Invisible flower
これは、冬にしか姿が見えない天使とある画家の物語。
ある春の日、私はあのヒトと出会った。そこは桜がよく見える丘の傍で、あのヒトは一人座って桜のスケッチをしていた。今は誰にも見えないのをいいことに、そっとスケッチブックを覗き込んでみた。
「……っ!」
とても綺麗だった。桜がまるで生きているような錯覚をし、今にも花びらがこちらに飛んできそうだ。その周りに生えている草花も生を謳歌し、そこに描かれているもの全て春に感謝を告げている。そんな感じのする絵だった。
時が経つのを忘れて、ずっと眺めていたい気持ちになった。彼に私の姿が見えていれば気持ちを察して気が済むまで見せてくれていた……と思うけど、見えない彼は描き終わったとばかりにさっさとスケッチをしまってしまった。
心の中で自分の体質を激しく呪っていると、あのヒトは立ち上がってこの場を去ろうとしていた。これからも会えることができれば絵を見たかった私は、顔を確認するため羽を使って真正面で向きあう形をとりながら移動する。
あのヒトの銀色の髪や琥珀色の目をしっかり脳内に焼き付けると、私は更に上に飛んで彼が春の中に消えていくのを見守った。
「六花、好きなヒトができたの!?」
あの絵を目に焼き付けたまま家に帰り、ダイニングでルームメイトである日向にあの場所であった出来事を伝えると、彼女はそのような反応をしてきた。心なしか目がキラキラと輝いている。
「今の話のどこをどう解釈すれば、そうなるの……?」
顔を引きつらせながらそう尋ねると、彼女は私と色は違えど形はよく似た六本の尻尾をぶんぶんと振った。
「だって六花、顔をじっくり確認したんでしょ? イケメンだったんでしょ? それで氷のハートに火がついちゃったんでしょ?」
「最初以外は一言も口にしていない。あくまでも私が惚れたのは彼の絵であって、彼本人じゃないし」
淡々と事実を述べると、日向はなぁんだと非常に残念そうな声と顔で自分の部屋に行ってしまった。一気に興味が失せたらしい。
日向は熱い恋とか、そういうのが好きだ。対する私はあまり熱くない恋が理想。この違いはやはりタイプによるものなのだろうか。
「それにしても、私があのヒトに恋…………、うん。あり得ない」
そう呟くと、私はテーブルに置いてあったアイスコーヒーを一口飲んだ。
次にあのヒトと出会ったのは、ある夏の日だった。サンサンと太陽が照らす浜辺で、あのヒトはスケッチブックに黙々と海を描いていた。
ビーチパラソルとか何も日陰がないところでスケッチをするなんて、暑くて溶けてしまわないだろうか。私だったら絶対に溶けている。
彼が暑さにやられないよう軽い粉雪を使いながら、私はそっとスケッチブックを覗き込んだ。
「…………!!」
そこには美しい海の光景が広がっていた。太陽の光を浴びて輝く海は、さすが生命の始まりと言われるだけの場所と納得し、感動の渦に引きずり込まれそうだ。
水中の生き物も夏の到来を喜んで……あぁ、私の中にある少ない語彙では語り切れない。とにかく、夏が苦手な私に夏の海もいいなと思わせるほどの絵だった。
ここが夏の浜辺じゃなかったらずっと眺められるけど、技の使い過ぎとアイスが瞬時に液体になる暑さで、私の体力はもう限界だ。粉雪の使用をやめると、私は熱すぎる太陽をキッと睨みながらその場を去った。
「――涼しさと気配が消えた。あれは一体……」
六花が去った後、画家……一色はスケッチを描く手を止め、不思議そうに辺りを見回した。
「……春にも、一日だけ似たような気配を感じた気がするな。誰が見ていたんだろう。今度会ったら聞いてみるか……」
そう言うと、一色はスケッチを再開した。姿の見えぬ誰かを想像しながら。
次に彼と出会ったのは、ある秋の日だった。紅葉舞い踊る小道で、あのヒトは木に背中を預けながら紅葉のスケッチをしていた。スケッチブックがもう一つあるのは、他に描くものがあるからか、何からか。
どちらにしても仕事熱心だなぁと感心しながらスケッチブックを覗き込もうとすると、彼と目が合った。
「っ!?」
彼には私が見えないはずなのに、まるで私の姿が彼に見えているような錯覚に陥って、思わず粉雪を使ってしまった。
「……冷たっ」
粉雪をモロに喰らった彼は、寒そうにブルッと体を震わせた。今日はただでさえ肌寒い(私にはいい気温だけど)のに、更に寒くさせてしまった。
「ご、ごめんなさいっ! 驚いて、つい……」
慌てて暖かそうな落ち葉をかけようとすると、彼はクスリと笑った。
「やっぱり、僕には見えないけど誰かそこにいるんだね」
「!!」
驚いて目を丸くしていると、彼はさっき紅葉を描いていたのとは違うスケッチブックを開いた。そしてペンで何かを描くと、こちらにそっと見せてきた。
そこにはこう描かれて……いや、書かれていた。
『僕は一色 ハジメ。一色と呼んで貰って構わない。君の名前は?』
なぜ筆談、と一瞬疑問に思ったが、よく考えると私の姿は他のヒトには見えない。したがって、彼は虚空に向かって話しかけているような状態だ。傍から見ると十分怪しいヒトとなってしまう。彼はきっとこれ以上怪しまれたら大変なことになると思って、筆談を選んだのだろう。……スケッチブックを自分ではなく、誰もいない方向に向けている状態も十分怪しいとか、そんなのは知らない。
いや、筆談云々についてはともかく、彼は一色という名前なのか。名前という新たな情報をゲットしたことに喜びでおかしな舞を踊りかけたが、返事をしなくてはという思いから何とか踊らなかった。
私は彼が差し出しているペンを受け取ると、彼に読みやすい字を心掛けながら素早くこう書いた。
『私は六花。天使だから苗字はない』
書かれた返事を見て、一色さんは少し驚いたような表情をした。返事があったことに驚いているのか、天使だということに驚いているのかはわからない。もしかしたら両方かもしれないけど。
一色さんはスケッチブックのページを一枚めくると、また何かを書いて私に見せてきた。
『どうして姿を見せないの?』
……やっぱり、気になるか。姿を「見せない」のではなく、姿が「見えない」なんだけどどういえば伝わるのだろう。私は少し悩んだ挙句、こう返事を書いた。
『私は冬の天使。春になると儚く消えてしまう存在……というより、冬以外下界に住むものには姿が見えない特殊な体質なの。だから冬にならない限り、どれだけ頼まれても姿を見せることはできない』
返事を見て一色さんはなるほどと小声で言うと、同じページに何かを書いて私に見せてきた。
『じゃあ冬になったら、あの桜が綺麗だった丘で会おう』
私はそれを見て、すぐにいいよと返事を書いた。それからしばらく筆談した後、私達はその場で別れた。冬に会う約束を胸に刻み込んで。
「ええ〜っ! 六花その気はないって最初言っていたのに、いつの間にそこまで進んでいたの!?」
家に帰って久々に日向に一色さんのことを話すと、そんな反応が返ってきた。……どこに恋愛要素が入っていたのか、さっぱりわからない。
「いや、進んでないって。私も一色さんも恋愛感情なんて一切ないし。第一、天使……というかポケモンと人間だし」
「でも六花、その彼のことを話していたとき、とっても楽しそうだったよ」
「それは彼の絵が……」
素敵だったから、と言いかけた時、日向がニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「そうなの? 『絵に関することは全く話していなかった』のに?」
「……え?」
言われてみて、気が付いた。そうだ。さっき日向に話したのは、一色さんに関係することだけ。絵のことは一言も口にしていない。
もしかして私、絵だけじゃなくて一色さん本人にも興味を持ち始めている?
「でも私は恋愛にはあまり興味がないし、そもそも冬まで彼には私の姿が見えないし、私の目を見てどう思うかわからないし、人間じゃなくてポケモンだと知ったら興味がなくなるかもしれないし……」
「ゴチャゴチャうるさい! オッドアイなのをどう思うかなんて人によるし、ポケモンだと知って幻滅するかもその人次第じゃない! そういう時は当たって砕けるのが常識よっ」
「……砕けちゃダメでしょ」
心も体も熱く燃え上がっている日向にツッコミを入れながら、私は早く冬になりますようにと窓から見える無数の星に願った。
一色さんへの恋心(日向曰く)をうっすらと自覚してからは、月日が流れるのが非常に遅いように思えた。秋から冬になるまでの短い期間だというのに、変な私だ。
時々無性に彼に会いたくなり、彼を探しては筆談をしている。でも、それをやる度に私の字ではなく姿を見て欲しいという思いが膨れ上がっていく。
――なぜ冬になるまで、私の姿はあのヒトには見えないのだろう。私はこの体質を春の頃より強く呪いながら、冬になるのを待った。
待ちに待った冬のある日。私はある春の日に一色さんと出会った丘まで行って、白い地面に座りながら彼を待っていた。でも、いくら待っても彼は来ない。
(――そりゃそうか。私が知っている彼は、名前と姿、年齢、そして日々のちょっとした楽しみだけ。それ以外はほとんど何も知らないし、彼が知っているのは私の名前だけ。気付くわけないか……)
筆談の中で私の容姿について聞かれたことは何度かあった。でも私はこの目のことを知られたくない、ポケモンだとわかってガッカリされたくないという思いから、いつもはぐらかしていた。
「……ちゃんと、伝えておけばよかったなぁ」
過去の自分の行動を激しく後悔していると、薄暗い空から雪が降ってきた。雪はどれも六角形で花のような姿をしていることから、別名六花とも呼ばれる。
……私と同じ名前だ。そっと雪を手のひらに乗せると、雪は体温で溶けてたちまち見えなくなった。すぐに見えなくなる、これも同じ。
私はスッと立ち上がると、何も考えずに歩き始めた。羽で飛んだ方が早いけど、そういう気分じゃない。
「―――」
しばらく歩いていると、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた気がした。でも、遠すぎて声の主が誰なのか、どこから聞こえているかわからない。もしかしたら空耳かもしれない。でも私は立ち止まって、また声が聞こえてくるのを待った。
……彼が呼んだのかもしれない。そう思ったから。
「六花!」
一色は約束をした天使の名前を呼びながら、内心焦っていた。
(まさか獅子堂に捕まるなんて……)
獅子堂 タクマ。一色の画家仲間であり、よいライバルでもある。だが性格に少し問題があり、気分がいい時は一日中聞き飽きた自慢話を聞かされ、気分がよくない時は一日中聞きたくもない愚痴を聞かされる。
今日は後者の方で、六花と約束をした丘に行こうとしたその時獅子堂に捕まり、ついさっきまで延々と愚痴を聞かされ続けていたのだ。
(六花、もう帰っちゃったかな……)
いや、そもそも彼女は来ていないかもしれない。なぜなら一色と六花が約束したのは季節と場所だけで、日時なんて全く決めていなかったのだから。
更に困ったことに、一色は六花がどのような姿をしているのか全く知らなかった。筆談をしているうちに彼女が女性というのはわかったが、容姿を聞くとその度にはぐらかされていた。
きっと言うのが恥ずかしいのだろう、なら仕方ないかと思って一色は気にしないでいたのだが……。
(ちゃんといつ頃会うか決めていればよかった……。あと容姿のことも仕方ないで終わらせずに、しっかりと聞き出せばよかった……)
過去の自分の行動を後悔しながら、一色は再び六花の名前を呼んだ。なぜここまで六花のことが気になるのか一色自身よくわからなかったが、とにかく彼女に会いたい。そう強く思った。
何回も彼女の名前が薄闇に溶け、声がだんだんと掠れてきた時、急な風が吹いて誰かのマフラーが舞い踊るのが見えた。
一色はなぜかそれは六花がしているマフラーだと確信し、マフラーが見えた方向へと急いだ。
彼を待っていると、急な風で水色のマフラーが舞い踊った。私は氷タイプで寒さを感じないのに、なぜ巻いてきたのだろう。目印になるようにとでも思っていたのだろうか。
「マフラーを巻いてくるなんて一言も伝えていないのに、バカだなぁ……」
そう呟きながら目に熱いものが溜まっていくのを感じていると、後ろから誰かが雪を踏みしめる音が聞こえてきた。もう辺りはこんなに暗いのに、何をしに来たのだろうか。
私は熱いものを拭い、実は暗くなると微かに光る自分の羽を一枚抜くと、ゆっくりと振り向いた。
「よかったらこれ、懐中電灯代わ…………!」
誰かに羽を差し出そうとして、固まった。だって、そこには……
「気持ちは嬉しいけど、さすがにそれは受け取れないな。自分のことは大切にしないといけないよ。六花、……だよね?」
そこには、掠れた声でそう言いながら苦笑いをする一色さんがいたのだから。
「……はい、六花です。あの秋の日、丘で会う約束をした六花です」
「ポケモン……だったんだ。でも、そんなことどうでもいいくらい嬉しいよ。やっと、ちゃんと会えたんだから。六花はどう?」
どう? だなんて、そんなの一つだけに決まっている。私は泣きながら笑うと、大きな声でこういった。
「そんなの、嬉しいに決まっているじゃないですか!」
ある年のこと、とある画家がある作品をコンクールに出展した。その絵は見たものを惹きつけ、誰もが理由もわからずに感動する不思議な作品だったという。
その絵のタイトルは「Invisible flower」。そこに描かれていたのは、画家本人と背中に羽が生えたアローラロコンが雪の華舞い踊る丘で微笑みあっている、というものだった。
「Invisible flower」 終わり