アクロアイトの鳥籠










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8章
7.愛を騙るけもの

side玻璃(ラプラス)

 ちかり、と夕日の光を捕まえた石が視界の端で光りました。鳥を模したアクセサリー、それはルノア様が彼に与えたもの。大きすぎるからと押し付けたもの。収まるのは金貨のような色の石。
 それは、主人の瞳の色を請うて選ばれたもの。

 ――護ってあげてね。内緒にしていて。
 ――秘密にしていてね。傍にいてあげて。

 繰り返し、繰り返し、細波のように。何かのまじないのように。
 私たち姉妹に主人――セレス様はそう繰り返したのです。真っ青な顔で、震える手で。柔らかな金糸雀色の髪と、蜂蜜色の瞳で。

《ルノアの知らないこと、教えてあげる》

 いつもの間延びしたような話し方は鳴りを潜め、姉様はヒトの言葉で歌います。
 涙の跡が頬に残る顔を呆けさせて姉様を見上げるルノア様、いいえルノアを私はできうる限り優しく見つめました。
 幼く、弱く、可哀想だった『従者(ルノア)』ではなく、今、ここにいる嘘吐き者の少女を。
 これ以上壊れないでと心から願っていて、けれどそれを自ら選んでしまったルノアを。
 可愛い可愛い、主人の遺品を。

《あのね、》

 始まりはどこからだったでしょうか。『ルノア』がいなくなって、セレス様が癇癪を起こしたところからでしょうか。それとも、病の進行に震えながら泣いた夜のことからでしょうか。
 それは私と姉様と、セレス様だけの『秘密』の話。

《セレスはね。ルノアの前で完璧なふりをしていただけなんだよ》

 ルノアがいなくなって、「探してきて、返して」とひどい駄々をこねたこと。
 自分の病気がわかって、布団の中で一人震えていたこと。
 死ぬことが怖くて怖くてたまらなくて、たった数度、泣いたこと。
 自分だけがどうして、と世界を呪っていたこと。
 けれど、その姿をルノアにだけは見せたくなかったこと。

 ――だって、わたし、ルノアの理想でありたいんだもの。

 そう笑って、セレス様は実際その通りにルノアに信じ込ませたのです。完璧で、完全で、何も恐れるものはない程強く、神様の祝福を一身に受けていたように。そう幼いルノアにだけは“見せて”いらっしゃったのです。小さな妹が怖がらなくて良いように。
 迷いなどなく、恐怖などなく、不敵に笑う少女はただの嘘吐きで、虚構で。ただの強がりだったのです。

《馬鹿だよね。セレスは馬鹿だ。なんで騙し通せると思ったんだか》

 私たちは黙っていて、と命じられました。
 ルノアだけには気づかれないで、と人差し指を立てられました。
 その『命令』に、私たちは背くことができませんでした。『ルノア』が壊されていくのを眺めることしかできなくて、殊更に口を開くことができなくなりました。セレス様が必死に隠し通したそれを、私も姉もずっとルノアに伝えることができなかったのです。
 けれど。けれど。姉の声が今、高らかに響きます。
 ――私たちは、二度とルノアを壊したくはないのです。

《ルノアは、セレスのフリをしていたけど。駄目だよ、それじゃあ駄目。“ちっとも似てない”。だってそれは『ルノア』が見ていた理想(セレス)だもん》

 何か言いたげに口を動かすルノアを無視して、姉様は嘲るように笑います。似てないよ、似ても似つかないよ、馬鹿だなあルノアは、と。慈しむような、優しい声でした。

《セレスの嘘に騙されていたんだよ。気づいてなかった? そんなことないでしょ。ルノア、とっくに気づいていたはずでしょ? セレスだってただのニンゲンだったって》

 けらけらと、からかうように。首を落とし、視線を合わせて。
 何も言わないルノアの表情が、答えを物語っていました。失望と、納得と、少しの動揺を映す瞳。当時のルノアならともかく、今のルノアはあの頃よりずっと色々なことを考えられる年齢になったはずです。セレス様のあの姿が虚勢だったとどこかで気づいていなければおかしいでしょう。だって、肌は真っ青になって、頬はこけて、手足は冷たく、痩せていって。ベッドから起きあがれる回数も減って。隠せると思うの、と姉様が言ったくらいだったのですから。それでもセレス様はからりと笑って頷いてらしたのです。当然よ、と。胸を張って。
 あんなに小さくて泣き虫な子供だって、いつかは大きくなるのに。
 涙の跡を拭うように、姉様がルノアの右頬を舐めます。とっさのことに目を見開くルノアに、私もまた首を下げました。

《ああ、可哀想な『ルノア』。瑠璃たちはあんなに『ルノア』に幸せになってほしかったのに。……幸せにしてあげたかったのに。あんなにも瑠璃たちは言ったのに。やめなさいって止めてあげたのに。瑠璃たちはルノアを許さない。小さな可愛い『ルノア』を殺しちゃったルノアを、肯定なんてしてあげない》

 そうして、姉と同じように左頬を舌で撫でます。何か言いたげな、けれどそれを飲み下しして真一文字に結ばれる口。代わりに伸びてきた小さな両手を、私たちは拒みませんでした。冷えた角を摺り寄せます。

《でも、瑠璃たちの言うことなんてなあんにも聞かない馬鹿なルノアはそれでもセレスのフリを続けたいって願うんでしょ?》

 薄茶色の瞳孔が揺れて、少しだけ俯き視線を逸らします。ごめんなさい、ごめんなさい、という小さな呟きを私たちは聞かぬふりをしました。仕方ないなあと。そう言う姉の呟きが静かに耳に届きました。
 ルノアに抱かれたまま、気づかれないように伏せた目を少しだけ外します。目に映るのは鳥の形のアクセサリー。ああ、そうです。そうなのです。わかっていたのです。セレス様の瞳の色に似たそれを、“大きすぎたの”なんて理由だけでルノアが手放すはずが、ないのですから。

《最後だけはよく似てた。ラウファを手放せないのがセレスそっくり。“台詞は合ってる”、大丈夫。……さあ、ルノア。もう選べるでしょ? 『台詞』を続けられるでしょ?》

 姉の問いかけに一拍の空白を置いて。ルノアが確かに頷くのを確認して私たちはそれぞれ彼女の身体から顔を離します。

《さあ、ルノア。お芝居を続けましょう》

 可愛いルノア。貴女を二度と失わないために。二度と、壊れてしまわないように。

 私たちは。それだけを浅ましく、祈っている。

sideルノア

 神様の祝福を一身に受けているようなひと。
 何者にも負けず、何者にも侵されないような強いひと。
 そう、信じていたの。

《あのね、》

 宝石のような真っ黒な目が、こちらを覗き込む。瑠璃の声が降ってくる。雨のように、唄のように。声を潜めて、秘密の話をするように。
 どうして今、そんな話を。そう尋ねるほどの時間を彼女はわたしに与えてくれなかった。

《ルノアが追い出されたことがあったでしょ。あの時セレスは泣いて暴れたんだよ。物を投げて、部屋中を暴れ回ってルノアを取り返させたの。ルノアを返せって癇癪を起こしたの》

 ゆっくりと首を横に振る。
 知らないわ。わたし、そんなこと知らないの。

《セレスはね、胸の病がわかって、怖くて怖くて震えてた》

 淡々と、語られる。
 見ていないの。わたしはそんなの見ていないわ。

《セレス、泣いたんだよ。恐ろしくて泣いて。死にたくないって、眠れない夜だってあったんだよ。世界だって呪ってた》

 意地を張って強がってたの。馬鹿だよね、そんな瑠璃の声が耳を通り抜けていく。
 目の焦点が合わない。
 聞いていない。聞いていないの。わたし、そんなの聞いていない。

《ルノアにだけは悟られたくないって、セレスは隠してた》

 それは、わたしが初めて知るお嬢様の話だった。
 深海の色を映す海獣が三日月の形に目を細める。かつての主人に対し馬鹿だよね、と再度繰り返す。わたしは今、わたしがどんな顔をしているのかわからなかった。

《ルノアは、セレスのフリをしていたけど。駄目だよ、それじゃあ駄目。“ちっとも似てない”。だってそれは『ルノア』が見ていた理想(セレス)だもん》

 そうでしょ? と瑠璃の黒目がものを言う。わたしはそれに何も返すことができない。
 でも、だって、わたし。はくはくと声も出ないくせに口が動く。それじゃ駄目だと言われてもわたし、あの方が泣いていたなんてそんなの知らなかった。癇癪を起こしたことも、震えていたことも、世界を呪っていたことも何も知らなかった! 聞いてなかった! 見ていなかった! 教えてもらえなかった!
 だから『嘘吐き』できなかった!!

《気づいてなかった? そんなことないでしょ。ルノア、とっくに気づいていたはずでしょ? セレスだってただのニンゲンだったって》

 けれどそれが音になる前に、瑠璃の言葉が胸を抉る。
 すっと首を落としてわたしと目線を合わせる黒が何もかもを見透かしているようで、わたしは口を噤んだ。ふふふ、と子供をあやすように笑う声。

 ――さようならね、さようなら。

 そう綺麗なままで微笑んで。幸せになってね、とだけ言葉を残して。あの方はあっけないほど淡白に。そうやって、わたしの前からいなくなったのに。だからわたしは“そう学習した”のに。
 だって、だって。だって、そうだったの。『ルノア(わたし)』の前では、ずっとそう振舞ってくださっていたの。お嬢様は幸福な人、『わたし』はそう信じ込んでいられたの。わたしの憧れたあの方は、自分が太陽のように暖かくて強かなひとだとそうみせてくださっていたの。
 何も言うことができないまま固まるわたしの頬を唐突に瑠璃が舐める。驚くわたしに、

《瑠璃たちはルノアを許さない。小さな可愛い『ルノア』を殺しちゃったルノアを、肯定なんてしてあげない》

 言葉とは裏腹の、優しい声と柔らかい視線が向けられる。影が一つ、また落ちてきて今度は玻璃が逆の頬を舐める。海の匂いが鼻を突いた。あぅ、と。零れかけたそれを喉の奥に押し戻す。
 二色の青色をとっさに抱き寄せて、冷たい身体に熱を当てた。彼女たちはずっとわたしを守ってくれていたのに。幸せになってほしいと祈っていてくれていたのに。ごめんなさい、ごめんなさいと、繰り返した。口を継いで出たその意味が拒絶であると知っている二匹は何も返さない。

《さあ、ルノア。もう選べるでしょ? 『台詞』を続けられるでしょ?》

 お嬢様がどんな風に泣いていたのか、どこまで望んでわたしを傍においてくれたのか、本当に聖人のように世界を愛していたのか。
 教えてあげたでしょ、と瑠璃が悪戯っ子のように微笑(わら)う。玻璃が見守るように微笑(わら)う。二匹の身体から手を放し、手の甲で涙を拭って、わたしはそれに頷く。眠っているようなラウの額を少し撫でて、じっと待っていたエルグをまっすぐに見据える。

「……エルグ。わたし」

 奥歯が食いしばる。笑え、笑え。大輪の花が咲くように。炎のように。無邪気な子供のように。品を失わず、背を伸ばし、獣のように。豪奢に、可憐に、暴虐に、理不尽に。
 わたしの進む道は正しいのだと、信じ切った顔で。強烈に、痛烈に。

《さあ、ルノア。お芝居を続けましょう》

 わたしがそう、望むのだから。

sideラウファ

「そうなの。それであなたはここに来たのね」
「うん……」

 どのくらいここにいるんだろう。何をどこまで話し終わったんだっけ。
 暖かな日差しが、眠気を誘う。色とりどりの花の匂いが、鼻をくすぐる。どこまでも広がる青色が、うっすらと白味を帯びている。膝を抱えたまま、瞼が落ちてくる。ああ、このまま泥のように眠ってしまいたい。
 目を擦る僕に、同じように膝を抱えたセレスが横に倒れて体重をかけてくる。

「えいっ」
「わっ」

 予想以上にもたれ掛かってきた体重にバランスを崩して手を付く。ひやりとした土の触感が皮膚に触れて、僕は抗議代わりにセレスを横目に見る。けれど、宝石のような金色の目はきょとんとしたまま。細い指がそっと自らの顔の輪郭を撫でて、首を傾げる。

「あら。支えられないなんて失礼じゃないかしら?」
「……えぇ……」
「寝ようとしていたでしょう? 眠っちゃだめよ。わたしがひとりぼっちになってしまうでしょう?」

 薄い唇を少し吊り上げて。意地悪をしているような目で、セレスは当然のようにそう命令する。不思議とよく響くソプラノが耳を撫でる。そう言われてしまうと眠りかけた僕も悪い気がしてきて何も言えなくなる。何も言えず口を閉じる僕に、セレスは何故か楽しそうだ。

「ねえ、話は戻るのだけれど」

 足を崩し、意志の強そうな黄金色の目を向けるセレスに何、と短く返す。

「ねえ、ラウ」
「うん」

 纏わりつくような、甘えるような。頭の奥が痺れて、思考を放棄したくなるような。高い音なのに耳障りではなく、透き通った水晶のような。記憶の向こうで、良く知るそれとよく似た音質の声が。

「ねえ、ラウ」

 何度も何度も。確かめるように、僕を呼ぶ。
 風に攫われた金色を、白い指が耳に掛ける。綻ぶように笑って、目を細める。

「……どうかした?」
「ラウ。あなた、ルノアといて楽しかったかしら?」

 期待と興味が混じった、愉快そうなセレスの視線から逃れて僕は空を仰ぐ。のっぺりとした空の色が、視界を埋めた。

「……うー、ん……?」

 楽しかった? 楽しかった……のかなあ? ルノアに振り回されている間、僕は色々と酷い目に遭った。空を歩けと言われたし、盗賊に襲われかけた。溺れかけたし、マトマの実まみれにされた。それは楽しかったと言っていいんだろうか。

「あら。楽しくなかったのかしら?」

 意外そうな、不思議そうなセレスの声に、僕はわからないや、と首を捻るしかない。
 だって、僕は偽物だから。僕の感情がどこまで本物かなんて僕ですらもわからない。ここが実は荒野だと言われても、闇の中だと言われても、僕はきっと気づけない。さっきまでセレスに話ししていた記憶が正しいと証明できるものは何もない。ずっと長い夢を見ていたんだと、お前が見てきたものは幻だったのだと、そう言われれば僕はそっかと頷くに違いないのだから。
 それなのに、僕にルノアといるのを楽しかったかと聞かれても、困ってしまう。

「ルノアに会いたいと、そう思ったのに?」

 セレスの髪が、首の動きに沿って右に流れる。夏の太陽みたいな色をした目が一層丸くなる。頭に残る音と頭の芯に触れる言葉。からかうような軽やかな響きが、耳の奥を撫でて消えていく。
 こちらから目を離さない視線からさらに逃れて、目線を斜め下に落とした。白い小さな花が目に入る。改めて言われるとなんだか恥ずかしい。つい変な顔になってしまう。

「思った、けど。確かにあの時僕はルノアに会いたいなって、思ったよ。でもそれは偽物の僕が思ったことだ。僕は偽物だから。……僕が本当に楽しかったのかどうかは、僕もわからないよ」

 現実味なんてどこにもない。『本当』なんてどこにも見えない。足は地面につかないし、風を捕まえる翼はない。僕の見ている世界は、夢の中だろうと目が覚めていようと、“そういうもの”。どれだけそれに浸されて、染まってしま ったとしても。
 だから、楽しかったはずのことも理不尽だったはずのこともルノアが僕の手を取ってくれたことも、僕をきれいだと言ってくれたことも。僕がルノアに会いたいと感じた理由も。僕は自信をもって主張できない。どこまでいってもどこか遠くの出来事のようで、だからアシェルにだって失望されて、叱られる。膝に顔を埋めて、手に届く花を一輪弄ってみたりする。

「前のあなたは死んだのでしょう? なら、今ここにいるラウが本物でもいいんじゃないかしら。今のラウファはこの気持ちが本物だと、そう主張してはだめかしら」
「駄目だよ。だって僕は化け物だから」

 落ちてくる言葉に僕は顔を上げずに答える。セレス。そうじゃない。そうじゃないんだよきっと。だって、『ラウファ』には、待っている人がいたのだから。『ラウファ』の死を悼む人がいて、彼らが望んでいたのは死骸を間借りしている『何か()』ではなかったのだから。『エルグ』だって泣いていた。泣いて怒って、エルグに謝れって叫んでいた。それに対してここにいる僕は何も答えられなかったのだから。何も感じることができなかったのだから。翼が出ることだけじゃなくて、そんなのきっと『普通』じゃない。彼らはこんな化け物に『ラウファ』の顔をしていてほしいわけがない。怪物が“今は僕がラウファだよ”なんておぞましいことを言ってはいけない。それは、駄目だ。

「そう」
「そうだよ」

 短く、けれどそれ以上言葉を重ねないセレスに僕もまた短く答える。しんとした静寂がゆっくりと流れていく。暗闇の中で眠っているような、穏やかな心地が胸を埋める。……ああ、でも。ルノアといて楽しかったかどうかは答えられないけど。花の茎から手を放して、のろのろと顔を上げた。少し驚いたようなセレスの瞳が、僕を映す。見知った、けれど他人のそれは少しだけ、照れたような顔をしていた。口元が緩んでいく。

「でも、セレス。楽しかったかどうかはわからないし、その問いに僕は答えられないけど。でも、きっと。ここにいる僕は、きっと。ルノアが偽物の怪物()の手を取ってくれたことが嬉しかった。だから、僕はルノアに泣いてほしくないなってそう思ったんだよ」

 花の匂いしかしない風が吹く。彼女の金糸を櫛で梳かすように。花弁が中空を泳いで、ここではないどこかへと攫われていく。
 どうするか考えないといけない、とアシェルは言っていた。考え続けなさいと。答えを選ばなければならない時がきっと来るからと。
 そして、ようやく答えを出した僕はここに居る。

「僕じゃ駄目なんだよ、ルノアは泣いていたから。偽物じゃなくて、ルノアのお嬢様じゃないと駄目なんだよ。ルノアはずっと会いたかったんだから。だからお嬢様を探さなきゃ。僕は、その願いを叶えてあげることができるのだから」

 世界のどこにも行きつく場所のない、名前のない化け物が、その手を取ってくれた女の子にできる唯一のことなのだから。

「そう」

 言葉を零れさせた唇が少しだけ、ほんの少しだけ、憂いを含んだような悲しそうな笑みをして。

「ラウ」

 そっと手が伸びてきて、髪に重さが触れる。一回、二回とその重みが僕を撫でて、余韻を残して消えていく。トーンの落ちた声に、金色の目が少し伏せていた。

「ラウ。……あのね、ラウ」

 申し立てをするかのように、少しだけ上目遣いで。

「わたしなの」

 そして、唐突に立ち上がり、くるりとその場で回って見せる。日差しを受けた麦わらのような髪とドレスが弧を描いて、服についていたらしい草の切れ端がはらはらと落ちていく。

「わたしが、ルノアの『お嬢様』よ」

 はにかむように、目を細めて。してやったと言わんばかりに無邪気に。おどけるように舌が覗く。後ろ手に回された両手が背中の辺りで弾んで、

「あなたの探していたのはわたしなの」

 えへんと胸を張って見せた。

sideエルグ

 二匹のラプラスの話を、エルグはただぼんやりと聞き流していた。
 選ぶことを急かす権利は彼にはない。だって、自分は救えなかったのだから。守れなかったのだから。だから何も言うこともない。『ラウファ』の残り滓を使わないとしてもエルグにルノアをなじる権利はなく、使うことを選んだとしてもエルグはそれを喜ぶ権利も悲しむ義務もない。彼はただ、願うだけ。
 どうかどうか、と祈るだけ。二度も三度もあってたまるかと。今度こそは、と。

 ごめんなさい、と。謝罪の声にエルグははっとする。
 二匹のラプラスを抱き寄せていた手が離れ、『主役』が顔を拭う。息をするのも躊躇われるなか『観客(エルグ)』に向かって、高らかに『台詞』は(そら)んじられた。

「エルグ、わたし」

 子供のように歯を見せて、屈託なく。淑女のように上品に、強く、強く、強く。

「賭けるわ」

 声は震えず、迷いは映らず、まるで当然そうなるはずだと言わんばかりに。
 傾きかけた日を 受けて輝く瞳は金色のようで。狂気さえ孕んで、少女は笑う。
 傍観者であったエルグは、その姿に慄いた。

「……効くか、わからんよ」

 それでも。
 それでもエルグは言葉を絞り出す。その選択肢を与えてしまったのは他でもない自分であったから。希望が砕ければ絶望は深くなるのだと彼は知っているから。……『ラウファ』の灰なのだから、上手くいったとしても還ってくるのは『ラウファ』かもしれない、の、だから。

「ええ、そうね。でも、大丈夫よ」

 しかし、その憂いは無情なほどに容易く拒絶された。何か更に言葉を重ねるべきか迷う彼に、透明で凛とした音が場に響く。悪魔のごとき精巧な笑みがエルグを眺める。

「ねえ、エルグ」
「どうしたん、『お嬢様』?」

 甘えるような、纏わりつくような、そんなルノアの呼びかけにエルグは反射的に問いかけを返した。楽しそうに口元を綻ばせ、悪戯を思いついた子供のように目を細める少女につられて、エルグもまた少しだけ頬を緩める。
 このやり取りはただの無価値な宣言。互いにそれはわかっていた。

「わたし、幸運なの」

 けれど、それは必要な手順で、必要な場面で、必要な『台詞』だった。
 艶やかに、高らかに、空恐ろしいほどに。
 二匹の水獣を傍に置き、ドラゴンを従えて。桃色の子猫が小さく鳴く。コーラルカラーの髪が揺れる。夏の風が彼女を祝福するかのように撫でていく。

「わたしはわたしの幸運を疑わないわ。だからね、エルグ」

 大丈夫よ、と。ヘーゼルの瞳が、火の粉のように煌めく。不覚にもエルグはそれに目を奪われた 。明朗で、快活で。脆く壊れてしまいそうで、――それでも誇るような笑みに。

「だって、わたしがそう、望むのだもの」

 涼やかな音が、ガラス瓶の蓋を弾いた。



森羅 ( 2023/10/22(日) 16:55 )