アクロアイトの鳥籠 - 4章
4.秘密の領域

sideラウファ

 半分よりも太った月は低く、いつもより白くて、いつもより大きくて。夜に飲み込まれ始めた空は紺色で。甘い甘いお菓子のにおい。湖面の色も暗く濁って。細波も起こせないほど風の流れは緩やかで。
 それで。

「内緒話、ですか……?」
「そうだよ。秘密の話だ」

 エレコレ・ローチェ――子爵と名乗ったその人は、意味深に笑った。吊り上げられた唇に、犬歯が覗く。一体何のことなのか皆目見当がつかない僕はただただぽかんと彼を見上げるしかない。前髪が、視界を狭める。そして、ぽかんとしたままの僕を暫く見下ろした後、彼は大げさに肩を竦めて見せた。

「駄目駄目、そんな間抜けな顔をしていちゃいけない。意味深な台詞には注意を払った方が良いよ。裏に何があるのか考えないとね。あからさまな撒き餌には近づいてみるのも一興だけど、釣り上げられちゃ意味はない。そこが難しいところだよ」
「は、はぁ」

 捲し立てられて、僕は話の半分も理解できずに曖昧な答えを返す。撒き餌が、何って? 彼の言うことはルノアが言うことよりもずっと難解で、読み取りづらい。それは僕の理解能力の限界とかそういう問題なんだろうけど、せめてもう少しゆっくり言って欲しい。苦笑いで固まる僕に彼は気分を害したようで、表情を崩してその場に座り込み僕にも座るよう勧める。大人しく腰を下ろすと土の温度がひやりと届いた。

「……きみ、幾つだっけ?」
「わかりません」
「ああそうか、記憶がないんだっけね。お嬢さまから聞いたけど。んー、まあ、あのお嬢さまが特殊か。きみくらいの齢ならもう言葉を少し噛み砕いた方が良いのかな」
「……はい……」

 呆れたような物言いに、それでも僕は頷くことしかできない。なんだろう、すごく責められている気がする。気のせいかもしれないけど。じっとりとした汗が衣服に張り付き、なんだか居心地が悪くて少しだけ体位を崩した。僕が彼に注意を戻したのを確認して、再度彼は話を始める。今度はひどくゆっくり。誰もいないとわかっているのに、声を潜めて。

「秘密の話をしようと思うんだ」
「はい」
「……おれの話、聞きたいかい? そして、きみは話してくれるかな?」
「? ……はい?」

 首を傾げる。視界の邪魔をしていた髪が、首の動きに沿って流れた。勿体ぶった声とにやりとした笑みがはっきりと見える。けどその理由と言葉の意図がわからない。内緒話をすると言ったのは、僕をここまで引っ張ってきたのは、子爵のはずなのに。どうしてそんなことを聞くんだろう。
 わからないという意思表示をした僕を茶色の瞳は訝しげに眺める。ルノアのものとは違う、明るい茶色。その瞳は暗くなりかけたこの場所では、少し、黒に近く思えた。

「知りたいか知りたくないか、言いたいか言いたくないかの二択なんだけど。迷うところがあるのかい。確かに秘密に近づくのは愚かとも言うよ。それで悩んでいるのかな」

 秘密に近づくのは、おろか。
 なぜ、という問いは聞けば聞くほど脇道にそれていく気がして、頭の隅に押しやる。ここで聞かれているのはそこではない。それくらいはわかる。わかる、けども。

「ここに僕を連れてきたのは、話をすると言ったのは子爵です、よね?」

 その、はずなのに。

「なのに、どうして、僕に聞くんですか……?」

 話をしようと言ったのは彼。そのために僕を連れてきたのも彼。なのに、どうして知りたいか、なんて聞くんだろう。話をするのに。話をすると言ったのに、聞きたいかどうか聞くんだろう。そこが僕にはわからない。僕の言葉に今度は子爵が首を捻って固まる。奇妙なものを見る目で僕を見ながら。……僕はそんなに変なことを言ってる? また目に掛かってしまった消炭色のそれを、指で払った。

「ラウファ君」
「はい」

 数秒後、彼は何かを得心したように頷いて、僕を見る。ふっと吹いた風が頬に当たって消える。少しだけ喉の渇きを覚えるけど、それでもバスケットの蓋は閉じたまま。少しだけ残っていた空の青は、子爵の背後で確実に夜の色に蝕まれていた。

「成程ね!! きみは、きみにとっておれときみが“話をする”ことは決定事項なわけだ! 成程! これは良い。へえぇ、例えばきみには、おれが何か良からぬことを企んでいて、それをきみに伝えようと思っているとかそういう考えは一切ないわけだ!」

 弾かれるような子爵の声に、驚いて身体が痙攣を引き起こす。折角払った髪が、落ちてきてしまった。それでもなんとか、その言葉の意味を掬い取って尋ねた。

「何か、良くないことを話すつもりだった?」

 それなら聞かないけど。
 けど、子爵は満面の笑顔で首を振る。先程の、あの呆れたような顔は完全に消えていた。

「いいや。そんなことをするつもりはなかったよ。だけどああ、成程ね。お嬢さまが気に入るわけだ。成程成程。『真っ白』ね! ああ、やっと納得した。お嬢さまに一応聞いてはいたんだけど、ああ、やっと納得できたよ。いやあ、成程ね。成程。確かに、その言葉だけでもきみと会話する機会を持ったかいはあるってものだね。ラウファ君、きみは確かに面白いよ」
「えっと、あの……」

 褒められているのか、珍しがられているのか、その両方か。僕にはさっぱり判断がつかない。どうも、納得はしてもらったみたいだけど。興奮冷めやらぬ様子で彼はバスケットを漁り、飲み物と菓子を広げる。手を付けてもいいのか、どれに手を付ければいいのか、右往左往していた僕はとりあえず手渡されたスコーンをもそもそと齧って……きゅっと唾液が吸い取られる感覚に、喉の筋がきりきりした。

「じゃあ、覚えておくといい」

 ごくり、と良い音が隣からして子爵が僕を見る。にやりと笑って、どこか楽しそうに。ルノアみたいだなと、その考えが少しだけ頭をかすめる。パン屑がその口元に付いていた。

「何を、ですか?」
「敬語が苦手なら無理して使わなくていいよ。そんなことを気にするほどおれの器は小さくないさ。……さて。秘密という言葉は、とても難しいんだ」
「難しい」

 復唱する僕に彼は神妙な顔で頷いて、さらに声を潜める。土と草の匂いがつんと鼻を突いて、お菓子の匂いにかき消されていく。汗は夜風に乾いたらしく衣服を少し冷たく感じた。ふと視界に入った月は、いつの間にか少しだけ黄色い。辺りは薄黒く変わって、元の色は分からなくなっていた。

「なぜなら。なぜなら、秘密は共有した時点で秘密にならないからだ。誰かが知っている、それは秘密じゃあない。わかるかい? 共有された秘密は、『秘密』であることを失ってしまうわけだ。面白いだろう?」

 共有された秘密は、秘密ではない。それは共有されてしまっているから。誰かが知ってしまっているから。でも、それなら。

「それなら、内緒話は存在しない? 秘密の話をすると言ったのは、秘密ではない?」
「そこだよ。それが秘密の面白いところさ」

 僕の言葉にぴしっ、と嬉しそうに彼は右手の人差し指を立てる。明らかに弾んだ声が、転がり落ちる。

「共有された秘密は、秘密ではなくなる。世界中に共有された秘密は、もはや秘密とも呼ばない。常識という名前に変わってしまう。だけどね、なら、今からきみと二人で話すことは、秘密か秘密ではないかと言われると秘密にすることもできる。なぜだと思う?」
「なぜ?」

 わからないことを、そのまま言葉に変えた。考えてもわからないと思ったからすぐに問うた。僕の知っている『秘密』は、“秘密という言葉”はただ、辞書的な意味合いしかないから。やたら落ちてくる髪。それは僕が白布を屋敷に置いてきてしまっていたせいで、そんなことに今更気づく。でも落ちてきている髪を避けようとなんて思わなかった。周りの景色も、月の色も、お菓子の匂いも、喉の渇きもどうでもよくなっていた。わからないのは、気持ちが悪い。わからないのは、怖い。怖くて、落ち着かない。だから教えてくれるのなら、知りたかった。わからないことならば、なんでも知りたかった。時計塔の街の私兵みたいに、わからないと言って怖がられたくない。さっきの子爵みたいに、なぜわからないのかと呆れられたくない。だから、きっと、それは、飢えや渇きにも近い感情。“わからない”を減らせば、不安が消えるとわかってきたから。一息置いて、彼は答えを僕にくれる。

「いいかい。例えばきみがきみしか知らないことを誰にも言わなければそれは勿論秘密のままだ。それはわかるね? ところが秘密というのは不思議なものでね、それだけが『秘密』の定義じゃあない。秘密と言うのはね、その秘密が渡ってはいけない人に渡らなければ、秘密であり続けることができるんだよ。たとえその人以外のすべての人に伝わろうとも、ね。秘密はその事柄が重要な人に渡ってこそ意味を成す。無益な人に渡ったとしても、何の価値もない言葉でしかない」
「秘密が、渡ってはいけない人」
「そうさ。ある特定の人物、その秘密を“『秘密』であることを願う人”に伝わらないこと、“この人にだけは、知られてはいけないもの”。それが秘密さ。その人物にさえ知られなければ、他の誰に知られようと秘密は秘密であり続けられる」

 共有された秘密が、『秘密』であり続ける方法。
 それは、秘密が知られないこと。その秘密を守るべき人に。その秘密を知られてはいけない人に。

「なら、今回は?」
「決まってる。あの怖い怖いお嬢さまさ」

 この会話を知られてはいけないのは、ルノア。
 にやりと笑いながら、片目を瞑って見せる子爵に、僕はただただ頷いた。

 なんだかとてもそわそわして、とても悪いことをしているような気分になった。

sideアシェル(エネコ)

 あまりにも。あまりにも退屈で、どうしようもなく退屈で仕方がない。
 大広間ではあったけど、それでも二周もすれば飽きは来る。元々あたしたちは飽きっぽい種族なのだし。もみくちゃに撫でられても構わないときもあれば、触れられたくないときもある。美味しいご飯が食べたいときもあれば、眠い時もあるし、動き回りたいときもある。要は、こんにゃ場所でじっとしていにゃさい、と言われている状態は苦手にゃのよ! お嬢様の腕の中はものの二十分もすれば飽きてしまって、散策は二周すれば飽きてしまって。強いて言うのなら、ちらちら火が灯されたシャンデリアを触りたくて触りたくて仕方がないけど、さすがに高くて手が届かないから諦めた。お嬢様は……にゃんにゃのよ。あのひとは。そつなく、難なく、常に誰かと会話をしている。周りの、あまり趣味の良くないひそひそ話など聞こえないと言わんばかりに。堂々と、笑顔のままで。張り付けたひどく出来のいい仮面みたいな、偽物の笑顔のままで。
 主役は自分だと言わんばかりに。

《お嬢様》
「あら、アシェル。どこに行っていたの?」

 お嬢様の周りに誰もいなくなったのを見計らって声をかけると、零れるような笑顔が返された。そのままあたしの傍に来て、あたしを抱き上げるとそっと部屋を後にする。別室に軽食の置いた休憩室があることはあたしも知っていたし、テラスなんて下手にひとがいて、下手に静かで話には逆に向かない。運がいいのか、休憩室には世話係の使用人の他は誰もいなかった。手短な椅子に腰かけ、肩の力を抜くように息をつくお嬢様。気は張っていたはずだ。あたしもまた、彼女に膝の上で一度だけ伸びをする。

「ラウも来てくれれば良かったのに」
《あにゃたはラウファに従者の真似事でもさせるつもりにゃのよ?》
「ふふっ。それはそれで楽しそうだわ。でもそれでもここまでは入れないでしょうけれど」

 言い捨てた言葉は軽く流される。テーブルから取ったのか、右手にはグラスが握られていた。華奢な指が、透明なガラスグラスを傾ける。そこに溜まっていた液体がぷかぷか気泡を上げる。まるで宝石のような、まるで幻のような。この宴を象徴するようだと、ふと思った。

「アシェル。どうかしら、楽しいかしら?」

 視線を下げて笑う彼女にあたしは鼻を鳴らす。豪華で綺麗な服を着たひとたちがたくさんいて、美味しい食べ物があって。明るすぎるくらい明るく広い部屋に充満する香水の匂い。不気味なほど一様な笑顔。他愛のないおしゃべりと自慢話、それと嫉妬。時たま見かける獣たちもつんと澄ましたようで、飼いならされたように大人しくて。全てが豪奢で、素晴らしいけれど。全てが果てしなく『造り物』だ。

《詰まらにゃいとは言わにゃいけど。珍しくはあってももう飽きたのよ》
「奇遇ね、アシェル。わたしももう、帰りたいわ。子爵のことさえなかったら、まずこんなところに来ないのに」

 ほう、と憂鬱顔で溜息を吐き出すお嬢様の、ウェーブのかかった髪が揺れた。いつもより豪華な衣服もこんな服重たいだけだと言わんばかり。

《あにゃた、王侯貴族じゃにゃいのよ?》

 グラスを置いて、料理に手を出し始めた彼女にあたしは問う。それは、この部屋を二周する間に幾度と聞いた、お嬢様に対する侮蔑の籠った噂話。嫉妬を含んだ嘲笑。そしてお嬢様は一瞬の動揺と一寸の躊躇いもなくその問いかけに答える。

「難しい問いね、アシェル。肯定で答えても構わないし、否定で答えても構わないわ。個人的には肯定で答えたいかしら。いえ、この場では否定で答えるべきかしらね? 誰かの話を聞いたんでしょう? そのままの意味で受け取ってくれて構わないわ。ただ、あなたの聞いた話には色々と背びれ尾ひれが生えているでしょうけれど」
《あたしはあにゃたの言葉で聞きたいのよ。創作の混じった噂話よりあにゃたの本心が知りたいのよ》

 ぴたりと、今度は彼女の動きが止まった。少しだけ困ったような顔であたしを見下ろすけど、あたしは屈しない。あたしは馬車での出来事をまだ終わらせたつもりはない。躱してばかりの少女の、本心が少しだけでも知りたい。その言葉に、その行動に、どんな意味があるのかその口から聞きたい。それはあたし自身の不可侵のルールを破ることではあるのだろうけど。あたしがそうしなければ、ラウファが、あまりにも、可哀想だ。
 彼自身はそんなこと思ってもいないし、思われているとも思っては、いないだろうけど。
 ヘーゼルの瞳から目を逸らさないあたしに、少しだけ困っていたお嬢様は小さく息を吐き出す。

「……そう言われても、あなたが聞いた話と大筋はあまり大差がないと思うのだけれど。わたしは子爵の養女なの。幾つだったかしら、五歳か、六歳かくらいのことだったと思うのだけれど。……はっきりとは覚えていないから断言はできないわ。だから、彼の養女という意味では貴族になるんでしょうね。尤も、わたし自身はあまりそういうものには興味がないし、権限もないから貴族ではないと言われても構わないのだけれど」

 そんなものには興味がないわ、と繰り返して笑う彼女にそれでもあたしは疑問を続ける。

《その前は?》
「その前?」

何の伝手(つて)もなく、貴族の養女にはなれない。庶民の出である可能性はほとんど零に等しいだろう。あの子爵様は確かに変わっているだろうけど、それでも何の益もなくそんなことをするとはさすがに思えない。そんな必要性が感じられない。けど、それでも。その前の話について“噂話が一貫していない”。
 あたしの言いたいことはすでに分かっているのか、お嬢様は失笑を手で隠した。それでも隠しきれないようでくすくすと小さな声が口元を覆う手のひらから零れ落ちる。

「養女になる前のお話? そうね、アシェル。どんなものがあったのかわたしに教えて頂戴?」
《……。……あたしが聞いたのは、あのひと。子爵様が酒に酔って孤児を拾ってきたという話と、子爵様のお父様の妾の子》
「あら、種類が増えたのね。わたしが知っているものの中には子爵自身の妾子だという話もあったけれど」

 心底おかしそうにお嬢様は笑い、後で子爵にも教えてあげましょう、と言い放つ。あたしはただそれを茫然と眺めているしかない。にゃにがにゃんだかさっぱりわからにゃいのよ。 ……元々どこか子爵様と関連のある貴族家の子供だったとしたら、貴族間での情報がそこまでばらばらというのに納得がいかない。あまり詳しいわけではないけど、社交パーティは情報交換の場でもあるはずなのだから。お嬢様の情報は一貫するはずだ。けど、一貫性は見られない。そして、庶民の出である可能性はあまりにも低すぎる。だいたい、こんな不遜な態度の子供が、こんな圧倒的な存在感と独特の空気を持った子供が、そうそう転がっているわけがない。なら、彼女は、何?
 このお嬢様は、一体どこの誰にゃのよ?

「アシェルはどう思うかしら? 当ててみて頂戴?」

 あたしの混乱など知ったことじゃないと言わんばかりにお嬢様はあたしに尋ねる。ひとを魅了させるような声で。堂々とした、華やかな笑顔で。ウェーブのかけられたコーラルの髪を揺らして、ヘーゼルの瞳を細めて。誰も彼女には逆らえないと、(かしず)くのが正しいと、そう思わせるその振る舞いで。

《……わかったら苦労しにゃいのよ》
「あら。残念だわ。折角今度誰かに聞かれたらアシェルの答えを答えようと思ったのに」
《答えは、教えてくれにゃいのよ?》

 忍び笑いを漏らし、焼き菓子をつまむ。その振る舞いは、きちんとした教育を受けたものだ。剥れてみせるあたしに、彼女は微笑む。

「ええ。秘密よ。だってアシェルが当ててくれないんだもの」

 ふふふっ、と少しだけすましたような悪戯っぽい声で。彼女は答えを教えなかった。そしてその言葉にだからか、とあたしは思う。だから話が一貫しないのだ。正体がつかめず、それゆえに嘲笑い、勝手な想像をする。話さないと言うことはきっと卑しい出だからなのだと、あの変わり者の子爵様の道楽なのだと。

「本当のことなんて誰も知らないのよ。どうかしら、アシェル。わたし、きちんとした『貴族のお嬢様』に見えるかしら? ……尤も、もしわたしがとても良いところの生まれだったら、そう見えてもらわないと困ってしまうのだけれど」

 その答えも相手の質問を躱すには十分すぎる。完璧で、隙のない立ち振る舞い。それはきっと本来なら嫉妬の対象にもならない。彼女はそんな嫉妬なんて相手にもしないだろうから。どこの誰ともわからない、それでも。彼女にはお姫様のような傲然とした態度が許されるのだから。許される雰囲気を持っているのだから。だから、

《十分すぎるくらい、お嬢様に見えるのよ》

 それ以外に答えようがないのだ。それは、きっとあたしに限らず、このパーティに参加しているひとたちも。
 あたしの答えにお嬢様は嬉しそうに表情を緩ませる。

「ふふふ、ありがとう。アシェル。わたし、もう一度行ってくるわ。子爵の代わりでもあるからあまり休憩ばかりしてはいられないの」

 そう言ってお嬢様は立ち上がり、あたしは彼女の膝から飛び降りる。広間に戻っていく彼女。けどその歩みは数歩進んで止まった。カメリア色のドレスが裾を引きずって、回る。ヘーゼルの瞳が、にこりと笑った。

「アシェル」
《にゃんにゃのよ?》
「ラウには内緒よ」

 ふっ、と悪戯めいた笑みを見せ、人差し指を唇に当てて見せる。そしてあたしの答えなんて聞きもせずに、またドレスの裾を引きずって足取り軽く広間のひとの中に消えて行った。あたしはその背中を見ながら、尋ねる。

《あにゃたは、いくつ、ラウファに隠し事をするつもりにゃのよ……?》

 その言葉は、何の為の言葉なのだ。
 ぽつりとつぶやいた言葉は、誰の耳にも届かない。

sideラウファ

「きみから見て、お嬢さまをどう思う?」

 僕とルノアの旅の話。そんなものルノアも知っているのにどうして秘密なんだろうと首を傾げたくなったけど、問われるがままに答えて、最後に聞きたいんだけどと前置きされたのがこの質問だった。持って来た菓子類は随分減っていて、放った瑠璃と玻璃は湖に浮かんでいる。月明かりに浮かぶ影の、滑るような動きに綺麗だなと思った。……瑠璃に関しては、黙ってさえいれば。

《子爵ぅー。余計なこと言ったら、瑠璃、口が滑っちゃうかもしれないよーぉ?》

 あのカラクリ仕掛けの球体から出て開口一番。僕と子爵を見下ろしながら、瑠璃が宣言した言葉を思い出す。その声はきっと冗談ではなかったのだろうけど、子爵はそれに肩を竦ませただけだった。尤も、その後瑠璃も玻璃もかなり湖の遠くまで泳いでいたり、きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうでこちらの話に耳を澄ませているのかは疑問だけど。

「ルノアは」
「お嬢さまは?」

 瑠璃と玻璃から目を離して、僕は子爵の問いかけに答える。ルノアを、どう思うか。出会って、いろんなことが確かにあったけど。総括するなら。草葉が風に擦れる音がした。

「ルノアは、すごく、勝手です」

 そう、彼女は勝手だ。僕の話なんて聞かないし、僕に無茶苦茶なことを言うし、勝手にどこかに消えたり、なんというかやりたい放題だ。頭の隅で、ルノアが笑う。ラウったらひどいわ、と。……しばらく考えて、僕はそんなルノアを頭から頑張って追い出す。これはルノアに秘密だからと。
 一方、子爵も僕の答えに吹き出していた。耐えられないと言わんばかりに、これ以上可笑しいことはないと、そう言わんばかりに。盛大な笑声が湖に響く。瑠璃がなぁーにーと、間延びした声を上げた。

「ははははっ!! こりゃあいい! 最高だ! ラウファ君、本当にきみは素直というか……ぶははははっ。いやあ、本当に今日のパーティなんて行かなくてよかったよ!」

 笑いの収まらないらしい子爵がひぃひぃと苦しそうな声を上げる。そんなに笑う要素があっただろうか、素直に答えただけなのに。腹を抱える子爵に、僕は目を丸くした。

「おかしなことを言った?」
「い、いいや! いいや!! ……ふふはっ、ああ、くる、苦し……。腹が痛いよ。いやいやいやいや、本当に君は何と言うか……。じゃあさ、彼女はああ見えてもかなりの金持ちだ。管理してるのはおれだけどね。どうかな、認識は変わった?」
「お金が、どうかしたんですか?」

 ルノアがお金持ちなのは今さらだ。というか、金銭の類を全く持っていなかった僕にとってはお金を持ってる人は誰でも金持ちに見えるのだけど。でも、だからどうしたということはない。子爵はその答えに満足したのか、しばらく僕を見つめた後、表情を緩めた。

「……いやね。本当はね、きみがどういう人か知りたかったんだ。お嬢さまを疑うわけじゃないけど――お嬢さまの目利きは相当だしね――彼女のスポンサーとしてはやっぱり気になってね。お嬢さまが嘘をついていないかを含めて直接話が聞きたかったわけ。親ゴコロみたいなもんだね。悪かったよ」
「えっと……」

 僕は、良く思われていなかった?
 聞きたいことがぐるぐると頭を回って、処理が追いつかない。えっと。えっと。

「……それは、ルノアに知られちゃならないこと?」
「そりゃ、勿論さ!」

 とりあえず口をついで出てきた言葉に、彼は弾けるように答える。僕をまじまじと眺め、にんまりと、楽しそうに。何が、そんなに楽しいんだろう?

「だって、きみを疑ったなんて知られたら、おれはお嬢さまに殺されてしまうよ」

 首元に手刀を当てて見せる彼に、僕はやっぱり彼が何を楽しんでいるのかわからず曖昧に笑った。そして数秒。ふっ、と彼が手刀を首から離す。手をつけたのか、ざくりと草を踏んだ音が聞こえた。

「……あのお嬢さまは、さ。彼女は、子供なんだよ、良くも悪くもね」

 近くにいた玻璃が、視線をこちらに向けた。首をもたげ、ぴゅいと小さく鳴く。遠くの方で泳いでいた瑠璃がその声にこちらを振り返る。それでも子爵は話を続ける。僕に秘密とは何かを教えてくれた時のものより、さらに落ち着いたトーンで。月明かりに見えるその顔は、先程よりずっと真剣なもので。

「手に入れられないものをね、手に入れようとしているんだ。それはおれから見てもひどく滑稽で、詰まらないものだよ。彼女は追いかけるだけ無駄なことをしている。きっとそれは大多数の人が正しくないと言うことだろう。気の迷いだと、突拍子もなく無駄なことだと、子供の我儘だとそう言うだろう。現に彼女の酔狂に付き合っているのはおれみたいなはみ出し者だからね。けどね、それでもね。……彼女を止める権利が一体誰にあると言うんだい? 誰にもないよ。いや、もし、あるとすれば」
「あるとすれば?」
「あるとすれば……。……もしかしたら、きみにならその権利が与えられるかもしれないね」

 言い切って、彼は口元を緩める。茶色の瞳は黒く染まっていた。優しい表情だと、そう思う。けれど僕はその意味が分からない。僕に、なぜ? どうして? 貴方には? 湧いてくる疑問を言葉にするのは、とても、難しい。固まる僕に、けれど彼は、今度は呆れた顔をしない。その表情は穏やかだ。

「お嬢さまはきみを気に入っているようだから。彼女自身気づいていないかもしれないけど」
「そう、ですか……?」

 すいっ、と瑠璃が水を切る音が聞こえた。そういえば、瑠璃にも言われたっけ。いまだ、その意味は分からないけど。飲み物を手渡され、お礼を言って受け取った。瑠璃と玻璃は、特に何も言わない。ちみちみと飲み物に口を付ける僕。子爵もまた、黙ったままで。暮れた日に音はなく、風の音と、水を切る音と、草の薙ぐ音と。……尋ねたら、答えてくれるだろうか。どうして僕がルノアに気に入られていると思うのか、聞けば答えてくれるだろうか。けど、なんだかそれを尋ねるのは躊躇われた。“わからない”ことは怖いのに。それでも、場の雰囲気だろうか、迷い迷って結局、別のことを聞く。

「あの。あの屋敷に、僕ぐらいの人は? 女の」
「ん? いや? いないが、どうしてそんなことを?」

 昨日の、あの夢の話。夢だとは思う。それでもなんだか夢かどうかの判断がつかない『ルノア』の話だ。セレスの話だ。けど、やっぱり屋敷には女の子はいないと言う。なら、やっぱりあれは夢だったのだろうか。あの後、すぐにルノアが来たのだし。でも、あんなにはっきりと、覚えているのに。

「金色の髪で金色の目の、夢、だと思うんですけど、夢で、僕に」
「……夢で?」
「夢で、綺麗で。あの」

 金色の髪の、綺麗な人だった。ルノアみたいに笑う人だった。ルノアみたいな甘い声で、でもルノアよりも大人びていて。蜂蜜色の瞳が、とても印象的で。それで。

「幽霊でも見たのかい?」
「ゆっ、れい……?」

 子爵の言葉に体が跳ねた。呆けていたらしい。じっ、とこちらを見る彼の視線にも気づかなかった。……というか幽霊? 予想もしなかった言葉に、ただ驚く。けれど、子爵は冗談ではないらしい。

「そ。幽霊。うちの屋敷にもいくつか噂があるよ。金髪の幽霊は知らないし、噂が正しいかどうかは知らないけど。確認がしようがないしね。だから信じる信じないはきみ次第。……その幽霊だか夢だかは、名前とか言っていたかい?」

 すっ、と彼が声を潜めた気がした。茶目っ気を含んだ言葉の中にかすかな、何か、探るような視線を見た気がした。僕は彼に彼女の名前を言おうと口を開いて、

『秘密なの』

 彼女の囁きが、耳の奥で響いた。秘密よ、と。誰にも言ってはいけない、と。秘密だから、誰にも言ってはいけないと。秘密の定義。伝えてはならないのは、全ての人。忘れちゃってね、と彼女は僕を撫でた。忘れて、と。

「……忘れました」
「そうかい」

 呼吸するような掠れた声で、気づいたらそう答えていた。その言葉に子爵は少し考え込んで、肩を落とす。長い息が、煙草の煙みたいに子爵の口から吐き出された。

「もしかしたらきみの記憶の、大切な人だったかもしれないのにね」
「僕の、記憶の……」

 噛み締める様に彼の台詞をなぞる。
 “わたしはあなたを知らないわ”と“嘘よ”と。二つの言葉を言われた、笑いながら。彼女は確かに嘘だと言った。僕のことを知らないと。……本当に? 知らないと言った、嘘だと言った。一体それはどこからが嘘だったのだろう? 

「……ラウファ君。一つだけ。最後に一つだけ君に教えておこう。これも秘密にしておいてくれるかい?」
「えっ。あ、はい」

 立ち上がり、そろそろ帰ろうかと言いながら、何でもない事のように彼は微笑する。辺りが暗いせいか、僕の気のせいか、それとも月の光の加減か、少しだけ寂しそうだと、思った。

「お嬢さまが『ルノア』と名乗るとは思わなかったよ」

 瑠璃と玻璃がいつからだろう、小さく歌っていたことに僕はその時まで気づかなかった。

森羅 ( 2014/12/10(水) 14:08 )