アクロアイトの鳥籠










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5章
2.薄暮の境界線

sideルノア

 おかしいわ。おかしいのよ。わたし、どうしてしまったのかしら。
 わたしが選んだのは最善の選択のはずなのに、何も間違っていないはずなのに。

 ――じゃあ尋ねよう。お嬢さま。もし、彼が記憶を取り戻したとして、きみはどうするんだい? きみのことを忘れてしまうかもしれない。どこかへ行ってしまうかも。それでも、構わないと?

 それはつい数日前の子爵の言葉。本当につい、数日前、“そんなこと考えたこともなかった”わたしに向けられた言葉。わたしはそれに、何と答えたのか忘れてなんていないのに。その答えを覆すつもりも反故するつもりもないはずなのに。子爵の顔。子爵のお屋敷。蜂蜜の入った紅茶に、甘いお菓子。わたしは“二度とそんなことにならないために”子爵に会いに行ったはずなのに。それなのに。

 ――子爵。そうね、ラウがわたしのことを忘れてしまうかもしれないわ、どこかに行ってしまうかもしれないわ。けれど。

 微笑みながら、当然のように。記憶の中のわたしは返答した。それが“正しい”と知っていたから。“そう答えるのが正しい”とわかっていたから。けれど。

 ――けれど、それがラウの幸せなら、わたしはそれで構わないわ。幸せを願ったらおかしいかしら?

 けれど、それなのに。……どうしてこんなに息が苦しいのかしら。

sideエルグ(ゾロアーク)

 時期としては都合がいい。
 さんさんと……いや煌々と照りつける太陽を仰ぎながら、彼はそんなことを思った。現在『エルグ』が“借りて”いるのは六歳ほどの小奇麗な格好をした少年の姿。金糸にも似た柔らかい髪が陽光を受ける。視界は低いが、経験上何か面倒が起きたときに“子供だから”で済ませられることが多く、利便性は高い。そして、彼の姿とは関係なく、この時期は都合がいいと彼は再び考える。煉瓦の敷き詰められた道は熱を溜めるし、滴る汗は拭うことさえ億劫になってきたが、それでも。

 この時期は屋敷の主人が不在なことが多いのだ。

 理由は非常に単純で、“暑いから”だ。夏の間、金と暇を持て余らせた貴族たちは首都を離れて別荘、つまり避暑地へ出てしまっていることが多い。湖の傍など少しでも気候が良いところ。そんな場所にはきっと今、貴族たちが集まって涼を取っているのだろう。屋敷の管理のためにある程度の使用人は残っているが、それもまた『エルグ』にとっては都合が良かった。屋敷に残った者たちからは――例外もあるが――非常に情報が得やすいのだ。

「いやぁ」

 口を裂き、今の姿に全く似つかわしくない笑みで彼は小さくせせら笑う。ゾロアークなど他種族に紛れることがある獣ならではの性質でもあるのだろうが、“人間という生き物”は『エルグ』にとって興味の一つだ。エルグには趣味が悪いと言われたこともあるが、彼にしてみればこんなに滑稽で面白い生き物はあまり類を見ない。獣は人間ほど余計で面倒なことを考えたりしないのだから。だからこそ、『エルグ』にとって“自分を演じ分ける”人間たちは興味深く、面白い。

「いやあ。人間、腹の中に何抱えてるかわかったもんじゃねえよなあ」

 不平不満、妬み、恨み。上辺では敬っておきながら、腹の中ではどす黒いものが渦を巻いている。そんな日々の不満からか“主人の不在”は、屋敷に残された使用人の口を凄まじく軽くするのだ。“猫のいないとき、鼠は遊ぶ”の諺はあながち間違いではない。勿論、主に忠誠を尽くし沈黙し続ける者たちもいるのだが。

「さて、と」

 ぐるりと、身体を九十度回し『エルグ』は門扉が閉じられた屋敷の前に立つ。中心街からは少し外れた上流平民と下級貴族の屋敷が混合した閑静な地区。この屋敷は四人のうちの、四人目が住んでいるはずの屋敷。二人目もハズレで、三人目は直接屋敷に行くことなく『行方不明』の理由が判明した。ここもハズレだと十数日間に及ぶ涙ぐましい調査(どりょく)と状況が振り出しに戻ってしまうが、どうも四人目――セレス・ローチェは様子がおかしい。
 ここに来る前にローチェ家の屋敷――セレス・ローチェはローチェ家現当主の息子が取った養女らしいので、彼女にとって義理の祖父にあたる者の家――を先に訪れてみたのだが、使用人たちに取りつくしまもなく門前払いを食らってしまった。仕方なく義父の屋敷に向かうと今度は使用人の一人からこちらに行くよう伝えられたのだ。女中たちの話で養女だと聞いていたのでまあ、そこは色々事情があるのだろうが、それでも――『エルグ』はあまり貴族について詳しいわけではないが、それでも――これほど忌避されるなどあまり類を見ないだろう。さらに言うなら下級貴族や平民の暮らすような場所に建つ屋敷も気になった。屋敷の様子からして建てられたのは最近ではなく、ならばセレス・ローチェが養女(“ローチェ”)になる前に暮らしていた生家ではないかという考えも浮かぶ。だが、養女になる前のセレスの家が下級貴族だったとすると、上流貴族たるローチェ家が彼女を養女に迎える利点が思い浮かばない。無論、養子縁組自体は珍しい事例ではないし、下流貴族なら場合によっては平民の養子を受け入れることもあると聞いたことがある。所詮血の繋がりのない養子には爵位や領地の相続権はないため“理由は道楽”と言われても否定する要素はない。だが…………いや。そこまで考えた時点で『エルグ』は首を振る。ここがハズレだったら振り出しに戻ってしまうことと相余って考えて過ぎているのかもしれない。今更考えていても仕方がないのだ。
 これでハズレだったらこの怒りは全て自分の片割れに向けようと心に決めつつ、彼は屋敷の前で息を吐く。門を含む塀の高さは高く、中の様子は伺えない。仕方がないので、とりあえず見える範囲で屋敷の様子を確認しようと上を仰いで、

「……あ?」

 違和感を、得た。
 瞬間的に感じたそれは直感以外の何物でもなく、けれど二度目で確信する。この屋敷には違和感がある。人の匂いがしない。生活の匂いがしない。どこか放置された様子があり、活気がない。もっと端的に言えば……“人の住んでいる様子がない”。ためしに門扉を叩くが、応えはなかった。

「…………」

 これはアタリなのか、ハズレなのか。確かめるために塀を飛び越えるのは容易いが“真昼”の時間帯に“子供の姿”で、はさすがにまずいだろう。誰かに見られる確率が高すぎる。言い訳もできない。見られても隠れてしまうことができないわけではないが、このことが後々自分の首を絞めることもあるかもしれない。頬を掻き、思案に耽ること、しばし。

 夜まで、待つか。

 小さな手がもう一度扉を叩き、やはり返ってこない応答に金髪の少年はきょとっ、と首を傾げる。おかしいなあと、あどけない様子で。その間に数名の人間が道を行き来し、小さな子供は屋敷を離れて道の向こうへ駆けて行った。

sideラウファ

 本当に小さな村だった。
 のどかで、森に囲まれた静かな集落。夕焼けで空が赤く染まり始める頃に村の入り口に辿り着いて、一番に思ったのはそんなこと。それから覗き込んでくるアシェルにやっぱり知らないよ、と首を振った。この場所は記憶にないと。引っかかるところもなければ既視感もないと。勿論、僕には“記憶がない”わけだから、この感覚が正しいとは言えないんだけど。

「だから、行かないで良いって言ったのに」
《でも、まだ会ってみにゃいとわからにゃいのよ》
「そうだけど……」

 肩の上で欠伸を噛み締めながら指摘する子猫。ざらざらとした舌がくるりと丸まって、小さな牙が覗いていた。ぴくぴくと痙攣する大きな耳。尻尾はだらりと垂れたままのようで僕からは見えないけど、その様子を見る限りどうも退屈らしい。
 ……アシェルの言うことはその通りだ。だけど懐かしさや引っかかりを感じないことを脇に置いても、尋ね人と書いてあった貼り紙の絵は自分と似ているとは言い難かった。ルノアも首を傾げていたし、別人の確率がきっと高いだろう。日が沈む時間帯の風は涼しく、ぽつぽつと灯る家の明かりは少し物寂しい気分になる。話を付けてくるから待ってて、と言って消えたルノアはまだ帰ってくる様子がない。村人の姿も見かけないので、待ちぼうけの僕とアシェルは会話で時間を潰すしかすることがなかった。

「ルノア、早く帰ってこないかな」
《まったくにゃのよ。生き物はねぐらに帰る時間帯にゃのに、こんにゃところで野宿にゃんてごめんにゃのよ》

 むー、と膨れっ面をするアシェルの頭を撫でて、愛想笑いで宥める。きっともうすぐだよ、と。焼けた空は高く、夕日は森に邪魔をされてもう見えない。鳥でも飛んでいるかと思ったけど、見える範囲には何もいなかった。段々立っているのが疲れてきて、なんとなくアシェルを肩から降ろして、なんとなくそのまま抱きしめる。獣の体温は人よりも高い。

《ラウファ》
「何? アシェル」

 腕に抱かれたまま、僕を見上げる彼女に僕は答える。アシェルの細い目は少し、真剣だった。

《あにゃた、もし、家族が見つかったらどうするのよ?》
「えっと、どうするって……。喜ぶべきじゃないかな?」

 『僕』を知ってる人に会えたら喜ぶべきだろう。記憶が戻るかもしれないし、そうしたら本当に喜べるかもしれない。そしてもし会っても記憶が戻らなかったら、是非『僕』の話が聞きたい。『僕』がどう生きてきたのか、暮らしていたのか、興味がないわけではないから。そう伝えるとアシェルは小さく溜息を零した。

《ラウファ。違うのよ。あたしが聞きたいのはそれじゃにゃいのよ。あのね、ラウファ。あにゃたに記憶が戻ったにゃら、あにゃたを、『ラウファ』を知ってるひとに会えたにゃら、あにゃたは“その後”どうするのよ? そのひとたちと暮らすのか、あにゃたが暮らしていた場所に戻るのか、それとも……それともお嬢様と旅を続けるのか、その話にゃのよ》
「………………え?」

 まっすぐ見つめるアシェルに僕はただただ驚く。暗い影が足元から伸びていて、頭の白布が耳を擦った。『僕』を知ってる人に会えたら。会えたなら。
 “ルノアと旅を続ける”か。“その人と元いた場所に帰る”か。そんなこと。

「……そんなこと、考えたこともなかった」
《だと思ったのよ》

 やれやれと呆れた様子のアシェルに、僕は苦笑で誤魔化すしかない。だって、そりゃ勿論僕の記憶が戻ったら、なんてことは毎日のように考えるけど、戻ったらどうするかなんてそこまで考えは及んでいなかった。僕が考えていたことなんて、せいぜい自分は本当に『ラウファ』なのかな、くらいのものだったから。素直に心境を答えた僕に、アシェルがさらに言葉を足す。

《で、どうするのよ?》
「会えたら?」
《会えたら、にゃのよ》

 目を逸らす様子のないアシェルは相変わらず真面目な雰囲気で、僕に問いかける。『僕』を知る人に会えたなら。その人が僕を見つけたことに喜んでくれたなら。僕は一体、どうするのかと。ルノアとアシェルと別れるのか、それとも。アシェルを落とさないように、いい加減重たくなってきた腕の位置を変える。腕のだるさを取ろうと振った腕が鳥を模したアクセサリーに当たった。はめ込まれた石の感触はひやりと冷たい。

「……ごめん、アシェル。でもわからないよ。その時になってみないと、どうするのか僕にもわからない」
《ふぅん、にゃのよ》

 正直な返答に、ようやくアシェルは僕から目を離した。太陽はまだ沈み切っておらず、空は赤いまま。影もくっきりと黒く伸びていて、その長さを見ても大した時間なんて経っていないことは明白だった。ルノアが現れる気配はまだ、ない。

「どうする、べきかな……」

 ぽつりと漏らした言葉に、アシェルからの反応はなかった。
 だってわからない。その時、『僕』がどうするのか。ルノアがどうするのか。僕はどうするべきなのか。そんなこと思ったこともなくて、思いついたこともなくて、わからなくて。ただ僕は、自分の記憶が戻っても“いつもと同じ”光景が続いていくものだと、勝手に盲信していたから。

《……考えにゃきゃ、駄目にゃのよ》
「アシェル?」

 しばらくして、アシェルの静かな声が耳に響いた。応えではない、諭すような言葉に僕は彼女を見降ろす。けれど腕の中の子猫は僕のことなんて見ていなかった。僕しかいないのだから僕に対しての言葉だろうに、視線はじっと村の方を見つめたままで。

《わからにゃくても、あにゃたはその場合のことを考えにゃきゃ駄目にゃのよ。だってあにゃたには必ずその時が訪れるのよ? あにゃたは自ら望んでここにいるわけじゃにゃいんだから、あにゃたを探して心配しているひとがいるかも知れにゃいんだから……ってあたしは思うのよ》

 考えなければならない、と。気づいてしまったからには、知ってしまったからには。僕は“その時”のことを考えなければならない、と。どうするかわからないけど、それでもいつか決めなければならない。“いつもと同じ”光景が崩れてしまう時のことを。

「善処は、するよ」
《にゃらいいのよ》

 そうとしか答えられなかった言葉に、アシェルはようやく僕を見て笑ってくれた。
 少し遠くで、“いつもと同じ”声が僕を呼ぶ。

sideエルグ(ゾロアーク)

《もう、ほんまに人使いが荒いんやから……》

 紫に濃い夜の帳が下りた頃、小さく響くのはざらりとした低い声。黒い毛並が夜に紛れるのは容易い。“幻影”を身に纏わず、黒い獣は人気のない道を行く。王都ともなれば夜もやはり賑わっているのだが、あくまでそれは表通りの話。路地裏に回り、中心街から離れてしまえばそこはもう闇の中だ。そしてその暗闇は王都自身が内包する『闇』の象徴でもある。……あの煌びやかな明かりの中で享楽に耽る者がいるのなら、その暗い影は必ず後ろに連れ添っているのだから。
 ふと足元に目線を落とすとボロに身を包んだ老人が道端に蹲って眠っていた。不衛生な刺激臭が鼻を突き、獣は顔をしかめてその脇をすり抜ける。骨格の浮き出た身体のわりに瞳をぎらつかせるニャースを一睨みで追い払い、黙々と昼間訪れた屋敷を目指す。元々、目的の屋敷が中心街から少し離れた場所にあったことも幸いして人気はほとんどないに等しい。エルグにとってそれは幸運でしかなかった。相変らず閉じられたままの門扉を昼間と同じように見上げ、一足飛びに飛び越える。着地と同時に感じるのは柔らかな草を踏む感触。

《あー……これはひっどいなあ》

 敷地内に入って、第一声で漏れた感想はそれだった。人よりもよっぽど利く夜目は最低限以下の手入れもされていない様子のエントランスを捉える。背の高い雑草こそ生えていないものの、どれだけ贔屓目で見ようとも人の手が入っている様子はないし、花壇であっただろう場所は名前もない草に覆われている。夜の色に覆われた屋敷の壁には蔦が絡まり、玄関の取っ手は錆が浮いていた。
 どう見ても、人が住んでいる場所ではない。

《んー? ……場所間違えたとかやないよなあ。俺ちゃんと聞いたよな? なにこれ、幽霊屋敷? というかあれやろ、ここヒトが住んでたら色々あかんやつやろ》

 からかわれた可能性も考慮しつつ彼は頭を掻く。いくら下級貴族だろうと……いやたとえ平民であろうともここまで自分の家を放置するのはおかしいだろうし、明かりが灯っていることもなく、やはり人の住んでいる気配がない。できるだけ巧妙な嘘を吐いたはずだが、見知らぬ“子供”を不信に思って使用人が嘘を吐いたのかもしれない。だが、彼は同時に“嘘ではない”場合も考える。嘘ではなく、本当にここにセレス・ローチェが“暮らしている”場合。もしくは“暮らしていた”場合。

《どないしよかなあ……》

 無論、エルグは夜が来るまでの間に何もしていなかったわけではない。この屋敷について聞きまわったりもしている。だが。

《フェデレ家、なぁ》

 下級貴族のフェデレ家。それがこの屋敷の主。セレスを養女に迎えたローチェ家とは遠い親戚に当たるが、ローチェ家が上流貴族であったということもあり交流は――近所の住民が知る限りでは、だが――ほとんどなかったに等しい。主人とその妻はそれぞれ人当たりの良い人物であったそうだが、かなり昔に事故で亡くなっている。そして、その間には一人、娘がいたそうだ。

《やっぱ潜り込んでみな、あかんか……》

 わしゃわしゃと獣の爪で長く伸びた髪を掻き毟り、エルグは溜息を吐き出す。そう、娘がいたことは確からしいのだが、娘の名前や容姿がいまいちはっきりしないのだ。なにぶん前の話だから仕方がないのだろうが、かゆいところに手が届かないのがどうしようもなくもどかしい。しかし、ここでぼーっと考えていても答えはないのも確かだった。溜息とはまた違う、意気込むための息を吐き出し、エルグは錆の浮かんだ取っ手に手を掛ける。軽い手応え。やはりと言うべきか、当然と言うべきか鍵は閉まっていて、開く気配はなかった。さらに言うならぽっかり空いた鍵穴に差し込む鍵をエルグは持っていない。

《ほんまに、もう、あの、大馬鹿、野郎が……》

 頭に浮かぶ片割れのへらへら笑いを頭の中で殴り飛ばし、悪態をつく。あの片割れは自分を何か、頼めば何でも叶えてくれる物語の魔法使いとでも勘違いしているのではないだろうか。そんな考えが浮かび、

《……俺も疲れてるんやなぁ……》

 と、エルグは小さく肩を落とす。そして蝋燭の火を吹き消すように、彼はふつりと姿を消した。

《まっ、こんなもんやろ》

 再びその獣が姿を見せたのは、暗闇と埃と静寂に支配された屋敷の中。


森羅 ( 2014/12/31(水) 23:27 )