アクロアイトの鳥籠










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8章
2.crown・clown

 王冠を被った道化師は、王様でしょうか道化でしょうか。
 王冠を取られた王様は、王様でしょうか道化でしょうか。


side玻璃(ラプラス)

「あのね、ラウ。あのね。……あのね、わたし、あなたに聞いて欲しい話があるの」

 弾むような幼い声に、浅瀬の海を映したような身体が震えるのがわかりました。
 一定のリズムを保って揺れるぼんぐりの中で、私はぼんやりと思考します。それは無駄な作業以外の何物でもなくて、そんなことは私自身わかっていて、けれど考えるのを止めることが出来ませんでした。
 なぜなら、それは私と姉様がずっと願っていなかったことでしたから。そうならないように、祈っていたことでしたから。王都で聡い姉が口にしたように、“ラウファが捨てられていればいい”、“いつか記憶が”なんてなければいい、“いつか別れが”なんてなければいい……それが彼にとってどれだけ酷いことであっても、私たちは“ルノア様のために”、“彼女のためだけに”間違いなくそう呪っていたのですから。壊れてしまった可愛い主人が、もう二度と泣かなくて良いように。もう二度と心を動かさなくて良いように。……もう二度と、“壊れなくて”良いように。
 それがどれだけ歪で誤っていたとしても、だって私も姉も、子爵様だってあの子をどうにもできなかったのです。王様も家来も誰も元には戻せなかったハンプティダンプティ。中身が飛び出て割れてしまった卵。私たちにとってあの子はそういうものでした。どうするのが正解だったというのでしょう? どうすることもできなかったのに、どうすればよかったというのでしょう。だから、“元からそういうものだった”と。私たちはそう思い込むことに決めたのですから。
 小刻みに振動するぼんぐりはいまだ止まる気配はありません。どこに向かうのかもわかりません。先導する黒狐の毛並が陽に照らされていて、目を焼きました。だから。だから私は、ラウファ様がまた現れた時ああ良かったと安堵したのです。これでまた丸く収まると、そう疑いもしなかったのです。それなのに。私は主の言葉を反芻させてただただ呻きました。

 ――あのね、ラウ。あのね。……あのね、わたし、あなたに聞いて欲しい話があるの。

 どうして、と。

side瑠璃(ラプラス)

 『嘘吐き』
 ルノアを表すのにそれ以上の言葉はなく、それ以下の言葉もない。ルノアは『嘘吐き』だ。嘘吐きで、偽物で、紛い物だ。けれど、元の形なんてもうとっくに失くしていて、元の形と呼べるものはもうぐちゃぐちゃに壊れていて。
 くるくると、踊っていた。泣いたままで笑っていた。笑ったままで泣いていた。彼女の――セレスの服を纏って。
 そんなこと、瑠璃も玻璃も望んでいなかったのに。子爵だって泣きそうな顔で首を振ったのに。誰も理解できなかった。誰も理由がわからなかった。
 生前のセレスのように笑う、壊れてしまった『ルノアだったもの』を見ても、だぁれもそれを喜ばなかったのに。
 だから、ルノアはずっと舞台の上で演じていた。ひとりぼっちで踊っていた。色んなところがひび割れて、そこから血が流れてもそんなこと知らないかのように笑ってた。ずっとずっと、ずーっと。そんなルノアだから、そこに転がり込んでしまった闖入者(ラウファ)に、ずっと嘘を吐きつづけるのなんて、容易いことのはずなのに。
 ルノアの足が止まる。ぼんぐりの揺れが止まる。軽い炸裂音がして、広い視野が突然目に飛び込んでくる。横を見ると玻璃がいて、後ろを振り返ると、木々に邪魔されてはいたけどいくらか遠くに先程まで居た集落のものであろう建物が見えた。どうやらここは少し盆地になっているらしく、鬱蒼と青葉を伸ばす木々が上手く瑠璃たちを隠していた。

「瑠璃、玻璃、琥珀。辺りを見張っていて頂戴」

 甘く、蕩けるような声色で。ルノアがそう微笑む。髪を揺らせて、ドレスの裾を翻して。木漏れ日が彼女の髪にきらきらと降り注ぐ。それは、かつての主の影法師を見ているようで。そして言うが早いか、瑠璃たちの答えを待つこともなく、ルノアはラウファを振り返る。

「ねえ、ラウ。わたし、あなたに聞いてほしい話があるの」
「うん」

 さっきも聞いたよと、とぼけた顔をするラウファに、ルノアは一層笑みを強める。花の蕾が、開くように。

「聞いてくれるかしら」

 子猫のように、我儘に。ねだるような言葉に、舞台の上に迷い込んでしまったことさえ未だ気づいていない少年が困ったように笑って、首を傾げる。どうしたの、と先を促すように。その先の言葉など予想もしていないに違いない。その先の言葉に、瑠璃と玻璃がどれだけ恐怖しているかなど考えつかないに違いない。けれど、そんな瑠璃の危惧など置き去りにして、舞台は進む。だって、だって。瑠璃も玻璃も、立ちすくんだままのゾロアークも、エネコも。だってみんなみんな、ただの『観客』なのだから。ラウファの両手を取る。彼女の薄桃色の唇から、言葉が零れる。

「ひとりのお嬢様から始まる、昔話を始めましょう」

sideルノア

 少しだけ長い話になるからと、そう言って柔らかい草の上に腰を下ろす。ラウに隣を勧めると大人しく右隣に座ってくれた。と同時にアシェルがラウの膝の上に転がり落ちる。土の匂いが鼻を擽って、どこからか聞こえる鳥の歌声に呼吸を整える。……何から、いいえどこから。どこから話せばいいのかしら。困ったような顔で頬に手を添えるわたしに、隣に座ったラウがかくんと首を傾げた。何も知らないチャコールグレイの瞳が大きく開かれたままわたしの言葉を待っている。その気の抜けた顔に、口元が緩んだ。
 昔々のお話です。
 あるところにそれはそれは綺麗な『お嬢様』がいらっしゃいました。

「わたし。……ええ、そうね。ねえ、ラウ。前に子爵と会ったでしょう。わたし、彼の養女なの。子爵には婚約者がいて、その方がわたしの。わたしの主人(おじょうさま)だったわ。わたしは市井の生まれで、お嬢様の遊び相手の側使えだった」

 ふわふわと、小首を傾げて笑って見せる。目を細めて。頬を緩めて。花が綻ぶように。――あのひとの姿をなぞるように。

「とても良い方だったのよ。わたしに良くしてくださったし、可愛がってくださったわ」

 ――あなた、とてもきれいなのね。ああ、すてきだわ。とてもすてき。
 初めてお会いした時の言葉を、わたしはいまだに覚えている。金を紡いで出来たような髪がきらきら踊って、白い頬には赤みが差していて、蜂蜜色の瞳は溶け落ちて零れそうなほど眩しくて。幸せを纏ったような人だと思った。甘いものと、優しいものと、暖かいものと。それだけに慈しまれて育ってきただけの人だと思った。
 ……ああ、このひとは、みにくいことなんてきっとなにもしりはしないのだろうと。

「わたし、お嬢様のこと嫌いではなかったわ」

 そう言い切ってラウに微笑む。きょとんとしたその瞳の中に“微笑むわたし”が映っているのが見えた。けれどラウに言葉を継がせる前にわたしは続ける。

「お嬢様とたくさんたくさん、悪戯をしたのよ。瑠璃も、玻璃もお嬢様の獣だったの。琥珀だけは、違うけれど。ええ、そうなのよ。お嬢様はこの世界にいる獣の図鑑とか物語がお好きだったわ。わたしによく読み聞かせてくださったの。瑠璃と玻璃は、そんなお嬢様があまりに欲しい欲しいと仰るから旦那様が……お嬢様のお父様が探してこられたの。お屋敷から出たことがあまりない方で、だからよく脱走しようとしていたわ。いつもわたしを連れて行って下さるの。内緒よって笑って、わたしの手を引いて。本当は、わたしはそれを止めないといけなかったのだけれど、でもわたしが何度言っても聞く方じゃなかった。子爵だって止められなかったもの」

 スカートの裾を整えて、その埃を払ってみる。決して古くない、けれど昨日のものではない記憶が頭を埋める。金色の髪と瞳が示すとおり陽だまりのような方だった。幸せだけでできた、砂糖菓子のような方だった。屋敷の外はきっととても綺麗で楽しいもので覆い尽くされていて、素敵なのだろうと信じているような方だった。ああ、だからわたしは初め、あの方が嫌いだったの。この世界は醜いもので溢れていると、小さな『わたし』はそう知っていたから。

「それで……?」

 おずおずと、続きを急かすような声に我に返る。想い出は遠く過ぎ去り、風にさらわれていく。急かされた言葉に、わたしは少しだけ頬を膨らませた。

「ひどいわ、ラウ。せっかく女の子が秘密を教えてあげようとしているのに。それを急かすなんて野暮でしょう?」
「えっ。あ……えーっと、ごめん?」

 拗ねたようにそう言えば、困ったような謝罪の声が返される。語尾に疑問符でもついているかのようなその言葉に、羽根のように軽く笑って見せる。何か言いたげにこちらを睨む子猫にも同じように笑みを零した。

《おじょ……》
「ねえ、ラウ」
「何、ルノア」

 アシェルの言葉を遮り、ラウと出会ってから何度も何度も繰り返したやり取りを今度もまた繰り返す。こうすれば、きっと彼はわたしの『お願い』を何だって聞いてくれるとそう知っているから。

「わたしの手を、握っていて。わたしが話し終わるまで、離さないで」
「えっ。……えーっと…………いいけど。……いいの?」
「ええ、お願いよ」

 定められた手順のように、決められた筋書きのように。
 ラウがおっかなびっくりわたしの右手に自分の左手を重ねる。じんわりと熱が伝わる。アシェルの細い目がわたしを責める様に見るけれど、それにわたしはもう一度微笑んでみせる。ええ、アシェル。わかっているわ、わかっているの。夜会に向かったあのとき、あの馬車の中で答えられなかった問いかけにだって今度こそ答えるわ。
 吸い込んだ息を吐き出した。

sideエルグ

 紫色の四翼を羽ばたかせる蝙蝠が、相手を牽制するように空を飛ぶ。
 こちらを品定めするかのように睨む老人たちなどどこ吹く風。エルグは努めて明るく笑いかけた。

「何か、ありましたか」

 “そこから出るな”と言っておきながら、そう尋ねる彼には白々しいという言葉すら相応しくない。時間稼ぎにもならない問いかけはすぐに誰かの怒声に上書きされる。

「お前がラウファを逃がしただろう! どこへやった!?」

 ――いいえ、いいえ。違います。僕は何もわかりません。

「エルグ! ラウファを見ただろう!? お前、やっぱり!」

 ――いいえいいえ、覚えていません。僕は何も覚えていません。おぼえていませんおぼえていません許して下さい。僕は何も知らないのです。夜にラウファを連れて、僕が。覚えていませんわかりません。恐ろしかったからです。殺さねばならないと思ったかもしれません。いいえいいえ、わかりません。僕には何も。僕は何も覚えていないのです。知らないのです。ゆるしてください。ゆるしてくださいゆるしてください。

「ええ、はい。そうです」

 降り注ぐ言葉の雨に、記憶の中の自分は背中を丸めて必死でそう弁明した。“知らない知らない分からない”。成り損ないである自分がラウファの翼の、その行く末をわかっていただなんて決して悟られてはならない。知られてはならない。気づかれてはならない。あの血に塗れた呪詛と共に残された記憶を、燃やさせてはならない。“ごめんなさい”と庇護を求めてみせた。自分は唯恐ろしかっただけなのだと。異形であるラウファを、みっともないほど“子供っぽく”恐れて、年齢不相応なほどに“子供らしく”安直に何とかしなければと思っただけだと。そんな言い訳にもならない言い訳を繰り返し、向こうが諦めるまでわからない、知らない覚えていないと繰り返した。
 けれども、今は。かつてと同じ問いかけにエルグはあっさりと口を割る。目を細め、口元をゆるりと釣り上げて。

「俺が、逃がしましたが。それが、何か?」

 貴様何ということを、愚か者め、アレが何かわかっているのか、連れ戻せ、連れ戻せ。そんな言葉が飛び交い、そのどれをも聞き流した。そんな罵声は今更にも程がある。こちらを敵と認識した彼らのうちの一人がその場から一歩踏み込むが、その瞬間にクロバットがその足めがけて風を放つ。靴を裂き、皮膚を浅く抉った鎌鼬に大仰な悲鳴が上がってその場に男が蹲る。電気鼠の電撃も、自由に空を動き回る相手には当たらない。
 やれやれと、と。芝居が掛かった動きでエルグは首を振って肩をすくませる。状況を掴みきれず、混乱しきった彼らにエルグは続けた。

「アレが何か、なんて。知っていたに決まっているじゃあないですか」

 彼の声にエルグに向かっていた罵声が止まる。獣による攻撃が止み、クロバットの一撃を受けた人間以外が静かになる。夏の日差しと彼らとの中空に風が走って通り抜けていく。この小さな村の、それでも長に当たるような彼らが一様に呆気にとられたような顔を晒す姿は少しばかり爽快だった。胸が空く心地のまま、エルグは唐茶色の尾を揺らす。

「当然でしょう、俺は『成り損ない』だったんですから」

 それに、貴方方が自分をラウファの従者に仕立てたくせに。それならば、俺がラウファを守ろうとするのは当然じゃないですか。
 浮かべた微笑を消すことなく、そう言い切る彼に目の前の老人たちは堰を切ったように口々に怒声を浴びせる。お前は何て事を、謝れ謝れ、なぜどうしてそんなことを。

「お前は何もわかっていない! あれは、あれは外に出してはいけないものだ!!」
「ええ、知っていますよ。よく知っています。ラウファの翼が知られれば、村中魔女の末裔だと言われてもおかしくない。でもね、俺にはそんなことどうだって良いんですよ」

 理解の遅い連中に何度も同じ台詞を繰り返してやるつもりは毛頭ない。
 太陽の下を滑空する巨大な蝙蝠の翼に守られながら、彼は相も変わらず口元の笑みを張り付けたままで、狼の瞳を細めたままで、言葉を吐き捨てる。

「村長方、貴方方、ラウファを殺してしまおうと考えていたでしょう?」

sideルノア

 昔々のお話です。
 あるところに小さな『従者』がおりました。
 何も持っていない、薄汚れた、“真っ白な”女の子でした。

「わたし、嫌いではなかったわ。ええ、本当よ。お嬢様のこと、嫌いではなかったわ。幸せだけで出来たような人。いつも幸せそうに笑っていて、どんな我儘もどんな悪戯も許されていて、世界は優しくてきれいなもので出来ていると信じていたような方だったわ。世界が醜いことも、綺麗なだけではないことも優しくなんてないことも、小さなわたしだって、知っていたのに」

 言い聞かせるように嫌いではなかったと繰り返す。それはきっと、紛れもなく本心で。
 陽の光がめいいっぱい入るように設計された窓の傍で、いつも話をしてくださったこと。こんなことがあって、あんなことを学んで。獣にまつわる物語を読み聞かせてくださったこと。子爵の悪口だってたくさん聞いたこと。厨房にだって忍び込んだこと。何度やっても失敗する脱走計画はそれでも尽きることがなかったこと。髪を結ってもらったこと。花の蜜を煮詰めたような甘い声で名前を呼ばれた。何度も何度も。その度にその感情の名前を、掴み損ねた。薔薇の花が咲き誇るがごとく強く強く微笑む蜂蜜色の目をわたしは鮮明に覚えている。あの、陽向のような時間を、覚えている。あの頃の『ルノア』はきっと間違いなく世界で一番あたたかいところに居たのだから。

「わたし、きっと幸せだったの。他の誰よりもきっととびきり運が良かったの」

 ――おかえりなさい。
 きっと、ただ運が良かっただけ。たまたま空いていた席に偶然座れただけ。だから相応しくないとそう追い出されたこともあった。それなのにわたしを、あの方はわざわざ呼び戻した。“わたしでなくてもよかった”その席に、わざわざわたしを座らせた。
 とてもとてもきれいに。おぞましいほど艶に。もう二度とこのようなことは許さないと、そう笑って。

「けれど。けれど、お嬢様は亡くなってしまわれたの。ずっと患っていらっしゃったそうだけど、わたしは知りもしなかったわ。全く気づけなくて、それで」

 泣いたことを覚えている。周りが嘆く中でぼんやり眺めていたのを覚えている。疲れた目をした子爵が淡々と色々なことを片付けていたのを覚えている。しばらくして、ようやく現実がわかって、それから目が融けそうなほど泣き喚いたのを覚えている。嫌いだったはずだったのに。美しいものだけを、綺麗なものだけを、清潔なものだけを、見ているだけの人だとそう蔑んでさえいたのに。自分がなぜ泣いているのかわからなくなるほど泣いたのを、覚えている。その感情の名前をわたしは知らなかった。わかっていなかった。幸福の尺度が、とっくに壊れていたことに気づいたのは今更で。
 そんなはずがない、と。
 ふっ、と頬を緩め顔に掛かる髪をそっと直す。

「そんなはずがないと思ったわ。おかしいと思ったの。おかしいでしょう? だってあの方はわたしの世界のすべてだったのに。だから、そんなはずがないと思ったわ」

 ――ルノア。
 ――ルノア、ルノア。今日は何して遊びましょう?
 その瞳の色のような、甘くて耳に残る声で。いつものようにわたしを呼んでくれるはずだった。きっとこれはお嬢様の仕掛けた盛大な嘘で、だからきっとそのうちまたそうやって微笑んでくれると信じていた。……そんなことないと、わかっていたのに。
 握られた右手に力を込める。そうしてわたしはからりと笑う。首を傾げて、髪を揺らせて。

「だからね、ラウ。わたし、考えたのよ。考えて考えて、とってもたくさん考えて」

 一生分くらい泣いて、そうして、小さな『ルノア』は考えたの。一生懸命、考えて。たくさんたくさん考えて。そうして、『ルノア』は。

「お嬢様の真似事を始めたの」

 夏の熱気を孕んだ風が背中を押す。髪の毛を攫って、木の葉を舞わせる。
 アシェルがわたしを見上げる。灰の被った炭のような色がゆっくりと瞬きを繰り返す。それでもその左手は相変わらず、離れることはない。

「言葉遣いを真似たわ。仕草を真似たわ。服装を真似て、勉強をして。子爵にも手伝ってもらって、思考を真似て。たくさんたくさん頑張ったわ。だからね、ラウ。わたしは全部偽物なの。中身も外見もすべて、紛い物なのよ」

 胸に左手を当て、想い出を反芻する。
 “真っ白”なのなら、何にでもなれると思った。お嬢様の仰ったとおりわたしが“真っ白”なのなら、“お嬢様”になるのなんてきっと容易いと。
 お嬢様が結ってくださったとおりに髪を結った。お嬢様が笑ったように笑ってみせた。お嬢様の服を纏って、お嬢様の仕草を真似た。ぎこちなくて、似ていなくて。不器用に結ばれた髪を手の中で握り潰した。
 ――嘘吐き。嘘吐き。お嬢様の嘘吐き。
 歪む視界の向こうにそう繰り返し呟いた。

「お嬢様の部屋にいることを子爵に見つかって、それで子爵に交渉したわ。わたしをもっとちゃんとした『お嬢様』にして頂戴って。子爵はそれに合意してくれて、だからわたしは彼の養女なの」

 きっと、とっくにわたしはたくさんの物を貰っていたから。庭の緑を。リボンの赤を。空の青を。――お嬢様の金色を。それを幸せと呼ぶには、与えられ過ぎていた。それを測る尺度なんて、幼い『ルノア』は持ち合わせていなかった。だって、それは『ルノア』にとって当たり前のことだった。お嬢様がいるのが『ルノア』の世界にとっての当然だった。お嬢様の与えられたとおりに、望まれた通りに動くのが『ルノア』の仕事だった。『ルノア』の世界を廻していたのはお嬢様だったのだから。与えられすぎるほど与えられた甘く優しい沢山の色に染まってしまってその時のわたしはもう真っ白ではなかったのに違いない。
 なら。それならと思った。容易く、安直に。愚直に。“もう一度、真っ白に戻ればいい”。“もう一度、染め直せばいい”。
 鏡の中の小さな『ルノア』が、『セレス』になるまで、何度も何度も繰り返した。何度だって鏡の中の『ルノア』を殺した。
 それなのに。『ルノア』はそこまでしたのに。

「それなのに。ラウ、それなのにわたしね。もう、わからないの。たくさんたくさん考えたのに。あんなに精一杯考えたのに。それなのに、」

 あの日々の記憶をなぞるように、ほほえむ。頬笑む。微笑む。

「それなのに。もう、わたしはその理由を思い出せないの」

sideアシェル

「それなのに。もう、わたしはその理由を思い出せないの」

 口角を上げ、嫣然と。ヘーゼルブラウンの瞳が、世界中の祝福を一身に受けているかのように笑みを形作る。間違えようもなく幸福を象るそれが、今にも泣き出しそうだと思えるのはきっと見間違いではない。
 例えば。
 例えば、嘘という仮面を一枚ずつ剥がしていくとしよう。
 演者に演技を許さず、役者から役を取り上げ、上っ面に貼り付けられた仮面を剥がしていくとしよう。
 そうやって本来であれば『何か』が出てくるはずの所で、けれど、きっと。……きっと、もうこのお嬢様は何も出てこないのだ。真っ暗な(うろ)がぽっかりと空いているだけ。空っぽな中身が覗くだけ。かつて船の上でお嬢様に対して“不気味だ”と言ったことを思い出す。『嘘吐き』な少女に嘘の仮面は張り付いてしまって、もう元の姿を忘れてしまっている。もうすべて元の形を失くしてしまっている。ああ、本当に、なんて。このこどもたちは、なんて。
 なんて脆いひとたちなのだ。あんなにも強く見えていたのに。弱点なんてないよう思えていたのに。その認識が甘かったのだ。その認識が、誤りだったのだ。

 ――弱点がないことこそが弱点だったなどと。一体誰が、思おうか。


■筆者メッセージ
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更新ブログはこちらです。
森羅 ( 2021/01/11(月) 22:30 )