2.『面白いもの』のお話
「左だっけ、右だっけ」
カチャカチャと陶器の食器たちがうるさい。まあそれでもこのどこかごちゃごちゃしてて、人が密集していて、騒がしい雰囲気は嫌いではないけれど。活気溢れると言えばいいのだろうか。それともただ単に騒がしいと言えばいいのだろうか。懐かしいわけではないけれど、なんとなく楽しい。そんな宿屋の隅っこのテーブルでルノアと向かい合いながら僕は左に右にとフォークを持って悩んでいた。
「ねえ、ラウ」
「何、ですか」
じっとこちらを見ていたヘーゼルの瞳に僕はフォークを左手に握りしめたまま首を傾げる。彼女の気に障ることをした覚えはないつもりだ。
「思ったのだけど。ラウ、あなた、独り言が多いわ」
「……そうですか?」
「ええ。とても」
自覚はなかった。だけれど言われてみると思い当たる部分がないわけではない。むしろある。そういえば聖堂を一周したときに僕を見て怪訝な顔をした人はその理由もあるかもしれない。不安になった僕はルノアに尋ねる。
「直した方がいい、ですか?」
「そうね、別に何か害があるわけではないのだし構わないんじゃないかしら。尤も少し変人扱いされるでしょうけど」
さらりと言い切ったルノアにぐっ、と言葉に詰まる僕。それでなくても僕は少し周りと見かけが違うというのに変人扱いまでされてはたまらない。彼女の深い珊瑚色の髪がふわりと揺れる。僕はそれに釣られて自分の消し炭色の髪を弄った。最初はこんなものかと、いや寧ろ彼女の髪色こそが異質だと思っていたけれどどうやらそうではなかったらしい。彼女の髪色は勿論それなりに珍しいのだろうけれど決してマイナーすぎるほど見ないわけではない。一方、黒系・灰色系の髪の色は覚えている範囲、二、三人ほどしか見たことがない。少し白とは異なる肌の色も、黒い瞳もこの国――いや、下手をすればもっと広い範囲――ではとても珍しいらしい。思わずため息が漏れた。
「ねえ、ラウ」
「……はい?」
じっとこちらを見るルノアは少しばかり真剣な顔つきだった。
「独り言が多いと言うことはつまり、あなた、あまり人と接する機会がなかったの?それともただ単にクセなのかしら」
「……あー、どうなんだろ……でしょう」
「どうなのかしら。と言ってもこれ以上は考えようがないけれどね」
「そうですね」
彼女の洞察力と推理力に感謝しながら僕は首を傾げる。勿論違う場合もあるけれど、確かにルノアの言う通り。これは何か理由があってこその結果かもしれない。頭に巻いた白布が両耳のあたりでそれぞれ揺れた。別に怪我をしているわけではない。そういうわけではないけれど、なんとなく。そうなんとなく落ち着くのだ。しかし、僕がそんなことを考えているなど知りもしない彼女は、ピンポイントでそこを攻めてきた。……それはもう、心を読んだんじゃないかと思う程ピンポイントに。
「ラウ、それ、取らないの?余計目立つと思うけれど」
「……取りません!」
つい、声が大きくなってしまった。目を丸くさせて驚く彼女に、僕は気まずくて目を逸らす。彼女はそれにくすくすとからかうように笑うだけ。なんだか自分がどうしようもなく子供に思えてくる。僕の方が多分、年上のはずなのに。
「まあ、ラウ、あなたのことは置いておきましょう。それより、聞いて欲しいの。あのね」
「『面白いもの』の話ですか」
「そう、『面白いもの』のお話」
秘密主義を気取るように意味深に笑いながら彼女は声を潜めて見せる。元々周囲がうるさいのでほとんど僕たちの会話に耳を立てる人なんていないだろうに、茶目っ気溢れるその行動に僕は肩を竦ませた。ルノアは少し、天井に目線を泳がせ、そして話し始める。とてもとても楽しそうに。そして、どこか詰まらなさそうに。
「あなた、王政は知ってる?」
くすくす笑うルノアに僕は少しむっとして頷いた。王政くらいは知っている。……尤もそれが今も行われていると言うことは知らなかったけれど。
「王政なんて今でもあるんですね」
「あら、産業革命が起こっても古い伝統だってまだまだ健在よ。それに取り縋っている人間もね」
そんなものか、と僕は納得して左手のフォークでベーコンを突き刺す。カリカリというよりガリガリになるまで焼かれたそれは可哀想なほど縮んでしまっていた。黄ばんだ窓越しに、外の往来が目に入る。大分夜も更けたというのに、この街は眠らない。
「そして王族から領地を任された人間がそれぞれ街とか、領土とか城とかを管理しているのよ。いわゆる貴族ね。領主という言い方が一般的かしら。……ラウ、あなた聞いてる?」
「聞いてます。それで、それくらいの知識は僕の頭の中にも一応ありますから、それがどう『面白いもの』と繋がってくるのか教えて下さい」
あまりにも世間知らず扱いされ過ぎていると感じた僕は精一杯の反論をして、彼女を見下ろす。身長は僕の方が高く、彼女は小柄だ。だが、そんな僕の視線如きに彼女は当然屈しない。涼しい顔をして余裕綽々といわんばかりに笑うだけだ。僕は良くわからない居心地の悪さにフォークを持つ手を左から右へと移す。
「あらそう? でも、あなたの知識ってどこか薄っぺらくて偏ってるわ。これ、常識よ? あなたは本当に、“どこから来たの”かしらね?」
「……っ」
くすくすと笑う声を聴きながら僕はまたも目を逸らす。皿の上に残っていた目玉焼きを仇の如く右手のフォークで突き刺して口の中に押し込んだ。
「あら、怒らないで」
「怒ってな……怒ってません」
本当に怒っているつもりはなかった。これは、どちらかというと当惑や困惑に近い感情だ。『わからない』と『わからない』が頭の中で喧嘩している、これはそういう状態なのだ。
僕はルノアに先を促す。彼女はよっぽどこのことがない限り、嫌がる話を続けたがる性格ではない。すんなり話を戻してくれた。
「そう? なら本題ね。わたしがさっき指差した建物、あれがこの地域一帯の領主のお屋敷なの」
「突入して壊してしまいたいとか言わないで下さいね」
彼女の腰に付いたそれを見やりながら僕は即座にそう言う。どういう仕組みなのか僕には良くわからないけれど、彼女の腰に付いた球体の中にはそのボールのサイズに見合わない獣たちがいる。そしてひとたび彼女が命じれば、きっと彼らはあの堅牢な建物だろうと崩壊させてしまうだろう。けれど、半ば本気で言う僕の言葉を彼女は笑って一蹴した。
「ひどいわね、そんなこと言わないわ。わたしをなんだと思ってるのかしら。巨大怪獣みたいに扱わないで」
十分怪獣だと思ったことは心の奥にそっと仕舞っておく。
「それにね、ラウ。突入する必要なんてないのよ。合法的手段で入れるもの」
「どういう意味ですか?」
あれ、意外に何事もなく済むのかもしれない。驚く僕に機嫌を損ねたらしいルノアがわたしを何だと思っているのかしら、と愚痴る。僕はそれにとりあえず素直に謝っておいて、先を促した。
「なんだか、納得いかないわね。……まあいいわ。王族家は無理だと思うけれど、領主の館は解放されてしかるべきなのよ。領民の意見を聞くのも義務になっているし、書物の類もよっぽどの理由がない限り閲覧できるはずなの。だから、突入なんて乱暴で不躾で非常識な手段なんていらないわ」
「乱暴で、不躾で、非常識……」
ゆっくりとこれまで僕が体験した出来事を思い浮かべながら反復する。ルノアの目が怖かったのですぐに目を逸らして口を塞いだけれど。僕が学んだ、これが今のところ最も正しい対処法だ。
「といっても、領主、すぐに見せてくれるかしら?」
頬杖をついてくすくすと笑う彼女を横目に、僕はグラスの水を啜った。
*
「了承しかねます」
その次の日の早朝。豪華絢爛な部屋の中、淡々と返ってきた言葉を僕はソファーの後ろに立って聞いていた。領主の男の反応はルノアの想定通りと言えばこれ以上なく想定通り。この街の市民ならともかく、完全な部外者である僕たちにそう簡単に蔵書を見せてくれるはずがない、そうここに来る前に話していたルノアの言葉が頭をよぎった。そして、当のルノアはふかふかのソファーにちょこんと座って、その言葉に怯む様子もなくただ微笑む。頭上でシャンデリアが煌めき、見るからに高そうな品物たちが綺麗に整頓と掃除のなされてそれぞれ台の上に鎮座していた。
「あら、見せてはならないという道理はないはずですわ」
「一度、盗難事件が起きかけましてね。得体の知れない者たちには蔵書を公開しないことにしているんですよ。ああ、失敬。言い方が悪かったですな」
若いというよりは働き盛りの年齢と言えるであろう領主は悪びれる様子もなく饒舌にそう吐き捨てる。ちらりと僕に目を寄越したのは気のせいではないだろう。何を言われても反応するなとルノアに釘を刺されている僕はそれを無視し、ルノアもまたそれを無視した。領主の言葉に口元に手を当て、目を丸くし、ルノアは驚きを示す。そろそろ足が怠くなってきた僕に真紅の絨毯が心地良い。
「まあ、それは大変でしたわね。そういう理由があるなら仕方がないことですわ」
「ご理解頂けて何よりです」
してやったと言わんばかりの領主の嫌味な笑みはどこか癇に障った。むっとしかける僕にルノアの声が静止をかける。
「どうしても……だめなのかしら?」
上目遣いの甘い声。鈴を転がすような、耳に残るソプラノ。領主の笑みが少し固まる。
経験者として僕がこの領主にアドバイスするとすれば、この声は麻薬だということ。長く聞けば聞くほどきっと彼女に抗えなくなるだろう。ずるずると答えを渋っていれば、話の主導権は全て彼女のものだ。突っ返したいのならもっとはっきりと、下手な良心など見せないくらいがちょうど良い。なぜなら、彼女は。
「……どういう意味でしょう……?」
「いいえ。例えば、見張りを付けてくださっても結構ですから見せて頂けないかしらと、思っただけですわ」
耳を擽る声。声質の幼さもその声の心地良さに拍車をかける。
領主は彼女の言葉にしばしの沈黙。口元を上品な笑みの形に留めた彼女はただソファーに腰かけ彼の返答を待つだけ。
「まあ、それならば……」
さっきとは打って変わってついに了承を出してしまった領主を僕は内心で憐れむ。今、貴方はとんでもない生き物を自ら招き入れましたよ、と。
領主の言葉に口元を綻ばせて、嬉しそうに笑うルノア。その笑みは不純物の混ざらない、紛れもない『喜』。心底嬉しそうな弾んだ声に、小さな三つ編みが左右で微かに揺れ動く。
「お心遣い感謝いたしますわ」
そんなルノアの表情に、領主の表情もだらしなく緩んでいることを僕は見逃さなかった。馬鹿だなあ、と僕は思わざるを得ない。まあ彼がどういう意味かとルノアに訪ねてしまった時点で、もう彼女に抗うことなんてできなかっただろうけれど。それを聞き返してしまった時点でもうルノアの手の中だ。
なぜなら彼女は相手に『懇願』なんてしていない。ただ『命令』しているだけなのだから。
尤もルノアが意図的にそれを行っているのかは未だ判断がつかないけれど。
僕はルノアの後ろに同伴しながらその小さな背中に苦笑いした。