アクロアイトの鳥籠 - 2章
3.幸福と海の女神たち

sideラウファ

 桃色の子猫が弾み、驚いた周囲の数人がどよめく。小さな悲鳴が上がり、身を捩じらせる。そして、驚いたのは当然僕も。

「アシェル!?」
《にゃ……。できれば二度とごめんにゃのよ》
「あら、アシェル。早かったわね。近かったのかしら」

 ぷるぷると頭を振りならそう言うアシェルに、ルノアは特段驚く様子もなく楽しそうに笑った。どうもこれはルノアの望み通りの展開らしい。あっけにとられる僕とその周りの人を余所に、アシェルはご機嫌斜めでルノアを見上げる。どうやら見張りは立っていないようで、駆けつけてくるような物音はしない。武器も何もかも取り上げて縛り付けているから大丈夫だという考えだろうか。何にせよ、今の状況を考えればありがたいことには変わりはないけれど。

《二回くらい死ぬかと思ったのよ?》
「でも、ほら死ななかったでしょう?」
《結果論で話をして欲しくにゃいのよ……》

 むっすりと剥れるアシェルにご苦労様、と笑うルノア。そしてそのままの笑みで今度は僕に視線を向ける。今度は何が起こるのかと固唾を飲みこむような音が誰からか聞こえた。にっこりと口角を上げ、黄色と黄緑を混ぜたような色の瞳を細める。肩に掛かったコーラルの髪はゆったりと膨らんで、三つ編みは船の傾きに従って流れていた。僕が良く、知っている笑みだった。

「ねえ、ラウ」
「……何、ルノア」

 できるだけ目を合わせないようにして僕はルノアに答える。これまでの経験が頭の中でぐるぐると巡る。僕の記憶量はまだ一か月分程度だと言うのに、それでも確信できるほどこの笑顔の後はロクな目に遭ったことがない。
 そして、それだけわかっているのに僕は、きっと、抗えない。この、

「ねえ、ラウ。お願いがあるのだけれど」
「何、ルノア」

 この何かを企んでいるような楽しげな笑みに。
 自然界には多分存在しないほど強烈で甘美な声色に。

「ラウ、あなたに死んで欲しいの。いいかしら?」

 苦笑とも微笑とも取れないだろう曖昧な表情の僕に、ルノアはさらに口角を上げそう言い放つ。くすり、と。朗らかに。

「……は、い?」
《にゃっ!?》

 僕と、アシェル。一人と一匹は仲良く疑問符の付いた言葉を漏らした。

sideルノア

「え、あ、ルノア? ……『死んで』って今、言った?」
「ええ。ねえ、ラウ。お願いよ」

 呆けたような、焦ったようなラウの表情が面白くて可愛くて仕方がない。笑い続ける口元を隠そうと手を動かして、けれども革紐の擦れる音だけがした。あら、困ったわ。そういえばそうだったわね。
 縛られているということを思い出して辺りを見回す。するとアシェルを含め、わたしの言葉を聞いていた乗客たちが何を言い出すんだ、という目でわたしを見ていた。ラウはわたしを見つめたままきょとっと眼を瞬かせるだけ。

「ラウ」
「死ねって、それは“どうせ助からないからいっそ死んで”って言ってる?」

 わたしの言葉を遮るそれは、混じり気のない純粋で素朴な疑問の声。それ以上の意味もそれ以下の意味もラウの言葉は持っていない。非難も否定も怒りも皮肉もそこにはない。ただ不思議だから、わからないから、尋ねているだけ。“何も持っていない”生き物の、“何も持っていないゆえの”無邪気な問いかけ。真っ黒な瞳が真っ直ぐにわたしを映す。素直過ぎるほど素直で、世界のことなど何も知らないそんな瞳。ああ、なんてきれいなのかしら。
 髪色のチャコールと補色を成すように、解けかけた白布が揺れる。わたしはそんな生き物に微笑みかけた。

「いいえ、違うわ。ただ、あそこから川に飛び込んで欲しいの」
「……結構、ぎりぎりだと思うんだけど。窓枠のサイズ」

 指差すことができないので目線を向けると、そこにはラウくらいの大きさならぎりぎり抜け出せるであろう大きさの窓。ただ単に四角く穴が開いているだけなので窓というのさえ言い過ぎかもしれない。海賊たちがそれを塞ごうとしなかった理由は至極簡単で、乗客には大人の方が多く、また乗客を縛り付けているから。そして単純にこの川の川幅が泳ぎ切れるものではないから。あの窓は自殺したいならご自由にと言っているようなもの。そして、乗客たちもそれがわかっているからあの窓は無いものとして考えている。わたしの視線を追って首を回したラウが困ったように曖昧な表情を作り、ラウの呆れ切った声にわたしはまた口元を緩めた。わたしの意図を理解したらしき乗客の数名が抗議の声を上げるけれどもわたしはそれをにっこりと笑みを向けて黙らせる。この人たちは、何もしないまま死にたいのかしら?

「大丈夫。できるわ、あなたなら」
「……いつもながら無茶苦茶だね、ルノア。ちなみに僕が断ったら?」
「あら。ひどいわ、ラウ。でもそうね、あなたが了承してくれるまでお願いし続けようかしら」

 硝子で出来た鈴を鳴らすような甘え声でそう言って見せるわたしにラウは閉口した。そうしてしばらく。盛大に息を吐き出して、ラウは微かに笑う。諦めたように、仕方がないなあと。わたしはそんなラウに顔を綻ばせた。

 ああ、この世界はなんて素敵で愛しいのかしら。

sideアシェル(エネコ)

「ラウ。それから、誰も殺しちゃだめよ」

 五つほどの『約束』の最後、いい加減飽きてきたらしいラウファがお嬢様の言葉にうんうんと頷いた。でもラウファより付き合いの短いあたしでもわかる。そんな生返事に納得するお嬢様じゃない。案の定、ラウファの態度がお気に召さなかったらしい。お嬢様はちゃんと聞いて頂戴、と頬を膨らませ口を尖らせてご機嫌斜めになる。ラウファはそんなお嬢様の表情に渋い顔をした。

「だって、ルノア。時間がないのに」
「だから短く話しているでしょう? わたしがあなたに言っているのは“やってもらうこと”と“やってはいけないこと”だけよ」
「“やってはいけないこと”の方が多かったよね……」

 疲れたように息を吐き出すラウファの様子にお嬢様は慈愛を含んだ微笑を浮かべる。というかあたしとしてはそろそろこの二人は二人の世界から帰ってきて欲しいのよ。
 周りの人間のことなんてそっちのけで話を進めるお嬢様に、あたしは呆れと共に溜息をついた。まあそれでもラウファの『翼』について話をする時、さりげなく言葉を濁したお嬢様に、このひとは全く周囲を気にしてにゃいわけではにゃいみたいにゃのよ、とは思ったけれど。ぐるりと周りを見渡すと十数人の人間の乗客。一体何が始まるのかと、一体何が起こっているのかと、嘆いていないひとたち以外は皆、お嬢様を注目している。あるひとは呆れたように、あるひとは嫌悪と共に、あるひとは夢物語を聞いているように呆けた顔で。

「ルノアっていつも言うよね。殺しちゃ駄目だって。……どうしてなのか聞いてもいい?」

 ラウファのどこか拗ねるような声があたしたちの押し込まれている船室に響く。“なぜかわからない”と、そう問いかける。あたしの視線がラウファに戻った。誰かがその疑問の意味を解して怯えた声を上げる。……それは本来――彼のあくまで見た目ではあるけれど――彼の年齢では尋ねないはずの質問。記憶喪失の影響か、それともそれ以前からなのかまではあたしの知るところじゃないけど、きっとラウファは生命倫理が完成していない。
 仕方ないと言えばそうなのだろうと思う。“わからない”だけなのだと。けれど、その姿はとても滑稽で、異質で、残酷。“殺してはいけない”と言われなければ、彼はきっと殺してしまう。何の疑問も抱かずに。それほどの能力を彼は持っているのだから。あたしはあたしの毛並が逆立つのを感じた。けれどラウファの問いに『解答者』たるお嬢様は怯える様子もなくひどく優しい顔を見せる。口元を上品に綻ばせて、少し首を傾げて、少しだけ困ったように、少しだけ愛おしげに。このお嬢様もやっぱり少々『異質』にゃのよ。高く澄んだ声が彼女の口から零れていく。

「なぜ殺しちゃいけないかって、簡単よ。失ったものは取り返しがつかないわ。どれだけ願っても、失った命は帰ってこないの。だから、殺してはいけないのよ」

 にっこりと、有無を言わせない笑みでそう答えたお嬢様にラウファはぽかんとしながらも了承の意を示す。それに満足したのか、お嬢様はあたしを見ながら言った。

「アシェル。あなた、ラウの縄を切ってやって頂戴」

 断る理由はない。でも、周りの人間達はそれを容易に許容しなかった。俺を先に、助けて、自分だけ……さっきまでの物静かさはどこへやら彼らは金切り声のような声を張り上げる。正直、彼らの自由が奪われている状態で良かったと言わざるを得ない。でもこの状態は非常にまずいのよ。とっさにお嬢様を見るあたしに、お嬢様は彼らを見て笑っていた。どこか呆れたように、見下すように。

「死にたくないなら静かにして頂戴」

 凛と澄んだ声が、やけに耳に残った。誰もがお嬢様の言葉に黙り、彼女を注視する。あたしさえも彼女の声にどきりとした。この声は確かにひとを魅了する声だ。澄んでいて、それでいて纏わりついてきて。思考を妨げる声だ。誰も、彼女に逆らわせない程に。ラウファだけがあたしを小突いてこれ切ってと囁いた。それがなければあたしもただお嬢様の言葉を聞くために固まっていただろうと言い切れる。ラウファを散々“色ボケ”扱いしてきたことをこの場で少しだけ反省。

「あなたたちは死にたいのかしら? なら、騒いでも構わないわ。そうでないなら、少しわたしたちを手伝って頂戴」

 官能的に笑うお嬢様は、年齢不相応の妖艶さを醸していたと思う。誰もお嬢様に、ラウファよりも小さな体躯の少女に、逆らわなかった。……違うのよ。あたしは頭の中で首を振る。違うのよ、これは、むしろ。

 “逆らえなかった”。

「ラウ、今頃溺れてないかしら?」
《自分で言ったくせに、それはにゃいと思うのよ……》

 ラウファが窓の向こうに消えて、しばらく。窓の外を鼻歌交じりで眺めていたお嬢様の言葉に反論する。ラウファ、あにゃたって相当哀れだと思うのよ……。頬筋を引きつらせるあたしに、けれどお嬢様は楽しそうだ。

「お守りを渡しておいたからきっと大丈夫よ」
《あれは押し付けたって言うと思うのよ……。大体、あにゃた、本当はあれを持て余してたんじゃにゃいのよ? ラウにでもあげようかしら、って甲板に上がってた時に確かにそう聞いたのよ》
「ひどいわ、アシェル。だって、あのアクセサリー、もう少し小さくて飾り石はもっと金色に見えたのよ」
《……》

 ひどく身勝手な理論をあっけんからんとラウファに押し付けて行った彼女にあたしは溜息以外の何も出てこない。そんなあたしにお嬢様はくすくすと笑ってまた視線を窓の外へ戻す。何がそんなに楽しいのか小さなハミングが聞こえていた。そんな横顔を見上げながら、あたしはふと彼女に尋ねる。

《……唐突だけど。あにゃたは、誰かを失ったことがあるのよ?》

 さっき彼女がラウファに言った言葉。殺してはいけないと。失ったものは戻ってこないから、取り戻せないから殺してはいけないのだと。その声も言葉もひどく愛おしげで。それが少し、引っかかっていた。勿論何が引っかかったのかと聞かれれば困る。それはひどく直感的なものなのだから。だからこれは何もないわ、とお嬢様に言われればそれだけで終わる特別意味のない問いかけ。あたしの疑問にお嬢様は視線を移してうっすらと淡い笑みを広げる。

「アシェル。離別は誰にでもあるものでしょう? 避けることはできず、一度知ればその痛みは永遠だわ。あなたには離別がなかったのかしら?」

 首を少し傾げて見せるお嬢様の赤毛が肩に流れる。服の色よりも少し暗い髪色は服の色に融け込まず、模様のように揺らいだ。そう言われてしまえば反論はできない。あたしにだって別れはあったのだから。あたしはゆっくりと首を振る。

《野暮にゃことを聞いたのよ。で、ラウファのことはともかくとして、今からどうするか考えはあるのよ?》
「ラウと『彼女たち』が動いてくれるのを待って、こちらはそれからだと思っているのだけれど……あら。あなたに何か妙案があるのかしら、アシェル?」

 あたしの顔を見て悪戯を思いついた時のような笑みを作るお嬢様に、あたしもにんっと笑って見せた。ぐるりと辺りを見回す。あたしの予想通りなら多分ここにも『あれ』があるはず。あたしが放り投げられた物置にさえあったのだから。すっかり大人しくなってしまった乗客の隙間、壁に貼り付けられた、目に留まった『それ』。さすがのあたしもほくそ笑む。

《あれにゃんだけど……》

 あたしの提案に、一人と一匹で共犯者めいた笑みを咲かせた。

sideラウファ

「あぷあ! げほっ」

 海を見るのが多分初めてで、潮風が少し苦手で。つまり、要するに、僕は、“泳げない”。
 考えなしに飛び込むものじゃない。というか、今の今まで気が付かなかった自分が情けない。良く考えればわかることじゃないか。多分、生まれて初めての水の中。体は異常に重たくて、当然景色がどうとかそういう呑気なことを言っている暇はない。何か掴むものを求める手が空しく空を切って水面を叩く。

 冗談じゃなくて、死ぬかもしれない。

 ルノアの満面の笑みが頭に浮かぶ。ああ、もう、全部ルノアのせいだ。どうして僕がこんなところで犬掻きよろしく溺れなきゃならないんだ。ルノアの声に抗えず、頷いてしまった自分が憎い。ロクなことが起こらないと、そう知っていたのに。……空気、空気。空気! 酸素! さん……思い空しく体がとぷん、と水の中に沈む。遠ざかる水面がきらきら光っている。あ、綺麗……。

《ちょっとー、大丈夫ーぅ?》

 意識を手放しかけた瞬間、図ったかのようにぬっと現れた海竜に僕は目を見開く。ルノアよりも深みのある声が頭の中で反響した。深い青をした、海の獣。とても優美なその姿が水中を泳ぐ。彼女の、ルノアの獣。ここが水の中であることを忘れ、僕は目の前の彼女の名前を呼ぶ。

「ばごいばいぶご!」
《何言ってるのかー、瑠璃(るり)、わかんなーい》
「ぶぎい!」

 肺から酸素が情け容赦なく抜けていく。気泡がごぼごぼと水面を目指し、僕の必死の様子に『瑠璃』はけたけたと笑っていた。僕の必死さとは裏腹に水中の時間の流れはやけに鈍い。

《死んじゃうよーぉ?》
「びゃあごばういぶお!」

 じゃあ助けてよ。それが瑠璃に聞こえたかどうかはわからないけれど、さすがにまずいと思ったのかお情けか、彼女は僕を水面にまで引き上げる。瑠璃の背中、その甲羅の上で大量の水を吐き出し、代わりに大量の酸素を肺に取り込む。心臓の音が気味の悪いほどよく聞こえる。盛大にむせる僕に瑠璃は長い首をこちらに寄越して哄笑していた。

《あははー、瑠璃、ポチエナが泳いでるのかと思っちゃったーぁ。ポチエナでも溺れないと思うけどー》
「はや……早く、助けてくれれば、……よかったんじゃ……」
《えー、だってーぇ。鳥は飛べるかなあって思ってー。だいたいあれだけ躊躇なく飛び込んだら泳げるのかなあって思うよーぉ》

 鳥じゃない。そう反論する元気が今の僕にはなかった。それに後半の認識は残念ながら正しい。飛び込んだ僕は馬鹿としか言いようがないのだから。覗き込んでくる黒い双眸から目を逸らす。含み笑いを漏らす彼女の姿はどこか女性的で、優雅だ。その姿は詐欺だと言えるほどひどくひん曲がった性格をしているけれど。種名はラプラス。ルノアは彼女を瑠璃と呼ぶ。
 人に見咎められないよう船影に移動した瑠璃は大分落ち着いてきた僕にで、と尋ねた。

《ルノアはーぁ、何てー?》
「え、ああ。この船の後ろに付いてきてるあの船、あっちを止めてくれって」

 突入してきた時は二艘の船が並んでいたけれど、今現在海賊たちの船はこの船の後ろに控えている。海賊の大体三分の二があちらの船に戻っているだろうとのことで、ならあちらの船を止めてしまえばこちらの船を奪還できる確率が跳ね上がる。こちらの船は一体どうするのかと思ったけれど、まあこちらはルノアとアシェルに任せよう。水面がゆらゆら波を生み続けている。川を遡ったおかげか、慣れたのか潮風の匂いは大分消えていた。僕の言葉を聞いた瑠璃はとても嬉しそうにその巨体を揺らす。唄うような言葉が零れた。

《竜骨折っちゃうー? それとも帆柱ー? どっちっらにっ、しっよっうかっなー》
「帆柱で、ってルノアが。竜骨だと人が死ぬかもしれないからって」
《えー。ルノア、ひどーい。竜骨の方が楽なのにー》

 不満げに瑠璃が前ひれをバタつかせる。飛んできた水しぶきが顔に掛かった。それを拭い、ついでにぺったりと頬に張り付いていた髪と白布を皮膚から剥がす。あまり気持ちのいいものじゃない。
 確かに瑠璃の言うとおり船底を船首から船尾にかけて通すように配置されている竜骨を突き破るか、折ってしまうかする方が楽だ。水中は彼女たちの独壇場だし、誰かに見咎められることもない。帆柱をへし折ろうと思ったら甲板に上がらねばならず、甲板に上がれば袋叩きに遭うのが目に見えているのだから。けれどルノアは“死人の出る確率がより低い”帆柱を潰すことを指定してきた。まあ確かに帆柱が倒れてくるのを見たら普通は押し潰されないように逃げてくれるだろうけど。……確かに、確かにね。確かにそうだろうけどさ……。僕は大きく息を吐き出す。一体誰が実行すると思っているんだろう、彼女は。

「竜骨折る方が断然楽だよね……」
《何か言ったー? ……もうっ、ルノアったらひどーい。ラウ、他にはーぁ》

 僕の呟きは瑠璃に聞こえなかったらしい。頬を膨らませ、ひどいひどいと繰り返す瑠璃に僕は体を起こしながら首を振った。
 後は、僕の『翼』が今回使用禁止ということくらいだろうか。高価珍品の札を付けて歩きたくないでしょう、と言われてしまえば反論する言葉を僕は持たない。海賊全員を殺してしまえば問題ない気もするけれどそれは駄目だと止められているし、ルノア曰く乗客にもあまり知られるのはよくないらしい。人の欲望は限りないからと。……正直、乗客に知られるのが良くない理由がよくわからない。彼らは奪う者ではなく、ただの客のはずなのに。どうして駄目なんだろう。わからないなんて、やっぱりきっとおかしいのだろうけれど。それでもわからないものはわからない。気持ち悪くって、落ち着かなくなる。“わからない”ことがあまりにも多くて。

「どうして、客にも見られたら駄目なんだろう……」
《ラウ。それ、独り言ー? それとも瑠璃に言ったのー?》
「うっ、えーと。じゃあ瑠璃に言った」

 どっちつかずな言葉だったからだろう、瑠璃が前ひれをバタつかせるのをやめて僕の方に首を回す。じゃあって何ー、と呆れながらも瑠璃は答えてくれた。船が大きく揺れて、大きな波が起きる。瑠璃の青色が、波の影を映した。

《えー、瑠璃でもちょっと考えればわかるよーぉ。だって、まずは命、その次は財産、その次は……ってなって行くもん。自分の身の危険さえ過ぎちゃえば、欲しいものが変わってくるってことー。ラウは、あの乗客のお金持ちに買われて飼われたいのーぉ?》
「……それは嫌かな」
《でしょでしょー。ルノアが言ってることはー、そういうことー。わかったー?》
「なんとなく。ありがとう、瑠璃」
《ラウって本当に馬鹿正直ー。人間って生き物をわかってなーい》

 瑠璃の言葉に僕は苦笑する。そう、どうやら僕は人間という生き物についてさえよくわかっていないらしい。新しく学習したことを頭の中で反芻しながら、僕は頭を軽く小突く。髪に残っていた水滴が垂れた。さて瑠璃には全部話したし、そうだそろそろ動かないと。

《ねえラウー》
「どうかした?」

 そろそろ、と言う前に瑠璃が先に口を出した。口調は相変わらず間延びしているけれど、どうやら驚いているらしい。少し丸くなった目が一直線に僕の腰辺りを見る。

《それ、どうしたのーぉ? ルノアが買ってたアクセサリーなのにー》
「……そのルノアに押し付けられたんだよ。いらないって言ったのに」

 溜息交じりで僕は瑠璃にそう答えた。腰に無理やり巻き付けられたそれは、ルノアが渡してきたものだ。鈍い蜂蜜色の石が埋まった、不思議な形をしたそれ。どうやら鳥を模しているらしい。ただ問題はそこじゃない。

「アシェルが教えてくれたんだけど、ルノア、自分が持て余してるからって」
《あははー。そういえばルノア、あのエネコに甲板でそう言ってたよー。確かにちょっとルノアには大きいもんねー》
「僕の扱い、ひどいと思うんだけど……」

 大分乾いてきた服の襟元を抓んで風を送りながら、僕は項垂れる。瑠璃はその様子に大口を開けて笑い続けた。

《そうー? ルノア、ラウのことかなり気に入ってると瑠璃、思うけどー》
「え?」

 どこをどう取ったらそうなるんだろう。“物をあげる”というのがルノアにとって親愛の証なんだろうか。首を傾げる僕に瑠璃は取り繕う様にまあまあと言った。

《いいの、いいのー。じゃあ、作戦開始ー。ねー、『玻璃(はり)』》

 にやっ、と笑う瑠璃の視線の先でざばん、と水音が跳ねた。



■筆者メッセージ
まず、2‐2にてアシェルが天井から脱出を図っておりますが、多分こういう構造の船はないと思います……。
もしかすれば木のしなり具合によるわずかな隙間ってのはあるのかもしれませんが、猫一匹が通れるような隙間はないかと。焼付け刃知識ですので確証は持てませんが調べた限りでは、はい。無いと思われます。ごめんなさい。
今回のタイトル、というよりも前回のルノアの一言ですが「アシェル」という言葉には「幸福な」「祝福された」という意味があるそうです。海の女神は「アシェラト」。「アーシラト」とか言われたりもするそうですが響きの問題です、はい。ちょっとかけてみただけです。
森羅 ( 2014/11/12(水) 16:31 )