恋愛ネクローシス
それはいわゆる「一目惚れ」というものだったのだろう。彼女の姿を目にした瞬間、頭の中で何かが弾けた気がした。
光の粒を纏っていると錯覚するほど美しい花飾り。長くさらりと伸ばされた若草――いや、位置からしてここは髪と言うのが適切なのだろうか。それとふんわりと広がっているように見える蕾のドレス。
何よりも目を引いたのは、サンストーンとよく似た色の目。例えに石を使うのなら彼女や僕が今の姿になるために必要なものでもいい気がしたけど、なぜか最初に浮かんだのはサンストーンだった。それだけその石が印象に残っていたのだろうか。
それはともかく、太陽の下、森の傍にある草原でたたずむ彼女の姿は、まるで地上に舞い降りてきた天使のように思えた。僕に少しでも絵の才能があれば、キャンバスいっぱいにその姿を何枚でも何十枚でも描き残したことだろう。
その時の僕はどのような顔をしていたのかわからない。でも、こちらに気が付いた彼女が怪訝そうな顔をしてこちらに駆け寄ってきてくれたのを考えると、相当間抜けな顔をしていたのだと思う。
一体どうしたのかと鈴を転がすような声で尋ねる彼女の美しさに、僕の頭は完全に真っ白になってしまった。漂白剤を全てぶちまけたかと思うほど白くなった頭には、都合のいい嘘を言える余裕などない。
「……貴女に見惚れていました」
第三者がいたら軽く呆れるほど正直な返答を聞いて、彼女はどう思ったのだろう。優しくふわりと微笑んでくれたことを考えると、悪いようには思っていなかったのだろう。……ただの苦笑いだったとしたら、僕の心はガラスのように砕け散るから深く考えたくない。
ただでさえ余裕のなかった僕は微笑みによって更に余裕がなくなる――かと思いきや、花飾りから漂う香りによっていくらかリラックスすることができた。そういえば、彼女の花飾りから漂う香りは嗅ぐとリラックスする効果があるんだっけ。
あまりの衝撃にうっかり忘れていた。いや、そもそも今の知識は誰から教えられたのだっけ。思い出そうにも記憶はおぼろげで、はっきりしない。他にも忘れている事実があるように感じるけど、思い出せないのであればそれほど大事なものでもないのだろう。
そこから少し遅れた自己紹介――紹介と言っても、ただ種族名を名乗りあうだけだったが――が始まり、続いて今日の天気など普通の会話が繰り広げられた。どこかで危惧していた「出会ってすぐに告白」という黒歴史は作られることなく、その場は終わった。
いや、仮に作っていたとしたら、僕の恋はそこで終了の合図を出していただろう。住処へ戻り冷静になった今の頭で相手の立場になって考えると、それがよくわかる。
まず、間抜けな顔をした見たこともない男が何も言わずに自分をじっと見ている。どれだけの間見ていたかはわからないけれど、何も言われないまま食い入るように見られていたらいい気分はしないだろう。
次に、何事かと思い尋ねてみたら相手は見惚れていたと返してきた。頭に「見」が付いているものの、「惚れていた」と言っているからこの時点で告白しているに近い。出会ってすぐに告白という黒歴史を作らずに済んだ、と思っていたけど既にやらかしていた。
……本当、よく彼女に逃げられなかったな。何とか恋を次に繋いでくれた神様に感謝したものの、その前のあまりのやらかしっぷりに僕は思わず住処の中をゴロゴロ転げまわる。床が落ち葉や草なので痛くはないけど、心が羞恥とかそういう方向で痛い。
心の痛みを消すように転がり続けるせいで、あちこちに綿が飛び散る。でも、今のところ住んでいるのは僕だけだ。誰も困らないだろう。彼女が来る予定ができた時、幻滅されない程度にさっと片づければいい。
いや、逆に綿を上手く利用して住処の中を素敵にデコレーションすれば、僕らしい感じになるのでは? 一瞬そんな考えが頭をよぎったものの、僕にそんなセンスはないので残念な部分がより残念になる未来しか見えない。止めておこう。
元の状態より綿まみれになり、他のポケモンから見たら綿だるまのような状態になったところでやっと僕の動きは止まった。それはいいものの、両手両足が宙というより綿に埋もれて文字通り手も足も出ない。
仕方なく大声を出して助けを呼んだことで、何とか僕は綿だるま状態から脱出できた。当然ながらこうなった理由を聞かれたので、コットンガードの練習をしていたらこうなったとだけ言っておいた。
まさか一目惚れした自分の過ちを反省していたらこうなった、なんて言えやしない。もし言ってしまったら相手は誰かを始めとして、ありとあらゆる情報が近所へ拡散されてしまう。これまでの経験が僕の口を重くしたと言っていい。
そこまで考えて、あれと首を傾げる。今までラフレシアさんやキノガッサさんには何度かお世話になったけど、そういう事態になったことはなかった。そもそも、僕の恋は彼女が初めてだ。これまでの経験も何もない。
ドラマや漫画の見過ぎだろうか。妄想と現実の区別がつかなくなりつつあるとは、我ながら少しヤバいと思う。熱中するのもいいけどほどほどにしなさいと告げて帰る二人に手を振りながら、妄想を振り払うように心の中で首をぶんぶんと振った。
*****
楽しみすぎて途中まで眠ることができず、目の下にうっすらと隈を作ってしまったであろう僕はややこわばった笑顔を浮かべる彼女と会うことになってしまった。気のせいか花飾りもくすんで見える。その原因を考えると、申し訳ないとしか言えない。
表情を目元だけで判断しているからただ「こわばった」と表現しているものの、もしも彼女に口があったら完全に引き攣っていただろう。……いや、進化前はちゃんと木の実を食べていた。進化後も同じと考えると、単に見えないだけで口はあるのだろう。
待って。違う。僕と彼女は昨日会ったばかりで、進化する前に会った記憶はない。彼女が木の実を食べている姿を見る機会なんて、一度もなかった。これは、そう。昨日と同じ、妄想と現実の混同だ。
再度妄想を払うように心の中で首を振っていたはずが、いつの間にか現実でも振ってしまっていたらしい。彼女は声を掛けてから僕の顔を覗き込み、サンストーンのような目にその姿を映し出す。そこに映るのは、僕――かぜがくれポケモンのエルフーンだ。
一瞬、違和感を覚えた。どこにと言われたら、自分でもどこなのかわからない。彼女の目に映る光景はいつも鏡で見ていたはずなのに。違う、鏡じゃない。近くにある湖の水面だ。こんな自然ばかりの場所に鏡なんてものがあるはずない。
この記憶は何だ。僕は一体どうしてしまったんだ。
もう彼女の目を見なくても顔が青くなっていくのがわかり、せっかく会えたというのに住処に帰った方がいいと言われる。このまま一緒にいても、相手の顔が青ざめているのでは弾む話も弾まない。
もったいないという気持ちが僕を引き留めかけたけど、自分の中で起きている異常をどうにかしたいという気持ち、これ以上彼女に迷惑をかけるわけにはいかないという気持ちがそれを大幅に上回った。
会話らしい会話もしないまま別れ、僕は一人住処へと戻る。まだ明るいけれど、何かすればするだけ悪くなる気がしてそのまま床に倒れ込む。昨日助けを呼んでラフレシアさんやキノガッサさんが来たお陰で、どこで寝ても大丈夫なくらいしっかりと掃除されていた。
自分の綿くらい気にならないと思いたいけど、今の心情では気にしてしまうかもしれなかった。掃除がされていて本当によかった。呼んだ時に来たのが彼女達でよかった。塊が捨てられている気配はなかったけど、彼女達はあの綿をどうするつもりなのだろう。
暦の上では春だけど冬の寒さは残っている。草タイプが生き生きする温度になるのはもう少し先だから、簡易的な布団でも作るのかもしれない。まるめてもふもふする癒し物体にしてもいいだろう。
僕はコットンガードを使えば終わりだから、今までのように暖房が効くまで毛布を被って凌ぐ必要はない。おかしい。人がほとんどいない森に暖房器具なんて人工のものは存在しないし、毛布も持っていない。
僕はポケモンだ。彼女の目に映ったように、立派なエルフーンだ。それなのに、どうして自分が人間であるかのような記憶が脳裏をよぎる? 昔はモンメンで、生まれる前はタマゴだったはずなのに。
いつから、このような記憶が浮かぶようになった? いや、そんなのは愚問だ。わかっているのに、信じたくないだけだ。信じたくないと真実から目を背けていても、何も進まないし解決しない。
たった少しの時間しか経っていないというのに、早くも残酷な事実を受け入れなければいけなかった。
僕がおかしくなったのは、彼女と出会ったからだ。
彼女と出会う前は今のようなことは一度もなく、普通のエルフーンとして暮らしていた……と思う。断定できないのは、おかしくなった影響からか昔の記憶も現実と妄想が曖昧になってしまったから。
思えば、彼女に惚れてその容姿を脳内で表現していた時から僕はおかしくなっていたのだろう。彼女のそれは確かに髪のような感じだけど正確には髪ではないし、サンストーンなんてものは見たことすらない。一度でも印象に残るわけがなかった。
そもそも、僕は本当に彼女に恋をしたのだろうか。あの頭の中で何かが弾けるような感覚は恋愛感情が溢れたのではなく、違う「何か」が弾けてしまったのでは? その「何か」が僕を狂わせているのでは?
一度真実を受け入れてしまえば、浮かび上がるのは疑問ばかり。初めて彼女を見た時は天使のようだと思ったのに、今は悪魔としか考えられなくなっていた。我ながら、何という手の平返しだろうか。
彼女に聞けば理由はわかるのか? いや、彼女とはどのように記憶を掘り返しても昨日が初対面だし、彼女も僕の変化に心当たりがある風ではなかった。口に出していないから気付いていないという可能性もあるけど、後ろめたいことがあれば何か変化があるだろう。
今起きている異変は彼女がきっかけ。でも、彼女はただのきっかけであって彼女自身は何も関係ない。これが今の僕が導き出した結論だ。
もう少し考えた方がいい気もするけど、さすがに僕だけでは限界がある。かといって、こんなこと他の誰かに相談しても聞いて貰えるとは思えない。仮に聞いて貰っても、冗談と受け取られるか嗤われて終わるだけだ。
運の悪いことに僕の交友関係は広く浅くという感じで、何でも相談できる唯一無二の相手はいなかった。……いや、仮に唯一無二の相手がいたとして、その相手はきちんと僕の言葉を信じてくれるのだろうか。
人の心なんてエスパーでもない限りわからない。面白おかしく話を広げられるだけかもしれない。色々なものを失って他には何もなくなって、自分を構成する全てから逃げたくなってしまうかもしれない。だったら、そんな相手いない方がいい。
誰にも言えないとすると、僕はこれからずっとモヤモヤを抱えて過ごすのだろうか。慣れれば、口にさえ出さなければなんてことはなさそうだけど、少しキツイ。精神的負担を軽減できないのは心の健康に悪く、そのせいで倒れたら元も子もない。
だからと言って誰かに相談しようにも――、ああ。これでは堂々巡りだ。悩み続けて脳が限界を迎えて倒れるのは目に見えている。こういう時にこそ、彼女の花飾りの香りを嗅いでリラックスしたいのに。
「――モニカ」
ぽつりと零れた言葉が僕自身の耳に届いた、その瞬間。何かが壊れたように、僕の知らない記憶が流れ込んできた。
*****
僕はかつて、ポケモントレーナーとして各地を回っていた。トレーナーとは言ってもチャンピオンを目指すのではない。のんびりとその土地の観光をしながら時々ジムに挑み、たまに家に帰って休むとまた旅に出る、という感じの半分旅行人のようなものだった。
だから僕の手持ちはいつも最大で連れ歩ける数の半分以下だし、バトルもすごく強いわけではなかった。ポケモン達もそれがわかっているのか、しょっちゅうバトルをしたいと訴えることはなかった。同時に、懐かれているというわけでもなさそうだったけど。
トレーナーをやっているようでやっていない、トレーナーもどきだった僕が完全にトレーナーではなくなったのは彼女と出会ってからだ。
森で迷子になり、適当なところで夜を明かして出口を求めて彷徨っていた時。まだチュリネだった彼女と会った。バッチリと視線が合い、その目を見た途端――僕は恋に落ちていた。今まで誰かに恋をしたことがなかったので、これがまさしく初恋だった。
数少ない友達に事実をそのまま話しても、誰も信じてくれなかった。そんなことありえないだろう。そのチュリネの美しさに惚れることはあっても、恋なんて芽生えない。芽生えても叶うはずがない。全部僕の気のせいだ、と。
遠い地方にある図書館には、昔は人もポケモンも一緒だから結婚なんて普通だったと書いてある本があった気がする。人とポケモンの結婚があったのだから、人がポケモンに恋することがあっても不思議ではないんじゃないのか?
そう反論しても、まともに取り合って貰えなかった。唯一無二の相談相手には僕の話を面白おかしく解釈され、あっという間に周りに広げられた。気が付くと僕はすっかり「変わり者」扱いされ、勘違いをした両親にポケモン達を取り上げられた。
家にいると親や手持ちだったポケモンの冷たい視線が降り注ぐ。外に出ると嗤い声が耳を貫く。僕の周りには、味方と言える存在は誰もいなくなっていた。
人間、ここまで色々と失うと逆に残ったものを求めるらしい。気が付くと少しだけ手元に残っていた道具をリュックに詰め、家を飛び出し様々な人を振り切って走り続けていた。そして、足が止まる頃には彼女と出会ったあの森の前にいた。
ポケモンがいなくてもスプレーがあれば進める。問題はずっと使っていると当然彼女とも出会えないので、どのタイミングで使うのを止めるかだった。ある程度進んでからしばらくポケモンが出てこないであろうポイントを探し、うろうろする。
それを何度か繰り返し、手持ちのスプレーがもうすぐ底を尽きるという頃。恋の天使はやっとこちらに微笑んでくれたのだろう。歩き疲れ、期待することにも疲れた僕の前に、以前見かけたのと同じチュリネが木の影から出てきてくれた。
周りのポケモンが攻撃するのかしないのかよくわからない態度で見つめている中、彼女は静かにこちらに向かってきた。攻撃の意志は、微塵も感じられない。木々の隙間で風が吹く音や草木が揺れる音だけが、僕達の間に横たわる。
互いが目と鼻の先の距離、正確には僕が手を伸ばせば触れ合える距離にまで来た時、彼女は優しく微笑んだ。思わず手を伸ばすと、そっと頭を撫でる。彼女は嫌がることなく撫でられると、更に近づいてそっと傍にすり寄った。
その時の感動を、僕はずっと忘れないだろう。仮に文章にして残せと言われたら、何枚でも何十枚でも書き続けたに違いない。実際手元に紙とペンがあればすぐに書き始めてしまいそうなほど、当時の僕は感動していた。
いつまで経っても逃げる気配を見せないので、一緒にいてもいいのかと尋ねると「もちろん」と答えるように頭と視線が動く。それが嬉しくて、僕は彼女に「モニカ」という名前を付けた。どこかの言葉で唯一を語源とする説を持つ名前だ。
僕の初恋。唯一心を許せる相手。そんな彼女にはぴったりの名前だと思った。でも、ボールを持っていない、トレーナーでもない僕が与えた名前は正直ただの記号だ。自己満足の証とも言えるかもしれない。
僕は名前を付けておきながら、不安だった。彼女――モニカは名前を受け入れてくれるのだろうか。傍にはいるけれど、名前を付けられるのは別かもしれない。僕と、人間と言葉が通じないからわからないだけで、既に彼女には自身を証明する名前があるのでは?
そんな不安を読んでいたかのように、彼女は嬉しそうに鳴いた。モニカ、と呼びかけると「なあに?」と聞き返すような動作と共に声を出す。……受け入れてくれた。その事実に嬉しさから胸がいっぱいになり、いつの間にか僕の目からは大量の涙が流れていた。
全てが全て、モニカが原因の涙だったらよかったのに現実は違う。モニカがいれば後はどうでもいいとさえ思えてきていたのに、僕の心は彼女以外の全てを失ったことに傷ついていた。
モニカは涙の理由がわからず首を傾げていたものの、何も言わず傍にいてくれる。森に差し込む光は段々と赤く染まってきていて、他のポケモン達はどこかに姿を消していた。
〇 〇 〇 〇 〇
あれから他に行くところもなくなった僕は、モニカの助けを借りて森で過ごしていた。たまにトレーナーと会ってしまうこともあるけど、噂が知られているのか特にバトルを挑まれることなく平和に暮らせている。
他のポケモンに全くと言っていいほど襲われないのは、もしかすると知らない間にモニカが説得していてくれたからなのか。だとしたら、わざわざスプレーを使い続ける必要はなかったのでは……。
一瞬そう思ったものの、モニカの説得がいつ行われたかわからない以上使ってよかったのだと考えることにする。決して、そうだとしたらかなりもったいないことをしたから信じたくない、というわけではない。彼女に対して失礼すぎる。
それはともかく、ここに来て僕はとても幸せな暮らしを手に入れていた。普通ならトレーナーもどきをしていた頃の方が幸せに見えたかもしれない。確かに他の部分に目を当てれば当時の方が幸せだったのだろう。
でも、僕にとって本当の幸せはその頃には手に入らなかった。他の幸せを失っても手に入れたい幸せが手に入ったのだから、とても幸せだ。僕は年を取って動けなくなるまでこのままでいいと考えていたのに、モニカの顔は優れない。
言葉が通じないから正確にはわからないけれど、様子を見ると大体は察することができた。どうやら、彼女は新たな姿になって僕との釣り合いを取りたいらしい。……気持ちはわからなくはない。今の僕とモニカは身長差がありすぎる。
こちらとしてそのままでも構わないのだけれど、彼女がそれを許さない。彼女なりのプライドがあるのだろう。僕はそれを尊重したいと思った。ちょうどいいことに、道具を放り込んだリュックには太陽の石が入っている。
別に、何か意図があって入れたわけはない。あの時はとにかくモニカの元に行かなくては、という思いからリュックに何を入れたかなんてよく覚えていなかった。森に入ってから活躍したのは主にスプレーで、石にまで意識がいかなかったというのもある。
リュックから石を取り出すとモニカは目に見えて喜びを表し、どうして今まで隠していたのかと言うように怒りを露わにした。隠すつもりも意地悪するつもりもなかったと伝えると、だったら仕方がないという風な顔をする。
許して貰えてホッとしていると、モニカが頭の葉を器用に使って石の方を指す。早く進化したいのだろう。僕の手を借りずとも勝手に触れば進化できるというのに、彼女はわざわざ僕の手によって進化したいと行動で示している。
感動の涙を流していると次に進まないので、涙を堪えて石をモニカに当てる。その瞬間、彼女の体は光に包まれ姿を変えていく。
その時、僕はとても大事なことを忘れていた。トレーナーであったのなら知っていて当たり前のことだったのに。ちゃんとしたトレーナーではなく、もどきだった僕はすっかり忘れてしまっていた。
自らの過ちに気が付いたのは、ドレディアとなったモニカの花飾りをみた時だった。記憶にあるものとは違いどこかくすんでいるように見えるそれは、単なる気のせいでは済まされないものだ。
「……あ」
僕はやっと、思い出した。ドレディアというポケモンがどういう存在なのかを。どうしてトレーナーが育てているドレディアをあまり見ないのかを。
モニカは、ドレディアはパートナーとなる相手を見つけると頭の花飾りがくすんで萎れ、枯れていってしまう。モニカの相手が僕だとするとめでたく両想いではあるものの、そのせいでモニカの花飾りは枯れてしまう。
花飾りが枯れてしまったら、どうなってしまうのか。聞いたことも、考えたこともなかった。花飾りだけで光合成をしているわけではないのだから、枯れたくらいでどうこうなるわけではないのだろう。
でも、ドレディアにとって大切な花飾りを失ってしまう。せっかく僕の釣り合うようにと進化を望んだモニカは、進化のせいで別の苦しみを背負うことになってしまった。
嬉しいけど、苦しい。隣り合うことなどないと思っていた感情に、自然と顔が歪んでいくのがわかる。進化を喜んでいたモニカが動きを止め、心配そうな表情で僕の顔を覗き込んだ。その際花飾りから香りが漂い、少しだけ気持ちがリラックスする。
効果が少しだけなのは、花飾りがくすんでしまったからなのだろうか。彼女が僕を認めていなければ、本来の効果が発揮されていたのだろうか。ぐるぐると回る景色の中、モニカの顔だけがハッキリと映る。
僕の誕生石であるサンストーンに似た色の目に映るのは、酷く歪んだ人間の顔。香りで少しだけリラックスしてもまだこれほどとは。モニカが心配するわけだ。
どうにかして安心させようにも、何をどう告げればいいのかわからない。真実を言ったとしても嘘を言ったとしても、結局モニカは傷つき、僕も傷ついてしまう。
僕がトレーナーをしっかりやっていなかったとしても、ちゃんとドレディアについてわかっていれば。そんな考えが頭をぐるぐる。今更だとわかっていても、考えてしまう。
僕が少しだけでも多く図鑑に目を通していれば。
モニカは今のままでもいいと説得できていれば。
――僕が人間ではなく、ポケモンであれば。
流れるようにそんなことを考えた時、僕は意識を失った。眠りに包まれるように世界が暗闇に閉ざされる直前、視界の端でモニカ以外のポケモンの姿が見えたような気がした。
*****
「……ああ」
思わず動かした口から暗い声が漏れる。思い出した。思い出したいことも思い出したくないことも、全て思い出してしまった。はは、と口の端から零れた笑い声は掠れ自分の耳にさえもしっかりとした形で届かない。
彼女に――モニカに出会ったせいで、僕はおかしくなった?
とんでもない。おかしかったのは僕だ。僕はエルフーンじゃない。後悔の果てにポケモンになることを望んだ人間だった。ヘリオという、トレーナーの振りをしたもどきで愛する者もしっかりと守ることができなかった愚か者だった。
僕がまだギリギリ人間だった頃。森で意識を失った僕は目を覚ますと知らない場所にいた。傍にいるのは見知らぬ男達で、モニカだけがいない。その事実に軽くパニックに陥った。すぐ他の場所に移されて寝ていると聞かされなかったら、きっと酷く暴れていただろう。
誰が僕達を連れて来たのかはいくら聞いても誰も答えてくれなかったけど、恐らく意識を失う前に見たポケモンが犯人なのだろうと考えている。
……まあ、そのポケモンも赤い目をしていたこと以外は種族も動機もわからないから、手掛かりは何もないに等しいのだけれど。あれからそれらしいポケモンは見ていないから、恐らく理由は永遠にわからないのだろうと思っている。
知りたい気持ちが大きいけれど、世の中には知らない方が幸せという言葉があるのを知っている。後悔した理由とは逆の方向になるものの、それが正しいと僕の勘のようなものが告げていた。
犯人について考えることを止めた僕の前に現れたのは、周りにいる者達のリーダーらしき男だった。こちらは何も話していないというのに、リーダーらしき男は僕に向かってこう告げた。
――君は、人間ではなくポケモンになりたかったんだよね。
――その願い、我々が叶えてあげよう。
どう考えても怪しい誘いだった。そもそも、男が告げた願いは考えただけで一言も口に出していない。心でも読めない限り知りようがない情報を、どうして相手は知っていたのだろうか。
原因を考えようとした時。建物内で寒くないはずなのにぞくり、と寒気がした。それでわからないのにわかってしまう。こちらの考えを勝手に読んで勝手に彼らに告げたのは、僕を攫ったポケモンだ。深く考えたらいけない。
思考から疑問を追い出し、彼らの提案を考える。彼らの提案は魅力的にも思えたが、既にモニカの花飾りは枯れるまでのステップを踏み始めている。今からポケモンになったとしても、僕の気持ちは完全に満たされることはない。
それを理由に断ろうとすると、まるでこうなることを予想していたかのように交換条件を提示される。僕はその条件を聞いてすぐに人間を辞め、彼らが管理するこの小さな世界で生きていく決意をした。
「……まさか、本当にこうなるなんてね」
今度の嗤い声は、しっかりと自分の耳に届きバラバラになったガラスの心を責める。可能性は提示されていたけど、僕は絶対に忘れないと思っていた。彼女が、モニカが幸せなら自分はひっそりと影で生き続けるつもりだった。
なのに、それを破ってしまった。記憶を失っていたとしても、やってしまったことには変わりない。モニカと会ってしまったせいで、僕だけでなく彼女も終わりを始めることになってしまった。
あの時、男達から出された条件を思い出す。
一つ。僕がポケモンとなる代わりにモニカの記憶を操作する。
一つ。一度ポケモンとなったら、二度と人間には戻らないと約束する。
一つ。全てが終わったら、絶対に会ってはいけない。
一つ目は特殊な方法で記憶を操作することで僕との出会いや花飾りのことを「なかった」ことにするためだ。特殊なだけあって体にも影響を与える代わり変化に弱くなり、記憶操作する前と同じ状況になったら花飾りと共に枯れてしまう可能性を伝えられた。
二つ目は僕がポケモンとなる過程で意識を交換するに辺り、双方の精神が転移に耐えられるのは一度きりなのが原因らしい。脳の大きさの影響で起こる記憶の欠損や、脳が意識を体に馴染ませるため無意識のうちに記憶操作が行われる可能性も説明された。
三つ目は時間を戻しても体が別になっても僕を見てしまうと、モニカは無意識のうちにパートナーだと認めてしまう可能性があるため。また、僕に何かしら記憶の欠損があると、それがきっかけで思い出してしまうとも言われた。
改めて考えると、どれもこれもかなり恐ろしいことを言われている。普通だったらその条件を聞いた時点で辞退を申し出るだろう。なのに、当時の僕はモニカがどうなるかだけを考えていて、全く気にしていなかった。愛は盲目と言うけれど、盲目すぎる。
モニカと出会ってしまった僕は、膨大すぎる人間の記憶に脳が耐えられず近いうちに破滅を迎える。僕と出会ってしまったモニカは体の変化に耐え切れず、花飾りと共に枯れてしまう。
出会わなければ、ずっと幸せだったのに。自分で選んでおきながら自分で壊してしまうなんて、笑えない。僕は今のところまだ生きているけど、モニカはどうなのだろう。今日会った時の様子を思い出して、小さな悲鳴が漏れた。
あの時、モニカの花飾りはくすんでいるように見えた。こわばった笑顔の影響でそう見えるだけ。気のせいだと思っていたけど、あれは本当にくすんでいた。彼女のあの顔は、僕の様子が原因ではなかったのかもしれない。
よく考えればすぐにでもわかることだったと思う。エルフーンの顔色では、うっすら隈ができてもすぐには気付かない。そもそもあるかどうか見ていないのだから、できている前提で進めていたのが間違いだった。
誰かの手を借りたとしても僕は僕で、何度でも同じ結末を辿るということか。理解するために払った授業料は高すぎて、全て払い終えたとしても学んだことを活かす場面はやってこない。
全てを後悔したところで、もうどうにもならないという絶望が世界を包み込み、色を奪う。僕は終わるまでの間、どうやって生きればいいのだろう。いつの間にか頭がチリチリと焼けるように痛み始める。考えても考えても、いい案が浮かんでこない。
彼女は、モニカは今頃どうしているのだろう。自らに訪れた変化に戸惑っているのだろうか。助かる方法を探して森や草原を走り回っているのだろうか。それとも、記憶はないものの感覚で僕が悪いと思い、怒りをぶつけるため探しているのだろうか。
モニカが僕をどう思っていてもいい。ただ、会いたいと思った。僕がしでかしたことを思うと、会う資格すらないけど。それでも終わる時は彼女と一緒にいたい。あの、サンストーンのような目に見つめられながら壊れてしまいたい。
痛みが広がり続ける頭で考えられるのは、モニカのことばかり。だけど、僕も彼女も森のどの辺りで暮らしているか正確に伝えていない。ここの同族は多くないが、適当にやればすぐに当たるほど少なくもない。ヘリオやモニカという名前も、別れてから思い出した。
この頭では何日でもかかる覚悟で探しても、見つかる頃にはまともでいられるとは思えない。……彼女と一緒にいたいという己の願いですら、叶えられないのか。もう口からは何も零れない。頭が痛い。燃えてしまう。何も考えたくない。
そっと目を閉じると、暗闇が僕を出迎える。ここにいれば、遠くない未来全てが終わる。モニカに会うことはできないけど、これ以上悪化させることもない。体の力を抜き、意識だけが闇に浮かんでいるような感覚に浸る。
本当に意識が切り離され、闇の海に漂えばどれだけいいだろう。
「エルフーンさん、大丈夫ですか!?」
早く終わりを待つ僕を現実に引き戻したのは、鈴を転がすような声だった。まさかと信じられない思いで目を開くと、視界一杯に映るのはサンストーンのような目を持つ彼女の顔。微かに漂うのは、嗅いだ者をリラックスさせる効果のある花飾りの香り。
燃えるような頭の痛みが一気に引いたように感じた。
「……モニカ?」
覚えているはずがないのに、その名前で呼んでしまう。予想通り返事はなかったけど、そっと僕の手を握り締めてくれた。絶望から色が消えた世界で、彼女だけが鮮やかな色を主張している。……とはいっても、その色はだいぶ枯れているようだったけど。
出会ってしまったから、思い出したからといってこうも早く変化が訪れるものなのだろうか。不思議でならないけど、今は彼女の方が大事だ。どうせ、これらの謎は僕の手では永遠に解き明かされない。引いたと思い込もうとしている痛みが、残酷に真実を伝えてくる。
断端とノイズが走り始めた世界の中で、僕は彼女だけを見つめ続けた。彼女も僕を見つめ、手を離すことなく握り続けている。最期に、僕達は偶然にも同じタイミングで口を開いた。
「モニカ――」
「エルフーンさん――」
それぞれの耳に届いた言葉を、僕は今度こそ忘れないだろう。脳が燃え尽きる感覚の中、そっと彼女に微笑んでみせた。
「恋愛ネクローシス」 終わり