桜の花
※色々とかなり曖昧になっていますが、残酷に含まれるであろう表現が隠されています。ご注意を。
よく晴れた、ある日の朝のこと。
男が戸を開けて外に出ると、いつもよりも周囲が騒々しかった。様々な物や者から発生する音が、男の耳に深々と突き刺さる。
否、違う。本当はいつもと何も変わらない。……何も変わらないはずなのだが、男にはそう感じられるのだ。遂にこの日が来た。男の胸にはその言葉だけが溢れていた。
否、無理やりその言葉で溢れさせていた。自ら望んだのだから、後悔などあるはずがないのに。あってはならないというのに。
早く行かなければ。そう思い足を踏み出そうとする男の足を、小さな体が引き留める。小ぶりな果実の頃から男と暮らしている桜の花だ。よく晴れているのでもしかしたら花が開いているのではと思っていたが、残念ながら花はぴしゃりと閉じている。
そのため表情はよく見えない。だが、雰囲気からどういう様子かは想像できていた。男は言葉が通じずとも、桜の花とよく話していた。桜の花は賢く、男の立場をしっかりと理解していたように感じられる。
彼女は今日がどういう日なのかわかっている。彼女は男に行って欲しくないのだ。
「すまない。私はどうしても行かないといけないのだ」
優しく声をかけながら離そうとするも、桜の花は離れようとしない。必死に男にしがみつき、足を進ませまいとしてくる。
「大丈夫だ。必ず、帰ってくるから」
本当に? と確認するかのように桜の花は顔を上げる。花の隙間から一瞬だけ見えた顔は、淡い期待に満ちているのがわかった。その顔を見て、男の胸に小さな棘が刺さる。棘は小さいながらも、確かな威力を持って男に語り掛ける。
そんなことを言っていいのか?
その約束は守れると胸を張って言えるのか?
ぶつぶつと語り続ける棘を、男は強引に抜いた。棘の大きさに反して行動が大きかったため、胸には不可視の穴が残る。溢れていた言葉が零れ落ちる。それらを何とか戻しながら、男は桜の花に向かって本当だと力強く頷く。
そして、今度こそ桜の花を離して先に進もうとする。手が震えていたのは、これからやることへの緊張が早くの現れたのだろう。
男が頷いたことで安心したのか、今度はすんなりといった。
*****
形がわからなくなるまで男の後ろ姿を眺めていた桜の花は、ふっと虚しさに襲われる。……当たり前だ。本当は安心など、全くしていなかったのだから。力強く頷いた男の顔は、桜の花を安心させるようなものではなく、どこか哀しい雰囲気を出していたのだから。
桜の花は悟っていた。……帰ると約束をした彼はもう、帰ってこない。二度と、あの姿を見ることはない。脳内でその言葉が過ぎ、刹那、慟哭が騒がしい空へと突き刺さる。地面が予定外の雨でぬれていく。
遠くから、聞こえるはずのない音楽が流れるのがわかった。
「桜の花」 終わり