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研究所のとある部屋。そこでは強烈な睡魔にでも襲われたのか、人間が椅子から崩れるように寝息も立てずに眠りこけている。起きているのは、かわいらしい三匹のポケモンのみだった。
「上手く、いったようですね」
灰色の光が消え、一人の男性の姿のみが映るモニター画面を見つめながら、グレイシアはリーフィアに向かってそう言った。「ポケモン」の言葉ではなく――「人間」の言葉で。
リーフィアはその言葉を聞くと緊張した顔つきから一転、ぱあっと顔をほころばせたかと思うと、パタパタと早いリズムで尻尾を振り始めた。その勢いが少々激しくて時々グレイシアに当たってしまっているが、グレイシアは少しリーフィアを睨むくらいで特に何も言わない。
二匹の傍にいたニンフィアはその光景にふっと目を細めると、ただクスリとだけ笑った。二匹を見つめるその眼差しは優しさに満ちており、母親が愛する我が子を見るのと似たようなものを感じられる。
「これでお父様の願いが叶うね!」
リーフィアがニコニコとした表情のまま、嬉しそうに二匹の周りを走り回る。危ないですよ、とグレイシアが言ってもリーフィアは走るのを止めない。
「あうっ」
すると、案の定というか何というか、リーフィアは突然現れた何者かにぶつかり額を強打してしまった。ほんのりと赤くなった額を擦りながら、危ないな〜とリーフィアは自身とぶつかってしまった者を僅かに涙が浮かんだ目で見る。
「……あ」
リーフィアはその者を見ると顔をさぁっと蒼くして、素早くグレイシアの後ろへと隠れてしまった。そんなリーフィアをやれやれと言った様子で見ていたグレイシアとニンフィアは、視線を静かに目の前に立つ者の元へと移す。
敬一はリーフィアがぶつかってきたことに少し機嫌を悪くしたが、それが気にならないほどに気分がよかった。なにせ、長年の夢が遂に叶うのかもしれないのだから。
静かに視線をスライドさせると、茶色と水色――敬一とニンフィアの目が合う。ニンフィアの目に穏やかな光が宿ると、自然と敬一の目にも穏やかな光が宿った。その様子に顔を蒼くしていたリーフィアが、恐る恐るといった様子でグレイシアの後ろから出てくる。
「お父様……?」
リーフィアが耳を後ろへ移動させながらそう尋ねると、グレイシアが無言でリーフィアの背中を尻尾で叩く。突然の痛みにリーフィアが目尻をつり上げながら睨みつけると、グレイシアはわざとらしく咳払いをした。
なぜいきなり咳払いをしたのかとリーフィアはしばらく首を傾げていたが、グレイシアがしきりにニンフィアと敬一に視線を送ったことでようやく理解し、数少ない穏やかな時間に水を差してはならないと慌てて口をつぐむ。
しかしその頃には敬一はとっくにニンフィアから視線を離しており、リーフィアとグレイシアのやり取りを真顔で眺めていた。その事実に気付いていたグレイシアは自身の体温が更に下がるのがわかった。
だが、敬一はグレイシアが思ったこととは反対に三匹の頭を優しく撫でると、モンスターボールを白衣のポケットから取り出し、三匹をその中へとしまった。
ボールをしまったのと反対側のポケットから、発行されてからかなりの年月が経っているのかボロボロになり、コーヒーのシミなどでところどころ文字が見えなくなった新聞を取り出しある記事を見ると、フッと笑みを浮かべる。
敬一はかつての友――博嗣と見た海を見たことがきっかけで、ある勝負をすることになった。提案者は他ならぬ自分ではあったが、今から思えばあれが敬一と博嗣の研究の始まりであり、博嗣が敬一にとって更にいいライバルとなった出来事なのだろう。
博嗣は一緒に働いていた時から優秀で、こんな自分でもいいライバルだと言ってくれていた。風の便りによると、博嗣の息子である幸孝(ゆきたか)も彼と肩を並べるほど優秀なのだという(娘である明日香については「かわいい」としか聞かないので、除外する)。
しかし、何もやることが見つからず、ただその才能に埃を被せているのが勿体ないとも聞いた。実際、あまり顔を合わせたことがないというのに博嗣が何度も褒めるものだから、こっそりと見に行ったことがある。そして行動を見て、確かに勿体ないと思った。
敬一が見た様子だと、彼は埃を払う気がさらさらない。どうにでもなれ、という感じにも思える。頭の回転やひらめきなど、研究や計画を実行させるのに欠かせないものを虚無に葬ろうとしているのだ。これではいけない。
だから、敬一は決めた。自分の研究でその埃を払いのけることを。しかし現実は無常なことに、研究で敬一は埃を払えるほどの力を得ないことを知る。どうしたものか、と頭を抱える敬一の耳に飛び込んできたのは、博嗣の研究内容だった。
内容は博嗣にしか思いつかないようなものであり、敬一の理想を実現できる可能性を秘めたものだった。こっそりと博嗣を研究対象にして結果を見たが、博嗣は敬一が求めていた力の一つ(ゴーストタイプ)も持っていた。
これだ、と敬一は思い、そのタイミングを狙った。かつての友と言えど、今も昔もよきライバルであることには変わりない。
どんなことをしてでも勝ちたいと思って、何が悪い。そう敬一は無意識のうちに自分を正当化しつつ、博嗣のものとそれほど変わらないレベルの負けず嫌いを、これまた無意識のうちに発揮していた。
「――この勝負、僕の勝ちだな。さぁ、始めようか」
そう言い終えると、敬一の姿はまるで煙のようにかき消えた。残ったのは、敬一が新聞を取り出した時に落としたらしい、海賊のような服を身に着けた者達――かつてのアクア団員が集まっている風景が切り取られた古い写真と、機械仕掛けの海の写真だけだった。
* * * * * ―
研究所から離れ、敬一が始めに向かったのは幸孝達がいるであろう家ではなく、彼の自宅だった。これから敬一がやろうとしていることは、理論上は安全だとわかっていても実際はどうなるのか敬一自身にもわからない。
不安要素は少しでも排除しておくべきだ、と考えた敬一はリビングのテーブルの上にニンフィア、グレイシア、リーフィア――彼の妻である有紀(ゆき)、長女の奈央(なお)、次女の理央(りお)が入ったモンスターボールを置く。
敬一が彼女達を研究の実験対象にしたいと言い出した時、有紀や理央は反対するどころか逆にポケモンになりたがっていたが、奈央だけは反対していた。しかし、母親や妹の意見が覆ることはないと知ると、仕方なくという感じで敬一の提案を受け入れていた。
彼女達がポケモンになった時、全員がイーブイの進化形だったことから血縁により変化する種族も決まってくることがわかった。それも大きな収穫だったが、三匹を見たイーブイが嬉しそうに尻尾を振っていたことが一番の収穫だったと言えよう。
そんなことを思い出しながら彼女達の隣にハブネークが入ったボールを置くと、ソファーで眠りについていたパートナーの頭を撫でる。イーブイ、いや今は先日研究の資料をまとめている最中に進化しエーフィとなった彼女の藤色の毛の柔らかさや暖かさを感じていると、閉じていた瞼がぱちりと開いた。
「……ふぃー?」
紫色の目で敬一を見つめ、不思議そうに首を傾げるエーフィに何でもないよ、と笑いかけると赤い宝石が輝く額にコツンとボールを当てる。
赤い光がしゅるしゅると収まりやがて消えたのを確認すると、敬一はボールを静かにテーブルの上――具体的にはハブネークの入ったボールの隣に置く。そしてテーブルの上を数分眺めた後、敬一は家を出て行った。
― ― ― ― ―
誰もいなくなったリビングに置いてあるテーブルの上。その中のボールの一つがカタカタと揺れると、赤い光と共にエーフィが飛び出してきた。エーフィはサイコキネシスで補助具など彼女の行動を妨げていたものを外すと、うーんと大きく伸びをする。
敬一は気付いていないようだったが、エーフィの前足は進化した時にすっかり元通りになっていたのだ。ポケモンは進化した時、その強大な力で体を作り変える。その効果が怪我も回復させるとはなぜ思わないのか。
エーフィの場合は怪我をした部分が思った以上に悪く、完全に治すまでの力を体に蓄えるのにかなりの時間を必要としてしまった。彼女がその事実は気付いたのはちょうど進化している最中だったのだが、気付いてからは小躍りしたい衝動に駆られた。
敬一のことを確かに好きだったが、それと同時にどこか鬱陶しくも感じていた。進化してからはその比率が逆転し、「鬱陶しい」以外の感情は抱きにくくなっていた。恐らく「好き」という感情は、進化に必要なエネルギーの一部として消費されてしまったのだろう。無意識のうちに蓋をしていた感情が、進化を期に一気に溢れ出しただけかもしれないが。
イーブイだった頃に前足が不自由になってから、彼女はこの世界を照らす「太陽」のような存在として扱われていた。その扱いの通りに「太陽ポケモン」となってしまったのは、何という皮肉な「偶然」だろうか。
エーフィはY字にわかれた藤色に尻尾をふわりと揺らすと、サイコキネシスで自分を捕らえていたボールをぐしゃりと破壊し、ついでとばかりに他のボールのスイッチも破壊した。
ハブネークや有紀達にこれといった恨みはない。むしろ有紀達はイーブイだった頃にいい話し相手となっていただけに、感謝の念しかないくらいだ。
しかし、スイッチを破壊して出てこられないようにしないと異変に気付いてエーフィを捜しに来てしまうかもしれない。いい加減自由を手にしたかったエーフィにとって、それは何としても避けたいことだった。
スイッチの破壊音に異常事態を察したのか、ハブネークが入ったものを始めとするボールがガタガタとテーブルから落ちそうな勢いで揺れる。
実際にテーブルからボールが落ちても誰も出てこないのを見て、エーフィはホッと息を吐いた。閉じ込められる結果になった彼女達がどうなるかが少し心配だったが、敬一が戻ったらすぐにどうにかしてくれるだろう。
敬一がこの家に戻ってくると信じて疑わなかったエーフィは、サイコキネシスで扉を開けると優雅な足取りで家を出た。そして超能力で敬一のいる場所を探ると、それとは真逆の方向に歩き出した。
こうして、敬一の知らないうちに彼の「太陽」は街中に姿を消してしまったのである。もし誰かがこのエーフィを街中で見かけても、珍しい野良エーフィとしか思わないだろう。
彼女はもうボールに囚われていないのだ。偶然偵察に来ていたチャンピオンに見つかり、ジュカインによって痛めつけられた後捕まえられても文句なんか言えない。言おうとする方がおかしいと言う者もいるだろう。
更に、捕まえたはいいけど弱かったからという理由で棄てられ、ゴミ山の上で慟哭(どうこく)したとしても誰も同情してはくれない。もし同情するとしたらハブネークや有紀達だろうが、皮肉なことに彼女達はボールから出られていないので、エーフィの身に起きた悲劇を知ることすらできていなかったのである。
* * ―
記憶の中にある地図を頼りに敬一が幸孝の住む家を目指していると、ふと視界の端に「若かりし頃の博嗣」が見えた気がして歩みを止める。そんなはずはない、そう思いながらも「博嗣」が見えた場所に視線を彷徨わせる。
コンパクトな空飛ぶ車が行きかう道路越しに映る顔を見失わないよう歩くスピードを調整し続け、やっとその正体に気が付いた。彼は敬一が捜していた幸孝その人だったのだ。
「しばらく見ない間に、ずいぶんと父親に似てきたものだ……」
敬一がそう呟いていると、中身が入っているとは思えないビニール袋をぶらさげた幸孝は彼のパートナーであるクチートと何かを話し、街の隙間へと消えていく。
これは行く手間が省けた、と小さく笑みを浮かべた敬一は以前の名残が全く残っていない、まるでよくできた模型のような街の空気に姿を溶け込ませると、道路をすり抜けこっそりと彼らの後をつけ始めた。