1.青い鳥を殺すのは
sideルノア
ラウ。
がさごそと茂みから這い出てくる見知った顔。チャコールグレイの髪に、白布がよく映える。昨日別れたばかりだというのに、その姿を見た瞬間、息が止まるかと思った。
全身の力が抜ける様な安堵がわたしを襲う。足は動かず、立っているのがやっとで。胸が締め付けられるような痛みに震える。……それが、本当に彼の無事を喜ぶものか、わたしが犯した失態の『最悪』を想像しなくてよくなったからなのかは判断できなかったけれど。
昨日振りのはずのその顔は、小さな擦り傷がいくつもできていることと、葉っぱや埃を被っているところが昨日と違った。けれど、それでも目の前で困ったように笑う彼は記憶の通り。“いつもと同じように”情けなさそうに、気弱に笑っていた。その顔を見て、声を掛けようとして、わたしは今更何を言えばいいのか分からなくなる。
“久しぶり”というにはあまりにも近すぎる。
“
ご機嫌いかが”なんてあまりにも遠すぎる。
言葉が出ない。何を言えばいいのかわからない。
けれど頬は、緩む。
彼のために、わたしは微笑む。目尻を下げ、口角を上げ、蕩ける様に。無邪気に、優美に、恍惚に。
彼が“おひめさまみたいだ”と言ってくれたそのままに。
sideアシェル
花が咲くように。
飴玉を転がすように。
春風のように軽やかに、ラウファを見留めた『お嬢様』の顔が綻ぶ。
ほんとうに、ほんとうに、嬉しそうに。
けれど。
「“初めまして”。エルグ」
笑みの形に緩みかけた唇は隣の青年に譲られた。
ラウファの隣であたしは獣の色の目をしたその人を見上げる。
穏やかなその顔は、受け入れたものの表情で、
「……“初めまして、ラウファ”」
吐き出された言葉は、諦めを含んだ声だった。
ごそごそと起き上がるラウファにエルグは手を貸し、そのまま屈んで、ラウファのズボンに付いた砂利や埃を払う。仕方ないなあと言わんばかりの、やるせなさを押し殺した表情で。自分のズボンの膝が汚れるのに気を留める様子はない。なされるがままにされていたラウファは、それでも何か思い出したように真新しいひっかき傷を幾つも作った顔で口を動かす。
「あの」
「うん?」
「僕、エルグに謝らなきゃって、『エルグ』が」
「……ロアが?」
ラウファの言葉に琥珀色の目が見開かれる。色素の薄い瞳が、瞬き一つの間にそっぽを向いたゾロアークの方へと向かうけど、ゾロアークは目を逸らしたまま。黒狐に何か言いかけた口は、結局溜息に姿を変えた。ぼんやりと彼を見下すラウファに、エルグはゆるりと被りを振る。
「ええよ、君に謝られることは何もない」
「え? えっと、でも、エルグは『ラウファ』を知ってたんだよね。僕が忘れているんだよね。ごめんなさい、忘れていて、わからなくて。覚えていなくて。……ごめんなさい」
ゾロアークに対して行ったのと同じ、たどたどしく上っ面の言葉だけの謝罪を繰り返す。目を泳がせ、記憶をなぞるかのようなそれに、あたしは不安を覚える。けど、視線をそちらに寄越せばエルグはラウファを見上げたまま笑った。仕方ないなあと。今度は目を細めて、眩しそうに。すっと立ち上がったエルグを追って今度はラウファが彼を見上げる。今から何が起こるかわかっていない呆けたそれに、にへらとエルグは破顔した。
「ええんよ、そんなん。大したことじゃあない。そんなこと、全く大したことじゃあない。だって、俺は君に、『ラウファ』に救ってもらってんねんから。だから、そんなん、大したことじゃあない」
ラウファのチャコールグレイの髪がエルグの手に撫でまわされる。鳥の巣状態になった頭が最後に二回、ぽんと叩かれて。
「だからほら。後はおにーさんに任せなさい」
sideエルグ
「ええんよ、そんなん。大したことじゃあない。そんなこと、全く大したことじゃあない。だって、俺は君に、『ラウファ』に救ってもらってんねんから。だから、そんなん、大したことじゃあない」
歯を食いしばって、笑えと鼓舞した。
だってそうだ、これ以上の祝福が、一体どこにあるのだろう。
目の前にいる、記憶の中のそれよりも少し背が伸びていて、大分幼い雰囲気になった『主人』の姿をした少年にそう思う。向こうでそっぽを向いている相棒に言いたいことは山ほどあるが、今はそれどころではない。泣いて彼に膝を付いても仕方がないのだ。泣く暇があるのなら、きっと自分は笑うべきだ。
なぜなら、『弟』は死んだのだから。
なぜなら、『主人』は自分が殺したのだから。
俺が、――僕が、間違ったのだから。
その事実をなかったことにできるなど、彼は露ほど考えてはいない。そんなことを考えていたならば、『初めまして』なんて口が裂けても言えないだろう。目の前の少年に縋りついて、泣いて許しを乞うても仕方がないことを彼は知っている。それが自己満足にしか過ぎないことを、少年でなくなってしまった青年は十分に理解している。だから、涙を見せる必要はない。自分を覚えていない相手に傷つく権利などない。けれど、探していた人は確かに今エルグの目の前にいて、生きている。それがたとえ『別人』であると知っていても、彼にはもう十分だった。頬が緩むのがわかる。それはきっと、彼以外からは泣いているようにも見えただろうけれど。
だから、これ以上喜ぶべきことなんてきっと、他にはないだろう。
ラウファの埃を払い終えた彼はおもむろに立ち上がる。彼が膝を付くべき相手はここにはないのだから、きっとこれは許されることに違いないと笑って。
惚けた顔でこちらを見上げるそいつの頭をぐしゃぐしゃに掻き回し、口の端を吊り上げる。
笑え、笑えと鼓舞をする。だって、自分は。
「だからほら」
『従者』と『主人』の話はおしまい。だから、ほら。
「後はおにーさんに任せなさい」
自分は『お兄ちゃん』だろう?
sideルノア
ラウを見下ろし、強がるように口を吊り上げる。融けた琥珀のような目がおどけたように一層細まり、未練などないようにあっけなく、その手を離す。束ねられた唐茶色の髪がくるりと円を描く。
「さて、ルノアちゃん」
狼の眼が人懐っこくわたしを覗き込む。
「ラウファを連れて逃げてくれ」
「……え?」
ルノア? と不思議そうな声がその後ろで聞こえるけれど、それよりも今はエルグの言葉が耳に残った。なぜ、と問う前にエルグは笑みを顔に残したまま続けて言う。風が吹いて、幻影が揺らめく。
「今はロアが“幻影”を見せてるから大丈夫やけど、そう長くは持たないから。だから、行って。ラウファがおらんなったのはもう村の
者にバレてるし、俺はここにおらなあかん。いや、君らを庇ってるわけやなくて、これは俺の事情や。ルノアちゃん、君、言ったよな? 狂ってるって。そう、狂ってるんよ。狂ってて、詰まらないことなんよ。だけど、それは君の事情で、君の感情や。俺にとっては酷くて、むごくて、下らなくて、詰まらなくて、狂っとるけど、現実なんや」
清々しいほど、あっけんからんと。
はにかむように、エルグが頬を掻く。そうしてその指は、すっとわたしの向こうを指差す。
「さあ、だから行って。俺らの家の方へ戻って、そこから村の外へ抜けれる。大丈夫、ロアに案内させるから。ラウファ、話したいことは山ほどあるしお前の武勇伝も聞かせてやりたいけど、また後でな。ロア、お前尻拭いくらいはして来い。ええな?」
ラウとゾロアーク、それぞれに言葉をかけ、もう一度わたしを見て。アンバーがわたしの目を焼く。エルグの髪が風に流れる。とっさに目を逸らすわたしに、ゾロアークが舌打ちをし、ラウが首を傾げた。どうしてルノアが居るの、と呟いたそれには、後から聞いたらええと青年が答える。アシェルはラウファとエルグを見上げ、何も言わない。
「今度こそ、ラウファを護ってくれる? 」
穏やかに、柔らかに。ぞっとするほど、静かに。吐息のように吐き出された言葉に、わたしは言うべき言葉を見失う。
その微笑みは、子爵のそれに似ていて。けれど子爵のそれよりもずっと厳しかった。
「……ごめんなさい。わたし、あなたに酷いことを言ってしまったわ」
宝石のような茶色の瞳が驚いたように少しだけ見開かれ、暫くもしないうちに意味を理解したように鼻を鳴らす。
「言ったやろう。それは君の感情や。だからそれは間違いなく正しい。それを言うなら俺も謝らなあかん。だから、気にせんでええんよ。ほら、さあ、早く行って」
「……ええ」
ラウの背を押し、わたしの方へと歩かせる。話についていけず、エルグとロアとアシェルとわたしを交互に見るラウの手を引き、わたしは“いつものように”甘い声でねだる。
「ねえ、ラウ。……わたしに何があったのか教えて頂戴?」
あの時離してしまった手を、もう一度握って。
sideエルグ
走り去っていく子供たちの後姿を目線だけで追いかけながら、青年は苦笑する。
あのお嬢様は気づいているのだろうか。零れ落ちる様な無垢な笑みも、蜂蜜のように甘い声も。気品さえ感じる振る舞いも。ただ一人だけに向けられていたことに。ルノアを案じる子爵の顔が浮かんで、彼は肩をすくめた。ああ、もう自分はやるだけはやった。“ルノアが幸せになれるように”自分なりにお膳立てはした。あとはあの偽物のお嬢様次第だ。
さて。と青年は視線を自分の片割れへと戻す。すぐに行くから先に行ってろと子供たちを先に行かせた黒狐が何か言いたげにこちらを見た。自慢の毛並みを萎めているところを見ると、何かしらか反省はしているらしい。
「ロア」
《だって! だって、てめえは何度悪夢を見た!? 何度死にかけた!? 何度危うい綱渡りをした!? それなのにあれは何て言った!? “わからない”だと!? “どうしたらいいか”だと!? ふざけるな! ふざけるな! てめえがどれほど!》
「ロア、ええんよ」
激昂する獣の声を、一声で鎮める。牙を剥き出しにし、薄い舌が覗くそのままの形で固まるゾロアークに、エルグは再度首を振る。
「俺の自己満足なんよ。だから、ラウファが覚えてなくても、それに怒りを覚える権利はないんよ。だって、俺は護れなかったんやから。主を死なせてしまったんやから。……でも、お前が怒ってくれるならそれでええ」
これは終わってしまった話なのだと。その後の『従者』の行動はただのエゴでしかなかったのだと。そう、青年は獣を諭す。自分を慕ってくれる弟を、自分を想うがゆえに怒りを露わにする兄を、その腕でそっと触れる。
「ありがとうな、ロア。さあ、早く。行ってくれ。行って守ってやってくれ。俺も、すぐに行くから」
《エルグ、てめえ……》
声が、聞こえる。屋敷の中で人が集まり始めたらしい。冷静さを失っていた彼らが、その思考を取り戻し始めたに違いない。何か言いたげなロアに対し、エルグはどこ吹く風で、歯を見せた。
「これはルノアちゃんには関係のない話やろう?」
終わらせなければならないのだと。
化け狐が駆けていくのを見送ることもなく、狼の眼が、揺らぐ幻影の向こうを射抜く。ロアの“幻影”は一種の蜃気楼の様なものだ。時間と共に、崖は花畑へ、花畑は崖へ戻る。迷路のようになっているはずの屋敷は元の姿を取り戻す。彼がルノアとラウファを先に行かせたのは決して自己犠牲の賜物でも、『ラウファ』に対する忠誠心でも、罪悪感でもない。鳥獣の羽の羽ばたきが聞こえ、獣の咆哮が轟く。エルグはそのどれにも動ずることなく、待っていた。彼がここにとどまる理由など、至極簡単。観客が邪魔だからに他ならない。
ルノアが『狂っている』と断じた彼の物語に幕を引くために。
「お久しぶりです、村長達。早速ですが、そこから出ないでくださいますか」
良く知っていた壮年の大人たちに悠然と、青年は目を細める。
ここから先は彼の物語で、ルノアの演ずる舞台ではないのだから。
sideルノア
「ルノア、ルノア。どうして、ここに?」
きょとんとしたチャコールグレイの瞳が不思議そうにわたしを映す。エルグの家の直前でわたしたちに追いついたロアに先行されながら、彼の手を引いて走るわたしは嫣然と微笑んだ。
「だって、ラウったら迎えに来てくれないんだもの」
なら迎えに行くしかないでしょう、と続けるわたしに、ラウはまだ一日も経ってないよと抗議の声を上げる。後ろから追いかけてくる者は誰もいない。ラウの肩の上でアシェルが小さく鳴いた。
「ルノア、ねえ、どうして。……どこに行くの? 僕、あの家にいたみたいなんだ。ねえ、ルノア。僕、あそこにいたんだって。じゃあ僕はあそこにいなきゃいけないんだよね? それが正しいんだよね。僕、戻らなきゃ。ねえ、ルノア。どうしたの、どこに行くの」
抵抗もなく手を引かれている彼はそれでも疑問を口にする。わからないと、そう不安そうに疑問を浮かべて。ラウの声にアシェルはわたしを一瞥したきり何も言わない。その表情は硬く、少しの諦めが見て取れた。
「……ラウ、あなた、どうしてロアに連れられて外に出たの?」
「えっ、えっと。『エルグ』が僕のことを教えてくれて。『僕』は死んでるんだよって。ここに居たら殺されてしまうんだよって。僕あそこにいるのが正しいはずだけど、でもエルグに謝らなきゃ、ならなくて。エルグはずっと僕のこと探してくれてたのに、僕、覚えてないから。だから」
走りながらだからか、途切れ途切れ説明するラウ。それをわたしはゆっくりと理解する。それと同時にアシェルの表情の理由も察することが出来た。彼はきっと、“ここに残るのが正しい”と、そう笑って言ったのに違いない。自分が死ぬことや殺されることなど、彼の考慮材料に入らなかった。わたしは口を開きかけて。
「それと、ルノアに会いたかったから」
照れたように笑うラウを見つめて、そのままの形で固まった。え、と小さく漏れ出た声に、足の速度が明らかに落ちる。え? と声を上げるラウが疑問に思ったのはきっと速度が落ちたことでしょうけれど。
「……わたしに?」
「うん」
白布が揺れる。黒ではない色の髪が陽に焦がされる。当然のように返された言葉に、自分が平然を繕っていられたのかどうかはわたしにはわからなかった。けれど、ラウはそんなわたしに気づかず、ふにゃと表情の力を抜く。
「アシェルに、どうしたいのって聞かれて。わからなくて。考えたけど、分からなくて。でも、ルノアに会いたいなって。そう思ったんだ」
情けない顔で表情を緩めるラウと繋いだ手がじんわり汗を帯びる。夏の日差しが皮膚を焼く。ラウの目の中にわたしが居る。わたし、に? わたしに? 『ルノア』に会いたくて? ……わたし、は。
「ねえ、ラウ」
「何?」
笑う、笑う。笑う、笑え。彼が望むままに、綺麗に笑う。あの日、小さな『ルノア』が願ったように、暴虐に。理不尽に。
それを赦されているかのように、笑え。
「戻る必要はないわ。ねえ、ラウ。お願いよ。一緒に来て頂戴」
ああ、ああ。
――いやね。君は、これからも“
セレス・フェデレの道化をし続ける”のかなって。
エルグの言葉が反芻する。頭の奥がずきりと痛んで、その理由をわたしはようやく拾い上げた。
「あのね、ラウ。あのね。……あのね、わたし、あなたに聞いて欲しい話があるの」
鈴を転がすような涼やかな音色で、精一杯の虚勢で――誇るように。