5.Hocus Pocus
sideエルグ
「もう、止めませんか?」
睥睨するように細めた目で、エルグはそう溜息のように吐き出す。
何を、という言葉はない。ばさり、と蝙蝠の羽ばたく音が真上から聞こえる。
「もう止めませんか。呪われた子供を閉じ込めるのも。呪われ損ねた俺らを生むのも。もう、いいじゃないですか。はっきり言ってもう誰も始まりを覚えてないでしょう? 村長方、貴方方でさえもはや“よく知らないもの”でしかないでしょう? 古い記録が残るものでしかないでしょう? “生まれないこと”が大前提となっているんです。この百年で一体何人生まれたんですか。『本物』なんて、ラウファだけだったじゃないですか。それなのにまだ続けるんですか」
流浪の中で外の血を混ぜて。
覆い隠すようにその事実に蓋をして。知られないように口を閉ざして。
疑いのかかったものを殺して、利用して。
ぬかるんだ泥のような歴史を、一体いつまで続けるつもりなのか。
「だが、ラウファが生まれた!」
皺枯れた声がそう叫んで、周りがそれに同調するように声を上げる。けれど、エルグはそれに興味を示さない。
「ラウファが特殊でしょう」
そう言いのけて黙らせる。けれど、エルグだってそんな言葉で納得させられるとは爪の先ほども思っていない。“ラウファが特殊だ”というだけで話は終わらない。なぜならその『特殊』が今後どれだけ生まれるかわからないのだから。その時に、もし自分たちすべてを疑われたら? 周りすべてから拒絶されたら? それは魔女狩りの再来だ。村を焼かれ、土地を奪われ、追い立てられ、殺される。
彼らがそれを恐れるのは当然で、だからこそエルグたちの先祖はそうするように法を定めたのだから。
「本気で言っているのか……?」
「そうですよ」
訝しむような声に肩をすくませる。
「冗談じゃないですよ。ふざけてもいません。ラウファが特殊だなんて言葉で片付かないことも承知で、その上で言っているんです。村で永遠に魔女裁判をするつもりですか? もう止めましょう」
リスクも何もかもを受け止めたうえで、エルグは続ける。そんなことは彼にとってどうでもいい。
「わかっていますよ、そんな単純な話ではないでしょう。貴方方にとったら沈黙してきた秘密です。もし本当に今後本物が生まれれば魔女とでも怪物とでも何とでも呼ばれるでしょう。貴方方より俺の方がわかっています。でも村を守るためという名目で、無実の子供をまた殺すんですか。もういいじゃないですか。もう止めましょう」
すり潰す気ですか。
服従させるつもりですか。
殺してしまうつもりですか。
鎖につないで見世物にするつもりですか。
閉じ込めて、永遠に飼い殺しにしましょうか。
彼らはきっと、ラウファがそうだと分かった時にこんな話をしたに違いない。“本当は殺すのが正しかった”のに。“そう伝わっていたはずなのに”。
それがいつから変容して、飼い殺しをするようになって、村の中だけで利用するようになって。
「だって、貴方方はラウファを殺さなかったのだから」
今度は外に持ち出そうとしたその口で、一体何を弁明するつもりなのだ、と。
薄ら笑うエルグに、けれど彼らのうちの一人が首を振る。
「それでも……いいや、だからこそ、」
言いかけた言葉の続きは、生まれなかった。
「そうですか。……ならもうしゃあない。じゃあもう俺はこうするしかない」
それは世界の『欠落』だった。
元から何もなかったかのように光のない黒で塗りつぶされた
虚を空ける『欠落』にその場にいたエルグ以外の人間が恐怖を覚える。生存本能が危険だと告げるそれは、エルグの傍でシミのように徐々にその黒色を広げていた。
「もうええやないですか。ここまでなら大丈夫だろう、ここまでなら問題ないだろう。そうやってどこまで勝手に許すつもりですか。屋敷の中までですか、村の中までですか、限られた貴族の間までですか。今度は王様にまで売りますか? キリがないんですよ。貴方方はもうそこまで行ってしまっているんです。俺はもう止めたい。ダウを親元に返してやりたいし、ラウファに何も侵されずに生きてほしい。『成り損ない』たちが残した記録をもう、引き継がなくていいようにしたい。あんな血塗れの記録なんて、もういらないと、そう燃やしてしまいたい」
黒い虚の横で、エルグが力なく笑う。いけませんか、と。それはささやかな願い事ではないですか、と。
「なので、お話はここまでです」
「エルグ! 私達は村のためにやっている! お前はそんな、一時の感情で!」
「だからどうかしましたか?」
吠えた声に、容赦なく牙を向ける。さっきまでの力ない笑いはどこかへ、慈愛さえ含んだ微笑みを浮かべた。最初に言ったじゃないですか、どうでもいいって。
「だって、俺はラウファの『従者』ですからね」
だから、
ラウファの幸せを願うのは当然でしょう? と。他の誰かの話ではなく、不特定多数の皆の話ではなく『主人』のために自分はここにいるんですよ、と。
ちょうどエルグの背丈と同じほどに膨張した黒いシミが、彼の傍を離れて、次の瞬間にはそのぽっかりとした黒で彼らを飲み込む。火も、雷も、虫の鱗粉、獣の牙も。何もかも吸い込まれて向こう側へ消えていく。何の抵抗も、何の声もなく、無慈悲なほど一方的に。
「堪忍してな」
sideルノア
「どうしてって……。ルノアが言ったのに。考えたって言ったよね。そうなりたいと願ったのは紛れもないルノアなのに」
くるり、くるりと鏡の前で記憶の中の『わたし』が躍る。目を細めて、身の丈に合わないドレスの裾を摘んでみせて。口元を吊り上げて、幸せそうに。
――ねえ、子爵。どうかしら。
「それが、悪いことなわけがないよ」
それなのに、子爵は『わたし』に首を振る。瑠璃も玻璃も目を逸らす。どうして、どうして。“なんて可哀想なことなんだ”とでも言いたげに憐れむように目を伏せる。どうしてどうして。“無意味なことだ”と指を指す。どうして、どうして。……どうして?
「ルノアは自分で望んで、たくさん考えて、それが最良だと思ったんだよね。だから、お嬢様の真似事を始めたんだよね」
――どうして、どうして? どうしてかしら。
小さな『ルノア』が当惑する。『わたし』は彼らの表情の意味が分からないとそう微笑んでみせたのに。小さな『ルノア』を置き去りにして、何度だって殺してみせて、胸を張ってみせたのに。いいえいいえ、似ていないかしら。もっともっと上手に笑わないといけないかしら。もっとずっと綺麗に微笑まないといけなかったのね。この世界は美しいもので満ちていて、この世界の幸福はすべてわたしに降り注いでいるのだとそう主張するように。
そうやって笑っていたでしょう? ねえ、瑠璃。ねえ、玻璃。くすくすと笑みを零して、哀れな生き物を見る目で『わたし』を見下す彼らを抱きしめて。
「そうしたのは、そうすることがルノアにとって大切なことだったからだよね?」
――どうして、どうして。だって、わたし。
『ルノア』は一生懸命考えたのに。“きちんと自分で考えた”のに。“おかしい”なんて。“幸せかい?”なんて。どうして聞くの? どうしてわたしをそんな目で見るの。 どうして、どうして。
「気持ち悪くないよ、不気味なわけがないよ。そう思ってても続けたのはルノアだ。止めなかったのはルノアだ。それをどうして僕に謝るの? 悪いことだって、いけないことだって僕はそう言えばよかった? そんなこと、思いもしないのに。僕を否定しなかったルノアをどうして僕が否定しなきゃいけないのかわからないよ」
ちいさな『
ルノア』が目を塞ぐ。ちいさな『
ルノア』が耳を塞ぐ。どうして、どうして。
「『
嘘吐き』を選んだのはルノアなのに。何を言う権利も僕にはないよ。ルノアが嘘吐きでもいいよ。構わないよ。すごいね、ルノアはすごいね。だって僕は何も決められなかったから。だから自分で決めたルノアはずっとすごいんだよ」
――わたし、こんなにしあわせなのに。
それは一秒にも満たない回顧。けれど、それで十分だった。
「わっ、わたし……」
「どうしたの? ルノア」
灰被りの瞳がいつもと同じ色をしていた。いつもと同じ声をしていた。木漏れ日が揺れる。鳥が歌う。木の葉の隙間から雲が流れていく。瑠璃も、玻璃も、琥珀も、ゾロアークも。アシェルでさえ、石像のように動かないまま。
昔々のお話です。
むかし、むかしの。おはなしです。
あるところにいた、『従者』は、あるとき主人を失いました。
それは『従者』にとってあり得ない出来事のはずでした。
なぜなら、『従者』の世界は『従者』の主人を中心に回っていたのですから。だから、それはありえないことのはずだったのです。
「ラウ、らう。わたし、わたし」
「うん」
言葉の先を、見失う。わたし、わたし。わたし、わたし。
――どうしたらいいのかなんて、わからなかったのです。
しんとしてしまった、主人の部屋に薄ら埃が積もっていくのが信じられなかったのです。豪奢なベッドが冷え切っているのを信じることが出来なかったのです。この屋敷で一番日が入るはずの部屋がこんなに寒々しいことに怖気がしたのです。
どうして。
小さく吐き出した言葉は、誰にも拾われることもなく消えて行きました。それに答えをくれるはずの人はもういないからです。『ルノア』の問いかけに答えを教えてくれる人はもうどこにもいなかったからです。――“そんなおかしなことがありえるはずないのに”。
この部屋はいつも明るかったはずだった。陽の光が一番入る部屋だった。
主人がいる部屋だった。お嬢様が笑っている部屋だった。金色の、蜂蜜の様な目が微笑んでいて、金色の髪が輝いている部屋だった、はずなのに。
頭がずきずきと痛かった。視界がぐらぐらと揺れていた。泣いて、泣いて。どうして泣いているのかわからなくなるまで泣いた。ぐにゃぐにゃの視界の中で、ずうっと何かを考えていた。
「ラウ、わたしね、わたし。わたし、恐ろしかったの。怖かったの。だって、お嬢様がいなくなってしまったのだもの。わたし、あの方の従者だったのに。お嬢様がわたしの世界のすべてだったのに」
左手で、彼の左手を覆う。逃げないで、逃げないでと祈りながら。重ねられた手に、抵抗はなかった。
神様の祝福を一身に受けたようなひと。そう思っていたのに。そう信じていたのに。だから。だから、わたしは神様なんて信じていない。あの方がいなくなった世界に、神様なんていないに違いないのだから。
「うん」
壊れて、壊して。
どうしたらいいのかわからなくて。
昨日までの『あたりまえ』が目の前で瓦解していくのをただただ眺めていただけだった。それに気づいたときにはすでに何もかもが手遅れで。だから、小さな『ルノア』は一生懸命に考えたの。教えてくれる人はいなくなってしまったから。考えて、考えて。
考えて。
考えて。
考えて考えて。
かんがえて。
「だから、考えたの。生まれて初めて考えたの。一生懸命考えたのよ。一生懸命考えて、殺したの。何度も何度も、わたしは『ルノア』を殺したわ。お嬢様の真似を繰り返したわ、繰り返して繰り返して、何度だってやってみせたわ」
「うん」
狂ってしまったのだろうと言われた。それでもわたしは止めなかった。
繰り返し繰り返し、歪な嘘を体に塗り込んで。だって、それが一番良いことだと思ったのだもの。それが一番正しいと考えたのだもの。
「お嬢様が、お嬢様が、わたしに仰ったの。好きにしなさいって。好きに生きていいのよって。だから、わたし。考えたの。一生懸命、何が最善か考えたの、に」
すでに話す順番はバラバラになって脈絡のないものになってしまっている。それでもわたしはもう、それを考えている余裕なんてなかった。ぼやける視界の向こう、黙って聞いてくれるラウにわたしは、彼が望むままに笑いかける。
「歪でしょう? 歪んでいるでしょう?」
けれど、それがきっと正しいって思ったのだもの。お嬢様がいなくなってしまうなんて、あり得ない話だったのだもの。
子爵はそれを児戯だと言ったけれど。
瑠璃は哀れんだけれど。
玻璃は目を逸らしたけれど。
けれど、そのときのわたしは、それが虹色のメッキに塗れた嘘吐きでも良かったの。
「でもね、でも、でも。ラウ。でもね、わたし、」
「うん」
「わたし、世界は綺麗だと思っているの。……いいえ、世界は綺麗だと思っていたいわ。だってお嬢様はそう、思っていらしたんだもの。だから“『わたし』はそう思わなきゃいけないわ”。ねえ、ラウ。わたし、ラウと出会ってからだって色んな場所を見たでしょう? 時計塔を見て、港町を見て、王都を見て、ごく普通の村を見て、町を見たでしょう? わたし、どれも楽しかったわ。不思議ね、『
ルノア』はそんなことちっとも思ってもいなかったのに、今の『わたし』はどこもとても綺麗に見えたの」
世界は綺麗だとあの方は言ったから。
そんなものがあるのならわたしは見てみたかった。だって『ルノア』は世界の醜い部分ばかり知っていたから。
あの方が見たかったものが見てみたかった。
あの方が見ていたものを見てみたかった。
『ルノア』がお嬢様を真似ることにしたのだって、きっと憧れもあったのに違いない。
「ラウあのね。わたし、」
考えて考えて。泣いて泣いて。小さな『ルノア』は“選んだ”のに。
お嬢様が“好きに生きていいのよ”と仰ったから、わたしは一生懸命考えてそうするべきだと“答えた”のに。
――ねえ、子爵。どうしてかしら。どうしてそんな目で見るのかしら。
わたしは一生懸命考えたのに。きちんと自分で考えたのに。“おかしい”なんて。“幸せなのか”なんて。どうして聞くの? どうしてわたしをそんな目で見るの?
「それなのに、わたし。あんなに考えたのに、とても良いことだと思ったのに。それなのに、始めた理由を、わたし、思い出せなかったの」
――わたし、ただ、お嬢様に褒めてほしかっただけなのに。
「あのね、あのね…………!」
笑う。笑う。歪む視界の向こうで、わけもわからず驚く、ただひとり答えをくれたひとに向かって。
――君のラウファなら。君の探し物を、君の望むものを与えてくれるかもしれんね。
ああ! エルグ、わたし。わたし!
「わたし、ちゃんと選んだでしょう――!」
左手が空を描く。捩った体を体重のその勢いのまま、倒れこむ。空を掻いていた手がその肩に当たって熱を抱く。視界の端で白布が踊って、チャコールグレイの瞳が驚愕の形に見開かれる。柔らかな土の匂いが鼻腔を蕩かした。
――お嬢様、お嬢様。だって、わたし、とても上手にできたでしょう!
sideエルグ
「堪忍してな」
その声は届いたかどうか。先ほどまでその場にいた彼らの姿は、もはやどこにもない。何でも飲み込む黒いそれは言うなれば底なし沼のようなもの。
「ぅ、あ?」
体力をごっそり持っていかれ、立ち眩みに身体を許してそのまま倒れこむ。クロバットが心配するように鳴き声を上げて近づくが、エルグはそれに手を振る。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。……あー、しんど」
《ギギギ》
「クロちゃん、付き合ってくれてありがとうな。うん、ちょおすぐには起き上がれんけど、ルノアちゃんら追いかけなあかんし……ああ、村長ら? 大丈夫、殺してはないよ。どっかに“落ちてる”と思う。多分」
重たい身体を少しだけ動かし、右腕を顔に乗せる。腕の下で目を瞑り、少しでも身体を休ませる。真っ暗な視界の中で蝙蝠の羽ばたきだけが耳を埋めた。
《ギギギギギ》
「うん、さすがに、なあ。殺さなあかんことも、考えてた、けど。やっぱなあ。俺にとっても育ての親やし? いやでも、あれどこに出るかわからんし、やっぱり俺が殺したようなもんか。あーうーん、でも、これから、そっちも、なんとかせな……」
はぁ、と大きく息を吐き出し、呼吸を整える。そんな主にクロバットは何も言わず日陰を作るようにその翼の影を広げた。
うっすらと口元を緩めて、終わらせてやったとそう呟く。
「……あぁ、ほんま。ざまぁ、みろ……」
血なまぐさい過去も、古い因習も、しがらみも何もかも。エルグが縛られていたもののすべてを、何もかも切って捨ててやったと。
誰に言うでもなく、そう呟いた。
side瑠璃(ラプラス)
瑠璃たちに、どうしろと言うのだろう。
絶望にも似た色が、心を埋める。
だって、瑠璃も玻璃もそんなこと望んでなかった。
セレスだってそんなこと願っていなかった!
ただ、小さな妹に自分の足で立って幸せに生きていてほしいと祈っていただけだったのに。ただそれだけだったのに。それが呪いになるなんて、セレスは考えてもいなかったはずなのに。
きらきら、きらきら。ルノアの頬を伝う雫が木漏れ日に輝いて消えていく。
それは瑠璃があげたかったものだ。それは玻璃が守りたかったものだ。
泣いていいよ。泣かなくていいよ。
そう何度も言ったのに。何度だって飽きることなく繰り返したのに。彼女はそれに頷かなかった。『ルノア』に対する言葉のすべてが
ルノアをすり抜けて行った。
綻ぶルノアの口元が、セレスのそれが重なる。細める瞳も、首を傾げる仕草も。
遠い思い出を彷彿させるそれを、瑠璃は憐れんだ。玻璃は悲しんだ。だって、そんなの、『ルノア』じゃない。セレスの代わりに生きるのがセレスの望んだことじゃない。
けれど。
――どうでもいいよ。
そう言われた時のルノアの表情で、瑠璃たちは気づいてしまった。わかってしまった。ルノアよりも早く。
――『
嘘吐き』を選んだのはルノアなのに。何を言う権利も僕にはないよ。
そう言ってもらえた時のルノアの驚いた顔。ようやく探し物を見つけた迷子の顔。
小さな従者が欲しがった、ちっぽけな願い事。セレスの『命令』に対する、労いのことば。
ああ、それでも。それでも、瑠璃は許せません。それでも、瑠璃は肯定できません。ルノアごめんね。ごめんね、ルノア。
だって、瑠璃たちは、それがおためごかしであっても、それでも嘘偽りなく『ルノア』に幸せになってほしかったんだもの。
sideアシェル(エネコ)
どうでもいいよ、どうでもいいよ。だってすべてが偽物だから。だからルノアが嘘吐きでもいいんだよ。
ラウファの膝の上で、繰り返されるその言葉に唖然とする。ラウファの、“無理やり『常識』に押し込んだ”ような、“正しいと思われる回答をなぞった”ような言葉の本質。それは自分に対する否定だ、世界に対する拒絶だ。何もかもが偽物だから何が嘘でも構わないと。それは、本来恐ろしいことだ。自分が立っている場所が平たい地面なのか、海の上なのかさえ、信じられないなど。けれど、“ラウファはそれしか知らない”。誰がいくら“ここは地面の上だから安心していい”と言ったところで、それすらも本当かどうかなんてラウファにはわからない。彼にとっての道標は、いつもお嬢様の言葉で、あたしの言葉で、誰かの声で。無数に降り注ぐそれを本当かどうか確認もせずに丸呑みしていたのは、それが“本当でも嘘でも構わなかった”から。
そして、だから彼は平然と言いのける。
“不安だから傍にいて。どこにもいかないで”と。自分の決めた役に縛られてその言葉すら自分自身に隠し続けていた少女に。
「すごいね、ルノアはすごいね」
当然のように、そう笑う。一生懸命、『お嬢様』の嘘吐きをしたルノアはすごい、と。自分で選んだんだから何も悪くなんてない、と。なんの混じり気も、皮肉もなく。
きっと、本当ならそれは正しくない。だって、あたしはだから怒った。“自分を信じている人を、裏切るのか”と。それは惨いことではないのかと。
だって、誰も、嘘なんて吐かれたくないはずなのだから。
たとえそれがどれだけ優しい嘘であっても。たとえそれが誰も傷つけないものであっても。『嘘』はどうあがいても『本当』ではないのだから。
隠し事も、秘密も、誤魔化しも。“あなたを信用していません”の証左となりうるのだから。けれど。
「ラウ、らう。わたし、わたし」
震えた声が、喜びを零す。大きなその瞳が、泣き出しそうに笑う。
あたしは、ラウファの行動に口を出したけど。でも本当は、結末を選ぶのは、本人だけだ。お嬢様も……ルノアは『お嬢様』であることを、自分で選んだ。だから、あたしはそれに口出しはしない。憐れまない、蔑まない。ただ、眺めているだけ。“あたしは彼女に欲しい言葉をあげられない”。殺してしまった
子供を見捨てられないラプラス姉妹とその点は同じだ。だって、“あたしは『
嘘吐き』を肯定してあげれない”。けれど。
「ラウ。あのね、あのね…………!」
小さな少女が、満面の笑みを浮かべる。ぽろぽろと、真珠のようなそれが零れ落ちる。花が咲くように、蕾が綻ぶように、一切の不純物なく、純粋で無邪気な幼さを混ぜて、どこかしら誇るように。
とても詰まらない、ただ“この世界に居てもいい”と認めてもらうためだけのちっぽけな証明。その言葉だけが欲しくて、『嘘吐き』になることを選んだ小さな少女が、それを誇る。
「わたし、ちゃんと選んだでしょう――!」
あ、という場違い悲鳴が小さく聞こえて。
あたしの世界と一緒に倒れこんだ。
sideラウファ
ヘーゼルブラウンのそれに吸い込まれるように。珊瑚色のそれに包まれるように。
涙を落とすそれが、とてもきれいで。
あ。
と思った頃には、ごつんと頭を地面にぶつけていた。
目の奥でチカリと星が瞬く。空の色が視界を埋めて、ルノアの髪の匂いにどきりとする。なんだかとても悪いことをしているようで、どうすればいいのかわからないまま固まりそうになるけど、お腹のあたりでアシェルが暴れているのがわかって、正気に戻る。どうやらルノアと僕の間で押し潰されているらしいけど、ルノアは動く気配がない。
「……ルノア?」
ぎゅっ、と。僕の服の袖を掴むルノアの左手に力が入る。
「……ずっと、ずっと。そうやって褒めてほしかったの」
ふきゅっ、と這い出たアシェルが転げ落ちた声がした。
「わたし、ずっと、お嬢様に褒めて頂きたかったの」
首を持ち上げるけど、ルノアは固まったまま動く様子がない。なんとか体を起こそうして、うまくいかなくてそのまま力尽きた。青空だけが目に映る。
「ねえ、ラウ」
「何、ルノア」
「頭を撫でて、偉かったって言って頂戴」
「え?」
……え? なんて?
反射的に首を持ち上げてルノアを見るけど、ルノアの髪の毛しか見えない。けど、触れている体が笑いを堪えているように震えている。
しばらく考えて、それでもルノアが動く様子がなかったので、僕は諦めた。溜息一つ。
「ルノアは偉いよ」
自由にならない左手はそのままに。右手でその髪に触れる。エルグのようにかき回すのは何か違うだろうと思えただけ上等だと思ってほしい。
「たくさんたくさん、考えたんだよね」
「ええ、わたし、とてもたくさん考えたわ」
「頑張ったね」
「ええ、そうなの。わたし、とても頑張ったの」
「すごいと思うよ」
「そうでしょう」
「うん」
熱気を孕んだ風が、頬を撫でる。ルノアの髪を揺らす。居座る沈黙を、誰も取り返そうとはしない。
偽物の世界。嘘吐きなルノア。本物じゃない僕はきっとルノアの苦労も努力も何も本当にはわかってあげられない。すごいよという言葉も、頑張ったんだねという気持ちも、僕の声は偽物にしかならない。ルノアの望む文字をなぞることしかできない。それが本当にできるのはきっとルノアの『お嬢様』だけだ。
生温い、濡れた感触が服に張り付く。……ルノア、泣いてる?
「どうしたの? 泣かないで、ルノア」
どうしてルノアが泣いているのかわからない僕はルノアにそう言うしかない。僕の言い方が悪かったのか、何か間違ったことを言ってしまったか。それとも偽物の言葉はやっぱり何か違ったか。それすらもわからない自分がもどかしい。助けを求めてアシェルを見るけど、アシェルは目を細めたまま首を振る。
「泣かないで、ルノア。どうしたの、笑ってよ」
どうすれば、どうすればいいんだろう。
本当に、僕は本当に。ルノアをすごいと思うのに。それでも僕は所詮偽物だ。『僕』の紛い物だ。この気持ちの証拠を出すことはできない。どうしたらルノアが泣かずに済むのかもわからない。
「ごめんね、ルノア。ルノアはすごいよ、すごいと思うよ。偉かったね、頑張ったね」
こうやって百の言葉を繰り返そうと、それは覆らない。僕が吐くのは嘘っぱちの言葉にしかならない。偽物にしかならない。本物じゃない。
濡れてくしゃくしゃになった服の触感が広がっていくことだけがわかる。
「ルノア……」
ルノアと出会って、森から引っ張り出されて。
――当惑する僕を見上げて、彼女は楽しそうに笑った。小首を傾げて、不思議そうな顔が面白くて仕方がないと言いたげに。甘い声が弾む。鈴を転がすような、金色の蜂蜜をとろりと流し込むような、そんな、官能的で抗い難い甘い声が。
――探し物をしているの。
「ぁ……」
ルノアの探し物。そうだ、そうだ。それなら。
「ルノア、ルノア。大丈夫だよ。泣かないで、笑って」
頭を撫でていた右手を滑り込ませて、濡れた頬に触れる。ごろりとルノアごと横に転がって、その重みから逃れる。胸の位置にいるルノアとは目が合わないけど、代わりにアシェルと目が合った。特に意味もなく、僕は笑う。
「……ラウ?」
きょとんと。目を潤ませたままで、頬に涙が伝った跡を残して、ヘーゼルブラウンの虹彩が僕を見上げる。腕を抜いて、握っていた左手を離す。そうやってルノアから完全に開放された僕はそのまま起き上がった。
「大丈夫だよ、ルノア」
よろりと体を起こすルノアに笑いかける。
だってこれは最良だ。だってこれは最適解だ。どこにも行けない僕。何物にもなれない僕。『ラウファ』じゃないし、屋敷にも戻れない、どこまでいっても偽物の世界だけが広がっていて。そんな僕がただ一つ、できること。
偽物の言葉ではなく。
ルノアを本当に祝福してあげられるもの。
屋敷を脱出する途中、気づいたオニスズメの羽根。あれは違う、”あんなものじゃない”。もっともっと深紅のそれを。僕にはできるはずなのだから。
「ルノアに全部あげるからね」
アシェルが何か叫んだのが聞こえた。
ああ、アシェル。僕も頑張って考えたんだよ。
side玻璃(ラプラス)
舞台の観客者。
私たちはそういうもので。
だから、私たちの声はすべて無駄なものでした。
だから、私たちの叫びはすべて無視されるものでした。
それでも。それでも、私たちは叫んでいたのです。
血を吐くように、叫び続けていたのです。
《もういいのです、“そんなこと”しなくていいのです》
《セレス様のフリなんてしなくてもいいのです》
それが彼女にとってどういう意味を持つものか考えもせずに。
ようやく手に入れた答えに、ルノア様からすすり泣きが聞こえました。記憶すらない少年に覆い被さって、安堵と安心を混ぜて。セレス様は泣かない方でしたので、それは長らく見なかったものでした。
そして、私は、私たちはその涙に油断したのです。
「大丈夫だよ、ルノア」
立ち上がったラウファ様がルノア様に笑います。
無邪気に、無垢に。せかいでいちばんきれいないきもののように。
「ルノアに全部あげるからね」
両腕を飲み込んだ、身の丈に合わない、巨大な両翼。
深紅と、白と、緑と、金と。光を浴びて七色にも見える翼の片翼が広げられて。
何の躊躇いもなく、首を切った。