6.せいなるはい
sideアシェル(エネコ)
何の前触れもなく。ただ、目が合っただけ。
ふにゃりと顔を緩めるそれは、よく見たことがあるもので。
「大丈夫だよ、ルノア」
広げた両手が、翼に変わる。青空を覆って、日の光を遮って、巨大な影を作るほどの。
そして、それと同時に嫌な予感が背中の辺りを這い回って。
《ッラウファッッッッ!!》
確信よりも先に出た叫びは間に合わず、
「……………………え? …………ぁ。ラ、……ウ……?」
真紅を基調とした羽根が地面に散らばった。
sideラウファ
遠くで何か音が聞こえた。
けれどそれはあまりにも小さな音で、意味を掬い上げるにはあまりにも遠くて。まあいいかと諦めた。
ふわふわふわふわ、宙ぶらりんで浮かんでいる真っ暗な世界。なんだかとても眠たくて、意識がずるずると暖かい闇の中に落ちていくようで。
「ラウ」
それがとても心地よくて。
「ラウ? ラウったら」
ああ、そうだ。このまま、ずっと、
「ねえ、ラウ。起きて頂戴」
とん、と。
上から落ちてくる声に光の中に引きずり出される。ざあと風が走って、花を散らす。視界より高い位置にある花に、自分は寝転がっているらしいとそこでようやく気づいた。
高く、穏やかで、甘い声。影を作るのは黄金を解いたような金の髪。視線を金糸の先へと辿ると笑みの形に細める、蜂蜜色と目が合う。
あの日と同じ燃えるような夕焼け色のドレスを纏って、あの日と同じ悪戯っ子のような顔で。その笑みに釣られるように口が緩んだ。
「……おはよう、セレス」
忘れちゃってね、って言ったのに。そう呟いて頬を膨らませる彼女に、
ああ本当に。ルノアみたいだなってぼんやり思った。
sideエルグ
回復しきっていない体を無理やり動かして、エルグが彼らに追いついたときにはすでに何もかもが終わっていた。
「ぁ、ああぁあぁぁ…………あぁ。あっ、あ。いっ、いえ。いいえいいえいいえいいえいいえ――!」
何が起こったのか、何が起こった後なのか、理解するのに数秒を要した。
何かを否定しながら、蹲る少女。傍にいるエネコは毛並みを逆立て、二匹のラプラスは項垂れて動けずにいる。彼女らの案内につけていたエルグの半身は、彼と目が合うと憎々し気に顔を逸らした。
慟哭する少女が覆いかぶさるように隠すそれ。チャコールグレイに、白い布が嫌味なほどよく映える。
走ってきた心臓が、それとは別に早鐘のように脈を打つ。息苦しさに、呼吸ができなくなる。大丈夫だと言い聞かせていた自分の声が遠くに聞こえてかき消えていく。どうして、と。何故、と。答えのない問いかけが心を埋める。少女に近づこうと歩を進めかけて、ざらりとした何かを踏む感覚に足を止めた。土や草とは違う触感に足元を見下ろすと、見覚えのある銀色の『灰』が、何かの燃え滓のように撒かれていた。
火照った頬を溶かすように、風が走る。樹木の匂いがするそれが、地面に散らばる灰を何の感慨もなく攫っていく。容赦のない夏の陽が皮膚を焼く。あぁ、うぁぁっ、あぁっ、
「らう、ラウ。ラウ、ラウ、違うの。違うの、わたし、わたし」
………………ああぁ。
絶叫しかけた声は、けれど音にならず。からからに乾いた口は空気すら拒絶して。
それでも。崩れ落ちそうになる膝を彼はそれでも立て直す。腹のあたりから上ってくる不快感を無理やり飲み込むと酸っぱく、えぐみのある味が口の中に不快に残った。ぐらぐらと揺れる視界に首を振り、右手をズボンのポケットに滑り込ませてガラス質のそれに指を掛ける。ひやりとした触感が、つるりと指先に触れる。
それは彼の、大切なもの。守れなかった罪の証。『ラウファ』が生きていたことを証明する唯一の遺品。
「ルノア、ちゃん」
声をかけたエルグに、ようやく彼が来たことに気づいたらしいルノアが顔を上げた。守るように覆い被さっていたそれを一瞥し、涙を溜めた瞳に視線を戻す。
「……何があったか……いや、ええわ。ええねん、そんなこと」
違うの、違う、違うのと。怯えた目で、壊れたゼンマイ仕掛けのように首を動かすルノアにエルグは微笑む。自分はきっと、最低だとそうわかっていた。
「選び。諦めるか、それとも可能性に賭けてみるか」
ルノアの傍に膝をつき、その小さな手にガラス瓶を握らせてやる。できる限り、優しく。壊すことのないよう、丁寧に。
「何、を?」
付着した血と自分の涙でぐしゃぐしゃになった顔が、震えた声を吐き出す。潤んだヘーゼルが瞳孔を開く。ルノアの大きな瞳に、自身が映る。疲れ果てて顔の筋肉が解ければ、人間の顔は笑っているようにも見えるんだなとエルグはぼんやりそう気付いた。
「ん、決まってる。ラウファを生き返らせることができるかもしれんって話や」
できうるかぎり軽快に。可能な限り軽薄に。自分はただの道化だと。そう自身に言い聞かせ、あっけんからんと。この少女の『舞台』の上に本来エルグの役はないのだから。だから、言葉に重みがあってはならない。悲しむのは自分ではない。絶叫するのは自分ではない。選択するのも、自分ではない。何度も何度も、そう言い聞かせる。
ただ、舞台装置の機構のように、灰被り姫の白鳩くらいの役を担って『台詞』を吐くだけ。
「それは、ラウファの」
幼い指の間から覗く、瓶の中身の色は白銀。
「……前の『ラウファ』の。ホウオウの灰なんよ」
長い長い、祈りのように。
sideラウファ
よいしょと弾みをつけて身体を起こすと、自分がどこかの花畑にいることに気付く。髪を触るとぼろぼろと土が零れ落ちた。雲一つない、透けるような色素の薄い青空がどこまでも続いている。
「“お早う”、お寝坊さん。もう、ラウったら。呼んだらすぐに起きてくれないと。わたしが一人ぼっちになってしまうでしょう?」
「ごめ、……ん……?」
当然のようにそう口を尖らせるセレスについ謝りかけて、疑問が頭に浮かぶ。セレスはそれに口元だけで笑って、金色の髪を撫でた。
「ふふふ、冗談よ。久しぶりね、ラウ。元気にしていたかしら」
「うん。久しぶり」
前に会ったのは、子爵の別荘だ。……そういえば、僕。確か。
「ねえ、ラウ」
頭を掠めた何かが、凛とした声に上書きされる。
「どうかした?」
そういえば土が付いたままだった。髪や服についた土を払っていると、セレスが腰を折って僕と目線を合わせてくる。吸い込まれそうな黄昏色の目は前に会ったときと同じく、楽しそうで。
「こんなところに何をしに来たの?」
こてん、と小首を傾げると手入れの行き届いた細い髪が光を受けて流れる。ひどく耳に残る声が心地よく響く。…………ええっと。ああ。そうだ。
「ルノアが泣いてたから。だからルノアの『お嬢様』を探しに来たんだよ」
特に黙っている必要もないので、素直に答える僕にセレスがその金眼を猫のように丸くする。そういった仕草がいちいちルノアとよく似ていて、なんだかとても面白い。そうなのと呟いたセレスは少し考えるように人差し指を顎に当てて、視界を空に泳がせて、
「ラウ、あなた。その人の名前は知っているの? 顔は?」
「……え……?」
僕の答えにふふふと笑った。
そういえば知らない。名前も知らないし、顔も知らない。慌てて右へ左へと首を回してみるけど、セレス以外に人影はなく視界の果てまで色とりどりの花が咲いているだけ。
「困ったわね?」
ちっとも困った様子のないセレスの声が悪戯っぽく笑った。
sideルノア
嫌、いや。いやいやいやいや、嫌嫌嫌いや嫌――! ちがう。わたし、わたし、は。わたし、だって。わたし。わたし。ただ、そんな。いいえ、いいえいいえ、違う違う。嫌。いや。いやいやいや! 違うのにちがっ、
視界がぐちゃぐちゃに崩れる。考えが纏まらない。
台詞が見つからない。蹲っている場合ではないのに、足に力が入らない。何をすればいいのかわからない。現状を否定する以外の言葉が出ない。あんなに散らばっていた真紅の羽根が今はどこにも見当たらない。膝の上で、腕の中で、血に汚れたラウが、その温度を手放していく。ああ、ああ! 起きて起きて。ラウ、起きて。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。わたしが、間違ったの。ごめんなさい、瑠璃玻璃ごめんなさい。ごめんなさい。わたし、わたしがお嬢様の真似事なんて始めたから! 瑠璃も玻璃も子爵も止めなさいと言ってくれたのに、その言葉を聴かなかったから! ラウを森から連れ出したから! エルグの手を取ったから! 知りたいなんて思ってしまったから! こんな“ままごと”の話をラウにしたから! わたしが、褒めてほしいなんて言ったから! 救ってほしいなんて思ったから! お嬢様に褒めてほしかったなんて願ったから!! 『
従者』が身の程を弁えなかったから!!!! だから。だから。
――――これは、何もかも間違えたわたしへの罰に違いない。
「ルノア、ちゃん」
掛けられた声にはっと顔を上げる。わたしの目はエルグの輪郭をなんとか捉えて、けれどそれからすぐに背ける。ごめんなさい、ごめんなさい。えるぐ。わたし、わたし。何かを言わなければと思うのに、息をするのにせいいっぱいで。エルグの視界から隠すようにラウに覆い被さるだけ。まだ死んでいないのと首を振るだけ。だって、そうしなければ。せめてそうしなければ。
時間稼ぎにもならない、隠し事。けれど、エルグに二度もラウファを失うことをどう伝えたらいいかなんてわかるはずもなかった。
けれど。
「……何があったか……いや、ええわ。ええねん、そんなこと」
降りてくるはずの罵倒も、怒りもそこにはなく。
「選び。諦めるか、それとも可能性に賭けてみるか」
跪いた彼がわたしの手に収まるほどの小瓶をわたしの手に握らせる。これが何かを問うよりもまず、エルグがわたしに何を伝えたいのか思考が追い付かない。何を、となんとかそれだけ尋ねるわたしにぼやける視界の向こうでエルグは微笑むような顔をした。
「ん、決まってる。ラウファを生き返らせることができるかもしれんって話や」
考えることを拒絶していた頭がその言葉の意味を
解くのに、しばらく。けれど理解が間に合わず、黙り込むわたしに声は続ける。
「それは、ラウファの……、前の『ラウファ』の。ホウオウの灰なんよ」
ホウオウの、灰。それは。
瞬きを二つ。涙が零れて、視界をはっきりと彩る。穏やかな声でエルグはそう言って、再び顔を緩めた。笑っているとも諦めているとも取れるその表情に言葉を返せずにいると、わたしの言葉を待たずに彼は続けた。
「俺が、“死んだ”時の話。覚えてる? これは服の裾に引っ付いてたもんとか、後で集められるだけ集めたもんや。少量でも傷を治す力は凄まじいけど、人一人蘇らせる力は多分、ない。ただ、ラウファはそもそも“生き返って”くることができるから……いや、」
効くか効かんか、まったくわからんなとエルグは顔をくしゃりと歪める。わたしを見上げるアシェルが何か言いたげに口を開いて――ちらりと舌を覗かせただけだった。
「ただ、このままやったら君のラウファは戻ってこない。だから、どうするかはルノアちゃんが決めたらええ」
悩んでる時間はあんまりないけど。そう言い添えてエルグの指がわたしから離れる。エルグの指先は震えていて、けれど次の瞬間にはそれを隠すように拳を握った。ガラス質のそれが手の中で転がる。小瓶の中でさらさらと輝く白銀のそれと、眠ったように動かないラウを見比べる。
乾ききった舌が、水を求めて喉を鳴らした。
sideラウファ
「それで?」
「それ、で」
僕の隣で両膝を抱えて座るセレス。ぴったりと横に並ばれて、なんだか暑い。蜂蜜を固めたような眼が微睡むように細くなる。探し人を知っているわ、と。そう笑ったセレスは代わりに僕の話を聞きたがった。彼女に請われるがまま話をすることかれこれどのくらい経ったのか。目が覚めた森の中でルノアと出会ったこと、荒野の盗賊に運河の海賊。時計塔の街で借用書を空に撒いたルノアのこと、瑠璃と玻璃のこと。王都の人の数。子爵の別荘に泊まったこと。マトマの実とエルグのこと、アシェルのこと、ルノアとしたじゃんけんのこと。蕩けるような目をして、セレスは僕の拙い話を聞いていた。膝に頭を預ける彼女の動きに合わせて金糸を紡いだような髪が文様を象る。こちらを見上げる視線をなんとなく直視しづらくて目を逸らすとラウ、続きは? とねだる声が耳を撫でる。
「……セレス」
「なあに、ラウ」
「僕、そろそろ」
お嬢様を探しに行かないと、と言いかけた口を指一本で塞がれる。線の細い、真っ白な人差し指がめっ、と唇の端を弾いた。
「あら、ラウ。あなた、誰かもわからない人をどこまで探しに行くつもりなのかしら」
寝物語を聞いているようだった視線が一転、射るように細められる。その言葉に答えられず、僕はすっと目線を外した。どこまでも続く花畑に人影はどこにもない。吹く風は何の匂いも運んでこない。
「わたしはラウの探し人がどこにいるか知っているわ。なら、わたしの機嫌を損ねない方が賢明よ? そうでしょう?」
何も言い返せない僕にセレスがふふん、と勝ち誇ったように笑う。
「ねえ、そうでしょう? ラウ」
「そう。かな」
「ええ、そうよ」
きっぱりと言い切られてしまうとなんだか本当にそうな気もしてくる。ほかに頼れるあてもない僕はそっかと納得した。
僕の返答に満足したのか、セレスはまた薄い頬を膝に押し付けて、ゆるりと顔を緩ませる。白い花を連想させるその手が何の躊躇いもなく、僕の頬を撫でていく。冷たい触感が少しだけ名残を残した。
「ほら。ラウ、続けて頂戴?」
「……つづき、は」
有無を言わさない声に、口もごる。僕の短い人生経験上、この声に逆らうのは時間と体力の無駄以外の何物でもない。良く知っている。悲しいくらい良く知っているのだ。けれど、その記憶はなぜか少し遠い。ルノアとそんなに離れていたわけではないのに。息を一つ吐いて、まあいいかと話を続けることにした。
見える空は澄んだ水色で、花園に咲く花は萎む様子もなくて。太陽は見えないのに、日差しは暖かくて。だからまだ大丈夫。多分、きっと。
「ねえ、ラウ。それで? それでその時ルノアはどうしたの?」
はしゃぐように跳ねる言葉に、ええっとと記憶を辿る。柔らかな日差しがまるで彼女を祝福するように降り注ぐ。
「あぁ。ねえ、ラウ。あなたのお話はとっても素敵ね!」
sideルノア
何、を。
エルグが言った言葉を何度も何度も嚥下して、何度も何度も吐き戻して。
――選び。
どうしたら。どうしたら。何を、どうすれば。小瓶を持つ手が震えている。周りを見渡してもきっと誰も答えをくれない。委ねられた選択の答えを、『わたし』は知らないのに。
たった一人で、王冠被って道化をしていただけだったのに。
それを、褒めてほしかっただけなのに。
一人で始めて、一人で終わるはずだったお芝居。真っ暗な世界で、照明も落としたままで。観客も最低限で、作りも貧相で。幕さえ下りれば終わるはずだったの。誰も見てなんていないのだから。
だから、お嬢様のように、そのとおりに、演じていることができたのに。高慢に、傲慢に、それが許されているように。
それだけなのに。
下を見れば、ラウが目に入る。息をしていない、心臓は動いていない。その頬は冷えていくばかりで、熱を感じない。わたしのせいでこうなった。
お嬢様、お嬢様。あなたならどうされましたか。
返事はない、あるはずがない。けれどそれがないということは『
セレス』がなぞるべき見本がない。『
お嬢様』が語るべき『
台詞』がない。
ないのだから、どうすればいいのかわからない。
ラウ。ラウ。わたし、みっともないの。みっともないわ、わたしがお嬢様なら間違いなくすぐに選べたのに。わたしが『ルノア』なら、きっと選べたのに。それなのに、わたしはどちらでもないのだもの。
お嬢様になろうとして、『ルノア』を殺してしまったの。
お嬢様の役から外れて、ラウにそばにいてって言ってしまったの。
だから、『嘘吐き』なだけのわたしはここで答えも見つからずに蹲っている。
《ルノア》
《ルノア様》
呼ばれた声に肩が跳ねる。ゆっくりと声の方を見上げると、瑠璃と玻璃がこちらを見下ろしていた。二匹のラプラスはお嬢様が亡くなって、わたしに譲られた遺品。お嬢様と、『ルノア』と、わたしを知っていて、わたしの『嘘』を止めなさいと言ってくれて、従わないわたしにそれでも傍にいてくれた。正しい主人ではないわたしの言うことを聞いてくれて、ずっとわたしを守ってくれていた。黒真珠のような揃いの瞳がわたしを映す。
いつか、なんども、繰り返し音にされた言葉が零れ落ちてくる。
《ルノアの好きにしていいんだよ?》
《今の、貴女の》
ぱちり、ぱちりと二揃いの黒目が瞬く。微笑むように、愛おしむように。
《ルノアの知らないこと、教えてあげる》