アクロアイトの鳥籠 - 8章
3.主のいない箱庭より

sideルノア

「ル、」

 自分の唇に人差し指を当てて、開きかけたラウの口を閉じる。ええ、待って頂戴。待ってもう少し、もう少しだけ聞いて頂戴。断罪は、きっとそれからでも遅くないでしょう?

「子爵のところで学んで、過ごして。それから、世界を見たいって飛び出したの。……おとぎ話をよくしてくださっていたのよ。品行方正な夫婦が困難を乗り越えて幸せに暮らすという、とてもありふれたお話だったわ。そのおとぎ話にでてきた『神様』を探しに行こうと思ったの。そのお話に出てきた『神様』は死者を蘇らせたから」

 お嬢様ならきっとそうしていたから。ずっとそれを望んでいたから。と溜息のように付け加える。『わたし』は『お嬢様』の偽物だと、旅に出た理由も、その夢物語な到達点(さがしもの)も。全て全て、ただ『お嬢様』の記憶を辿った(もの)でしかなかったのだと。
 お嬢様が好きだった物語。幼いわたしにはどうしてそんなおとぎ話が好きなのかわからなかったけれど、お嬢様の病を考えればそれは当然のことだった。ラウにかつて“不老不死の薬を探している”と嘘をついたけれど。あれは正しくはなくても間違ってはいない。……『本物』に巡り合うなんて勿論、考えてもいなかった。

「それで、ラウに会ったのよ。……わたしね、貴方を見付けた時に『ルノア』を見付けたと思ったの」

 ――君にとって、ラウファは何? 君の言うことを全て肯定してくれる、都合のいい存在? 君を『お嬢様』として扱ってくれて夢を見させてくれるお人形? それとも、君が『お嬢様(セレス)』を演じるうえで抜けてしまった『従者(ルノア)』の役の代替品?
 エルグに問われた言葉が頭をよぎる。
 わたしの声は震えてはいなかったかしら。掠れてはいなかったかしら。早口になってはいないかしら。……うまく笑えているのかしら。
 虚構の塊を、醜悪な自分を、それでも本物に近づけるように笑って見せる。

「わからないけれど、思い出せないけれど、わたし、きっとそう思ったの。お嬢様が、真っ白だと言ってくださった『ルノア』の代わりにしようと思ったのよ。きっと『わたし』はそう思ったの。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさいラウ。そんなこと今は思っていない。思っていないわ。ほんとよ、本当。でも、わたし、あなたに知ってほしくなかったの。わたしを。『わたし』を本物として見てくれるあなたに、わたしが嘘吐きだって気づかれるのが怖かったの」

 アシェルに問われた馬車の中。“誰も傷つけないから良いでしょう”? 笑ってしまうわ、傷つきたくなかったのは、わたしひとりなのに。
 『本物』じゃなかったのと。そう指を差されるのが怖かった。恐ろしかった。上手に上手に真似をして見せているつもりなのに、そっくりその姿を重ねているはずなのに、それなのに子爵も、瑠璃も、玻璃も苦い顔をしたのだから。まるで“そうではない”と言われているかのようで、だからわたしは人前に立つのが怖かった。皆気づいていて、小さな『ルノア』の『ままごと』なんて、とっくの昔に気づかれていて、影で指を差して笑っているんじゃないかって。憐れんで、ままごとに付き合っているだけなんじゃないかって。それでもわたしは、“そんなことがあるはずがない”と、そう尊大に笑って見せた。それだけしかできなかった。そうするしかなかった。そうするべきだった。
 だって、『わたし(セレス)』は『お嬢様』なのだから。だから、誰に何を言われても、しかるべき通りに言葉を返せばいい。それだけの話だった。
 でも。でも彼は何も知らなかった。無垢で無色。『わたし』が嘘吐きでも、嘘吐きな『わたし』の言葉を信じてくれた。安堵した。嬉しかった。足元も覚束ない薄氷の上で、ようやく地面を見付けた気分だった。だから。
 ――だから、嘘を吐いた。嘘を重ねた。理想を演じた。

「……ごめんなさい、ラウ。わたし、あなたに嘘を吐いたわ。嘘を吐いていたの。自分のためだけに嘘を吐いたの。ごめんなさい。ごめんなさい。……失望したかしら」

 この言葉さえ、幾何の価値も持たないのに。『嘘吐き』のわたしの言葉なんて、何の中身も伴わないのに。目の前の彼からどんな言葉が返ってこようと、受け入れなければならない。だって、嘘を吐いたのはわたし。彼を偽ったのはわたし。けれど、

「どうして?」

視界の向こうのラウは不思議そうに瞬きを繰り返した。

sideラウファ 

「だからね、ラウ。わたしは全部偽物なの。中身も外見もすべて、紛い物なのよ」

 木漏れ日がはつらつと笑うルノアに落ちる。コーラルカラーの髪に影が落ちて、その色を褪せさせる。零れ落ちそうなほど大きな瞳はまっすぐに僕を見たままで。

「それで、ラウに会ったのよ。……わたしね、貴方を見付けた時に『ルノア』を見付けたと思ったの」

 一体、何の話だろうと思った。

「……失望したかしら」

 ルノアの口から零れる言葉の意味を、どれだけ理解できているのかわからない。どうして僕にそんな話をしてくれたのかもわからない。左手の下で小さな右手が小刻みに震えている。切羽詰まったような声で、それでもいつもと変わらずルノアが笑う。どうして。どうして。どうして?
 その理由が、僕には“わからない”。
 アシェルの方に視線を寄越すと、彼女はその細い目を僕に向けたまま動かなかった。(イエス)でも(ノー)でもなく、ただ成り行きを眺めているだけ。今のアシェルは僕に答えを与えてはくれない。

「どうして?」

 だから僕はそのまま疑問を口にする。ああ、きっと本当はルノアには言ってほしかった言葉があるはずなのに。でも、それが何か僕にはわからなかった。僕の言葉にルノアが驚いたように目を開く。ごめん。ごめんね、ルノア。でも僕、わからないよ。

「ルノアはどうして僕に聞いてほしかったの? どうして、ルノアの話を聞いた僕が失望すると思ったの? ……どうしてルノアが僕に謝るの?」

 突然始まったルノアの話。けれど、僕にとってルノアが嘘吐きかどうかなんて、そんなことはちっとも重要じゃない。膝の上のアシェルが毛並みを逆立てる。きっと、アシェルにはルノアが言ってほしかった言葉がわかるんだろう。きっとそれが『普通』なんだろう。驚いた表情のまま言葉を詰まらせるルノアに、なんだか情けなくなって、ごめんと呟いて視線を逸らす。ルノアこそ僕に失望したんじゃないだろうか。

「ラっ……」
《ラウファ》
「何?」

 ルノアよりも早く、アシェルが口を開く。笑っているような細い目が僕を見上げて、ざらりとした舌がちらっと覗く。

《ラウファ、あにゃた、お嬢様に嘘を吐かれていたのよ》
「うん」

 噛み砕くように、ゆっくりと。そう繰り返すアシェルに僕は頷く。

《あにゃたが信じてきた『お嬢様』は張りぼての偽物だったのよ。それに対して、あにゃたは怒ってもいいのよ? 嘘吐きと罵ってもいいのよ?》

 ざあと風が吹いて、枝を揺らして。そのあとぽつりと音が止まって。
 怒ってもいいとアシェルは言う。嘘を吐いていたルノアに、怒ってもいいと。……どうして? どうして、どうして。どうしてアシェルはそんなことを言うんだろう。“わからない”。僕がおかしいのかな。きっとそうなんだろうけど。でも、だって。僕はただ笑うことしかできない。
 ルノアの震える右手が、僕の左手を握る。
 ひやりと冷たい指先が、僕から熱を奪う。

「……どうして、アシェル?」

 だって、僕、何も怒っていないのに。

sideルノア

「……どうして、アシェル?」

 どうして。どうして。どうして、どうして。どうしてどうしてどうして。知りたがりの子供のように、彼は“どうして”と繰り返す。困ったように曖昧に笑って。わからないよと繰り返す。

「どうして? アシェル。だって、僕は何も怒ってなんていないのに」

 おかしいかな、おかしいんだよね。はにかむように口元を緩めて、空いた右手で頬を摘まむ。よれた白布が肩に流れた。離さないでとそう言った手は離れることなく置かれたままで。

《……どうしてにゃのよ?》

 慄くようにアシェルが顔を歪め、逆に問う。絞り出すような憐憫は、けれどラウに届かない。

「“どうして”?」

 へらりと。無垢に、無邪気に彼は笑う。

「だって、ルノアが嘘吐きだなんて今更なのに」

sideエルグ

「村長方、貴方方、ラウファを売ろうと考えていたでしょう?」

 その言葉に、息を呑む音と歯を噛み締める音が聞こえた。
 ああやっぱり、とさしたる感動もなくエルグは自分の考えの答え合わせに微笑む。

「いえ、いいんですよ。傷を癒し、死者を蘇らせる。それがいかに魔女の法だからと言っても人外の領域だからと言っても、きっと欲しい人間には喉から手が出るほど欲しがるものでしょうから。異端の『魔女』ではなく、神の『奇跡』とだって言われるかもしれませんね」

 セレス・フェデレの持っていた本。昔話や伝説、伝承の書かれたそれに含まれるそれがどこから漏れたかなどエルグにはどうだって良い話だ。そして、それを損得のはかりに乗せようとしていた彼らのことだってエルグにとってはどうだって良い。
 そう。どうだって良いのだ。

「そんなことはどうでもいいんです。過去の話なんてひっくり返したところで過去に戻る術でもなければ何の役にも立たないんですから。では、今からの話をしましょう」

 ぼんぐりが開く音を彼の耳は聞き漏らさない。飛んでくる火の粉よりも速く、四枚羽の蝙蝠が風を切る。ぎゃん、という悲鳴が聞こえて朱色のトカゲと有翅の虫の鱗粉が吹き飛ばされる。そしてその間にエルグの間合いに詰めていた電気鼠が――

「……何が」

 その声は誰のものか。

 ――宙ぶらりんでもがいていた。

sideルノア

「だって、ルノアが嘘吐きだなんて今更なのに」

 何の躊躇いもなく、からりと言われたそれに小さく、小さく、声が漏れた。けれどわたしの声は誰にも拾われないまま、ラウの言葉に上書きされる。

「どうして僕がルノアに失望するの? どうして僕がルノアに怒るの? ルノアが嘘吐きだなんて今更だよ。ほら、ルノアの探し物だってまだ教えてもらってないし、それにルノア、一度でも自分で貴族だって言ったことあったっけ? なかったと思うんだけど」

 いつもと何ら変わらない声色で。わたしがよく知る表情のままで。眉を曲げてあっけんからんとそう言うラウの言葉をわたしは呆然と聞き流す。わたしの吐いていた『嘘』はそんなその都度その都度の相手をからかって吐いたそれとは本来同列ではないはずなのに。こんなふうに“お嬢様のような振りをするわたしは嘘だった”と言っているのに。“わたしそのものが何もかも偽物だった”とそう言っているのに。

「ラ、ウ」

 違う、違う。そうではないの。アシェルの言うことは正しいの。あなたはわたしに怒って良いの。嘘吐きだと指を差して、この手を放して構わないの。だって、瑠璃も、玻璃も、子爵も。誰もがそうしたのだから。けれど、その言葉は喉の奥に引っかかって出てこない。

「ああ、でも。……ルノア。一つだけ、聞いてもいい?」
「ええ。ええ、勿論よ。何かしら」

 ラウの問いかけを言い訳に精一杯の笑顔を作る。あなたに何を言われても、それでもわたしは揺るがないと。
 そう唱えながら、道化を演じる。記憶の中で向けられる、憐れむような眼差しを見ないふりをして。

sideアシェル(エネコ)

 ぐるり、と周囲に意識を向ける。あたしに気づいたラプラス姉妹は張り詰めた視線を逸らし、ゾロアークとオノノクスについては特に興味もないような顔で余所を向いている。周囲に変わった匂いも音もなく、静かなもの。そうなると残ったエルグの無事が気になるけれど、それは今気にしても仕方がない。ちらり、とラウファの目があたしに向けられる。お伺いを立てるような顔に、けれどあたしは何も言わない。あたしが口を挟めることはもう挟んでしまった。王都でお嬢様の昔話をエルグから聞いたときあたしは“お嬢様に泣いて許しを請うまで謝り続けさせたい”とまで思ったけど、それに対してラウファが首を傾げるのなら、あたしにはもう何も言うべき言葉はない。……それは惨いことなのだと。酷いことなのだと。そう訴えて、わからせてあげたい。何も知らない、わからないあにゃたに、“今まで盲信させてきたその姿(おじょうさま)は嘘だ”というのは、本当にとても酷いことなのだと。あにゃたはその手を放してもいいのだと。けれど。
 けれど、それが正論だと訴えれば。それが正しいと諭せば、ラウファはきっと躊躇いもなくあの屋敷に戻ってしまう。『正しいこと』の判断のすべてを他者に依存してしまう彼はそれを疑いもしない。だから、あたしは見守るだけ。
 考えて、考えて。考えなきゃだめにゃのよ、と祈りながら。

sideラウファ

「ああ、でも。……ルノア。一つだけ、聞いてもいい?」
「ええ。ええ、勿論よ。何かしら」

 どうしてだろう、どうしてだろう。どうしてアシェルは、僕に怒ってもいいと言ったんだろう。怒るのが正しい理由が、だって僕にはわからない。どうして、どうしてルノアは僕がルノアに失望すると思ったんだろう。どうして僕がルノアに失望しないといけなかったんだろう。横目でアシェルを見るけど、アシェルも黙ったっきりだ。誰も僕に答えをくれないまま、どうしてルノアが僕に謝ったのかさえわからないまま、さっきからどうしても一つだけ気になっていたことを口にする。ルノアの木の葉を映したような虹彩が、瞼に蕩けて、

「ルノアも、本当は僕が怖かった?」

 そのまま凍った。
 きれいねと、ルノアはそう言ってくれた。
 自分のすべてが紛い物ならば。彼女のその言葉も嘘ならば。

「ルノアは、僕が怖い?」

 それはきっと、苦しいことだ。だって、それが嘘ならルノアはずっと“恐ろしいもの”の相手をしてくれていたことになる。――あにゃたが、傷つける力を持ってるからにゃのよ。傷つけにゃいとわかっていても、恐怖は生まれるのよ――かつてアシェルが僕に言った言葉が頭の中で反芻する。『化物』に手を差し伸べてそう言い続けるなんて、それはきっと、恐ろしく、苦しかったに違いないのだから。
 僕の左手は約束通り繋がれたままで。けどその下で小さな手が震える理由が、それなのならば。僕はこの手をすぐにでも離すのに。

「……っいいえ! いいえ! 違う、違うわ。違うの」

 一拍おいて。弾かれたように、言葉が返ってくる。丸く収縮された瞳が、光の加減で金色に見えて。なんだか猫みたいだななんてぼんやり思った。

「いいえ! いいえ!! 本当よ。本当なの。本当にあなたのことを綺麗だと思ったの」

 ルノアの左手が、服の裾を引っ張る。本当なのだと、それは嘘ばかりで空虚な『わたし』の『本当』 なのだと。嘘吐きだけれど、だから、“嘘なんて一つも吐いていない”のだと。だから嘘ではないと、全て嘘だけれど、だから全て嘘ではないのだと。まるでそうしないと逃げられてしまうみたいにルノアの左手が僕の服を掴んで離さない。逃げなんて、しないのに。

「ラウ、わたし、嘘を吐いたわ。あなたに嘘を吐いたの。ごめんなさい、ごめんなさい。だって。……だって。ラウに傍にいてほしかったんだもの! 嘘を重ねてでも、いてほしかったんだもの!」

 しん、と。やけに悠長な一秒が、時間を喰って。
 誰かの息を飲む音が聞こえた。

sideルノア

「いいえ! いいえ!! 本当よ。本当なの。本当にあなたのことを綺麗だと思ったの」

 本当なのよ。本当なの。『わたし』、なにひとつ、うそなんてついていないの。
 『嘘吐き』が無価値にしか聞こえない言葉を繰り返し、縋るようにその服を掴む。きっと瑠璃や玻璃から見れば。アシェルから見れば。あのゾロアークから見れば、わたしはよっぽど痛々しい姿をしているでしょう。どれだけ侮蔑の目を向けられようと、失望されようと、それは当然の仕打ちだった。それは当然の末路だった。けれど、ねえ。ラウ、お願い。この言葉だけは本当だと信じて頂戴。こちらを見下ろすその瞳は、いつもの色ではなく影を落としていた。飽きるほどの弁明を繰り返し、

「ラウ、わたし、嘘を吐いたわ。あなたに嘘を吐いたの。ごめんなさい、ごめんなさい。だって。……だって。ラウに傍にいて欲しかったんだもの! 嘘を重ねてでも、いて欲しかったんだもの!」

 ――飛び出した言葉に、息を飲んだ。

「ルノア?」

 ――わたし、今。何を。

「わ、……わたし」

 ――そんな言葉を、『わたし』、言ってもよかったかしら?


森羅 ( 2021/01/17(日) 19:13 )