2.なまえのないばけもの
sideエルグ
彼にとっては見慣れた、けれど今となっては彼と彼の片割れ以外誰も知らない地下の空間。
長い一息を吐き出して、彼は顔をしかめる。数えるのも馬鹿らしくなるほど訪れているというのに、粘着質な闇はやはり吐き気を催すほど居心地が悪く、充満する黴臭さはどうやっても慣れない。フェデレ家を訪れた時も似た感覚があったのだが、こちらは下手に見知っているだけ余計に性質が悪かった。土を固めただけの壁の閉塞感と、腐敗し、虫に食われた羊皮紙の束が墓場を、棺の中を、連想させる。……いや。エルグは首を振り、自嘲気味に呟く。
「死体がある方が、まだマシやな」
とうに位置を覚えてしまった蝋燭台に灯を灯し、負の感情をかき集めたような闇をほんの少し拭う。この場所を見て、どういう用途の場所だと答えるのが適切だろうか。書庫と評するにはあまりにひどい環境だが、それ以外の表現はなかなかどうして難しい。もはや文字の判別さえ不可能なほど変色した紙の束は足元に捨て置かれ、比較的最近のものであろう紙や羊皮紙にはびっしりと文字が書き込まれて積み上げられている。遠慮深げに置かれた机はいい加減限界を訴えていたが、取り替えられる予定もないまま大量の紙切れとペンとインク、蝋燭台、そしてガラスの小瓶を乗せて踏ん張っていた。机と同じくガタの来た椅子を引き、エルグは今一度長く息を吐く。古びた書物独特の匂いや黴の臭いを肺から追い出し、ボロボロの椅子に身を預ける。彼の体重にぱらぱらと椅子から木片が零れ落ちた。
安堵、という言葉はどう考えてもおかしい。自分はこの部屋が嫌いで、吐き気がするほどの拒絶を示しているのだから。しかし、それでも。それでもここにあるものは全て、“エルグのもの”でもある。大量の文字たちは言うまでもなく、粘着質な黒色も間違いなく自分の物でもあり、暖かく自分自身に纏わりつく。彼自身もその一部なのだと、そう教えてくる。……ああ、だからここが嫌いなのに。
込み上がってくる嫌悪感を振り払い、おもむろにガラスの小瓶を手に取る。橙色をした明かりが照らすのは、灰色をした砂状の物質。光の加減で輝いているようにも見えるそれを彼は数度手の中で回し、しばらく考えてポケットの中に滑り込ませる。ああ、もう行かなあかん。椅子から立ち上がり、火を消す。再び襲ってくる純粋な黒色、これはきっと。
「終わらせな、あかんなあ……」
――この闇はきっと、呪詛だろう。
きっと誰も見ることのできない暗闇の中で、エルグは泣き出しそうに顔を歪めた。
sideラウファ
その『都』には、五つの聖堂を持つ街よりもずっと広くて、高い建物があって。
港の街の市場に負けないほど、多くの品が露店に並んでいて、賑わっていて。
マトマ投げの祭りの最中の様な、一度見た人と二度と巡り会えないような多くの人の往来があって。
湖の傍の避暑地。そこで散々目のやり場に困ったような巨大な豪邸が向こうの方でひしめいていて。
けれど、少し目を凝らせば確かに小さな村と何ら変わりない人の生活があって。
「すごい……」
ぐるぐると色んな感想が頭を巡って、ついでに目も回って、結局そんなつまらない言葉しか出てこなかった。巨大な円の形を描く王都は今まで見たどの場所よりも広く、大きく、賑わっていて、発展している街。産業の中心地だもの、なんてルノアが教えてくれていて、すごいんだろうなあ、と漠然と思ってはいたけど。まさに百聞は一見にしかず。僕はただただ圧倒されるだけで、気が付けば馬鹿みたいにあんぐり口を開けていた。
いくらか歩いた気がするんだけど、マトマの祭りの最中の様な人だかりがこの街に入ってからずっと続いている。ごった返すような人ごみの中で、どこから聞こえるのかもわからない騒音にも近い声が響く。蹄の音がそれに混じる。住みついているのか、飼われているのか、獣の姿も数匹見かけた。綺麗に整備された道は露店が軒を連ねていて、店を見れば野菜や果物やら、加工品やら、金物やら、銀細工やら。あっちの人だかりは僕が見たこともない人形を見ているようだし、こっちの人だかりは競りをしているし。初めて見るものも多くて、視界がぐるぐる回る。暫く目を離してしまえば、隣にいるルノアさえすぐに見失ってしまうだろう。これがまだ王都の城門付近だと言うのだから恐ろしい。尤もルノア曰く、賑わっているのは市場や中心街、城門の周囲だけで、貴族の邸宅や王室の付近、
貧困街も含めた住宅地はやっぱり静かだそうだ。それでもやっぱり、すごい。何がすごいのか自分でもよくわからないけどとにかくすごい。空を見上げると、背の高い建物が多いせいか、青色が遠く見えた。
それで、結論から言うと、人に酔った。
《大丈夫、にゃのよ?》
「うん……」
適当な――それでも危なくはない程度の――安宿を取ってもらって、部屋に上がる元気もなく宿の食堂で長机に突っ伏すこと暫く。あー、うん。情けない。
本当に人間で酔うんだ。船酔いしたのを思い出しながらそんな感想が浮かぶ。今回ばかりは確かに情けないと思うけど、あえて言い訳するのなら僕はあまり人に慣れてない。自分に残っている一番初めの記憶は誰もいない森の中だし、港町の市場や祭りの最中に人が多かったのは確かだけど、それはあくまで小さな町の限定された場所での話で長い時間人ごみの中に晒されたわけじゃない。物珍しいものを見かけて、少し興奮していたのもあるんだろう。まあ、そう言い訳したところで気持ち悪さが治るわけでもないんだけど。胸のあたりが未だ重かった。何か飲みたい。のそのそと起き上がり、机の上を陣取るエネコに尋ねる。
「……アシェル、ルノアは?」
《日が暮れるまでまだ時間があるから、もう少し街を見てくるそうにゃのよ。あにゃたにも一応言ってたのよ?》
尻尾を揺らすアシェルに言われて、あれそうだっけと記憶を探す。言われてみれば宿を取ってもらった時にそんなことを聞いた気もするような……しないような……。まだうまく働かない頭をとんとんと数度叩いてみるけど、はっきりとは思いだせなかった。まあ、そのときは自分のことで手一杯だったはずだから仕方がない。アシェルにお礼を言って、その耳を撫でる。
……広い街だから、一日目は一緒に行動しましょう、なんて言ってたのはルノアだったのにな。尤も、彼女の計画に“僕が人に酔う”なんて項目は含まれていないはずだから、ルノアに怒ったり、拗ねたりするのは筋違いだろうけど。ざっと食堂を見渡しても、見知った珊瑚色の髪は見当たらなかった。
「……あれ? アシェルは行かなくてよかったの?」
ふとそのことに気づいて、柔らかい耳から手を離す。そういえばどうしてアシェルがいるんだろう? 宿の食堂で人酔いに苦しんでる僕と居るより、王都を見てくる方が楽しいはずなのに。けれど、当のアシェルは怪訝な顔でこちらを見た後、呆れたように溜息を吐く。たらんと尻尾が垂れ下がった。
《荷物番もあったし、あにゃたを放置していくわけには行かにゃいのよ……》
「ああ、そっか。ありがとう」
横を見ればいくつかの荷が置いたままにされていて、確かにあの状態の僕じゃこれの番は無理だっただろう。いくらかお金も預かっている。安宿にはスリだとか、そういう類の人間も多い。荷物番をしてくれていたアシェルにもう一度お礼を言って、小銭を漁る。さっきから、喉が渇いていた。宿の入り口から覗く外は、明るくて日暮れにはまだかかりそう。つまり、ルノアが戻ってくるのももうしばらく掛かるということ。椅子から立ち上がり、少しふら付く。それでも意識はしっかりしていたので問題ないと判断して、アシェルに笑った。
「アシェルも、何か飲む?」
sideルノア
黄土色で統一された煉瓦道に、靴音が響く。貴族や王族の邸宅が並ぶような通りだからか、道行く人はごくわずかで、時折馬車が行き来するだけ。
もう、ラウったら。折角一緒に見て回ろうと思ったのに。付いてきてもらおうと思ったのに。王都に入って幾何もしないうちに足元がおぼつかなくなった彼の情けない顔を思い出して失笑を漏らす。今日中にどうしても行っておきたい場所があったからアシェルにラウを任せてしまったけれど、きっと今アシェルは怒っているでしょうね。“怒ってるのよ”と主張するちっとも怒ってないような顔が思い浮かんで、わたしはもう一度笑みを零した。何か二人にお土産でも買って帰ろうかしら?
「……」
そんなことを思いながら、目的地に到着する。そびえ立つのは王都に敷かれた道と同じ、けれど色の違う煉瓦で建てられた豪奢な邸宅。隅から隅まで、それこそ庭の木の枝ぶり一つまで手入れを怠った様子のない、子爵の本邸。避暑地にある彼の別宅だって十分豪華だというのに、ここはそのさらに上を行く。ふぅ、と息を吐いて肩の力を抜いた。潔癖なまでに綺麗に整えられたその場所は――わたしの育った場所でもあるのだけれど――どうも好きにはなれなかった。広々とした庭を通って、玄関まで辿りつく。勝手に開けて入ることもできるのだけれど、あまり長居する予定もないわたしは呼び鈴を引いた。ちりん、ちりん。澄んだ音が屋敷の中で反響する。
「お嬢様……? ああ、やっぱり。お帰りなさいませ」
数分も経たないうちに古馴染みの女中が一人顔を出した。すっとした顔立ちの中年女性はわたしの記憶の中の彼女より少し老けていたけれど、特段不自由はなさそう。招かれるまま玄関に入って、わたしは彼女に笑顔を作る。
「ええ、久しぶりね。元気にしていたかしら? ……子爵は、お義父様は戻ってらっしゃる?」
「はい。お陰様で……。旦那様でございますか。旦那様はまだお戻りになられておりませんが」
彼女の言葉にやっぱり、と内心で溜息を吐いた。子爵がいないこのお屋敷は、彼がいるときよりもさらに興味がないわ。そう、と短く答え、そのまま彼女に鍵を頼む。それだけ受け取ったらすぐ出て行くという旨も添えた。
「承知いたしました。少々お待ちくださいませ」
一礼して踵を返す女中が見えなくなってから、特に意味もなく三つ編みにされた髪を弄る。まったく、一応この屋敷の主の
養女なのに。すぐ出るといっても椅子くらい持って来てもいいんじゃないかしら? あまりに露骨な扱いに薄い笑みさえ浮かんでしまう。この屋敷の人間に好かれていない、そんなことは子爵に連れられてこのお屋敷に来た時点でわかっていた。尤も、そんな下らないことはどうだって良いのだけれど。
わたしが当然のように振る舞えば、誰も何も言わなくなるのだから。
「お嬢様」
「あら、ありがとう」
小走りで帰ってきた彼女にわたしは微笑む。にっこりと、誰にも何も言わせないほどの、品位と無垢を同居させたそれで。目の前の彼女が、微かに息を呑むのがわかった。そしてわたしはそれに気づかない振りをする。本当にありがとう、とそう無邪気に笑って見せる。顔を綻ばせたまま、わたしは次の言葉を継げた。
「それじゃあ、行くわね。お義父様がお戻りになられたら鍵をお借りました、と伝えておいて頂戴」
「あ、はい。……あの、お嬢様」
「なあに?」
予想外の言葉に驚きながらも、わたしは首を傾げる。子爵から言伝でもあるのかしら。そう思って、けれどその答えに心の中で首を振る。子爵からの言伝ならこんな言いづらそうな顔をする必要がない。じゃあ、一体何かしら。
「その……お嬢様の、お知り合いの方が」
「わたしの、知り合い?」
「はい。私が受けたわけではございませんので、詳しくは存じ上げないのですが……。その、お嬢様のお屋敷の場所を教えてしまったと。……ご存じでございますか?」
上目づかいで、言いどもりながら。なんとか言い切った彼女の言葉にわたしは首を傾げるしかない。わたしの、知り合い?
「心当たりはないわ。……ああ、でも気にしないで。構わないわ。それ以降、あちらに何か変わった様子があったわけではないんでしょう?」
「はい、それは勿論」
「それだけかしら? もしもう一度その方が現れたら、今度はお名前も伺っておいて頂戴。それじゃあ」
お咎めなしということに安堵し、頷く女中にわたしはもう一度笑って元来た道を向く。ドレスの裾がふっくらと風を孕んだ。わたしを尋ねてきた人のことは気になるけれど、今は早くラウの所に帰りましょう。だって、気にも留めないとはいえ、わざわざここに残って陰口を聞かされ続ける必要なんてないでしょう? 慌てたように付け加えられる女中の声が背中に当たる。
「行ってらっしゃいませ、セレスお嬢様」
sideアシェル(エネコ)
目の前で薄いアルコールが混じった水を一息に飲み干すラウファは、よっぽど喉が渇いていたらしい。ぷはぁ、と声を上げて満足そうに顔を緩める。気分が悪かったということを考慮しても良い飲みっぷり。一方のあたしはそこまで喉が乾いていなかったので、ちみちみと皿に注がれたミルクのご相伴に預かっていた。
「美味しい?」
《のよ》
頬杖をついて、へにゃりと笑いながらそんなことを聞いてくるラウファから察するに随分調子が戻ったらしい。それなら少しだけでももう一度外に繰り出すのもいいと思ったけど、あのお嬢様がいつ帰って来るかわからないし、それで入れ違いになるのも面倒臭い。あたしとしては寧ろこの場に残ってラウファを診ているべきだったのはお嬢様だと思うんだけど……。あのお嬢様、後はお願いするわね、なんて笑いながらさっさと出かけてしまうのだから始末に負えない。なんて頭が痛い。自分が拾ったものの世話くらい、きちんと自分でして欲しいのよ!
とまあ、あたしがそんな回想に怒りを覚えている間にラウファはぼんやり外を見ていた。特に何かを見ているわけではない、焦点の定まっていない目。けれどそれは何か別のことを考えているようでもなかったので、あたしは彼に声をかけた。視点が、あたしに移る。
《にゃに見てるのよ? 考えてるのよ?》
「うーん? 別に何かを見てたわけじゃないよ。ルノア帰ってこないかなあ、ってくらい」
《ふーん、にゃのよ。……それで、記憶の方はどうにゃのよ?》
「んー……ないと思うよ?」
でもまだ少し見ただけだから、と付け加えて笑うラウファにそれもそうかと相槌を打つ。ただ、あたしの個人的な感想を正直に述べると……こんなに簡単に人酔いしてしまうラウファがこんな人の多いところに暮らしていたとは思えない。尤も、お嬢様は何らかの根拠があってこちらに向かったようだし、お嬢様の言うとおりこの巨大な都市には過疎地も過密地もあるのだから一概には言えないけど。でも、それらが外れとなるといよいよラウファの出生がわからなくなる。
潮風が苦手で、船酔いはする。おまけに泳げない。となれば海の傍ではないだろうし、水の傍でもないはず。大きな町に行けば見たことがないものばかりだと言うし、子爵様のお邸では所在なさ気にそわそわしていた。なら、身分の高い家の子供でもないんだろう。かといって、どこにでもありそうな小さな村も知らないと言う。じゃあ外つ国の子供なのかと言われると、それを肯定する材料がない。肌の色や瞳の色は確かにこちらの国のものではないけど、外国で育ったとするのなら言葉に訛りがなさすぎるし、他の言葉をラウファは知らない。つまり、王都周辺が全て外れとなると――溜息さえ枯れる話だけど――完全に八方塞がりなのだ。あえて何か手がかりを挙げるとするなら『エルグ』と名乗ったゾロアークだけど、あれが今どこにいるのかわからない。さらにさらに。当のラウファ自身があまり自分のことについて興味を持っていない。こちらがラウファのことで頭を悩ませていると言うのに、肝心の本人は頭突きを食らわせたくなる程のほほんと平気な顔をしているのだ。ああ、もう嫌ににゃっちゃうのよ! 一周した思考に徒労感にも似た疲労感が襲い、あたしはミルクを舐める。甘いそれはじいぃんと頭に栄養を送ってくれた。だらりと机の上で脱力し、あたしはラウファを見上げてなんとなしに問う。
《ラウファ。あにゃた、少しはにゃにか思い出したとか、引っかかることがあったとか、そういうことはにゃいのよ?》
「うん? ……うーん……」
あたしの問いかけに、ラウファは首を傾げて視線を宙に彷徨せる。左へ右へ、右へ左へ。彷徨う視線は記憶の中から何かなかったか探しているんだろう。少し待ったのち、何か思い当たったのかラウファは困ったように笑った。
「そういえば、一つだけ。……あのね、秘密なんだけどね」
《にゃ?》
はにかむように、けれど声のトーンは抑え気味で。にへらー、とだらしなく笑うそれがどんな笑みなのか、判断するのは容易いが形容するのは難しい。あえて言うなら、見つけて欲しくて仕方がなかった隠し事を見つけられた子供のような。言いたくて仕方がなかったことを言うチャンスが訪れた時のような。そんな小さな優越感を含んだ笑み。一応平静を装ったようだけど。
「あのね、多分これも、ルノアには秘密なんだけどね」
秘密だから、ルノアにだけは言っちゃ駄目なんだって。良くわからないけど、ルノアに言わなかったら秘密は秘密のままなんだって。……誰かの台詞をなぞるように、彼はそうたどたどしく前置きする。“誰にも言ってはいけないよ”、と。それは秘密の共有者という名の、甘美な関係性を保つための一種の『儀式』。
ああ、そんなことをラウファに言ったのは、多分子爵様だろう。お嬢様と彼以外に、ラウファにそんなことを教えそうな人間はいない。そして、お嬢様がそんなことを言ったのは聞いたことがないし、何より“ルノアに秘密にする”ことをお嬢様が教えられるわけがない。頭の中でにこやかに笑う子爵様をあたしは溜息と一緒に追い出した。別に子爵様が教えたことは多分ほとんど間違いのないことだと思うけど、それでもラウファのこの前置きは長すぎる。ラウファじゃにゃくても幼い子供に下手にゃことを教えるとこうにゃることぐらい、予想していて欲しかったのよ。
それからようやく、ラウファは本題の話を始める。一つだけ、夢を見たのだと。
「あのね、子爵の家で寝てた時だと思うんだけどね。綺麗な人を見たんだ。ルノアみたいな、でもルノアじゃない人。金髪で金眼の、僕より年上の人」
見たこともないその人は、確かに自分の名前を知っていたのだと。
自分のことを知っていると言ったくせに、それは嘘だと知らないのだとそう笑っていたのだと。
「わからないんだけどね。ただの夢だったのかもしれないから。子爵に言ったら、幽霊でも見たのかいって聞かれたよ。そんな子供はいないって。その人はもしかしたら僕の記憶の人かもしれないって」
記憶が曖昧なのか、少し要領を得ない話だったが内容は単純だ。“見たこともない人間が夢に出てきて、その人が自分を知っていた”というだけの話。確かに少し興味深いのよ。あたしは彼の話に耳を澄ませ、ラウファが覚えているだけの身体的特徴を聞いて念のため覚えておく。だけど、それよりも別のことがあたしには引っかかった。勿論、気にする程度ではないことではないかもしれないけど。
――子爵様はその人に心当たりでもあったのよ?
それをラウファに言いかけた、そのタイミングで。まるで計ったかのように音がして、お嬢様が宿屋の入り口に姿を見せた。開けっ放しにされた扉から見える外はいつの間にか日暮れ間近。音に反応してラウファが振り返り、その正体に顔を綻ばせる。そしてそれは、こちらを見付けたらしいお嬢様も同じく。
「おかえり、ルノア」
「ええ。体調は戻ったのかしら? アシェル。ラウのこと、助かったわ。……何か、二人でお話でもしていたの?」
くすくす笑うお嬢様にラウファはすっかり気を取られてしまっていて、置いてけぼりにされてしまったあたしはお嬢様に軽く頷いてから皿の上に残ったミルクの攻略に掛かる。
「ルノアには、秘密なんだ」
楽しそうに弾むラウファの声。あたしの疑問は結局、ラウファに聞くことはできなかった。
sideラウファ
朝起きて、着替えて。昨日散々お世話になった食堂の隅で朝ご飯を頂きながら、今日はどうしようかとそんな話をルノアとした。王都に入る前の予定では着いた日は一緒に行動して、二日目は別行動。ただ、僕が失態を侵したことで、予定はすでに狂ってしまっている。ラウったら軟弱なのね、なんてルノアに笑われてそれでも反論できない僕をアシェルが居た堪れないような目で見ていた。
「そうね……。ラウ、あなたはどこか見たいところがあるかしら?」
固いパンを飲みこんでから、そう尋ねるルノアに僕は少し考える。うーん、どっちでもいいんだけど昨日ほとんど見れてないし……。アシェルを一瞥すると、どうでもいいと言わんばかりに尻尾を一回振った。なら。
「昨日、ほとんど何も見れていないからもう少しこの辺りを見て回りたいかな」
「あら、そう? ……なら予定通り別行動にしてもいいかしら」
ルノアは少し行きたいところがあるらしい。それでいいよ、と返事をして大体どれくらいの時間に戻ってくるか決める。集合は宿。広い都市だから、何日か滞在するつもりとのことだ。そうして話が纏まりかけたところで、ルノアが思い出したように手を打つ。
「そうだわ、アシェル。今日は一緒に来てもらっても構わないかしら?」
《にゃ? 構わにゃいけど、ラウファが一人ににゃっちゃうのよ?》
「え? いやそれは大丈夫だけど」
突然の名指しにアシェルが顔をしかめ、アシェルの言葉に僕を見るルノアには大丈夫だよと手を振る。それは勿論、大丈夫だ。……大丈夫、だと、思う。でも、ルノアはどうしてそんなことを言うんだろう? 僕の疑問を余所に、ルノアは言葉を続ける。
「……そうね……。じゃあ、ラウ。瑠璃と玻璃をお願いしてもいいかしら? 彼女たちは人語も大丈夫だから、もし迷ったり、また気分が悪くなったりしても何とかしてくれるはずよ。アシェル、これで大丈夫かしら?」
《にゃ。あたしは大丈夫にゃのよ》
「え、いや。だから僕も大丈夫だとは思うけど……。その、どうして?」
渡された二つのカラクリをとっさに受け取るけど、僕はまだ状況についていけていない。きっと困惑した顔をしているんだろう、僕の顔を見てルノアは笑う。悪戯めいた、無邪気なそれで。華奢な人差し指が、彼女の口元を塞ぐ。
「ラウには秘密よ」
昨日秘密にされてしまったからお返しなの、と。そう楽しげに微笑んで、彼女はアシェルを連れて行ってしまう。ぽつんと残された僕は手の中にある球体を見下ろして、
「えーっと……よろしくお願いします?」
《よろしくーぅ》
《よろしくお願いいたしますね》
とりあえず二匹の海獣に挨拶しておいた。
sideアシェル(エネコ)
《……それで、秘密の話ってにゃんにゃのよ?》
宿も見えなくなって、見知らぬ風景が広がり始めたところであたしはお嬢様に切り出す。天候は絶好の昼寝日和。許されるなら、木陰でごろりと寝そべりたい、そんな天気。この街は昨日と変わらず多くの人間が行き来していたけど、この辺りには人が少なかった。市場も遠いのか、客寄せなどの声も聞こえない。並ぶ家々の様子を見るに身分の低めな貴族層と比較的裕福な平民層が入り混じる地区のよう。綺麗に舗装された黄土色の道と背の高い建物が向こうの端まで続いていた。お嬢様の足取りに合わせて、結わえられた珊瑚色の髪が揺れて、ドレスの裾が広がる。抱かれたあたしにも振動が襲う。けれどその足取りは決してスキップのようなものではなく、腕の中から見ることのできるお嬢様の表情も決して明るくはない。勿論、暗いとまでは言わないけど。
「もうすぐ着くのだけれど。あなたには今から行くところに付いてきて欲しかっただけなの」
《にゃあ?》
「瑠璃と玻璃と、ラウは連れて行きたくなかったのよ。でも昨日……あなたにラウを診てもらっている間に子爵の本邸に行っていたのだけれど、そのときに誰かがわたしの知り合いを装って今から行く場所のことを聞いたんですって」
答えではない答え。だけどつまり、あたしが選ばれたのは消去法らしい。まったく、このお嬢様は。フン、と一回鼻を鳴らし、欠伸を噛み締める。視線を背けたあたしの頭をお嬢様の手が撫でた。悪かったわ、と笑いながら。
《一人じゃ心細かったからにゃのよ? まあ、別に構わにゃいのよ》
「ふふふ。ありがとう、アシェル。ほら、もうそこに見えているわ」
お嬢様の白い指がすっと一点を指差す。その指の動きに従って目線を寄越せば、見えるのは。じりっ、と太陽の光が背中を焼いた。
《お嬢様》
「どうかしたのかしら、アシェル?」
《あたしの目には長らく放置された屋敷に見えるのよ?》
「ええそうね、そろそろ三年は誰も住んでないんじゃなかったかしら」
お嬢様の足が止まる。当然のように、その幽霊屋敷の様な建物の前で。ぎこちなくお嬢様を見上げ直すあたしに、お嬢様はにっこりと笑った。
「ここに来たかったのよ。アシェル」
門扉を開き、中を覗くとやっぱりというか予想通りというか、酷い有様。雑草が生い茂る庭は元の様子など想像もつかないし、玄関の取っ手は錆びていて、木製の扉も雨風に打たれて腐食が始まっていた。鍵穴も取っ手と同様に錆びてしまっているのか、少しだけ手間取りながらお嬢様は鍵を開ける。お屋敷の中も蜘蛛の巣が張られ、埃が積もっていた。雰囲気の問題か、外の明るさが嘘のように薄暗い。これは、できれば下に降ろされるのは勘弁してもらいたいのよ。
「アシェル。話は戻るのだけれど」
《にゃあ?》
玄関の扉を閉じ、鍵をかけながらお嬢様は平坦な声で言う。いつもとは違う声色にとっさに顔を上げるけど、その表情は髪に隠れてよく見えない。
「あなたがここで見たことも、分かったことも、ラウには言わないで」
あなたはとても賢いから、と。囁くように幽かに呟く。あたしは何も答えない。この言葉は、お嬢様の『秘密』の話。けれどそれは、昨日のラウファとは違い淡々と。前置きの『儀式』がなくても、この声は十分それの代わりになりえた。がちゃん、という音がしてようやく扉に鍵がかかる。お嬢様が顔を上げ――そこにあるのはいつもと何ら変わりのない笑顔。
「ひどい埃ね。今度、掃除を頼もうかしら」
《……それが良いと思うのよ》
頬に手を当て、すっとぼけたことを言うお嬢様にあたしは返答する。この廃屋に何があるのかは聞かない。なぜなら、お嬢様自身は一言も話すつもりはないだろうから。お嬢様がラウファに秘密にするよう言ったのは“見たこと”と“分かったこと”。すなわちそれは全ての考察も推測もあたしの手に委ねられている、ということなんだろう。案の定、あたしの返答にお嬢様は楽しそうに笑うだけ。もはや想定通りの態度にはーっ、とこれ見よがしに溜息を吐く。まったくもうこのお嬢様は……にゃ?
《お嬢様》
「なあに、アシェル。大丈夫よ、すぐに帰るわ」
《そうじゃにゃいのよ。さっき、三年は誰も住んでにゃいって言ってたのよ?》
「ええ、誰も住んでないわ。管理もしていないはず」
とりあえずお嬢様の『秘密』を脇に置き、尋ねる。不思議そうに答えるお嬢様にあたしは首を捻った。誰も住んでない。なら、この足跡はにゃんにゃのよ? お嬢様に指摘すると、ようやく気づいた様子でヘーゼルの瞳を大きく見開いた。ぎゅっと、強く抱きしめられる。その様子は明らかに驚いていて、戸惑っていた。……“戸惑うお嬢様”。しばらくぶりに見たそれにあたしは思う。ああ、きっとここにあるのはお嬢様にとって大切なものなのだ、と。
《とりあえず、辿ってみたらどうにゃのよ?》
「……え? ええ、そうね」
足跡を凝視したまま固まるお嬢様に声をかけ、とりあえず足跡を辿ってみることにする。水場、大広間、食堂。足跡の主は埃を被った、それでも確かにそれなりの品が並ぶ部屋を一つ一つ確認していったらしい。けれど荒らされたような跡はなく、何か盗まれた様子もない。一階を見終わって、次は二階へ。端まで続く廊下には一定の間隔で窓があり、その窓の大きさだけ光が入って来ていた。
「…………」
にゃあ?
《にゃにか、聞こえにゃかったのよ?》
「え? いいえ」
あたしの言葉に驚いた様子で耳を澄ませ、首を振るお嬢様。少し落ち着いたらしく、聞こえてくるのはいつもと変わらない調子の声。一歩一歩前へ進む。元は綺麗な茶色だったのだろう窓枠には灰色が上書きされていて、カーテンは色が変わっていた。腕の中から少し身を乗り出すと、お嬢様が歩くたびに足跡が残って行く。
「……ました。……程……」
気のせいではなく、間違いなく、声がした。今度はお嬢様にも聞こえたらしく、音源に向かって躊躇いなく歩を進める。彼女が選んだのは、二階で一番奥にある部屋。
「『そして、夫婦はそれからも仲良く暮らしたのでした。めでたしめでたし』」
扉の向こうでまず目に入ったのは本の山。子供の勉強部屋だったのか、本棚の高さが軒並み低い。それから、お嬢様に遅れてあたしは気づく。窓際に自分たち以外の人間の姿が一つあった。
「…………あら?」
予想もしていなかった侵入者にお嬢様はあたしを取り落した。難なく着地して、あたしもその人物に目をやる。唐茶色の髪に、
狼の瞳。一冊の本を手にする、記憶に古くないその姿はにっこりとこちらに向かって目を細めた。……獣の臭いは、しなかった。
「……あなた、エルグ?」
「久しぶりやね、ルノアちゃん。それとも、こう言った方がええんかな?」
獣の瞳が、歪められたままお嬢様を射すくめる。ぱたん、と本を閉じる音が大きく聞こえた。
「セレス。セレス・ローチェお嬢様?」