機械仕掛けの海
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「……全く、どうして僕がこんなことを」
 マスクとレシートだけが入った、何とも言えない寂しさを覚えるビニール袋を片手にぶら下げながら、幸孝はそう呟いた。思わず零れた溜め息に、パートナーであるクチートが不思議そうにこちらを見る。
 何でもないよ、とクチートに笑いかけてから、幸孝は自分が今の状況……つまり家から遠いところまでマスクだけを買いに行く原因となった妹、明日香のことを思い出す。
 明日香は幸孝とは年がそれほど離れてはいないのもあってか、いつか誰かが聞きそうな「お兄ちゃんなんて嫌い!」というセリフは「今のところ」聞いていない。
 そんな明日香だが、何でも勝負になると自分が勝つまでは絶対諦めず、自分がどのような状態であったとしても勝負を続けようとするのが玉に瑕だ。母である麗子が言うには、明日香のそれは父である博嗣と肩を並べるほどのものらしい。
 幸孝は幼い頃に片手に数えられるくらいしか会ったことがないから実感が湧かないが、何でも博嗣はポケモンのためになることや、歴史や誰かの人生を変えられるくらいすごいことを日夜研究しているのだという。
 まぁ、博嗣についてはぶっちゃけどうでもいいだろう。今重要なのは、その博嗣の性格の一部を受け継いだ明日香のことだ。……幸孝は明日香と今回も、トランプの神経衰弱でおやつのチーズタルトを賭けてちょっとした勝負をした。結果は幸孝の圧勝だった。
 ――圧勝だったのだが、まさかの一ペアも揃えられないとは一体どういうことなのか。いくら何でも、何回か間違えればどこに何があるのかくらいわかるだろう。
「……同じ場面を繰り返すかのように同じ失敗をするのを見て、お兄ちゃんは自分の目を疑ったよ。本当」
 思わず虚空に向かってポツリと呟いてから、幸孝は回想を再開する。彼が明日香の記憶力の悪さに色々と考えていると、案の定負けず嫌いな明日香は目に炎を宿した状態で再戦を申し出てきた。明日香の性格は幸孝もよく知っているので何も言わずに付き合ったのだが、なんと二回目も幸孝の圧勝。
 続いて三回目、四回目、五回目も圧勝……ときて、これはいくら何でもおかしいと幸孝が思い始めた頃――明日香がぶっ倒れた。慌てて幸孝が病院で働いている麗子に電話をすると、幸孝よりも慌てた様子の麗子が飛ぶように帰ってきて、パートナーのラッキーと一緒に大騒ぎしていた。
 麗子が騒いでいるのを見て逆に冷静になった幸孝が一人と一匹を落ち着かせると、さすがは病院で働いていると言うべきか、素早く明日香の症状を見てくれる。その結果、どうやら明日香は風邪を引いてしまったらしいことがわかった。
 風邪と聞いて、幸孝は昨日明日香が自分のパートナーであるマリルと庭でびしょ濡れになりながら何かの勝負をしていたことを思い出す。髪から服まで全て濡れてしまったから麗子にこっぴどく叱られて、幸孝は自分が勝つまで勝負なんかするから……と思いながらその光景を見ていた。
 恐らく、いや間違いなく風邪を引いたのはそれが原因だろう。それ以外、明日香が風邪を引くような出来事が思いつかない。麗子も幸孝と同じ真相に辿り着いたようで、これに懲りたら負けず嫌いも少しは直しなさい、とベッドで熱に浮かされている明日香に向かって言っていた。
 ……恐らく明日香の耳には届いていても、理解はされていないだろう。それでも言いたかった気持ちはわかる。わかり過ぎて逆に辛くなった幸孝は、思わず天(正確には白い天井)を仰ぎ見た。
 それから幸孝も何か手伝えることはないか、と聞いて返ってきた返事。それが「マスクを買ってきて欲しい」というものだった。マスクくらい家にあるだろうと幸孝は思ったのだが、タイミングの悪いことにマスクが切れていて、近いうちに買いに行こうと思っていた最中に明日香が風邪を引いてしまったらしい。
 熱は薬を飲めば数日でよくなるとは思うが、用心は必要である。それなのにマスクがない、というのは確かにダメだろう。
 幸孝は麗子かラッキーが買ってくればいいのにと思ったが、その麗子とラッキーは明日香の看病に付きっきりだし、だったらマリルを、という考えが一瞬浮かんだが、明日香のマリルは致命的な方向音痴だったことを思い出す。
 ……結局、何もすることがなかった幸孝とクチートがマスクを買いに行くことになり、そして今に至る。マスクだけが入った非常に軽い袋をゆらゆらと揺らしながら歩いていると、クチートが幸孝のパーカーの袖を引っ張った。
「……ん、どうしたクチート」
 クチートの方を見ながらそう聞くと、クチートは袖を掴んだまま空いている手で向こう側――海がある方向を指さした。それを見て、幸孝はああ、と納得する。
「波音が聞きたいのか?」
 そう尋ねると、クチートは嬉しそうに「クチィ!」と笑った。あんなもののどこがいいのか、幸孝にはさっぱりわからないが彼女が聞きたいというのだから行こう。
 幸孝は海がある方向へと足を踏み出した。――誰かに後をつけられていて、一度その気配を感じたクチートが不安げに幸孝を見つめたとも知らずに。

* * * * * ―

《ザザー……ザザー……》

 波音が聞こえる。相も変わらず、幸孝には何の面白みもない音が。だが、クチートはそれを聞いてうっとりと目を閉じている。ポケモンにはいい音なのかと思ったが、幸孝達以外いたのはほとんどが電気タイプのポケモンだったことから、単に好みの問題なのだろう。
 クチートはしばらく波音をうっとりとした様子で聞いていたが、やがて満足したのか目を開いて再び幸孝のパーカーの袖を引っ張った。コクリと頷くと、クチートはぺたぺたと先に歩いていく。どうやら先頭を歩きたいようだ。
 どんどん先へと進む彼女を見て、自分もすぐに追いつかなくてはと幸孝が足を動かしかけた、その時。

 ザザーン……

 波の、音が聞こえた気がして。幸孝は慌てて海の方を見た。しかし、そこにはテレビ、ラジオ、スピーカー、パソコンなどで一面が埋め尽くされた光景――先ほどまで見ていた「海」しかない。
「――――」
 見慣れたその光景を視界に入れた途端、視界がぐにゃりと歪み自分の中に知らない「誰か」が入ってきたかのように気分が悪くなった。更に頭も痛みを訴え始めており、突然の具合の変化に幸孝は思わず顔をしかめる。
 それから入ってくる「誰か」を拒むように頭を軽く振るも、気分はどんどん悪くなるばかりだった。これ以上頭を振っても無駄に具合を悪くさせるだけだ、と判断した幸孝は行動を止めると大人しく波が去るのを待つ。
 しばらくして気分がある程度回復したのを確認すると、今度は先ほどの波音を否定する意味で頭を振る。頭の中は「あり得ない」という言葉で溢れかえり、今にも零れ落ちてしまいそうだった。
 幸孝がそういう反応をしてしまうのも、ある意味仕方がないだろう。この数十年で急激に進められた開発によって、本物の海はほとんど埋め立てられてしまったのだから。

 人の新しく住む場所がなくなったから。そう言って海の一部を埋め立てようと最初に提案したのは、一体誰だっただろうか。ジムリーダー? 四天王? チャンピオン?
 いや、ポケモンを心から愛する彼らがそんな提案をしたはずがない。恐らく会社の偉い人間や、巨大組織のトップなどが言い出したのだろう。
 海を埋め立てるなんて認めない、という組織が一時期派手に暴れていたこともあったが、対立していた組織と一人のポケモントレーナーの手により解散させられた、という噂を麗子から聞いたことがある(もう片方の組織がどうなったのかは、明らかにされていない)。
 そういう風に一時期反対する動きがあっても、賛成する動きによってことごとくねじ伏せられてきた。その結果海はどんどん埋め立てられ、それと同時進行するかのように科学も発達していった。
 「古い」もの達はあっと言う間に見向きもされなくなり、常に「新しい」もの達が注目される。「新しい」からと買ってもすぐ「古い」ものになってしまうのだから、発達のしすぎも考えたものだ。
 ……次々と出た「新しい」ものにより、役目を追いやられた「古い」ものはどこへ行くのか。簡単だ。海が埋め立てられてできた新しい場所に捨てられる。人が住むために埋められたのに、物を置かれるために使用されるとは……皮肉なものである。
 そうやって様々な「もの」特に機械が捨てられ続けた結果、幸孝達の身近にある「海」は科学の進歩により不要と判断された機械達で造られたものになっていった。波音は機械達のどれかから発せられるもので、本物の波音ではない。
 リサイクル技術にもっと目を向けていれば、この光景は生まれなかったのかもしれないという思いに、「幸孝」は過去に戻ってあの眼鏡の男を殴りたい衝動に駆られた。それをぐっと堪えてから、ふと新たな考えが芽生える。
 リサイクルもそうだが、反対の声に耳を傾けてどこがどうダメだから反対されるのかを知ればもう少しいい結果が待っていたのではないのだろうか――という、普通ならすぐに出てくるような考え。それをなぜすぐに思いつかなかったのか、と「幸孝」は自分のアイデアの引き出しのなさを悔やんだが、もう過ぎたことにあれこれ言っても仕方のないと気持ちを切り替える。
 しかし、気持ちでは切り替わっても体はついて来なかったのか「幸孝」は自然と俯いてしまっていた。意図せず切り替わった視界の中に、海に遊びに来たらしいピチューの姿が飛び込んでくる。
 海を見ながら楽しそうに仲間のピチューと戯れるその姿を見て、灰色に染まっていた心に白の波紋が広がった。それで頬も緩みかけたが、ふと飛び込んできた石によって広がった黒の波紋が緩みを止める。
 ――「幸孝」達の傍にはポケモンがいてくれるが、それもいつまでのことだろう。環境が変わってしまったことで、水タイプだけではなく草タイプのポケモンの多くは人があまりいない場所へと移動してしまった。その事実は繰り返し流れるニュースで、耳にオクタンができるほど知っていた。
 草タイプや水タイプのポケモンを連れているトレーナーをあまり――いや、ほとんど見たことがないのが、その証拠だろう。明日香がタマゴの頃からかわいがっていたらしいマリルも、何回も人に狙われたことがあるらしい(もちろん、狙われる度に幸孝と麗子で撃退していたようだが)。
 自分達のことを優先していった結果、大切なものを失ってしまった。この「機械仕掛けの海」は、それを「幸孝」達に教えてくれている。

 ――これ以上、失うわけにはいかない。

 そう両の拳を握りしめた時、ふと数日前麗子に将来の夢は何なのかと尋ねられ、この年齢になってもまともに答えられなかった記憶が浮上してきた。海を見て、幻の波音を聞いて、あちこちに散らばっていた何かが混ざり、ハッキリと形を成したと幸孝はぼんやりと思っている。
 家に帰ったら、いや少なくとも明日香の風邪がちゃんと治ったら、そのことを伝えてみよう。ちゃんと言葉にできるかどうかわからないが、何もしないよりはマシなはずだ。
 そう幸孝が考えていると、「幸孝」の耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。

「クチィ――!!」

 声が聞こえた方向に視線を動かすと、いつまで経っても「幸孝」がついて来ないことに気が付いたのか、頬を膨らませたクチートがこちらに向かって走ってきたのが見えた。
 彼女はかなり怒っているのか、目の前まで来た途端クチクチと言いながら「幸孝」の足をポカポカと叩く。怒っていても叩く程度で済んでいるのだから、本気で怒っているわけではないのだろう。
 ……彼女が本気で怒ったら、叩く程度では済まないことを『幸孝』は知っている。
「ああ、ごめんごめん。今行くから」
 そう言いつつクチートの頭を撫でるが、彼女の中で「幸孝」は「何を言っても動かないやつ」になってしまったらしい。ぐいぐいとパーカーの袖を引っ張り、無理やりにでも連れて行こうとする。
 このままではクチート自慢の大顎でずるずると引きずられていくと考えた『幸孝』は、彼女に引っ張られた状態のまま歩き出す。……歩き出しても手を離されないとは、彼女の中で「幸孝」の評価はどれだけ落ちてしまったのか。幸孝は気になったが、「幸孝」が今はそれどころではないとその考えを無視する。
 歩きながら、機械仕掛けの海を見つめる。今日明日香が風邪を引いてしまったのも、クチートが海に行きたいと言ったのも、幸孝の将来の夢がきまったのも、全てが全て偶然なのかもしれない。
 だが、「幸孝」はこう思うのだ。

 ――これは、偶然が複雑に絡まり合った「必然」だったのだと。

 裾を引っ張る力が一段と強くなった。明日香とこれからの幸孝達のために、早く家へと帰りたいのだろう。彼女の思いに答えるためにも、「幸孝」は歩みを早める。

 ザザーン……

 海が視界から完全に見えなくなる直前、またあの波音が聞こえた気がした。『幸孝』のことを応援してくれているのだろうか。
「叶えられるかどうか、わからないけど――やるだけやってみよう」
 拳に力を入れると、あの頃と何ら変わっていない灰色の空へと視線を移した。

― ― * * * ―

 しばらく歩いていると、家の前でこちらに向かって懸命に手を振っているマリルの姿が見えてきた。いや、手を振りすぎてさすがに疲れたのか、今は尻尾を代わりにぶんぶんと振っている。
 尻尾の先が形状からして少し重そうなのによくあれだけ勢いよく振れるな、と「幸孝」はマリルの力につい感心してしまったが、それはぶっちゃけどうでもいい。
(――ああ、もうすぐあいつらが待っている場所に着くんだ)
 そう実感すると、「幸孝」の口元は自然と上がっていった。数十秒後、自分がいつの間にか笑みを浮かべていることに頬の感覚で気付いた「幸孝」は、慌てて顔を引き締め「通常」を装う。
「クチィ!」
 玄関に着くまでの僅かな間も、クチートはパーカーの裾をしっかと掴んだまま離そうとしない。だが、これは「幸孝」を動かすためと言うよりも、単に「幸孝」から離れたくないからという理由でやっている気がして仕方がない。
 そうだと考えるとこちらをチラチラと見ているのも何だかかわいく思え、そんなに引っ張られ続けると裾が伸びてしまう、という文句も喉を通り過ぎる前に消えていく。 消えた文句をただ見送る中、『幸孝』は思わぬ発見に「記憶に間違いがなければ」出かける前よりも確実に伸びてきた袖を眺めることしかできなかった。
 マリルがそんな「幸孝」達を見てニコニコとしている。それをおぼろげながらも理解した幸孝が腹を立てている間に、一人と二匹は玄関へと辿り着いた。
 ありふれた形のドアを見て、「幸孝」の気持ちが一気に緩む。そのせいか、ついぽつりと本音が零れてしまった。
「さて、どうやって馴染んでいこうかな。研究ばかりしていたせいか、演技には少し自信がないのだが――」 
「幸孝」の呟きが聞こえたのか、クチートがこちらを振り返って不思議そうに首を傾げた。マリルもきょとんとした顔をしている。あのことで頭が一杯で、うっかり彼らのことを忘れてしまっていた。これではいけない、と「幸孝」は気を引き締める。
 何でもないよ、と二匹に笑いかけてから、「幸孝」はドアノブをゆっくりと回した。




 ――否、回そうとした。だが、できなかった。「幸孝」がドアノブに手を触れた瞬間、視界の端でクチートの大きな顎が開かれたのを捉えた。

 その直後、世界が暗い赤に染まった。

 ――ねぇ、あなたは一体誰? わたしのご主人様じゃないよね? ご主人様を、一体どこへやったの? 返して、わたしのご主人様を。返して、返して、返して……返せ。返せ、返せ返せ返せ――

 脳までもが赤に染まる直前に聞こえた「ポケモン」の声は、今まで被っていた「優しさ」という名の仮面を脱ぎ捨てた、とても冷たく狂気に満ちたものだった。
「――――」
 どこからかドアを開ける音と、マリルの鼓膜が破れるかと思うほど大きな悲鳴、クチートのご主人様という呟きや彼女がすすり泣く音が聞こえた気がした。

雪椿 ( 2018/10/07(日) 22:51 )