アクロアイトの鳥籠 - 6章
7.JAYUS

sideアシェル(エネコ)

 『お嬢様』には頭に来ていた。
 『エルグ』には毛並を逆立てた。

 この二人が一体何を言っているのか、理解には及んでもそれを飲み込むには抵抗があり過ぎる。それはまるで砂を呑めと言われたよう。普段なら容易く行われるはずの嚥下行為を、身体のすべてが抵抗する。――この二人は一体何を話しているのか、と。
 『お嬢様』はお嬢様ではない。それ自体は構わない。エルグの話で“なぜそんなことをしているのか”はともかく“何をしているのか”はわかったから。そしてそれを問いただす義務はあたしにないと思っている。ただ、重ねて言うと、“『理解』と『感情』は必ずしも一致するとは限らない”。
 怒鳴りつけて、爪を立てて、問い詰めて、“そんな嘘を吐き続ける理由”を吐き出させたい、と。泣いて許しを請うまで謝り続けさせたい、とそう思う自分が確かにいる。頭に来ているのだ。社交界だか何だかに行くために乗せられた馬車の中で、あたしがお嬢様を問い詰めたのと同じ理由で。詰まる所、(はらわた)が煮えくり返っているのだ。――彼女がここにはいない『彼』を、欺き、騙し、誤魔化し、偽り、嘘を吐いたから。
 “信じることしか知らない人間に、嘘を刷り込んだから”。
 何も知らず、何も覚えておらず、刷り込みの雛が親を盲信するかのように彼は彼女に向かって笑っているのに。自分のことさえ何もわからないのに。それなのに、お嬢様が今まで見せてきた『お嬢様』という存在まで全て嘘だと、そう言うのか。
 そんな酷いことを、ラウファに、言うのか。

 そして、同時にお嬢様の秘密をこの場で明らかにした青年に対してもあたしは不信感が拭えない。
 唐突に現れ、『兄』を名乗るくせにその証拠は何も見せず、“会えばいい”と言うのにもっともらしい理由を付けて会うのを拒み、問いかけを続ける割には自分の事情は一切話していない。
 本当に兄だと言うのならば何か証拠を見せればいい、たとえ顔を覚えていなくてもラウファに会ってやればいい。エルグの言うことが本当ならば、あの子は喜ぶだろう。素直にそれを信じて、話を聞きたがるだろう。大体、ゾロアークでは記憶が戻らなくても本人と会えば、故郷に帰れば、記憶が戻ることだって考え付かないわけではないだろうに。本当に兄弟ならばそうする方が正しいとも思えるのに。それにお嬢様のことを調べたのもどうも納得がいかない。そんなに大切な弟ならばお嬢様の近辺を洗ってないでさっさと取り返してしまえばよかったのだ。彼は尤もらしいことは言うが、核心を語っていない。何一つ心から納得が出来る事を言わない。――それは、信用しろと言うにはあまりに足りない。
 “ラウファを殺せば、君の大切なお嬢様が生き返ると、そう、言ったら?”。
 そして、何より先程からの問いかけが全く要領を得ない。何が聞きたいのか、わからない。お嬢様の何を品定めしようとしているのか判断がつかず、なぜ品定めしなければならないのかもわからない。繰り返し言うが、そんなに大切ならば人に任せず強引にでも連れて行けばいい。そうせずに、不合理な質問を繰り返してそれが一体何になる。確かに嘘吐きで信用には足りないかもしれないが、お嬢様を追い詰めて何が楽しい? 大体、大体。
 なぜ、このひとはラウファの居ないところで、ラウファのことを決めようとしているのだ。

「『ラウファ』を、宜しくお願いします」

 この場にいる二人の、どちらも味方する気が起きないまま固まるあたしを放置して、エルグはたっぷり一分ほどお嬢様に頭を下げ続けた。驚いて目を丸くするお嬢様に、彼はようやく体を起こし、埃を払うかのように片手で衣服を叩く。
 顔を上げた彼は、今までの表情とは一転、柔らかく穏やかに、いっそう泣き出しそうに、微笑う。

「ごめんな。ごめん。非礼は詫びる。本はここに置いておくな」

 彼が窓側へ後退し、左手に持ったままだったその本を傍にあった机の上に置く。ごく自然なその動きにお嬢様は動かず、あたしは身体を強張らせた。

《あにゃた、一体(にゃに)をしたかったのよ……!? 話が全く要領を得にゃいのよ!?》

 本を置いた拍子に机の上の埃が舞い、エルグの動作にその唐茶色の髪が弧を描く。あたしの声に、彼は失笑を漏らした。

「……悪いね、エネコちゃん。ノーコメントや。君らは何も知らなくていいし、何も知る必要がない」
「それでは足りないと、そう言ったら?」

 続けてそう言うお嬢様に、けれど彼は肩を竦ませるだけ。

「悪いけど、拷問されても話す気にならんね。……ああそうや。質問ばっかりで悪いけど。……最後に。最後に本当に下らないことを、聞かせてぇな。ラウファってどこか怪我とかしてたりする? 古い、目立つような傷」
「……いいえ、知らないわ」
「そっか。ならよかった」

 にっこりとそう笑い、窓に手をかけ開け放つ。薄暗い部屋に光が入り、汚れてくすんだ窓から見えていたよりももっと青いそれが目を焼く。入ってきた風は部屋の黴臭さを吹き飛ばして、夏の匂いを残した。窓枠に足をかけ、エルグは細いそれの上で器用に立ち上がる。はっとしたあたしは声を張り上げるが、身体を動かすには少し遅すぎた。

《あにゃた! 逃げるつもりにゃのよ!?》
「えー逃げるってエネコちゃん、そんな人聞きの悪い……。まあでもそうやね、これ以上君らに話すことはないし。言ったやん? ノーコメントって。ああそうや。もし君らに何かあったら。……もしも、何か、あったら。どんな手段でもええ。必ず、行くから」
《待……ッ!》

 静止の声は羽音に掻き消え、クロバットが残像を攫って行く。
 残されたのは一冊の本と、お嬢様と、開け放った窓と、あたしと、沈黙する部屋と、行き場を失った怒りだけ。

sideエルグ

「……あー……。『賭け』は子爵様の勝ちやなこりゃ。まあ、良かった」

 クロバットの広い背の上で、彼は笑みを零す。嬉しそうに、哀しそうに、愛おしそうに、泣き出しそうに。きっと彼自身自分がそんな顔をしているとはわかっていないだろうが。

《ギギギ?》
「何? クロちゃん労ってくれんのー? 嬉しーっ。いやね、ほんまね、俺頑張りましたよ。ほんとに」

 ぽんぽんとクロバットの頭を撫でながら冗談めかしてしみじみとそう言う彼に、クロバットは首を傾げるだけ。彼にはゾロアークのように言葉を伝える術がなかった。また主である青年もクロバットの言葉を解することはない。その長い唐茶色の髪が、風に棚引く。

《ギギギギギ》
「ははは。あははははっは。あははははっはははは!! あー疲れた。疲れた。ようやく肩の荷が下りたかもしれん。いやまだ早いけど。でもとりあえず、あの子らが王都から出てくれれば一安心かな。ははっははは!! ざまあみろ。ざまあみろ――!」
《ギュウ?》

 腹を抱えんばかりの主の哄笑に、クロバットは訳も分からず羽ばたきを続ける。夜を駆るのに適した姿は、昼間の空では良く目立つ。それでも背中の上の彼は一向に気にする気配がない。いくつかの水滴が菖蒲色を舐めた。そしてひとしきり笑った後、今度は一転、彼は声のトーンを落とす。

「あの子な、“どこにも目立つような古い傷”はないんやって。……まあ、予想してた通りやけど」
《ギ》

 『エルグ』にそら見たことかと言われるんやろうなあと溜息を零す主人に相槌の代わりに二度大きく羽ばたいた。ぺたぺたと頭を撫でられる感触がまた戻る。太陽の熱は暑く、羽根と背中をじりじりと焼いた。クロバットは相槌代わりの羽ばたきのつもりだったが帰宅を促す動作に思ったのだろう、青年がその紫色の身体を撫でるのを止め、声をかける。

「うん? ああ、まだ帰らんよ。見届けるまで安心できんし」
《ギギュウ?》
「ああ、そうやね、適当なところに降りてや。王都は隠れるところが多いから、どうやってでも紛れてみせるよ」
《ギギギ》

 言うが早いかくるりと翅を翻し、適当な目的を定めて飛ぶ蝙蝠に身体を預けて、エルグはぼそりと呟く。

「“口から出まかせ”かあ……」

 ――本当に、過去に戻れるものなら、何を犠牲にしてでも戻りたいと今でも思っているけれど。

「クロちゃん。付き合わせて、ほんま悪いなあ。ごめんなあ」

 それは風と羽音に紛れて、クロバットに届いたかは定かではない。

sideルノア

「…………え?」

 エルグが消えたお屋敷で、少しだけ放心して。その後荒らされていないか一通り見回って。特に異常がなかったのを確認して。“あにゃたはやっぱり誰かを失った(うしにゃった)ことがあったのよ”と、いつかの船の上で聞いたのとよく似た台詞を言うアシェルに微笑んで。アシェルはそれ以上何も聞かなかった。それはきっとお屋敷の前でアシェルに釘を刺したことを彼女が覚えているから。そして、夕暮れと日中の間のような時間帯にアシェルと宿に帰ってきて。そうしたら、ラウが宿の入り口で待っていて。それで。
 肩の上のアシェルは戦慄したかのように体を震わせて。
 返された水獣の姉妹は掌の中でだんまりで。
 目の前でラウだけが笑っている。にこにこと、嬉しそうに。

 知らない人たちに囲まれて。

「うん、だからね」

 ――――。

「この人達がね、」

 ――――!

「僕の名前を呼んでね、それで」

 ――――ッ!

「僕のことを、知ってるかもしれないって言うんだ」

 ――――――……。

「……そう、なの。……それはよかったわ。ええ、よかったわ。ラウ」

 うん、と笑って喜ぶラウに焦点が合わないまま微笑む。
 ぐるぐると、視界が回る。頭が働かない。さっきまで、わたしは何をしていたのかしら。エルグと、話して、話し、て……どんな、話だったかしら? わたしの話をして、それから確か、ラウが。……そう、ラウが。目の前で、ラウ、笑っているわ。

「よかったわね、ラウ」

 ――もう少しだけって。ラウがどこかに行ってしまうまで、って。

 繰り返し、繰り返し、擦り切れるまで使った言い訳はようやく『本当』になったのだから。
 喜ばないと。喜んで、祝福して、笑ってあげないと。だって“幸せを願うのは当然”なのだから。だってわたしがラウを縛る権利なんてないのだから。これは最善で、正しいことなのだから。そうでしょう? そうでしょう? だってラウが笑ってる。ラウがそうするって言っている。嬉しそうに笑っているんだもの。だから、わたしも笑ってあげないといけないわ。そうして見送ってあげないといけないわ。ようやくわたしに遊ばれなくて済むようになるのね、ってからかってあげないといけないわ。そうでしょう? 泣くのなんておかしいわ、悲しむなんておかしいわ。声が出づらいなんて、口の中が乾いて声が掠れるなんて、苦しいなんてありえないの。そんなこと、ありえないわ、そうでしょう? ねえ。ああ、お願いお願いよ。お願いだから。

 ――――――――。

 思考に靄がかかって。頭の奥がずきずきと痛んだ、気が、した。

sideアシェル

 頭がぐちゃぐちゃになっているのは、きっとあたしだけではないだろう。
 あの、エルグと名乗った青年がお嬢様を問い詰めてから、まだ数時間も経っていない。お嬢様が『お嬢様』ではなかったと、『嘘吐き』であったと、エルグがラウファの兄だと名乗ったと。そんなエルグから言われたことだけでも気持ちの整理が追いついていないというのに、ラウファの発した言葉に、今現在の状況に、抱えていた苛立ちさえ消化不良のまま腹の中に納めざるを得なかった。
 だから。そんな状態で、あたしの頭が思考を止めなかったのはきっと奇跡にも近い。

「それで」

 おかしいと。
 これは、おかしいのだと。
 そう言う者はいなかった。
 こんなにも、『おかしい』のに。

「僕のことを、知ってるかもしれないって言うんだ」

 ゆるゆると頬を緩めて、額に巻いた白布の裾を揺らせて。けれど言葉は興奮している様子もなく、平然と。勿論、ラウファは確かに喜んではいるのだろうけどもそれは浮かれている、というよりも“喜ぶのが『普通』だろうから喜んでいる”と言う方が正しいような表情。全然わからないし、思い出しもしないんだけどね、と困ったように笑っていたからつまり、そう言うことなのだろう。

「……そう、なの。……それはよかったわ。ええ、よかったわ。ラウ」

 だからあたしから見れば浮足立ってしまっているのはむしろお嬢様の方。最初驚いたっきり、あとは腑抜けたようによかったわねと“いつもと同じように”瞳を瞼に溶けさせて笑うだけ。時折ラウファをからかい、傍にいる見知らぬ男たちの質問に答え、礼に応じる。その姿は完璧で、“いつも通り”で。
 ただ、少なくともあたしには、もはや反射だけで反応しているようにしか思えなかった。

「ええ、東の森で」

 ビスケットを砕くようなソプラノとバターの溶けるような微笑み。それはラウファによく似た肌の色をした男たちに向けられつつも、遠くを見ている。応答にもいつものような艶がない。彼女は震えも、泣きも、していない。感情を抑えるようなそぶりもない。だからそれは長くはないながらも今までの付き合いと、エルグの話がなければきっと気づかない。お嬢様が何も考えられていないのだと。もう、他に気が回らないくらい、頭がいっぱいいっぱいになってしまっていると。
 そうでなければ、『おかしい』とそう言うはずだ。

「ラウファがお世話になったようで」

 見知らぬ男が頭を下げる。ラウファがそれに首を傾げ、お嬢様が言葉を返す。
 おかしいと、お嬢様は声を上げなければならない。
 いつものように。敏く気付いて、そう言わなければならない。
 なのに、声は上がらない。

「……ええ、一度村へ。ラウファで間違いないと思うのですが、万が一、ということもありますし」

 なぜ、彼らはそこまでラウファに確信を持てないのだ。ラウファの話では一、二か月ほど前に目が覚めたと言う事だった。目が覚めるまでの間眠っていたとしても、眠っていた期間があまりに長いことは考えづらいし、長くても数日だろう。それを超えたら今度は生命維持が難しくなる。いくら成長期でも一、二か月で大きく顔は変わらない。ほら、どうして? おかしいのよ?

「え、同行を? いえ、申し訳ありませんが、見ての通り外つ国の人間の集落です。外の者を入れるのは……ご容赦ください。ここより西に下ったところで決して遠くもありませんからもし、ラウファでなければお送りしますので」

 なぜ、同行を拒否するのだ。ラウファがもし彼らの探す『ラウファ』でなかったら後々合流する方が難しい。いくら異人たちの集落であっても別に住みつくようなことはないのだ。ラウファの顔を見て、違うとなればそれで済むし、間違いなくその集落の子であってもそれで済む。その時間は一日もかからない。村に入られるのが嫌ならば近くで待ってもらえばいい。それすらも彼らは嫌がっている。ほら、おかしいのよ?
 考え過ぎだろうと言われればその通りだ。彼らがお嬢様の顔を見てどこかほっとした様子をしたことも、ラウファに対して早く連れて帰ろうという様子が見られることも。……彼らが先程からラウファに触れていないことも。
 全て考え過ぎだろうと言われればそれまでだ。嫌な感じがするなんて気のせいだと、ただの勘と言われればそれまでだ。それまで、だが。

 ――東に向かい。西には来たらあかん。

 あたしは、エルグの話を聞いてしまった。
 なぜ彼はラウファに会おうとしなかったのだ。なぜ、“会えなかった”のだ。尻尾がぶるりと震える。ぴりぴりとした嫌な感じが全身を駆け巡って、腹に溜まる。おかしい。おかしい。何かが変だ。嫌な感じがする、気持ち悪い。
 この状況は非常に、まずい。

「では、そろそろ。……ラウファ」
「ええ。彼を宜しくお願い致しますわ。ラウ。……さようなら」

 なのに誰もそれを指摘しないのが、まずい。
 ああどうして。どうしてこんな時に限ってお嬢様は腑抜けているのよ。いやこんなことになったからこそ、頭が回っていないのだろうけど。いや、それとも“これでいい”とでも思っていて、そこで思考を止めてしまっているのか。どちらかはわからないけど……どちらでも行きつく先はどうせ同じだ。
 お嬢様は声を上げない。
 ラウファは疑問を感じてない。
 乱入者は都合よくやってこない。
 誰も『おかしい』とは言ってくれない。

「うん。でも違うかもしれないし、わからないし、思い出さないかもしれないし、そうしたらまた戻ってくるかもしれないけど」

 はにかむようなその笑みは、きっと、“選ばにゃきゃにゃらない”と言ったあたしの言葉を忘れているわけではない。ただ、“決断するのは今ではない”とそう思っているらしい。会ってみて、決めればいいと。思い出すかもしれないと。思い出さず、別人のことかもしれないと。言葉の端からそう感じる。けれど、それが“できるとは限らない”ことであることをラウファは分かっていない。一方、彼に完璧な笑みを返す彼女は、首を傾げ、珊瑚色の髪を揺らせて、小さく笑うだけ。さようなら、と笑うだけ。『またいつか』ではなく、『さようなら』と。
 なら、あたしは。

《琥珀、瑠璃、玻璃。……そこのラプラス姉妹と、オノノクス。あにゃたたち、エルグを、探すのよ。まだこの街に居るはずだから、必ず見つけ出すのよ? これは(にゃに)かおかしいのよ。だから、あにゃたたちはこのお嬢様を、首に縄付けてでもエルグに引き合わせて事情を説明するのよ!!》

 ひとの言葉ではなく、獣にしかわからない言葉で三匹の獣たちに声をかける。お嬢様に対する苛立ちを盾に何も言わないほどあたしは大人気なくはない。言うが早いか疑問と抗議の声を無視してあたしはこの小さな肩の上から下を見おろし、

《にゃう!》
「アシェル……!?」

 幼く脆そうな肩の上から飛び降りた瞬間、光を受けて瞳を黄色の近いものとさせたそれと、目があった。けれどあたしはそれを一瞥しただけでまた見つめ返すこともなく、地面に着地。

 踵を返し、お嬢様に、あたしたちに、背を向けた彼を追いかける。
 『観客』たるあたしにできる最善はこれだけ。

 ……あとはお嬢様とエルグがどう動くか、だ。

side玻璃(ラプラス)

 あのエネコが何を言いたかったのかはよくわかりませんでした。
 ただ、“エルグを探せ”という言葉だけが痛烈に頭に残っていて、それは確かに実行せねばならないことなのだろうと確信していました。……だって、このままだと私の可哀想な主人がまた、壊れてしまうから。

《ルノア様、ルノア様。エルグを探してください。早く、早く》
《ルノアー、探そー? あのエネコがおかしいって言ってたのー!! だから、ぼやっとしてないで! 探すの!!》

 ラウ様とあのエネコの姿が完全に見えなくなってから私は彼女に訴えました。そして、それは姉も。
 それに対し彼女はぎこちなく、本当にぎこちなく首を動かして私たちを見下ろし疑問の声を上げます。どうして、と。どうしてそんなことをするの、と。ラウが選んだんだからそれはわたしが決めることではないでしょう、と。ぼんやりと、静かに。口元を緩め、言い聞かせるようにそう言うのです。……私はそれに戦慄しました。それは、確かに一度見たことある光景でしたから。私が最も恐れた光景であり、最も恐れていた姿でしたから。
 ああ、あぁ……ぁあ……。壊れてしまう、壊れてしまう! 私の大切な、主人が。護ってあげないといけなかったのに。壊されないように、もうこれ以上傷つかなくて良いように、誰にも侵されないように。彼女を傷つけるもの全てから護ってあげないといけなかったのに! あの方から託された、可愛い主人を。

 もう壊れないでと願っていたのに。
 これ以上壊さないで叫んでいたのに。
 どんなに歪でも構わないから苦しめないでと。全てが嘘でも構わないから笑っていてと。傍にいてあげてと。どうかどうかと。
 そう、呪いのように望んでいたのに。

《る、ルノ……》
《ルノアあああぁああぁあぁぁ!!!!》

 怒声と軽い破裂音。次の瞬間には海色の身体を持った姉が目の前で首をもたげていました。あっけにとられるのは彼女だけではなく、私も、そして名も知らぬ通行人たちも。

《琥珀!!!! いい、吼えろ!!!!》

 けれど、姉はそんなことは気にも留めずに三匹目のドラゴンを呼びます。何が起こるのかわからず、戸惑いの色を覗かせる彼女を横目に、姉と同じように外に飛び出た黄土色の身体を持った竜が雄叫びを上げました。
 エルグ、と。呼ぶために。ここにいる、と。そう、伝えるために。
 私はただ、見ているだけしかできませんでした。

「……ルノ、ア、ちゃん? ……何が。何があった……?」

 マトマ祭の街で出会ったエルグと寸分違わぬ姿の青年が現れたのは、それから十分ほど後の話でした。

sideエルグ

 ああ自分はまた駄目やったんやなと。また無力やったんやなと。
 ただ、そう、突き付けられた。

 そして、それと同時にエルグは言い聞かせるのだ。
 まだ、間に合う。まだ、きっと。


 薄暗く、埃っぽい細い路地。街の喧騒は遠くに聞こえるだけで、聞き耳を立てる者もいない。そこは本来ならば女の子を連れ込むような場所ではない。ないの、だが。王都中に響き渡るかのようなドラゴンの咆哮は確かにエルグを呼ぶには有効だったが、あまりにも悪目立ちをし過ぎた。宿の食堂に入るわけにもいかず、とにもかくにもドラゴンと水獣をぼんぐりに収納(いれ)させ、とりあえず連れて行けるような場所がこんなところしかエルグには思い浮かばなかったのだ。

「……なるほど事情は分かった」

 主に木の実の中のラプラスの姉妹から話を聞いて、口元を微笑の形のまま留めた姉妹の主人を一瞥する。自分が現れた時に何事もなかったかのように“あら、エルグ”と微笑んだ少女。整いすぎるほど整った声とうすら寒さを覚える様な完璧な笑みを浮かべた『それ』は確かに、子爵の言ったとおり『化物』に相応しかった。幼く、美しく、気高い怪物。そしてその怪物が『化物』たるのはこの決して揺らぐことのない完璧さなのだろうとそう確信する。泣き喚き、声を荒らげ、苦悶の表情を浮かべれば、そこにいるのは確かに自分よりもずっと年下の小さな女の子だと言うのに。
 ただ。
 ただ、悪魔さえ魅入らせそうな微笑みも、それが心の籠っていない精巧な人形のようであることも彼にとってはどうでもよかった。

「……そーか。ラウ、ファが」

 エルグは目の前のそれに怖気とわずかな嫌悪感を得ても、溜息も、落胆も、憤りさえ表に出ない。零れ落ちた声も自分の予想よりもずっと淡白なもの。しかし実際のところ腹の中では憤りや苛立ち、怒りや悲鳴がぐるぐると渦を巻いており、今すぐにでも目の前の少女を糾弾したいと、そう思っている。怒鳴り散らし、喚き散らし、全てをぶちまけ吐露して。だが。
 出かかった言葉のすべてをエルグは理性を持って奥歯で噛み殺した。そんなことは八つ当たり以外の何もでもないと、わかっていたから。
 彼女は確かにエルグに答えたとおり“どうもしなかった”だけなのだから。ラウファが選ぶことだと、そう答えたとおり“ラウファが選んだことを止めなかった”だけなのだから。ただ彼女が演じるべき役のとおり――それが確かにその人の行動であれ、目の前の少女のこうであろうと言う思い込みであれ――“正しく演じた”だけなのだから。だから、彼女に怒りをぶつけるのは、“なぜ手を離したのだ”と叫ぶのは、間違っている。目の前の女の子は何も悪くない。何の罪もない。ただ、自分がミスを犯しただけ。無力だっただけ。失敗しただけ。自分が言わなかったのだから当然だ。何も教えず、知らなくていいとそう判断して何も言わなかった。だから。右の拳を爪が皮膚に食い込むまで握りしめる。だから。自らが壊れるまで壁を殴っていたいとその衝動を必死に押さえつける。だから。吼えないように奥歯が砕けるまで噛み締める。だから。
 だから、悪いのは、全て、自分だ。

「……なら……。もうここから先は君の知らない話や。幕間はもうお仕舞い。君は舞台の上に戻り、セレス様。『お嬢様』を演じて探し物をする、君の舞台(世界)に」
《なっ》

 だらんと体を弛緩させ、口を歪めるのに可能な限りの労力を割く。噛み締めていた奥歯がじんと染みた。そして、拒絶する。できるだけ穏やかに、支払える労力の許すだけ優しく。
 ああ、なぜ。どうして手を離したのだ。君は怒ってくれたやないか。あの子のことで、声を荒げてくれたやないか。なのに、なぜ。君にとってあの子はやっぱり都合の良い存在やったんか。……嘘吐き。

「ここから先は君の望んだ世界やない。君の演じる舞台やない。ラウファも、俺も、イレギュラーな飛び込みがあったとでも思って忘れてぇや」
《待ってよー。ルノアだって、ルノアだって! 駄目。そんなのダメ。ダメダメダメダメー!!》

 ガタガタとぼんぐりを揺らし、抗議する彼女たちをエルグは無視した。幸い、ラウファたちが発ったのはつい一時(いっとき)ほど前だと言う。徒歩で帰るとすればまだ猶予はある。まだ、先回りできる。間に合う。あのエネコちゃんが賢しくて助かった、と内心で子猫に感謝しつつ、彼はお嬢様と静止の怒声に背を向けかけ、

「……エルグ。わたし、言ったでしょう? どうにもしないと。ラウが選んだんだもの。なのにわたしにそれを止める権利があったと言うの? 違うでしょう、違うわ。そうでしょう? ねえ、エルグ」

 耳に滑り込んできた静かな問いかけに、彼は捩りかけた体を戻した。
 喚いていたラプラスが黙る。遠くに聞こえていたはずの喧騒は、もう耳に届かなかった。

「……ああそうやね。きっと正しいよ。間違ってない」

 淡々と、無感情に、吐き捨てるように。彼は『正解』だけを口にする。“その答え自体は何も間違ってはいない”と。

「そうでしょう? そのはずなの。何も間違っていないわ、そうでしょう?」
「うん、そうやね」
「わたし、喜んであげなきゃいけないの。良かったわねって。だって、そうするべきだと思ったんだもの。“そうしなきゃ駄目”だったんだもの」
「そーか」

 縋るように繰り返される言葉に、エルグもまた“欲しいであろう回答”を繰り返した。夕日が沈みゆく中、ゆるゆると安堵するかのように口元を緩める少女に木の実の中身が息を呑む。

「そうしなきゃ、駄目だったの。そうしなきゃ駄目なはずなの。わたし、間違っていないでしょう? ねえ、そうでしょう? なのに、わたし。どうして。ねえ、エルグわからないわ。わからないの」
「“わからない”……?」

 この子は。
 エルグは、その時点でようやくルノアの様子がおかしいことに気が付いた。凍らせたように笑みの形で固まった唇の形も、吐き出す言葉も、首を傾げる仕草も。投げやりな同意を止め、一旦息をついて状況を再度思い起こす。客観的に。分析的に。エルグ個人の感情を排除して。この子も、壊れてかけているんじゃないか、と。
 この子はなぜ気づかなかった。エネコが気付いた『おかしさ』を、この聡い子がなぜ。なぜ笑っているのだ。なぜ、尋ねた。尋ねる必要などないじゃないか。“正しいかどうか”など。台詞が決められている舞台だと言うのなら彼女には答えなどわかっているはずじゃないか。……ああ、彼女も。確かに。“壊れかけている”。
 “ラウファが居なくなったから”。

 ――あの子がね、焦ったとそう言ったんだよ。心を揺らして、どうしたらいいかわからなくなって。そんなこと今まで一度もなかったのに、ラウファ君に対してだけ、ね。素敵なことじゃあないか。だって、それほど大切だと言うことだから。それは、彼女が“そんなことはしない”という証明には足りないかい?

 子爵が最後、一番最後に、愛おしむようにそう言ったのを、思い出した。ああそうだ。だから賭けたのだ。この子はきっと、“そんなことはしない”と。――あの子を、ラウファを“殺さない”と。

「……ルノアちゃん」

 とっさに零れた言葉を掬おうとして、諦める。ここから先は、もう何が正しいのかなどわかるはずもなかった。ただ、エルグは子爵と約束をしている。“幸せな結末”になるように、できる限りのことはすると。このままでは多分、子爵との約束は守れない。

「君に二つの道を提示しよう。時間がないから熟考は却下な。……一つはこのまま回れ右して立ち去ること。俺もラウファも忘れてしまい。君は君の世界に戻り。それで全部、『お仕舞い』や。何も思う必要はない、何も考える必要はない。君の答えは正しく、君の選択は正しく、君の行く道は正しい。君はただ、そうやって完璧に笑っていればそれでええ」

 人差し指をぴんと立て、目を丸くする少女に続ける。血の通った少女の仕草にエルグは肩の力を少し抜いた。濡れたようなヘーゼルは夕暮れ時の空のせいか橙色に近く見える。

「それかもう一つ。君は俺に間違っていないか尋ねたね。それを正しくなかったと、止めて欲しかったとそう言って欲しいなら、」

 右手を差し出し、尋ねる。

「俺は、正直に言うと君に期待してた。俺は君に、何が何でも止めて欲しかった。ラウファの手を離さないで欲しかった。……勿論これは俺の勝手な話。俺は君に何も言わんかったからね。何も言う必要がないと思ってたから。何も言わんで済むと過信していたから」

 差し出した手は、空っぽのまま。

「俺は君のお父上――子爵様やね。彼から君を守るよう言われてる。君を傷つけんよう言われてる。……これは君の世界には必要のない話や。台詞にはなく、設定にはなく、舞台装置は動かない。衣装もなければ幕も下りない。ラウファという登場人物(じゅうしゃ)も、従者の兄も本来ならば存在しない。だから、君は何も知らずにこのまま舞台に戻ればいい。でも、それは違うと思うのなら。君が自分の台詞に疑問を持つなら。君にとってラウファは大切なのだと言ってくれるのなら。……俺は話をしてもええよ。君に何を言わなかったか。ラウファが『誰』で、『何』なのか」

 行ったり来たりする言葉を何とか繋げる。意味が伝わっているかなど、コーラルの髪を微風になびかせる少女が何と答えるかなど、自分が何を口走っているかなど、エルグにもはやわかるはずもなかった。ただ、ここから先は舞台裏の話であり、別の主人公たちの物語だ。舞台裏の裏方たちが、物語を壊さぬよう舞台裏で奔走していた話。少女の舞台が出来上がるまでの話。少年がなぜ彼女の舞台に上がってしまったのかの話。青年がなぜここに居るかの話。それらは表舞台で語られることはなく、舞台の主人公たちに教えられることもないはずだった。エルグと子爵はこの話を彼らに知らせないとそう決めていた。けれど、それでも。

「……君にこんな話をするのが正しいのかなんて知らんよ。君がもうラウファのことを要らないというのなら俺の前から消えてくれ。全て夢だったとでも思ってくれ。ただ、」

 壊れたような、困ったような、戸惑ったような、泣いているかのような。それでも何かを、誰かを、探している。
 その表情は確かに、あの時の自分と、重なるから。

「君のせいでラウファが不幸になると、そう言ったら君は選ぶことが出来る?」

 子供独特の、柔らかく小さな手が彼の右手を、掴んで。


 ぐるり。世界が“ひっくり返った”。



■筆者メッセージ
「JAYUS」は「逆に笑うしかないくらい、実は笑えない酷いジョーク」という意味だそうです。
森羅 ( 2016/08/21(日) 22:59 )