまたこちらを覗く。
「……その昔、それこそこの国にたどり着くまでは少しでも獣の特徴とか、そういった兆候の出ていた
者は殺していたらしい。それらは一族が『怪物』を産み落とすという証明であり、迫害を受ける理由の証であったから。それは恐ろしいもので、おぞましく、醜く、“自分達は呪われているのだ”という現実を突きつけるものやったから。だから、一族の中でも“そういう者”は相当忌避されて殺されてきた。ただ」
彼のその言葉に躊躇いはなく、止まることはない。顔を隠した時に、長く息を吐いたときに、彼がどんな顔をしていたのかわたしにはわからない。それでも、彼は全てを語ると言ってくれたのだから、わたしは全てを聞かなければならない。わたしがそう、望んだのだから。今のわたしは物語には関わることのないただの『観客』で、話を聞くことが唯一出来ることなのだから。
「ただ、何度も同じ言葉を繰り返して悪いけど、村の
者の中にはもうこの国の人間とよく似た人も多いって言ったやろ? 俺らにはもう余所の血が混じってる。俺らの祖先は同族だけでは血が途絶えてしまうことに早々に気づいて、その長い旅の間で多くの血を混ぜてきたから。こんな忌々しいもの繋げなくてもよかったくせに。そしてそのことが思わぬ結果をもたらした」
皮肉を言い、むりやり笑うエルグに釣られて少しだけ笑う。蝋燭の芯が燃える音が煩わしく、籠った熱気は不快だった。一呼吸おいて、エルグはまた口を開く。
「“血が薄まった”んよ。他の土地の血が混じって、長い間に獣の特徴が出るもんはだんだん減っていた。この国に定住するようになってからだと、初期は生まれる数の三割、四割に獣の特徴が出たって話やけど、今は一割どころかほぼ生まれん。だからか知らんけど、定住を始めて数年、十数年くらいかな。生活が安定し始めた頃に呪われた『化物』を隔離するための場所が作られたと聞いてる。それが俺も育った場所」
――この家からは見えんけど、もうちょっと先に集落があって、そのさらに奥に屋敷があるんよ。そこがラウファの育った家。ここまではええな? ちなみに俺もそこで育っとるんやけど
「エルグ。あなた、まさか。ラウと同じ……!?」
あまりのことに釘を刺されたばかりだと言うのに、つい言葉が零れる。はっと口を手で覆うと、わたしの体重に椅子が悲鳴を上げた。散らばる木片が足首の後ろにわずかに爪を立てる。軽く肩を竦めてみせるエルグの、細められた琥珀は答えを雄弁に語っていた。けれどエルグの口から返される言葉は否定。
「違う。……いや、違わんけど。正確には違う、と言うべきかな。さっき三割四割、って言ったけどそのうちどれだけが“本当に”そうだったのかはもうわからんのよ。獣の特徴といったりした兆候が出たら隔離ってことやってんけど、実際にはその後何も出ずに済んだ
者もおる。ぶっちゃけ『兆候』の定義自体がかなり曖昧で、“そんな気がする”とか、“そんなのを見た気がする”も『兆候』に含まれてたからその中には“本当に何でもない人”も多く交じってたんやろう。勿論、成長過程で獣の血より人間の血が勝った場合もあったんやろうけど。んで、俺もその何も出なかった人間や。所謂“呪われ損ね”とか“成り損ない”とか……まあ呼び方は何でもええけど、この村では怪物でも人間でもないもんや。人間に“成り損なっ”て、怪物に“成り損なっ”た。だから君が聞きたい意味で答えるなら俺とラウファは違う」
彼の言い方の意図に気づいたわたしに、彼もまた微笑み頷く。右手の親指だけを握り込み、四の形を作ってみせた。
「そう、ちょっと誤解しない欲しい点なんやけど、古い記録には俺みたいな人間も混じってるってことや。しかもその頃の記録なんて、古い言葉で書かれてるもんを繰り返し訳してるのしかないからどこまで正確かもわからん。せやから、三割四割もどこまで正しいんかわからん。ただ、実際数は減ってるし、君は“数が減っている”ということが正しいとわかってくれればそれでええ。……それで、ここ近年だけで言うと、『怪物』はほとんど生まれてなかった。ラウファと俺でもそれなりやけど、俺なんかは十年単位で間が空いてる。さらにさっき言った通り実際はっきりとした特徴が現れた人間を選別したらもっと少ない。ここ数十年で見ても『本物』はラウファだけや」
話を切り、エルグは少し首を傾げて目を瞬かせる。
「ん。……ちょっと話が逸れたかな。ごめんな。つまり纏めるとかつては疑いのあるもの全てを殺してたけど、定住することになってから全体数が減ったせいか人に見られるリスク的な問題か殺すことはまず無くなった。人道的になったかと言われると微妙なラインやけど、だからまあ今日明日みたいなラウファの命の心配はとりあえずせんでええよ。あの屋敷はなんというか、こう、色々兼ねてるんよな。診療所みたいなこともするし、村の集会場にもなってる。ただ、いくつかに分かれてて、そのうちの一角に獣の特徴を持って生まれた
者が暮らす場所がある」
“今日明日みたいなラウファの命の心配はとりあえずせんでええよ”。……その言葉に、身体の力が抜ける。強張っていた肩が脱力し、知らない間に握りしめていたらしい両手が弛緩する。昨日から張りつめていた緊張が解けていく。
けれどそれが、ラウの手を離してしまったことへの自責から来る安堵なのか、それ以外の物なのかの判断は、つかなかった。
sideエルグ
小さく口が綻ぶ。
頬の少し赤みが差す。
握りしめていた手が解ける。
明らかな安堵の色を覗かせたルノアにけれど彼は内心で苦笑するしかない。死なないことが良いこととは限らない場合もあるのだから。ジジジと燃える蝋燭の芯が大分短くなっていることに気づいて、エルグは深い呼吸を繰り返すルノアから目を離し、新しい蝋燭を足元の箱から取り出す。まだ、少し早いか。くるりと手で蝋燭を回し、明かりの長さを気にしながらも口を開いた。
「人に寄るけど、例え何かあると思われて隔離されても、実際に何か妙な点があって隔離されてもその後“何もなければ”大体七年ほどで屋敷から解放される。ただ、俺が言うのもなんやけど、結構いい場所やで。きちんとした教育を受けるし、衣食住保障されてるし、基本的に欲しいものは与えられるし。……ラウファと過ごして不思議に思ったことはなかったかな? 例えば、話し方だったり、文字が読めたり。どうやろ?」
ぱちりぱちり、と瞬き二つ。小さな声が右手で覆われた。どうやら心当たりがあるらしい。余裕が出たのだろう、表情が少し豊かになった。
大きな街ならばともかく、田舎の識字率は決して高くない。文字を読むことのできる人間は増えつつはあると言え、少ない。ロアも文字を読むことまではできずにセレスの日記を持ち帰っている。ルノアも本来ならば文字を読むことはできなかっただろう。ただ、『お嬢様』として暮らす中でそれが『当たり前』になってしまっていた。だから、その異常さに気づかなかった。
「ラウファの言葉は訛りの無い綺麗な言葉や。田舎訛りすらほとんどないやろう? 文字も読めたはずや。だから、結構きちんとした教育を受けてるんやで。俺ら」
ニッ、と歯を見せるエルグに、ルノアも少しだけ微笑む。そろそろかと手に持った蝋燭に火を移し、もはや命短しとなった蝋燭の火を吹き消した。蝋を垂らし、新たな蝋燭を固定しながら彼は再び口を開く。
「で。例えば角やったり、奇妙な力やったり、身体の異変やったり。そんなものが現れず何もなく過ごせばあとはここで暮らすことになる場合が多い。本当は、本来の親元に戻ってもええんやろうけど。……村の歴史で話したことを思い出してほしいんやけど、もう彼らは“自分達が迫害されていた”ことさえ記録に残してないんよ。迫害されていた理由も知らん。ほんの一握りを除いて彼らは“獣のような子供が生まれることも知らない”。ただ、病気だとかなんだとか理由を付けて赤ん坊を引き剥がしてるわけ。で、数年たってさあもう返しますって言われても親にとっても気味が悪いやろ? だから俺は誰が親なんかも知らん。……というか、下手に甘やかして育てられてるから面倒見きれんってのもある。……俺らみたいなのは大体二種類どっちかの性格になんねん。ものすごい引っ込み思案になるか、もしくはとんでもない我儘になるか」
だから、もはや彼らは普通の生活には適応できない。今まで全てを与えられてきた人間がいきなり手のひらを返されて外に放り出されるのだ。まず、生きてはいけない。
「ここまではええかな。余所の血と混ざることで獣の姿を持った
者が生まれることは減って行った。村には隔離所が作られて、疑いのある
者はそこで育てられるようになった。重要なのは獣の特徴が出たとみなされてもその後何もなければ普通に暮らしていけるってことや。ただ、普通の人たちはもう“獣の特徴を持った子供”が生まれる事すら知らんし、隔離所の屋敷で育てられた子供は問題がある場合が多いからこちらにくることが多い。ダウ――昨日の晩帰ってきたちっこいのがおったやろ。あの子もそう。ただ、あれは例外的にこっちと村とを行き来してる。事情があって屋敷にいた期間も短くて、ほとんど覚えてないくらいやからな。まあまた比較対象に出すかもしれんから頭の隅にでも置いておいて。……で」
ぱしん、と胸の前でエルグは手を叩く。ルノアはその音に肩を揺らし、目を丸くした。地下の空気は蒸し暑く、喉はからからに乾いていく。ああ、そろそろ水が欲しい。唇を少しだけ舐め、喉の渇きを誤魔化した。なぜなら。
「で、だ。問題は災いが、呪いが、現れてしまった方。毛皮が生えたり、水を吐くようになったり、植物が身体から芽吹いたり……翼が生えたり」
本番はここからなのだから。
ルノアの表情が明らかに変わる。
「待って頂戴」
けれど、エルグの言葉はルノアのそれによって遮られる。
怪訝な顔をする彼は、けれど吐き出しかけた文句を飲み込んだ。その表情は、これ以上先の話をするなという拒絶のそれではなかったから。ヘーゼルの瞳は真っ直ぐにエルグを見ていたから。
「待って頂戴、エルグ。わからないわ。いいえ、あなたの話はわかるのだけれど。でも、どうして。あなたはどうして“そんな話を知っている”の? だって村の人は一握りを除いてもう誰も覚えていないとあなたは言ったわ。ならあなたはどうして知っているの? あなたが一握りだと言うのならばなぜ一握りにあなたがいるの?」
「…………あぁ」
ルノアの疑問にそういえば、とエルグは息を吐く。そういえばそうだ。エルグは彼女にその話をしていない。いや、意図的に外したと言われれば確かにそうだったのだが。話すべきか、と悩むこと一秒以下。彼はがりがりと髪を掻く。
「本筋からは外れるけど。じゃあ、少しだけ。……俺が君にこんな話ができるのは俺が昔の記録を全て覚えさせられたから。記録っていうのは、ここにある書物のことなんやけどな。残せるだけの『怪物』たちの話。書き留められるだけの『化物』たちの末路。そのすべてがここにあるんよ」
自らの身長にも届く、紙切れの山。紙色は変色し、腐食し、文字は滲み、潰れ、解読もできない。ミミズの這った様な文字が、蠢く。そう、ここにあるのは闇そのものだ。過去の中に打ち捨てられ、表沙汰にされず、だがそれでも密かに語り継がれていった血まみれの、それ。
エルグが意図的に外したのはこの話そのものは特にラウファには関係のない話だからだ。少女に語る必要はなく、また少女にとっても不要のもの。だが。彼は“口を滑らせた”。
「正しい歴史や『怪物』の存在を知っているのは一握りやって言ったけど『一握り』は二種類に分けられる。それがまず屋敷の人間。この村でそれなりの地位にいる者たち。村長とかそんなんやね。彼らは『化物』の面倒を見なければならなかったから。だから知っている。それから、俺みたいなどちらにも“成り損なった者”たち。……それぞれがそれぞれの中だけで共有してきたから俺らは“何も知らない”ことになってるし、だからここの記録も“存在しないもの”や。そして、どちらがより『怪物』たちのことを知っているかと言われると多分、俺ら」
村の上層部は知っていなければならない。なぜなら『災い』を外に出すわけには行かないから。その対処を彼らはしなければならないから。だから彼らはその存在を知っている。自分達の歴史を知っている。だが、言ってしまえば“それだけだ”。
一方、エルグのような『化物』に“成り損なった”人間達がそれを記録してきた理由は、もっと必要に駆られたものだった。
「……大昔に。
獣の特徴を持って生まれた人か、もしくは俺らみたいな何らかの兆候が出たとされても結局その後何もなかった“
獣の特徴が出なかった”人間か、まあそのどちらかの中でとりわけ賢い人が居ったんやろう。呪われた者同士が秘密裏に助け合うシステムを作っとった。旅の中では、呪われた身を隠して生き延びれるように、定住してからは屋敷を出たものを引き取って、育てて、また育てられた
者が次のやつの面倒を見れるように。それから、記録を残すようにもした。ここにあるのはこの村の闇やって言ったやろう? 残しておかねばならないとそう思ったんやろな。もう誰も覚えていないことを、村の
者が『怪物』たちにしてきた所業を、『化物』達の記録を、そのすべてを残しておかねばならないと。……生き延びる確率を、少しでも上げるために」
誰が、いつ、どう死んだのか。前兆はあったのか。彼の身に何が起き、彼女の身体がどうなり、それはどこまで隠し通せたか。村の人間達は彼らをどのように扱い、どのように殺し、どのように生かしたか。できうる限り詳細に、できうる限り客観的に。彼らは記録を残し伝えていった。それは憎悪から来るものではない。憐れみから来たものでも、悲しみから来たものでもない。それを記録し伝達していくことが、彼らにとって命綱になりえたからだ。
自分達が同じ末路を辿らぬように、という。
「過去の事例を覚えることで、二の舞を踏まないように。より長く生き延びることができるように、記録は必要だったんよ。勿論危険もあった。記録の存在は同胞以外の絶対に誰にも明かしてはいけない、漏れてはいけない。見つかってはいけない。なぜなら見つかればなぜだと問われてしまうから。自分達が“呪われている”とわかってしまうから」
故にこれは
同胞たちの間だけで共有され、語り継がれ、繋いで行かれたもの。その秘密の関係性は甘美ではなく、もっとずっと血なまぐさい。なぜなら『命綱』といってもこれは皆を救うものではない。少しで長く、多く、生き延びる為のものだ。誰かの死を踏み台にし、それでも他を生かすための、そういう類の代物だ。
さらに口伝にしなかったのも悪意を感じる。実物があるという危険性はあまりに大きい。しかし、考えれば“だからこそ”だったのだろう。例えばもしも誰か一人でも裏切り、この記録の存在が明らかにされれば、『命綱』は瓦解してしまう。先人たちがどうやって生き延びたかがわからなくなってしまう。実物があったからこそ“成り損ない”たちは全員で秘密を共有した。せざるを得なかった。筆跡もサインも裏切らせないための保険となりえるのだから。彼らは記録を写し、保存し、覚え込み、次に伝える。――その秘密の関係性は例えるならば“誰も裏切らぬように”という呪いの類だ。
「俺も八つの時に屋敷から出てここにきて、暫くしてからじいさまからこの場所を継いだ。……じいさまってのは先代な。『じいさま』って呼ぶくらい俺との間が空いたんよ。二年ほど前に亡くなりはったわ。で。俺はそのじいさまに教わってここの記録を覚えた。保存方法とかも教わった。ここにある記録のうち古い文字を訳したり、劣化したのを新しく書き写したり、あとは新しい記録があれば記録を残したり。まるで番人みたいやろ」
皮肉気に嗤うエルグに返される笑みも言葉もない。けれど、それでもなお彼は口元を吊り上げ、目を歪めて笑っていた。それしか出来なかった。
蝋燭に照らされる少女の顔を見る。横一文字に口を固く結び、こちらを睥睨する幼い顔。それは先程から揺るがない。……ああ、余計なことをしゃべったなあ。エルグはゆるりと口元の力を抜いた。
「……俺が君に話をできるのはそういうわけや。さて、いいかな。話を戻そう。異形が出てしまった場合の話やったね。……見当はついてるかもしれんけど、こういうのは、外には出せない。一生監禁軟禁やな。なぜならそれは恐ろしいものだから。異形で、異質で、おぞましいものだから」
眉間にしわを寄せ嫌悪感を滲ませるルノアに、エルグは子爵にこの話をした時のことを思いだす。彼が子爵に話したのはここからだけだ。終始興味深そうにエルグの話を聞いた子爵。
養女のことで不安を滲ませ、協力を申し出てくれた子爵。
エルグと彼の関係は利害の一致、それのみであった。子爵は『娘』のために、エルグは『弟』のために。噛み合っているようで噛み合っていない、利害が奇跡的に一致したからこそエルグは子爵から『セレス・ローチェ』の話を聞けたのだ。
「そんな怖い顔せんとって。俺も別に言いたくて言ってるわけやない。……で、な。まあ、最初は死ぬまで飼い殺しにしてたらしい。ただ、良くも悪くも俺らの祖先は“ぼんぐりの職人”やった。“獣に精通した者も多かった”んよ。これがどういう意味か、ルノアちゃんにはわかる?」
獣の特徴を持った生き物。飼い殺しにするにはごく潰しで、けれど表に出すわけには行かない『怪物』。獣と同じ技を使え、それは確かに獣の使うそれと大差なかった。ならば。
答えに行きついたらしい少女が、そのヘーゼルの瞳を収縮させる。けれどその忌まわしい答えをエルグは彼女に言わせない。
「……ラウファの、」
「え?」
「ラウファの名前の意味は分かるかな?」
突然の話題にルノアは当惑を顔に浮かべる。エルグはそれを鼻で笑い、続けた。
「どこぞの国の風神らしい。俺は『
砂漠』、ダウは『光』。どれもかつて村の
者が使ってたのとは違う名前や。こっちも今となってはもうこの国に混じってしまって、似たような名前になってるけど、昔ははっきりと区別をつけるためのものやった。名前ではなく“何の異形”なのかを示す記号やった。『ラウファ』は今までに何人もいたし、『エルグ』も『ダウ』も勿論何人もいた。少なくとも祖先たちにとってはその記号を付けられた生き物は“人間ではないもの”だった。だから。……使わせるようになった、みたいや。病を癒す術を、薬を製作する薬草を、天候を支配するそれを、“有効利用しようじゃないか”と」
大人は難しかっただろうが、長く住めばその間に人は死ぬ。子供を育てるときに、教え込めばいい。“何かあったら言うんですよ”。“体の不調があれば言うのですよ”。そう言い聞かせ、甘やかせて育てる。信頼さえ勝ち取ってしまえば、彼らの言うことを、『それ』はきっと良く聞くだろう。
「俺らみたいな呪われ損ねの、人間の成り損ないはそんなんの世話をさせられることが多かったらしい。人にとって忌むべきものの世話は人の成り損ないにさせろってことやな。ただそれは記録を残す意味では悪いことではなかった」
一番近くでそれを見ることができたのだから。
自分達の同胞の、末路を。“もしも”の行方を。
「色々。ほんまに色々な場合があったらしい」
瀕死の病人を癒した者。
水脈を見付けた者。
土を肥やした者。
誰かを、何かを、救った者たち。
「それは二重の意味で成功した、そうや。獣の技が使えたり、鱗が生えたりしてるその『化物』は……人の血と獣の血が喧嘩するんやろうな、身体が弱い
者が多かった」
自身の体温に耐えられず、最期は皮膚が半分も残っていなかった者。
食べ物をまともに受け付けられなくなった者。
生えてくる鱗が痒かったのだろう、自らの腕を食い千切った者。
自らでさえも制御ができず、自らの力に殺された者たち。
「昔はそうじゃなくてむしろ強固やったらしいんやけど、そのあたりの理由はようわからん。それこそ血が混じったからかもしれん。ともかく、彼らは死にやすく、疲れやすく、壊れやすかった。技なんて使わせればなおさら弱って行った。死なんかった
者も段々壊れていって、意識とか、意思とか、思考とかそういうもんまとめて駄目になっていったらしい」
理性を失った獣に堕ちて、鎖に繋がれた者たち。
唸り声以外の音を、ヒトの言葉を忘れた者たち。
身動きもできず、虚ろな目で宙をみていた者たち。
誰かを救った者も、誰にも救えなかった者も、皆等しく壊れていった。
「最後は唯の廃人になって、死んで、それで仕舞い」
深くは語らず、端的に。けれど、何があったかはわかるように。エルグは続ける。
――そこにいた者たちの生々しい言葉を、血を吐く叫びを、エルグは全て知っていた。覚えさせられ、覚えたから。自分達と同類の、けれど同じではなかったモノのことを頭に叩き込まされたから。救えなかった者の、呪詛を引き継がされた。泣き叫んでも必要なことだからと、教え込まれた。だから彼は全てすべて、覚えている。血で綴られた呪詛を、恐怖に震える文字を、忌々しい過去を。書き留め、覚えるたびにそれは彼の血肉になった。何度も吐いた記憶があるし、何度も悪夢に魘された。そうして気が付けば、ここにあるすべての記録も闇も呪詛も何もかもが残らず“エルグのもの”になっていた。
もはや共に生き延びる同胞はおらず、秘密は共有されないと言うのに。この空間に放置された闇はエルグ唯一人だけのものになってしまった。それでも連綿と繋がれてきたすべての先にエルグがいて、確かにそれらはエルグにとって必要なものを与えてくれた。知識も、知恵も、目の前の少女に語るべきことも。
「狂っているわ」
淡々と、そう言い捨てる彼女に、エルグは笑うしかない。そうやね、狂ってる。狂ってるけど、間違っていない。なぜなら。
「狂ってる? そうかな、そうかもしれんね」
なぜならその選択は、間違いなく“ごく潰し”を減らし、益をもたらしたのだから。
なぜなら、ごくごく普通の人間であったろう彼らも、ただ必死で生きていただけなのだから。
目の前の、その小さな肩が震えていた。泣きそうなそれではなく、怒りで。握りしめた拳、硬く結ばれた唇。……その怒りをエルグは尊いと思う。正しく、尊いと、そう思う。けれど、それでも。
「ルノアちゃん。君には今、この村の人たちが大悪党に見えてるかもしれん。実際そうやろう。でも、よく思い出してほしい。大前提の話をしたやろう? ここで起こった出来事は魔女狩りと何も変わらん。マトマの祭りの原点と何も変わらん。ここに居るのは他の街に住む人と同じ、本当に何でもない人たちや。同じではないものを、人に似た人ではないものを、畏怖し、否定し、恐れるだけの。君らと変わらぬ人たちや。善も悪も持ってる人たちや。当たり前のように人を愛することができて、当たり前のように他と違う生き物を畏れる。ただそれだけの人たちや。そう、説明したやろう? ただ、それだけなんよ」
使えるものを使った。それだけでしかないのだ。人を癒せるものに、癒してくれと。治してくれと。そう願っただけ。雨を降らすことができるものに、干ばつから救ってくれと望んだだけ。彼らが早死にしたのは結果論でしかない。
「そんなこと」
「そんなこと、あるんよ」
務めて穏やかに、彼は彼女の言葉を塞ぐ。なぜなら、エルグは少女に彼らを恨んでほしいわけではないのだから。彼らはとても邪悪で、冷酷な人たちなわけではないのだから。彼らはどこまで行っても“平凡なただの人間”なのだから。
蝋燭の明かりに視線を向け、その明るさに目を細めた。
「例えば。そうやね、例えば。俺は君に聞いたね。“ラウファを殺せば、君の大切なお嬢様が生き返る”としたら? と。君はラウファを殺せないと言ったけど、それが全く知らない赤の他人ならどうやろう?」
「え?」
「“心の底から望むなら、貴方の大切な人を生き返らせてあげましょう”と言われて、思い浮かぶ人物がいない人は少ないやろう。ある程度長く生きているのなら、なおさら。愛おしい家族が、恋人が、居る人のが多いやろう。気狂いするほど愛している人だって数多くいるやろう。その人が、戻ってくるとしたら? 大切な人が、失いたくなかった時間が、その温もりが取り戻せるとすれば?」
実際そこまでする人がどこまでいるのかエルグにはわからない。けれど、誰もが一度くらいは望むだろう。容易く、無邪気に、願うだろう。“どんな犠牲を払ってでも”と。“たとえ死んでも構わないから”と。“誰かを殺してでもあの人に会いたい”と。
そして、目の前にいる少女は間違いなく“そこまでできてしまう”人間だ。
「そのために、全く知らない生き物を殺すくらいわけないと、そう言う人を君は悪だと言える?」
「それ、は」
ルノアの視線が宙を彷徨う。根本にあるのは倫理的な問題ではない、ただこれは感情の話だ。
ただ、もう一度だけ会いたいと、そう願うだけの。
「仮定の話やけど。でも、できんやろ。君は自分の願いはお嬢様を蘇らせることではないと答えたけど、それでも“そう願ったことのある人間”やろうから。その願い自体は純粋で害の無いものだと知っているから。そして、たとえそれが実行されたとしても幸せになった人が確かにいるとすれば。正しくはないよ、正しくはない。でもそれでも、もしもそうやって生き返った人がいたとして、再会を喜ぶ人がいたとして……どうやろう、ルノアちゃん。羨ましいとは思わない? 自分も、と心のどこかでは思わない? 例えば犠牲になるのが『人間』ではなかったら? 獣ならば? 虫ならば? もっとハードルは低くなる。正義は容易く歪むよ。彼らもまた出来る事をしただけ。手に届く範囲に“人間ではないもの”があって、しかもそれは何度か使ってもすぐには死なない。どうやろう? 少しくらいと思わんやろうか? だから、君に村の人らを責める権利はないし咎める必要もない。彼らもただの弱い人間だっただけやから」
「でも、そんな」
未だ焦点が定まらないそれは必死で答えを探していた。“正しくない”と“そんなこと良いはずがない”と反論できる答えを。エルグがとっくに探すのを諦めてしまった答えを幼い女の子は探していた。
ただ、エルグはその答えが見つかるのを待つほど優しくはない。
「続けようか。獣の特徴が出たものはそういう扱いを受けた。といっても言ったやろう? もう
獣の特徴が出る
者は長らく生まれてなかったんよ。俺みたいな成り損ないでさえ、ぽつんぽつんと生まれる程度。ダウに至っては、一年ほどしか屋敷に居らんような相当早い段階で違うだろうと言われた。……もう“この一族が獣の身を持って生まれることがある”ことを知っている奴らですら実際に獣の身体で生まれた子供なんて見たことないのばっかりや。……で、そんな中、ラウファが生まれた」
宙で迷子になっていた視線が、こちらを向く。茶色を帯びたヘーゼルの瞳がこちらを射すくめる。けれど、エルグは笑ってさえいた。作ったものではなく、ごく自然に、零れ落ちる様に。
「ようやくやけどラウファの話をしようか。……あの子は特殊だった。十二年間、誰にも、いや本人さえ自分が“そんなことできる”なんて気づいてなかった」
彼にとって『大切な人』の話。
破顔するように、彼は歯を見せた。
「ほんっっまに可愛くないクソガキでな!」