優しい悪夢
ふわり。この島では嗅ぎなれない甘い香りが鼻を優しくくすぐった。何事かと薄目を開けると、そこにはモモンの実をサイコキネシスで浮かせ、ニコニコしながらこちらを見つめるクレセリアの姿があった。
「何か嬉しいことでもあったのか」
モモンの実に視線を落としながらそう尋ねると、クレセリアはよくぞ聞いてくれました! とばかりに話し始める。
「ええ! 少しだけ遠くを散歩していたら、親切なポケモンさんがこの実を分けてくれたんですよ! 一緒に食べましょう、ディアさん!」
言葉が終わると同時に、浮いたままのモモンの実が俺の前へと運ばれてくる。サイコキネシスをしたまま食わせるつもりか、こいつは。食べてくれますよねオーラが迫ってきていたが、俺はその実をぐいと押しのけた。
「悪いが、俺は甘いものが苦手だ。それと、ディアと呼ぶのは止めろ。俺はダークライだ」
「でしたら、私のことをクリスと呼んで下さい。そうして下さらない限り、私はディアさん呼びを止めませんよ?」
ニコニコとしたまま、クレセリアは固い意思を見せつけてくる。俺がいつまで経っても種族名呼びなのがそれほど気に入らないのか。だが、俺はクレセリアをそう呼ぶつもりは全くない。第一、そう呼んだところでディア呼びを止めるとは思えない。
深いため息を一つ吐くと、押しのけたはずのモモンの実がまた俺の前に姿を現した。どうやらどうしても一緒に食べたいらしい。チラとクレセリアに視線を送ると、アイツはニコニコという擬音だけで「食べてくれないとずっとこのままですよ?」と語っていた。
ああ、こいつはどうにもならなさそうだ。俺は諦めを息と共に吐き出すと、桃色の木の実へとかぶりついた。口に入れた瞬間にじゅわり、と甘い果汁が広がり、その甘さに思わずめまいを覚える。
「ああ、ディアさん!?」
慌てふためくクレセリアの声をBGMに、俺の意識は冗談のようにぷっつりと途切れた。
*****
「ここは、どこ? わたしは?」
ボロボロになった体を起こして、そいつは虚ろな目でそう尋ねてきた。隣の島から逃げて来てこっちに来たと思った途端倒れ、気が付いたと思ったらこの反応。どうやらこいつは記憶を失っているらしい。そう気が付くのに時間はかからなかった。
こいつの羽には悪夢を払う力がある。そんな珍しいものを狙うやつはどこにでもいるもので、大方こいつも羽を狙う奴らに何かをされ、そいつらから逃げる際に負った怪我のせいで記憶を失ったのだろう。
俺も珍しい存在に入るらしいが、悪意を持って見せているわけでもない悪夢のせいで欲しがる物好きはあまりいない。ここにいればクレセリアも回復し、運がよければ記憶も戻るだろう。
右も左もわからなくなったやつを追い出すほど、俺も鬼じゃない。記憶を思い出した際どのような反応をされるかと思いながらも、クレセリアの面倒を見ることにした。見た目ほど怪我が深くなかったのか、ボロボロだった体はすぐに綺麗になり、それを見た時はどこかホッとした気分になったものだ。
このように、怪我の問題はすぐになくなった。問題は記憶の方だった。今まで無意識に互いを避けていたこともあってか、俺はクレセリアに縁のある場所をあの島くらいしか知らなかった。俺もその場所に連れていけば案外すぐに戻るかもしれないと思っていたのだが、記憶は全く思い出されなかった。
それから手当たり次第に連れて行ったのだが、クレセリアが何かを思い出そうとする前に俺を敵認識したポケモンや人間達に攻撃された。その後は正当防衛だとそいつらを眠らせてからすぐにその場から去るという行動を繰り返していた。
当然ながら、そんなことじゃ思い出せるものも思い出せない。一回クレセリアだけで行かせたらどうかと考えたこともあったが、それでは逆にクレセリアが危なくなると思ってやめた。
どうやれば記憶を戻すことができるかと悩んでいる時、クレセリアは明るく「前の記憶なんかどうでもいい。ダークライさんと一緒にいられれば幸せだ」と言ってのけたのだ。俺は酷く驚いて考え直すよう伝えたが、その意思が変わることはなかった。それからクレセリアは俺をディアと呼び始めた気がする。
ああ、何でこいつは嬉しそうに俺に声をかけるんだ。何で俺と一緒にいたがるんだ。何で俺はこいつのことを――。
*****
「――ディアさん、ディアさん!! 大丈夫ですか!? ごめんなさい、まさか気絶するほど甘いものが苦手だったなんて……。今度からはディアさんが好きな味の木の実を持って来ますね」
耳にガンガンと突き刺さる声で目を覚ますと、クレセリアは半分泣きそうな顔でそんなことを言っていた。本当ならサイコキネシスで起こしたいのだろうが、俺のタイプではエスパー技は通用しない。だから仕方なく声で起こしたのだろう。
そう思うと文句を言うにも言えず、ただコクリと頷く。だが、後半の部分は少し聞き流せない。お前、あの木の実を貰ったと言っていなかったか? もしかしてわざわざ俺と食べるためだけに取ってきたのか? 何で、何でお前は俺のためにそんなことをする?
「ディアさん、まだ気分が悪いのですか? そこに木陰ができているので横になります?」
俺の顔色が悪いのを見てか、クレセリアは近くの木陰に視線を移す。俺の体色だと顔色なんてあまりわからないと思うのだが、そんなこともわかるのか。
俺は丁寧にそれを断ると、ちょっと風に当たりたいと言ってクレセリアが視界に入らない場所まで飛び、ちょうどいい木のてっぺんに着地をする。あのままだと俺の心は締め上げられ続け、終わらない悲鳴を上げていただろう。
今も恐らく俺を心配しているであろうあいつの顔を思い出し、ぼそりと呟く。
「なあ。何で、何でお前は俺のことを好きになっているんだよ……?」
本当はその好意はとても嬉しい。俺もできればお前のことをクリスと呼びたい。でも、俺とお前は相反する存在。仲良くなることなど、到底できない。仮に俺達だけの都合でなったとしても、周りのやつが許さない。
好きなのにそうとは言えない。その思いに答えてあげられない。それは苦しくて辛いだけの、現実に見る悪夢だ。悪夢を見せるはずの俺が悪夢を見ることになるなんて、なんておかしなことなんだろうか。
だが、これは俺が見せるものに比べたらずっと「優しい」悪夢なのだろう。本当の恐ろしい悪夢は残念ながらお目にかかったことはないが、きっと今抱き続けている苦しみより何倍も苦しいに違いない。
こんな悪夢に苦しめられる俺はなんて幸せ者で、不幸者なのだろうか!
嗚呼、誰でもいい。誰でもいいから、
「この悪夢を終わらせてくれ――!!」
「優しい悪夢」 終わり