プロローグ
森に爽やかな風が吹き渡り、木々や落ち葉を揺らしていく。そんな爽やかな空気の中で、一匹だけ大変不快そうなポケモンがいた。そのポケモンは自分の前にいるもう一匹のポケモンを鋭い目つきで睨みつけている。
「……僕をこんなところに連れてきて、一体どういうつもりなんだい? 本当は僕が君を連れて行くはずだったんだけど」
太陽の光を反射して銀色に煌めく毛。ピンと立った三角の耳。緩やかなカーブを描いて天に伸びる九つの長い尻尾。そして他の者とは違い、このどこまでも晴れ渡る空と全く同じ色の、瞳。
普通の「色違い」とはまた少し違うキュウコンは、睨まれても尚楽しげに笑うポケモンを見て更に苛立ったのかチッと舌打ちをする。その様子にポケモンは不思議そうに首をコテンと傾けた。
「あれ? キュウコンさんはあそこから『逃げたかった』んじゃないの? あの時、そう言っていたじゃないか」
――だから、ボクが連れだしてあげたんじゃないか。君は苛立って見せているけど、本当は開放されて嬉しかったんだろう? 今すぐにでも手にした「自由」を噛みしめ、この大地を駆けまわりたいんだろう?
若葉色の体。一見すると茶色い皮を取った玉ね――いや、「あの野菜」にも見えなくない頭。背中から生える妖精のような羽。キュウコンと似た色の、大きな瞳。
かの幻のポケモンであるセレビィは、そう言ってまた楽しげに笑った。先ほどからずっと喜びの悲鳴をあげている心を見透かしているかのように。素直にならない自分を、嗤うかのように。
セレビィの言葉に、キュウコンは睨むのを止めてうっと言葉を詰まらせる。確かに、キュウコンは逃げたかった。一時ボールを壊してあのトレーナーの元から去ろうと本気で考えたこともあった。
セレビィの言っていることは事実そのもので、それだけを見ればキュウコンは感謝こそすれど苛立つ理由はない。
だが、キュウコンには素直に喜んではいけない出来事があった。ニコニコとこちらを眺めているセレビィを再び睨むと、小さく口を開く。
「僕は、大切な仲間を助けることができなかった。そんな僕が、一匹だけあそこから逃げ出すことなんて許されないんだよ。……例え、どんなにあの環境から逃げ出したいと思っても、僕には自由を得る資格なんかない。ボールの束縛もあったし」
空色の瞳を陰らせるキュウコンに、セレビィはニコニコするのを止めた。そして、キュウコンの瞳を見つめながらそうかな、と呟く。
「仲間を助けられなかったのは確かに嫌な記憶かもしれないけど、そのせいで自分を縛ることはないんじゃない? 過去に囚われ続けてもいいことなんかないよ?」
君の人生長いんだし、楽に行こうよ。ふわりと優しく微笑むセレビィの言葉に、キュウコンの気持ちがほんの少し動きかけた。だがその気持ちにブレーキをかけるかのように、脳裏にあの光景が甦る。
ツヤを失った薄い水色の毛。寒さからいつも震えている体。力なく伏せられた三角の耳と、九本の長い尻尾。小刻みに揺れ動く藤色の瞳。自らの異変を訴え続けた、か細い声。
目を閉じれば鮮明に浮かび上がるその姿に、前を見ようとしていた顔は再び後ろに向けられてしまった。今のキュウコンが見ているのは明るい未来ではなく、暗くて空っぽな自身の過去。全ての光を奪っていく闇は、ねっとりとした鎖でキュウコンの足に絡みつき、縛りあげる。
その僅かな変化を見抜いたセレビィは、やや呆れたようなため息を吐きながらも真剣な表情をキュウコンに向ける。
「今はどうしても受け入れられないのならそれでもいいよ。ゆっくりと自分を変えていけば、どうにかなるんだから。でも、自分を失ったらダメだよ? そうじゃないと、この世界のように終焉を迎えてしまう」
それじゃ、ボクはこう見えて忙しいから行くね。そう言い残すと、セレビィは光を纏ってどこかへと消えた。恐らくセレビィだけが使える能力、時渡りでここではない別の時代へと飛んだのだろう。
キュウコンは光の欠片が森の空気に溶けていくのを眺めながら、ふと今更なことを思う。
「……僕は、これからどうすればいいんだ?」
答えの返ってくることのない質問が、風と共に森の中を通り抜けていく。辺りを見回しても映るのは木々ばかりで、ポケモンの姿は一匹も見えない。何も気にする要素がないのなら森で生活するのもアリだと思うが、キュウコンは炎タイプだ。うっかりして森を大変なことにしてしまうかもしれない。
とりあえず誰かを見つけることにしたキュウコンは、すっくと立ちあがると九本の尻尾をふわりと広げた。尻尾を広げる際、ここに来る前にトレーナーが尻尾を掴んでいたことを思い出す。
キュウコンの尻尾に触れると祟りがある。だったら、あのトレーナーは一体どうなってしまったのか。そんな疑問が一瞬のうちに浮かんでは泡のように弾ける。もう自分には関係のないことだ。今重要なのは、早く森を出てこの時代のことを知ること以外ない。
すぐに頭を切り替えるとサクサクと落ち葉や草木を踏み分け歩いていく。この森がどのくらいの広さでどちらへ進めば出られるのか、なんてことは全くわからないがただ座っているよりはマシなはずだ。
一か八かに近いことを考えるキュウコンの背後。正確には木々や茂みの後ろで、怪しい影がいくつも動く。その中でこちらに殺気を放つ影に気づいたキュウコンが振り向こうとすると同時に、影達も動いた。
「うわっ!」
最初に中くらいの影、次に小さい影が一斉にキュウコンに向かって躍り出る。身の危険を感じたキュウコンが口の中に炎を生み出し始めた時、動かずにこちらを見ていた大きな影が不意に大きな声をあげた。
「違う、コイツは敵じゃねえ!!」
その声に今にも技を放とうとしていた影達の動きがピタリと止まり、キュウコンにぶつかるギリギリで地面に降りる。助かったことを知り、炎を飲み込んだキュウコンの前に大きな影が歩み出る。
「悪いな。うちのやつが早とちりをして。ああ、紹介が遅れたな。俺はエド。向こうの町で活動しているサザンクロスのリーダーだ」
腰よりも長く、丸い宝石のようなもので結われた赤い髪。赤い爪に黒いモフモフと同色の体。鋭い瞳の右側……彼からすると左側には黒い眼帯をつけている。
眼帯をつけたゾロアーク……エドは殺気を放っていたポケモンにチラと視線を向けると、そう言って片手を出してきた。戸惑うキュウコンが少し顔を上げると、すぐにエドと視線が合う。
ゾロアークとキュウコンは種族の関係で高さが違うから、普通はすぐに視線が合うことはあまりない。あるとすればキュウコンの背が高いか、ゾロアークの背が小さいかだ。キュウコンは一般的な大きさであると知っている。
だから、この場合はゾロアークの背が低いと考える方が正しいだろう。そう思ったキュウコンだったが、ここでそれを口にするのもアレなので黙って片方の前足を差し出し、エドと握手を交わす。
握手が終わった二匹を見て、少し気まずそうに先ほどエドに見られていたポケモンと興味深そうにこちらを見ているポケモンが口を開く。
「ええと、悪かった。ここにいる炎タイプが敵である可能性は低いのに、アタシ、勘違いしちまって。あ、アタシはナギ。そして、こっちはルカだ」
ポニーテールのような大あごに、黄色い体。首に巻かれた赤いスカーフには、不思議な模様が浮かんだ石が付いている。
「ボクもうっかりしちゃっていたぞ……。きちんとごめんなさいをするぞ」
赤が混じった頭の毛に黒いモフモフ、小さい体。どこかエドと似ている姿の彼は、首はトランプのダイヤのような形をした金色の石のペンダントをしている。
スカーフを巻いたクチート、ナギとペンダントをしたゾロア、ルカはそれぞれのタイミングでぺこりと頭を下げる。何か起こる前で済んだのだからそこまで謝らなくてもいいと言うキュウコンに、エドが不思議そうに尋ねる。
「それで、アンタは何でこんなところにいたんだ? 組織で見たことはないし、証や武器も持っていない。偽善のために乗り込んだのなら褒められたことじゃないが」
エドの言葉に、今度はキュウコンが不思議そうに尋ねる。
「組織はともかくとして、証や武器って何のことだい? ここはただの森じゃないとでも言うのか?」
その質問に目を丸くするエド達。早速何かやらかしてしまったか。そう思い嫌な汗を流すキュウコンに、エドが真剣な顔つきで言葉を紡ぐ。
「ここは『時狂いの森』。少し前に発見された『迷宮(ダンジョン)』の一つだ」
強い風が吹き、森が一斉に騒めく。その音はこれから来るであろう「何か」に対する警告のように、キュウコン達の耳に入り続けた。
続く