アクロアイトの鳥籠 - 6章
6.狼の目は嘘を喰う

side瑠璃(ラプラス)

 麻の生成色、それと妹の姿。それだけが視界を埋める空間で、声だけが落ちてくる。

「…………えーっと…… 誰?」

 それは不思議そうなラウファの声。

「ラウファ」

 高揚と驚愕の混じったそれは知らない声。
 繰り返される低い男のそれは瑠璃にとって、ただただ恐ろしいものでしかない。それはきっと玻璃にとっても。ぼんぐりの向こう側で空色の身体を持った妹が戦慄したのが、わかった。そして、それも瑠璃と同じ。
 ………………あ、ああ……あ……。

《ッラウファ!! 逃げるの!》

 咄嗟に出たのは、悲鳴にも近い響きをしていた。それは、ラウファのことなどちっとも考えていない、ただ現状から逃れる為だけの何の考えもない叫び。
 ああお願い。お願いだから! ルノアを置いていかないで。おしまいだなんてそんなことさせないで。ルノアをまたひとりにしないでよ。お願いお願いおねがい。やめてやめてやめてやめて。もうこれ以上あの子から奪わないで! 奪わないであげて!
 ラウファの為などではない。ただあの子の為、だけの。
 ただそれだけのために飛び出した醜い『願望』に、けれど吐いた言葉は元には戻らない。姉様! と妹から声が飛ぶ。瑠璃にはそれが嗜めるためのものなのか、瑠璃の言葉と同じく悲鳴なのか、判断はつかなかった。

《ラウッファッッ!!》

 血を吐くようにもう一度彼の名を呼ぶ。あの子が拾った生き物の名前を縋るように繰り返す。あの子と同じ舞台に上がれる化物を、あの子の演じる舞台に上がってしまった生き物を、その舞台から引きずり降ろさないために。ただただ、あの子をひとりにしないために。『ルノア』のためだけに。けれど。それでも。それでも構わないから。だから、お願いだから。おねがい、お願いおねがいおねが

「瑠璃、どうして?」

 不思議そうな、無邪気な、残酷な、問いかけ。
 その言葉に愕然として。呆然として。それから、理解した。……あ、あ。……ああそうだった。その通り。そのとおり。そのとおり!
 誰かいるのか、と驚いたような男の声が遠くで耳を通り抜けて行った。その姿を瑠璃は見ることができないけれど、そんなことはもうどううだってよかった。身体の力が抜けていく。空気は喉を通らず、開いた口から音は出ない。ぼんやりとした明るさだけが視界を埋める。それでも頭は冷静で。その通りじゃないか、と答えを寄越す。

 ――ラウファには、“心がわからない”のだから。

 瑠璃と玻璃がどんなことを考えていようとも。“ラウファの記憶なんて戻らなくていい”と“家なんて見つからなくていい”と。“探している家族なんていなくていい”、“捨てられてしまっていればいい”。そんなラウファのことなんて何一つとして考えてもいない酷い願いを心の底で繰り返し呪いのように望んでいても。そんなことラウファにはちっとも伝わらない。あっけんからんと他人事のように笑って、何を言われても平気な顔。だから、そう。この『回答』も。瑠璃も玻璃も、きっとどこかでわかってた。

「瑠璃? どうして? どうしたの? だって、この人は、僕の名前を呼んだよ?」

 純粋な言葉が突き刺さっていく。
 ラウファに、わかるわけがない。瑠璃たちがどうしてこんな声をあげたのか。どうして逃げろなんて言ったのか。だって彼には言葉しか伝わらない。薄っぺらな表面上の言葉だけ、しか。ラウファはただ、当然の疑問として尋ねているだけだ。“逃げろ”という言葉に対して“自分の名前を呼んだ人からなぜ逃げなきゃならないの?”と。『設問』に対して“正しいであろう『回答』”しただけ。
 違う、違う、違う違う!! そうじゃない。そうじゃないの。お願いだから逃げて、と掠れた吐息がそう訴える。必死なのだとそう告げる。けれど、“そんなこと”ラウファがわかるわけがない。

 瑠璃が、ラウファの家が見つからなければいいなんて言ったから。きっと。これは。
 その、醜悪で身勝手な望みを吐いた、罰なのだ。

 何もわからない、まっさらな『化物(いきもの)』は、不思議そうに『理由』を待つだけ。

sideエルグ

 ――いうなれば彼女は演じているだけさ。舞台の上で、お嬢様の真似をして『お嬢さま』を、ね。

 子爵の言葉が頭をかすめ、全くもってその通りだとそう思う。目の前で楽しそうに笑みを零す少女は、確かに呆れるほどに完璧な『お嬢様』だ。埃を被った本棚も、豪華であったろうボロ布みたいな絨毯も、随分痛んだ机と椅子も、彼女を通して見れば元の栄華を想像させるのは容易いほどに。だが。けれど。しかし。

「そんなに知りたい? 困ったなあ。……そりゃーもう」

 にっこりと。取って置きの手品のネタを明かすように。

「俺の可ぁ愛い弟を拾ってくれた人のことは、やっぱ知りたいやん?」

 目の前にいる何の恨みもない、“『お嬢様』を演じ続ける少女”に即効性の毒を注ぐ。

「……おと、うと……?」

 エルグの言葉に少女が確かな動揺の色を示した。目が大きく開かれ、その瞳に琥珀色の笑みが映る。それは、彼が目の前の少女の舞台(せかい)に上がれたことの証明。それに気づかないふりをしてエルグはただ、人懐こく微笑んでみせる。……自分がしていることがどれほど酷いことなのかは、わかっていた。

「そうやで? それでもって、これで大概のことは説明つくやろ? 君のことを調べた理由も、君にこんな話をした理由も。そりゃあ、弟が面倒見てもろてるんやもん。どういう人なんかなーって気になるやん? あと、どうやってこの部屋に入ったんかは最初も言ったけど秘密」
「……ラウと、似ていないわ」
「血は繋がってへんからね。残念ながら。そう言う意味では“弟みたいなもん”のが正しい表現かもしれんね」

 僅かな、けれど確かな狼狽を含んだ声に青年は本を持ったまま肩を竦ませ、笑みを崩さない。少女には彼女の世界に土足で上がり込んだ不届き物を排除する術を持たないことを知っているから。排除できないと知っているから。なぜなら、エルグの発言によってエルグはルノアにとっての『観客』ではなくなってしまっている。『お嬢様(ルノア)』が拾った、『従者(ラウファ)』の、『兄』。それは、彼女演じる舞台の、物語の登場人物になるには十分すぎる『配役』なのだから。

《あにゃた、誰にゃのよ?》
「アシェル?」

 エルグの話を少女の後ろで困惑ながら聞いていたはずのエネコから、鋭利な言葉が飛び出した。金縛りが解けたようにコーラルの髪がそちらになびき、予想外の声にエルグは目を瞬かせる。本の臭いだろう、すえたような臭いが、鼻を突いた。

《あにゃたからは獣の匂いがしにゃいのよ。あの祭りをやっていた街でラウファを抱えてたのはゾロアークだったのよ? でも、あにゃたから獣の匂いはしにゃい。にゃら、あにゃたは誰にゃのよ?》

 笑っているかのような細い目が、それでもこちらを射すくめているのがわかった。けれど、エルグはそれに対する答えを持っている。隠す必要がないことを隠し立てする趣味は彼にはなかった。

「ああ、エネコちゃん。君が会ったのはゾロアークの『エルグ』だけやもんね。ルノアちゃん、あの祭りの最中に店の人に掴まってたんは俺やったんよ。待たせてる人がいるって話もしたやろ? 勿論、君に会ったのはただの偶然。証明するもんはないけど。でも俺とゾロアークの『エルグ』が繋がってることはもうわかって貰ってるやろうから、君らに嘘を言うメリットはない。エネコちゃん。あの『エルグ』――ゾロアークには俺の代わりをしてもらってたんよ。俺の言葉を伝えてもらうために頼んだんや。俺は別件の用事があったんと、……あんまりあれに会いたくなかったから」
《にゃぜ? あにゃたがラウファの兄だと言うのにゃら、会って名乗り(にゃのり)出るべきだと思うのよ?》

 探るような目線は変わらず、エルグはそれに肩を竦める。名乗り、出る? そんなひどい冗談はなかなかない。エネコと青年の間で目線を右往左往させる少女を放置して、彼は桃色の猫に向かって不快感を露わにした。

「名乗り出る? エネコちゃん。あんな、言わせてもらうけどな」

 アシェルと呼ばれる、その子猫に向かって、視線を落とし、口元を歪める。何故名乗り出なかったのか、そんなこと、簡単だ。反吐が出るほど、笑え過ぎて涙が出るほど、簡単な理由だ。

「俺の、いや俺と同じ顔見て、“誰?”って言われて、俺が、名乗り出れるとでも?」

 期待などしていなかったけれど。それでも、『エルグ』から聞いたその言葉はエルグに現実を突きつけた。一言一言、噛み千切るようなエルグの言葉に、エネコはへの字に口を曲げ、唐茶の髪を揺らす青年から目線を外した。

《……謝るのよ》
「いーや、ええよ。尤もな質問やしな。あと、ついでに補足しておくと『エルグ』がラウファ個人のことは知らんって言ったらしいけど、それは俺の話やなくて『エルグ』の話やから。あれはラウファに会ったことはない」

 尻尾を垂れ下げるエネコに向かってぱたぱたと右手を振り、息を吐き出す。少し言い過ぎた。だが、しかし。くるりと視線を黙りっきりだった少女に移す。唐茶色の尾が背中で揺れた。瞳孔を収縮させる『お嬢様』に、エルグは再び破顔する。

「さて、ルノアちゃん。本題や」
「……何かしら?」

 間にエネコとの会話が入ったからか随分落ち着いたらしい少女の言葉に従者の兄を名乗る青年は頷く。元の調子に戻ったのか、と思うと同時にエルグは『エルグ』の言葉を思い出した。マトマ祭の街で警告した際に俗っぽく感情的に怒りだしたかと思ったら我に返ったように黙ってまた元の調子に戻ったと。確か『エルグ』はそんなことを言っていた。それは、彼女が“演じている”ということが分かった今、とても簡単な謎かけだ。舞台の上の役者は、『登場人物』にはなれど、『役者』に戻ってはならないのだから。決められた『台詞』以外を語ることは許されないのだから。だから、これは。

 ――必死に、必死に。舞台の上で『お嬢様』を演じ続けようとしているその結果、だ。

 己を殺して。何度でも何度でも、殺してしまって。何故“こんなこと”を続けるのか聞いてみたい気も、した。
 だが、エルグは内心で首を振る。それは彼にとって最優先の事項ではなく、また、それを尋ねる権利はないと思ったから。自分は言うなれば台本にないのに舞台に上がってきた侵略者だ。そこまでルノアの心を踏み荒らす権利は与えられていない。尤も。……尤も、もう十分に踏み荒らしてしまっていることは重々承知なのだけれど。
 それでも少女の小さな舞台(せかい)を土足で踏み散らかしてまででもエルグにはこの舞台に上がらねばならない理由があった。ルノアを調べたのも、子爵を脅したのも、こうやって今、幼い少女を追い詰めているのも、全て、全て、その理由のため。

「君が何で、何のために『セレス・フェデレ』を演じるに至ったのか、その理由は俺にはどうでもええ。それについて辞めろだのなんだの言うつもりもない。そこまで踏み込む権利もない。でも、俺が君の過去を知っていると言う事、つまり君が『お嬢様(セレス・フェデレ)』の真似事をしているのを知ってると言う事、それから俺が君の拾った従者の兄と言う事、それらを踏まえてゾロアークの『エルグ』と同じ質問をさせてくれんかな?」
「エルグ、あなた」

 ルノアの言葉を無視して、彼は尋ねる。きっと少女にとって酷なことを。

「君はラウファをどうしたい? 君にとって、ラウファは何? 君の言うことを全て肯定してくれる、都合のいい存在? 君を『お嬢様』として扱ってくれて夢を見させてくれるお人形? それとも、君が『お嬢様(セレス)』を演じるうえで抜けてしまった『従者(ルノア)』の役の代替品?」

 残酷なまでに無慈悲に、突きつける。

「なあ、ルノアちゃん。教えてよ」

sideアシェル(エネコ)

 足の裏に残る埃を踏む感触も、部屋に置かれた沢山の本の臭いも、視界にちらつくお嬢様も。すべて無視してこの地域ではあまり見られないであろう肌の色をした青年だけを睨み付ける。エルグが語る言葉が、一つ一つ、あたしの頭の中に落ちていく。甘い甘いミルクのように、じぃんと痺れて融けていく。ああ。ああ、そうか。

 ――“演じている”。

 その言葉は違和感しか起こさせず、けれど納得しかできない。
 そう、全て“嘘吐き”だったのだと。そしてお嬢様は何一つとして“嘘など吐いていないのだ”と。そう、わかってしまったから。
 言われてしまえばわかるのだ、わかってしまうのだ。……わかってしまったのだ。
 時々お嬢様が見せるちぐはぐな行動が。
 『エルグ』の言葉に“わからない”と“わからないから戸惑ったの”とそう言った意味が。
 お祭りでラウファが戻って来なかった時“そんな顔をしているの?”と聞いた訳が。

 彼女が船の上で、“わたしは嘘吐きなの。だから嘘なんて吐いていないわ”と笑った理由が。

 お嬢様に対してかつて“自分にそんな(ひょうじょう)が出来るということを知らなかったような”と感想を抱いたことが正しいものであったと理解する。わからないのは当然だ、それは、きっと『台本』にはなかった台詞だったのだろうから。
 あれもそうか、これもそうかと得心し、背中しか見えないお嬢様を問いただしたい気持ちをぐっと堪える。なぜなら彼女は今それどころではないだろうし、あたしも次から次へと出てくる情報に、目の前にいる“ラウファの兄を名乗る得体のしれない存在”に、彼から語られる言葉の意味に、正直それどころではないし、それに。それに、それを聞くべきは『傍観者(あたし)』ではないと思うから。
 エルグの話に準えるのならば、あたしもまた、彼女の演じる舞台の『観客』でしかない。なら、あたしにお嬢様を問いただす権利はない。義務がない。否定するつもりもない。ただ、それでも。

 『理解』と『感情』は必ずしも一致するとは限らない、のだ。

sideルノア

 なぜエルグがそんなことを聞くのか、なぜ最初に出会った時にラウファのことを言わなかったのか、なぜわたしのことを調べる必要があったのか、なぜ子爵はわたしのことを話したのか、なぜ彼は、なぜわたしは、なぜ子爵は、なぜ、なぜなぜ。沢山の疑問が頭の中を掠め、けれど言葉にする前に消えていく。ただ、苦い猛毒が身体中を這いずり回っていることだけが遠くにわかった。

「なあ、ルノアちゃん。教えてよ」

 窓から入る斜光を背に、緩やかに彼は笑う。わたしの世界に干渉する。悪意にも、敵意にも変わるだろうその感情の名前を、わたしは知らなかった。

 ――君にとって、ラウファは何?
 ――君の言うことを全て肯定してくれる、都合のいい存在?
 わたしにとって、ラウは。

「いいえ、いいえ。いいえ、違うわ。エルグ。わたしは」

 ――君を『お嬢様』として扱ってくれて夢を見させてくれるお人形?

「わたしは、だって、ラウを」
「ラウファを?」

 冷徹にも近い、無表情の琥珀色がわたしを映す。品定めするかのようなその目に映るわたしは、泣いているようにも見えた。わたし、笑っているはずなのに。

「ラウファを、何? ルノアちゃん」

 優しく、エルグが先を急かす。諦めたように、ちっとも笑っていない目とわたしに向けて。疲れ果てた微笑を口元だけに浮かべて。
 ふらり、とわたしは一歩後退する。見慣れたコーラルの三つ編みが、視界の端を泳ぐ。わたしはわたしでないと、だめなのに。わかっているはずなのに。それなのに、頭も身体もそれに付いて行ってくれない。足元で、薄氷にヒビが入る。

 ――わたし、どう思っていたのかしら?

 森で見つけた、綺麗な生き物。それがわたしに笑いかけたのを覚えている。チャコールグレイの柔らかい髪はぼさぼさで、同じ色合いの瞳は警戒と不安をぎこちなく覗かせていて。緑がとても綺麗で、木立から覗く空は高くて、木漏れ日が優しくて。そんなことはとても覚えているのに。自分がその時何を思っていたのか、何を考えてラウにそんなことを言ったのか、その記憶が、とても曖昧で、ただただ遠い。
 代替品を、欲しがっていたのかしら。あの、息子を探していた夫婦のように。“ラウファでもいい”と。それと同じように、わたしもまた『ルノア』の代わりを?

 ――それとも、君が『お嬢様(セレス)』を演じるうえで抜けてしまった『従者(ルノア)』の役の代替品?

 目の前で答えを待つ青年の言葉が頭に浮かぶ。……わからないわ、わからない。わからないのよ。そうだったかもしれないわ。あの、何も覚えていない生き物にそんなことを考えたのかもしれないわ。わからないわ。もう忘れてしまったわ、忘れてしまったの。“そんなに酷いこと”をわたしは考えていたかもしれないわ。ええ、ええ!! きっと考えていた! でもわたしは、わたしは。でも。それでも、ねえ、瑠璃。玻璃。
 全てが嘘偽りでも。例え始まりはそうであったとしても。それでも。
 まっすぐに、彼の眼を見つめ返すことが、できた。

「……エルグ。ごめんなさい。わからないわ。わからないのよ。忘れてしまったの。けれど、それでも。わたしは。わたしは、前と答えを変えるつもりはないわ」

 それでも。きっと、この言葉に嘘などないのだから。
 それでも。それでも“しなければならないこと”はわかっているのだから。
 目の前の彼の問いかけに答える。口元を隠し、ヘーゼルのそれを細めて、微笑みを造る。
 わたしがどんなに出来が悪く、醜悪な道化をしていようと。それがわかっていようとも。わたしは続けなければならないのだから。……その理由は、もう忘れてしまったけれど。

「ラウに。……ラウに付いてきて、と言ったことは確かだわ。どうしてかしらね? ラウにお願いして、そうしたらラウは付いて来てくれたの。彼に付いてきて欲しいと思ってしまったのよ。でも、でもわたしにラウを縛る権利はないわ、そうでしょう?」

 今度はエルグの表情が、崩れる。琥珀色の瞳が収縮し、口元から偽笑のそれが消え、一転険しくなる。右拳を握り締め、一呼吸の間に解く。そして、大きく息を吐き出すように言葉を紡いだ。

「……ラウファを、“どうもしない”、って?」
「ええ。ええ、そうよ」

 エルグがあのゾロアークの『エルグ』からどれだけの話を聞いているのかわからないけれど、どうも本当に全てを聞いているよう。試すように繰り返された言葉に頷く。頷いてみせる。ええ、だって、わたし、決めたでしょう? もう少しだけって。ラウがどこかに行ってしまうまで、って。ラウが記憶を取り戻すまでって。それまでなら、駄々をこねても良いでしょうって。瑠璃と玻璃に言ったでしょう? だから、わたしは、少なくとも今のわたしは。それ以上は望まないの。
 ええ、望まないのよ?

「エルグ、あなたこそどうしてそんなことを聞くのかしら? あなたが本当にラウの兄だと言うのなら、ラウを連れて帰ると言うのなら、ラウに言って頂戴。ラウがどうするかは、わたしが決めることではないでしょう?」

 “望んではいけない”のだから。

「……ルノアちゃん、あんな」

 だってそう、“幸せを願うのは当然でしょう?”
 ラウの大切な人はきっとラウを探しているはずでしょう? エルグもきっと探していたのでしょう? ラウにとってきっとそれが最善でしょう?

「君は、セレスお嬢様とラウファ、どっちを選べる?」
「……え?」

 続けられるのは会話ではない、一方的な問いかけ。探るような表情は、どこか憎々しげで。疲れていて。絞り出すような声の主はもはやこちらを見てはいない。ただ、わたしはそれを問われた理由がわからなかった。

「……どうしてそんなことを聞くのかしら?」
「聞いてるのはこっちや。答えてぇな。君は、ラウファとお嬢様どちらを選べる?」

 余裕のない詰問。それは、先程のわたしのようで。そういえば先程からずっと彼もまた追い詰められたような、疲れた顔をしていることに気づいた。古書の匂いが鼻を突く。埃を被った本棚は昔よりも背が低くて、変容してはいるけれど懐かしいその匂いが、“ここがどこか”を思い知らせる。

「……そんなの、選べるはずないでしょう?」
「なら言い方を変えよう。“ラウファを殺せば、君の大切なお嬢様が生き返る”と、そう、言ったら?」
「………………なんっ……」

 目が見開かれるのがわかる。黙って後ろにいたはずのアシェルが、今度こそ飛び出して、叫んだ。

《いい加減にするのよ! あにゃた、一体にゃにが言いたいのよ!? さっきから聞いてれば要領を得にゃいことばっかりにゃのよ!?》

 わたしとエルグの間に入って、その桃色の体毛を逆立て威嚇音を鳴らすアシェルに、エルグは唐茶の尾を揺らせて頬を歪める。その表情は確かに微笑みではあったのだけれど、やっぱり疲れ切って憔悴しきっていて、今にも倒れてしまいそうで。ただ飢えた獣のような目だけが異様に印象に残った。

「ごめんな。でも、俺はそれを聞かなあかんねん。……ルノアちゃん。君は、俺と何を話したかその時の話を覚えてる? 君と出会った街で、俺は言うたね。過去に戻る方法を探していると。確かにそれは口から出まかせやったけど、君はそれに反応した。一瞬探るような目をした。一瞬確かに戸惑った。そうやろう? ただの下らない例えばの話やないの。無邪気に、気軽に、無慈悲に、考えもせずに、お茶会の噂話と同じように。さあ、答えてよ」

 飢えた、狼の眼(アンバー)
 何か、縋りつく様な、渇望するような、切羽詰まった、……それでいて、目の前のものを噛み殺しそうな、それ。

「君は、君の『探し物』は、“お嬢様を蘇らせる”こと?」

 しいん、と。
 たった一瞬、たった一瞬だけ静寂が屋敷を覆った。
 家鳴りも、誰かの呼吸も、布ずれの音も、何も聞こえなくなって、心音さえも掻き消えて。それは永らく放置されたこの屋敷からすれば正しい景色だったのでしょうけれど。

「いいえ」

 ぽつんと落ちた音が、静寂からこの場を奪還した。
 それが自分の発した声であることに、少し遅れて気づいた。

「いいえ。……エルグ。それができるなら、それはきっと素敵だわ。きっと、とても素晴らしいことだわ。それはとても甘美で素敵なお話だけれど、でもそのためにラウを殺せない。そんなことしていいはずがないわ。当然でしょう?」

 エルグの言葉(こたえ)は、確かにそれもまたわたしの『探し物』の答えだとは思うのだけれど。もうわたしには自分が何を探しているのかさえわからなくなってしまっているけれど。
 それでも、それは、“何か違う”。

「………………そーか」

 安堵するかのような、言葉。疲労感の拭えないそれが、けれど確かに緩く綻ぶ。獣の名を冠する色をした瞳は、もう狩りをする獣のそれではない。

「……わかった。なら俺からの質問はお仕舞い。君がそう答えるなら、俺は舞台の上の道化を辞めて賢者になろう。……このまま王都を出て、東に向かい。西には来たらあかん」
「え?」
《にゃ?》

 戸惑いの声に琥珀色の瞳が細まり、泣きそうな顔で、笑う。さらり、と長い髪が背中を流れ、そこで彼が頭を下げていることを理解した。

「『ラウファ』を、宜しくお願いします」


森羅 ( 2016/08/21(日) 22:52 )