機械仕掛けの海
V
 敬一があの勝負を提案してから、かなりの年月が経った。結婚して子供が生まれるなど環境が変化していく中、二人は様々な方法を思いついては「勝ち」のために動いた。
 しかし、元アクア団だった彼らの意見を世間はなかなか認めてくれず、またどちらかが認められかけても片方が認めず言い合っているうちに「白紙」に戻される、というのを繰り返していた。
 博嗣は方法を思いついては提案、という形をしやすくするために「過去を気にしない」ある博士の元で助手として働いていたが、数年前からは一人の博士として研究所を持つまでに成長していた。
 敬一も似たような形で博士となっており、二人は知る人ぞ知る名物博士とまで言われる存在になっていた。二人の過去を知った人間の中には怪しい目で見る者もいたが、被害と呼べるような被害はこれまでなかったことや目的が目的だったため、厳しい批判も表面上はなく、二人は比較的安定した生活を送っていたと言えるだろう。
 
* * *  *

 博嗣がある研究を成功させ、研究室でピカチュウやザングースと共にその資料をまとめていると、コンコンと部屋の扉がノックされた。資料を運ぶように言った間宮が戻ってくるにはまだ早い気がするが、誰だろうと首を傾げながら博嗣が扉を開ける。
「敬一じゃないか、どうしたんだ?」
 そこには、名物博士と言われるようになってからはあまり会う時間が取れなかった敬一がいた。毎日の研究で疲れているのか、髪はボサボサで目にはうっすらとクマがあるのが見える。
 なぜ急にと博嗣は考えたが、恐らくあの研究が成功したことを知ったからだろう、と思いそれに納得した。どうやって知ったのかは不明だが、研究所内であれだけ騒がれているのだ。敬一の研究所にまで噂が行っていても何ら不思議ではない。
 いよいよ勝敗がつく時か、と博嗣が自然と唾を飲み込んだ時。敬一は無言で白衣のポケットから拳大の七色に輝くキューブ状の何かを取り出し、いくつかのスイッチらしきものを押すと、勢いよくこちらに向かって投げつけてきた。
「な!?」
 博嗣が慌てて避けようとするも、扉一枚しかない距離で立っていたものだから、いくら反射神経がよくても避けきれるものと避けきれないものがある。博嗣の場合は後者で、避けようとしたものの七色のキューブが肩に当たってしまった。
「……うっ」
 当たった途端、キューブがポンと小さな音と立てて七色の煙へと変化し、しゅるしゅると博嗣を包み込んでいく。この煙は吸ってはいけないと感じ、口を閉じるも、煙はまるで意思を持っているかのように鼻や耳から侵入してくる。
 煙に体の細胞すらも変えられていくような感覚に吐き気に似たものを覚えていると、ふっと煙が消え去った。
「敬一! 今のは一体……」
 そう言おうとするも、博嗣の頭の中はまるで先ほどの煙が渦巻いているかのようにぼんやりとし、声が形にならない。目の前の景色は霧がかかったかのように不鮮明となり、自分が今立っているのかすらもわからなくなってしまった。


「あ、あ……」
 言葉にならない声を発する博嗣を見て、口元をスッとつり上げた敬一は彼の変わってしまった腕を掴むと、研究室の奥に置いてある、彼の研究の成果でもある機械が置いてある場所を目指していく。
 それを見て、主人の突然の変化に驚いていたピカチュウやザングースは書類が落ちるのも構わずに攻撃態勢を取ると、一斉に敬一に向かって飛び掛かってきた。
 電撃や鋭利な爪が敬一を襲うのだから焦るかと思いきや、彼の表情は変わらない。敬一はチラと開けっ放しの扉に視線を送ると、小さな声でこう言った。

「……やれ」

 刹那部屋に入ってきたハブネークが、二匹に躍りかかった。黒、紫、白、赤、黄色が敬一の視界の中で踊るも、すぐに参加者は黒と紫だけになる。チロリと舌を出して帰ってくる
 ハブネークをすぐさまモンスターボールにしまうと、敬一は念のために機械がある場所以外のところも眺めた。
 すると、テーブルの上に置いてあった二匹のモンスターボールに目が行く。博嗣の腕から手を離してその近くに行くと、彼からは見えない位置で踏みつぶし、注意深く見ないとわからないだろう場所に蹴りやった。
 欠片が見えないことを確認してから、まだぼんやりしている博嗣のところに戻ると敬一は再び彼の腕を掴み、機械のある場所へと歩き出す。そして機械の前へと着くと、博嗣と自分にコードで繋がった小さな機械を取りつけ、予め調べておいた操作方法に沿って動かし始めた。
 数分後、研究室の扉から灰色の光が漏れたが、すぐに弱まり消えていった。

*****

 誰もいない研究室。そこで、一匹のヨノワール――否、博嗣が壁にもたれかかって、何もない空間を眺めていた。彼の傍にはパートナーである……いや、正確にはパートナー「だった」ピカチュウとザングースが静かな眠りについている。
 彼らには結果としてかなりの迷惑をかけてしまった、と博嗣は罪悪感に心を視えない縄で締め上げられるのを感じた。無意識のうちに頬を熱いものが流れていくのを感じながら、ほとんど力の残っていない手でそっと柔らかな黄色い毛と白の毛を撫でた。
 その体は毛のお蔭か時間がそれほど経っていないからか、まだ温かい。そのことに頬から流れる熱の量が増えた。
(なぜ、私はこんなにも負けず嫌いなのだろうか。あの時素直に負けを認めていれば、こうはならなかったというのに)
 始まりとなったあの海と勝負の内容や数々の「あの時」を思い出しつつ、視線を天井へと移す。真っ白だった天井にはところどころ汚れがついていて、偶然泣き顔のように見える汚れと視線が合う。まるで今の自分の顔をそのまま見ているかのようだ、と博嗣は思った。
 ゆっくりと、だが確実に瞼が重たくなってくる。敬一は自分の研究所に来て突然何かをした後姿を消したが、一体何をしに来たのだろう。いや、誰かに尋ねなくてもわかる。
 意識が曖昧になる前に見たあのキューブ。あれは恐らく敬一が研究していたものの「成果」そのものなのだろう。それを自分に使い、姿を消した。この体が異常なほどに弱っていることは、博嗣が研究していた内容のデメリットとあまりにも酷使している。
 つまり、敬一は自身の研究の成果を博嗣に見せた後、意識が曖昧なのをいいことに自分を使って研究を盗んだのだ。様々な意味でとんでもないことをしでかしたあの男は、どこで何をしているのか。このことを知らないであろう研究員達は無事なのか。妻は、子供達は大丈夫なのか。
 様々なことが博嗣の脳裏を駆け巡るが、最後に過ぎったのは目の前にいるパートナー達のことだった。
(ああ、仲間や家族のことよりもパートナー達のことが最後に過ぎるとは……。妻や子供達に文句を言われても、何も言えまい)
 苦々しい笑いが零れるのを感じながら、目の前にいるパートナー達をこのままにしておけないと思った。パートナー達の後を研究員達に託すのは何だかモヤモヤするし、かといってこの体ではもうモンスターボールは持てないだろう。
 ふと、視線がヨノワールとなった自身の体に落ちる。視界に映ったのは、腹にある巨大な口だった。今はピタリと閉じている口を見て、博嗣は通常では考えられないことを思いついた。

 静かだった研究室内に音のないメロディーが鳴り響く。そのメロディーは博嗣の脳内でしか聞こえなかったが、とても美しく儚げなもので――まるでオルゴールのようだと彼は思った。

(……これで、一緒だな。いつまでも。どこに行っても)

 床一面に紅い液体が広がり、尻尾や耳だったものがあたりに散らばっている。こんな状態でよくここまでできたものだと自分で自分を褒めながら、満ち足りた心で博嗣は暗くなる世界にその身を投げ出した。

 ザザーン……

 常闇の世界がヨノワールを包み込む直前、彼の耳に届いた波音とポケモンと青年達の笑い声は、彼が無意識のうちに思い出した大切な過去のものだろうか。
 それとも復讐の仮面を被った男と、様々なことが原因で神経衰弱を患ったことのある男が、ポケモン達と共に悪しき思い出を赤い波音で消した、壊れかけの過去のものだろうか。
 それは誰にもわからない。博嗣本人や、その家族でさえも。
 博嗣がこのような運命を辿ってしまったのは、一つ一つは単なる偶然だったのかもしれない。
 だが、彼はこう思うのだ。

 ――これは、偶然が複雑に絡まり合った「必然」だったのだと。

― * ― * ―

「――なぁ、三雲博士がどこにいるか知らないか?」
 とある研究所の廊下で、眼鏡をかけた男――間宮 晴信(まみや はるのぶ)が糸目の男――岬 翔太(みさき しょうた)にそう尋ねた。その腕には今にも崩れ落ちそうなほどの書類を抱えている。翔太はそれを見て、疑うような目を隠すことなく晴信に向けた。
 しかし、晴信は真剣な目でこちらを見ている。抱えている書類はまるであってもないかのような態度だ。
(……どうやら、書類を運ぶのを手伝えとは言われなさそうだ)
 自身の視線が糸目によりわからなかった可能性をあえて排除しそう結論付けると、翔太はその問いに答えた。
「いや、知らないな。どこにいるのかさっぱり見当もつかない」
 翔太が首を横に振ったのを見て、晴信はうっかり書類を落としそうになる。書類の束がぐらりと揺らいだのを見て翔太が半歩退いた時、どうにか体勢を立て直した晴信はハァと深い溜め息を吐いた。
「お前も知らないのかよ。……博士、一体どこに行っちまったんだ?」
 眼鏡の奥の目が疲労により暗くなりかけているのを見て、翔太は同情の視線を向けると共にふと思ったことを口にした。
「だよな……。それにしても三雲博士、本当に成功させるなんてすごいよな」
「ああ。何でも三雲博士のライバルである漆原博士が『人間をポケモンに変化させる』研究をしているのに対抗してのものって聞いて、どうかと思ったんだが。どんなものでも、やろうと思えばできるものなんだな!」
 翔太が「あのこと」に関することを口にした途端、晴信の眼鏡がキラリと光り暗くなりかけていた目がみるみると輝いていく。その変わりように翔太の口元が少し引きつりかけたが、気持ちもわからなくはないので素直に頷いた。
「全くだ。『ポケモンの様々な能力を、そっくりそのままその身に宿す』研究なんて、三雲博士くらいしか思いつかないよな。博士の手持ち、よく手伝ってくれたよな」
 翔太が書類やら何やらを持たされ、あちこちに走り回るピカチュウやザングースを思い出していると、晴信がそういえばという感じで口を開く。
「ああ、そうだ。三雲博士の手持ちと言えば……博士、ヨノワール持っていたっけ?」
「ヨノワール? 確か持っていなかったはずだが。一体どうしたんだ?」
 何を一体どうすれば、博士と何の関係もないヨノワールの話題が出るのか。そのことを不思議に思いつつ、翔太は理由を言うよう視線で促す。
 晴信は少し眉を下げると、ある方向――自分達がいる場所とはかなり離れた、確か特別研究室なる部屋がある方――に視線を向けた。
「さっき誰もいない研究室で、かなり弱った状態のヨノワールを見つけたんだ。周りはとても酷い状態で、三雲博士のモンスターボールは全て壊れていた。俺は運がいいのか悪いのか、博士がどんなポケモンを持っているのか知らなくてな。博士がいつも持ち歩いていた家族の写真を持っていたから、てっきり博士の手持ちなのかと思ったんだが……」
 ヨノワールは意識を取り戻すかどうか不明だから、今のうちに連絡して様子を見に来て欲しかったんだが……と呟く晴信に、翔太はある可能性を話す。
「だったら、漆原博士の手持ちじゃないのか? 少し前、ここに来るのを見かけたから――」

* *

 晴信の姿を見送った後、ヨノワールがどういう状況で見つかったのかがふと気になった翔太は、やるべきことを記憶の片隅へと追いやってから研究室へと向かった。
「えーと、ここの近くだったよな……」
 記憶の中にある地図と現在地を照らし合わせ、進んでいくと扉が開けっ放しの部屋の存在に気が付いた。記憶の中の地図と比べても大体合っていることから、恐らくここが目的地なのだろう。
 とても酷い状態、と聞いたからとっくに警察が来て規制線の一つや二つは張られているかと思ったが、案外そうでもないらしい。そのことに更によくない好奇心を掻きたてられた翔太は、扉が開けっ放しでも一応壁を軽くノックしてからそうっと部屋へと入った。
「……っ! 何だよ、これ!!」
 片足が床に着いた直後、翔太は目の前に広がる光景に糸目を限界に開いて固まった。確かにこれは「とても酷い状況」で、暢気に書類を抱えて博士を捜せる状況ではない。
 なぜ晴信はこの光景を見て「眼鏡の奥が暗くなりかけている」程度で済んでいるのか。博士の研究内容について触れられただけで、あんなにも目を輝かせられるのか。尊敬などの感情があったにしても、翔太だったらこの光景を見たら研究内容について触れられてもいい反応はできないだろう。
 眼鏡をかけた男に軽い恐怖を抱いていると、モンスターボールがどこにもないことに気が付いた。晴信はボールが壊れていたと言っていたから、あるにはあるのだろう。
探せば見つかるとは思うが、翔太はこれ以上部屋に入りたくなくて、入っていた片足を再び廊下へと移動させる。
 靴の裏を必死に廊下の床に擦り付けて「踏み入れた」ことをなくそうとしていると、ふと視界に必死に入れまいとしていた「もの」が映り込んでしまった。

「――――――!!」

 「それ」をはっきりと目にしてしまった翔太は遂に限界を迎え、その場に白目をむいて倒れてしまった。
 しばらくしてから意識を取り戻した時、彼が大慌てで警察に連絡するのは火を見るよりも明らかだろう。そして、研究所の周りでは赤く揺れる波音が響き渡るに違いない。

雪椿 ( 2018/10/07(日) 22:44 )