2.1
濃密な時間の後の気だるさが私を襲っていた。私は軽い目眩を覚えながらも体を起こし、隣で寝ているエリカを見た。彼女は規則正しい寝息をたてて眠っており、白いシーツからは誘惑するように首筋から肩にかけて艶めかしく彼女のきめ細やかな肌が露わになっていた。そっと彼女の艶やかな髪を撫でると、エリカが瞼を上げた。視線がぶつかると、挨拶をするように私は微笑みを送った。彼女もそっと微笑みを返した。
ピカチュウが死んでから三ヶ月程の月日が過ぎていた。しかしながらこれは、二カ月とも、四カ月とも言えるくらい曖昧なものであった。だから私はピカチュウが死んだ日を聞かれたら、分からない。と答えよう。しかし、あの時私は確かに燃え盛る炎の中でピカチュウの事を考えていたし、これからはこのような事が起こらないように自分のポケモンには出来る限りの愛情と面倒を見てあげられるように最善を尽くしているという事だけは言っておきたい。
言うまでもない事だが、ピカチュウの葬儀の直後は相次ぐマスコミの批判やありもしない事実が起こった。そのため私はしばらく軽いノイローゼになっていた。ピカチュウの葬儀における私の態度は瞬く間にカントー地方中に広まった。しかしその中でピカチュウの死はあまり関係ないものとして扱われているようで、私が葬式の時にとった態度というものが完全に一人歩きをしている状況に思えた。
確かにあれは私にもしてはならなかった事だったと言うことは分かっていた。死んだポケモンがピカチュウだから、ではなく全てのポケモンに対してこのような事をしてはならないからだ。だからこのような問題に発展したのだろう。普通のトレーナーならば、咎められる程度で済んだのかもしれない。だが私は別だった。様々な批判や憶測がカントー中を飛び回り、その記事や報道を見るたびに私を苦しめた。そして協会の方ではそのような騒動を受け、私は理事長から教育的指導をされた。話を聞く途中、こういう事になるならば、私は居眠りなんてするのではなかった。と思った。彼の逆鱗に触れる事のないように彼の言葉に対して一つ一つ丁寧に返事を返していたのだが、最後の方には疲れたのだろうか、彼はやけに機械的な口調で話していた。彼の話す内容はよく覚えていなかったが、最後に、カントー地方のトレーナーとして、このような事を再び起こしてはならない。と言った事だけは覚えている。ピカチュウがいないのに、一体どうやってこのような事をするのか。と言い返してやろうと思ったが、その時にはもう肉体的にも精神的にも酷く衰弱していたので、はい。とだけ答えるのが精いっぱいだった。
エリカはそんな中で私の気持ちを察してくれた人物の一人であった。もしかしたら時期的なものも影響していたのかもしれないが、少なくても彼女がいなければ私は未だにポケモンバトルをする気になれなかったと思う。
ピカチュウの葬儀の後、彼女から連絡があった時は何事かと思った。それでも彼女が会いたいと言った時にすぐに会うという約束を取り付けたのは、今日の事を誰かに知ってもらいたかったからであったし、そしてまた弁明したい気持ちもあったからだった。出来るだけ私は平静を装いながら、暇だから別に構わない。と言ったのを覚えている。
彼女が待ち合わせ場所に指定したのは、ハナダシティから少し南に行った所にあるヤマブキシティの喫茶店であった。これは私がハナダシティの郊外にいる事を考慮しての判断だったらしい。私がそこに着いている時には、既に彼女は窓際の席で私を待っていた。私が店内に入ると、彼女は少しだけ首をかしげて私に微笑みを見せた。
まず初めに私はどうしてメタモンに連絡先の書かれた便箋を持たせたのかを聞いた。そんなの、サトシ君にこうして二人で会いたかったからに決まっているからじゃない。そっけない顔で言われたので私は少し戸惑ってしまった。エリカから席に着くように促されたので、向かいあうように座った。私はウェイターにコーヒーを頼んだ。エリカの顔を見ると思いきり視線が合ってしまった。エリカはそんな私の様子など気にしていない様子で、それでピカチュウの葬式はどうだったの? と聞いてきた。呼び出されておいて私の方から話題を出さなければならない事に対して私は違和感を覚えたが、エリカの様子を見る限り別段用事があって呼んだわけでもなさそうだったので、私はタケシの店から出て此処に来るまでの経緯を話した。途中でコーヒーが来たので時々それを飲みながら説明した。
一通りの話が終わるとエリカは私に対して、それは申し訳ない事をしたわね。と言った。私がどうしてそのような事を言うのか、と聞き返すと、私達がサトシ君と会話を朝までしたからこのような事になったんじゃないの。と答えた。そういわれればそうなのだが、決して私はエリカ達のせいではない。と言う事を伝えた。でも、過ぎてしまった事はしょうがないわ。私も小さい頃に育てていたプリンの死に目にジムリーダーの仕事の所為で会えなかった事もあるわ。へえ、プリンを育てていたんだ。うん、そうなの。私は草タイプのポケモンを扱っていたけど、ノーマルタイプのポケモンも好きよ。だから私、ポケモンリーグでは毎年サトシ君の事応援するようにしているの。エリカが昔プリンを育てていたという事を私は初めて聞いた。タケシやカスミの会話の中でもこのような会話はした事が無かったので、私はいつになくエリカの話に深入りしてしまった。私ね、サトシ君がプリンを使っている時びっくりしたの。こんなかわいいポケモンでも、ポケモンリーグで上位に食い込むようなポケモンたちを相手に互角以上に戦えるってことを知った時に。あれは違うよ。私は小柄なポケモンを使うから勝つ事が出来るんだ。でもサトシ君は私がジムリーダーだった頃、ノーマルタイプ以外の……そうね、もっと沢山のタイプのポケモンを扱っていなかったっけ。うん、確かにあの頃は沢山のタイプのポケモンを使っていた。うん、確かに使っていた。でもあの頃と今の戦い方は全然違う。昔はポケモンの力だけを使っていたけれど、最近になってポケモンバトルに大切なのは、攻撃を当てる事よりも、攻撃が当たらないようにポケモンを動かすことだと考える事が出来るようになった。そういう意味では、非常にピカチュウに申し訳ない事をしてしまったように思う。しかしこの言葉の最後は口には出さなかった。
そうだ。私は生まれて初めてポケモンリーグに挑戦する際、オーキド氏に貰ったピカチュウだけではなく、ポケモンリーグを挑戦するまでに出会ったポケモンと一緒に旅をしていた。エリカは私が旅をしている時にジムリーダーとしてポケモンバトルをした事があるので覚えているのだろう。と私は思った。現在そのポケモン達の殆どは逃がしてしまった。それは私がノーマルタイプのみに手持ちのポケモンを整理する際、どうしても面倒を見切れなくなってしまったからであった。ただピカチュウだけはオーキド氏から貰ったポケモンであり、四天王になった際のポケモンリーグでも用いていたのだが、結局はそれ以降のポケモンリーグでは使用することがなくなってしまった。
だがエリカがこの事をよく覚えていたという事には驚いた。その事を彼女に伝えると、ふと微笑みを見せた。それから私はそんな事があったから、と言葉の初めにつけて、今日はそんな事があったからそれを忘れてしまうような所に行きたいな。今思うと、これは非常に素直な物言いだったと思う。彼女は映画を観ましょうと言った。勿論賛成した。
彼女が私に見せてくれた映画は、ひどく滑稽な内容だった。私は日ごろ映画を見なかったので、このような物がコメディ映画なのかと思った。映画の主人公が何かをするたびに私は笑い転げた。エリカは映画の内容を見るよりも、むしろ私を見て笑っていたように思う。しかしながら映画の最後の方では、昨日からの出来事もあって疲れてしまい眠気を感じた。映画の後に彼女が、今夜は何処かに泊まらない? と聞いてきた。私はこれからセキエイ高原まで帰れる気力が無かったし、それになにより彼女と一緒に過ごしていたかったのでそれに同意した。その日はエリカの隣でよく眠った。私はきょう久しぶりに幸せを感じた。
次の日セキエイに帰る際、また今度ね。と言われた。この言葉に返事はいらなかった。それ以来、殆ど毎日エリカに会っている。
私が今夜もエリカに会うためにタマムシシティに出かけようとした矢先、シバが突然私の部屋に入ってきた。どうしたものか、と私が聞くと、いいからテレビをつけるんだ。と大声で言われた。なんの事か分からなかったのか言われるがままにテレビをつけると、画面の中に四天王の大将を務めるワタルの姿が見受けられた。様子を見る限りどうやら記者会見を行うようであった。どうしたものかと私は暫くテレビを見ていたのだが、大勢の記者の前でワタルがなんの前置きもなく口を開いた。――今回のポケモンリーグをもってカントー地方の四天王を引退させていただきます。この言葉を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。会見場内はどっとざわめき、最後の部分の言葉はほとんど聞き取れなかったが、恐らくはこのように言っていたのだという事は、私だけでなく、今こうして直接ワタルの引退表明を聞いている記者たちにも分かった。まもなくしてワタルに大多数の質問が記者たちから浴びせかけられた。シバはそんな私の様子と、大多数の記者からの質問を受けるワタルの両方の姿を書いて溜息を吐いていた。恐らくシバはこの事を事前に知っていたのだと思う。
ワタルが今大会のポケモンリーグをもって引退すると聞いて私が最初に思ったのは、ワタルがどうして引退するのかという疑問ではなく、間も無く今年もポケモンリーグが開催されるという事であった。そしてそこで付け足すようにワタルの事も考えた。しかしながらこの記者会見は私に一つの安堵を与えた。彼もまた一人のポケモントレーナーであったのだ。引退を表明する理由は様々にあるだろうが、恐らくは手持ちのポケモンをもうポケモンバトルではあまり戦わせないほうが良いところまで来ているのだろうと考えられた。年齢的にはまだまだ現役を張ってもおかしくなかったし、彼自身も前回のポケモンリーグ優勝時にはあと数年間はカントー地方のポケモントレーナーとして一線級で戦うとも彼は言っていた。しかしながら私が確実に言えるのは、この引退表明は間違いなくカントー地方の四天王のレベルを落とすであろう。というやけに遠い立場からの物言いであった。
ワタル。カントー地方が生み出したドラゴンタイプ使いにして、十数年もの間(詳しい年数を私は知らない)カントー地方四天王のリーダーに君臨している天才ポケモントレーナーだ。よく私なんかも天才だなんて呼ばれたりもするが、彼の方が間違いなくポケモンを扱う才能は上だとポケモンバトルをするたびに感じる。彼は私とは正反対でとにかく大型ポケモンを使用する事を好んでいた。私は大型ポケモンを扱うトレーナーは戦いやすいと思っているのだが、彼は別格だった。ワタルのポケモンの売りは強靭な肉体と、私が使うような小型ポケモンの攻撃など比では無い程の破壊力だった。どこかの雑誌で、彼が本気を出したらカントー地方は消えてなくなってしまうだろう。というジョークが書かれていた事があった。しかしながらそれは私には冗談で書いてあるとは到底思えなかった。しかし彼の特筆すべき点は此処では無い。彼の本当に特筆すべき点は、自分のポケモンが全力で攻撃した場合に相手のポケモンがどうなってしまうのか、と言う事を最もよく考える事が出来るトレーナーだったと思う。これは彼が一般のトレーナーよりも長い間ポケモントレーナーとしてのトップとして立てている裏付けでもあった。だから相手が格下であると感じたら、相手のポケモンが戦闘不能になってもすぐに戦闘復帰できる状態までしか攻撃しなかったし、また二度と戦闘ができなくなってしまうような攻撃は絶対に行わない人間であった。この事は時々理事長などポケモンリーグの関係者などから指摘される事もあったが、彼はこのやり方を変えようとしなかったし、十数年の間カントー地方のトップとして名を馳せていた。時々私が恐ろしいと感じるのは、私が本気で戦っている時でさえ、彼はどこか手を抜いたような戦い方をする時があるからだ。
そして私はというとそれなりの成績は毎年残しているのだが、ワタルにはどうしても勝てず毎年ワタルの二番手に甘んじていた。ピカチュウを育て屋に預ける前のポケモンリーグではそれなりに良い勝負をしたのだが、それ以降は全くと言っていいほど勝負にならないでいた。私としてもどうにかして勝ちたいとは思っているのだが、小柄なポケモンではワタルの強靭な肉体を持つポケモンにダメージが殆ど通る事が無かった。他にも別の地方の四天王やカントーのジムリーダー等もこぞって彼に挑戦した事があるが、彼は自分の庭であるカントーではこのような相手には負ける事も無かった。それこそ時折苦戦する姿は見受けられるのだが、観客はそれをワタルの戦いの魅せ方だと思っていたし、実際にワタルは苦戦してもバトルで負ける姿を見かけることはなかった。
だから私はワタルが引退するという発言に安堵したのだが、実際のところはどこか心寂しくもあった。まもなくして記者会見が終わると、別の番組が放送され始めた。やはり彼も普通のトレーナーなのだ。噛みしめるように私は呟いた。