リアル・ホログラム
どこかぼうっとした頭のまま、砂浜を歩く。ふと、ここに寝ころんだら長い間歩いた疲れが飛ぶのでは、という謎の考えが浮かんだ。周りにはアイツ以外他のポケモンなんていないし、何より俺がそうしてみたい。
ドサリ、という音は砂によって吸収された。下から伝わるのは若干ひんやりとした砂の感覚。これで目の前に広がるのが澄んだ青空だったら疲れも飛んだだろうが、見えるのはどこまでも続く曇り空だ。
全く、疲れを取ろうと横になったのに逆に疲れた気すらしてしまう。勢いよく体を起こすと、いくつか砂がパラパラと落ちた。たてがみに絡まったものはあまり取れていないようなので、パンパンと砂を落としていく。
……うつぶせに倒れないでよかった。もしそうしていたら鼻が突き刺さって疲れが倍以上になっていただろう。そのうえ衝撃で舞った砂が耳にでも入ったのなら、ちょっとした地獄だった。想像すると耳がむず痒くなってきたため、軽く頭を振る。
《ザザー……ザザー……》
耳に集中していたからか、波の音が入り込んでくる。海に来ているのだから当然と言えば当然のことだが、俺はどうもこの音が気に喰わず、何度来ても慣れそうにない。爪で耳栓でもしてやろうかと思ったが、それだと相手の声も聞こえないから会話が成立しない。
あと、俺の爪だと耳栓を超えた現象を引き起こしそうだから怖い。何かあったら仲間達によっていいお笑い話にされるか、余計な心配をかけさせるかだけだ。止めておこう。
そもそも、ここはどうして今も音が出ているのだろう。普通に考えたら、もうとっくに静かになっていてもおかしくないのに。それなら俺がこうして悩む必要もなくなるのにな。
理由を考えて軽く首を傾げたものの、首を傾げた程度で答えが返ってくるわけがない。それなら俺は何百回でも首を傾げている。小さな溜め息と共に顔にかかっていた数本の毛を払うと、砂の上に座る一匹の「キュウコン」の傍へ行く。
俺はわざわざ慣れない波の音を聞くためにここに来たのではない。いつもの場所からいなくなっていた彼女を見つけるためだ。……見つけたところで大した用事もないから、あまり話すつもりもないが。
「今日もここにいたのか」
俺の声に反応し、三角形の耳がピクリと動いた。常に風に揺れているような後ろの毛と共に、紫色の目がこちらに向けられる。どこかヒヤリとした風が流れた気がしたのは、彼女が氷タイプの「キュウコン」だからだろう。
「はい。ここはワタシが元いた世界の断片ですから」
落ち着いた声はどこか機械的で、ポリゴン系を思い起こさせる。こちらが何も言ってこないからか用ありではないと判断したのか、「キュウコン」はまた海を眺め始めた。俺は近くの岩に腰を下ろすと、彼女が視線を向ける海へと顔を動かす。
画面が割れ、何も映さなくなったテレビ。音を出すことを半ば放棄したラジオ。時代の変化に取り残され、役目を終えた電話――。それらが見渡す限り一面に広がり、鈍色の海を作り上げている。
ここは「キュウコン」がいた世界。だったもの。「キュウコン」はこの世界で生まれ、人間達と生活していた。「キュウコン」曰く、そこではポケモンと人間は隔離され、子供達は本当のポケモンを知らずに育っていたらしい。
本当のポケモンと暮らしていないのに、なぜ「キュウコン」は人間と生活できていたのか。それは彼女が「本当のポケモン」じゃないからだ。「キュウコン」は、ポリゴンのようにプログラムによって動く、彼女達の世界では「アプリ」と呼ばれていた存在だ。
実在しない、データ上の存在。触れられるのにそこにはいない、架空の存在。ポリゴン系とは違い、自我を持たない存在(いや、ポリゴン系でもそういうやつはいるかもしれないが、俺は知らない)。今も彼女はこうして砂浜に座っているが、これは実体化しているからで本体のデータは別の場所にある、らしい。
「……」
海から視線を「キュウコン」の横顔へと移す。紫の目は微動だにすることなく海を見続けており、その中に何らかの感情を見出すことはできない。当然と言えば当然だ。ここにいる「キュウコン」は「アプリ」。本物のポケモンではない。自我というものは――。
「ない、のか……?」
そこまで考えたところで、ふと言葉が零れる。俺は先ほどの瞬間まで、キュウコンのことをあの人間によって作られた存在。偽善ばかりで現実を見ようともしない種族が生み出した偽者、としか思っていなかった。
だが、彼女以外にも人間に作られたポケモンはいるし、もし本当に彼女に自我がないのならどうして「自分」の意思でここに来ている? 自我がないのなら、ずっとあの場所にいてこちらの命令を待っているだけのはずだ。
「……キュウコン、お前は」
本当は自我があって、俺達と同じように「生きている」のか? そう問いかけようとした言葉は、小さなノイズの波によってかき消される。だが、それでいい。このような質問は、キュウコンを見下したものにしかならない。
俺は毎日のように困ったポケモンは助けたいと思っているくせに、身近にいる存在はポケモンではないと切り捨てていた。現に、今も種族名でしか呼んでいないのが切り捨てたままでいる証拠だ。
視界が自然とキュウコンの横顔から砂浜へと下がっていく。太陽の位置から影はちょうど砂浜に伸びていた。影が形作っているのは、黒塗りのゾロアークとキュウコン。俺はもちろん、キュウコンにもこうして影がある。
キュウコンが実体化しているから影ができている? そんなことはわかりきっている。問題はそこじゃない。もし彼女がホログラムのようなものだとしたら、影などできずに色が映されるだろう。
キュウコンは決してデータだけの存在じゃない。今、この瞬間は俺達と同じように生きているんだ。実在しているんだ。勝手な妄想だと言われてもいい。それならそれでいいじゃないか。もう、彼女を切り捨てるのは止めにしよう。
俺は視界をキュウコンの横顔へ戻すと、小さく口を開く。
「キュウコン――いや、リア」
彼女につけられた名前を初めて呼ぶと、彼女……リアは勢いよくこちらを向いた。紫の目の奥には驚きが見てとれる。ああ、感情があるんだな、とその時初めて思った。本当は、前からこういうことがあったのかもしれない。それに気が付かなかったのは、俺が彼女を本当の意味で見てこなかったからだ。
自我がなければ感情を見せることはない。やはり、リアには自我がある。
「リア、お前はちゃんとしたポケモンだ。……今までお前をずっと否定してきた俺が言うのはアレかもしれないが、お前は一匹のポケモンなんだ」
突然何を言い出すんだろう、とでも思ったのだろう。目の奥には驚きと混ざるように困惑の色が浮かび上がっていた。
「ゾロアークさん、ワタシは」
リアは何かを考え込むかのようにゆっくり目を閉じると、ゆるゆると首を横に振る。それは何かと葛藤してのことではなく、拒絶の意味でのものに思えた。
「ワタシは、ここの世界で生み出された『アプリ』。現実にいるようで、どこにもいない存在です。そんなワタシが、ポケモンを名乗っていいはずがない」
目を閉じているため、彼女の感情を読み解くことはできない。だが、どこか無機質だった声には悲しみが混じっている気がした。
「『アプリ』には自我がない。でも、お前にはちゃんと感情が、自我があるだろ? こうして悲しんでいるし、さっきは驚いていた! だから――」
お前は違うんだ。そう続くはずだった言葉は、他ならぬ彼女によって断ち切られる。
「いいえ、ワタシを動かすこれは単なるプログラムにしか過ぎません。感情があるように見せる方法などいくらでもあります。ワタシは、どう頑張っても本物にはなれないのです」
違う、とは言おうとしても言えなかった。感情の有無は見た目だけであれば、確かに色々な方法でどうとでもなる。自我のように見えるものも、彼女が否定してしまえば俺がそれを覆すことは難しい。
「だが、お前の感情はお前にしかわからない。さっきの驚きは、今の悲しみは本当に上辺だけのものなのか? 実際に驚いたり、悲しんだりしていたわけじゃないのか?」
俺の問いかけに、リアは答えない。ただ、閉じた時と同じようにゆっくりと目を開いてこちらを見た。その奥にあるのは、微かな諦め。
「……そうです。ワタシに本当の感情が、自我があるはずがありません。ゾロアークさんがそう思い込んでしまうほどによく作られた、プログラムのお陰なんです」
今、この瞬間もそのプログラムによって動いているのなら、お前は一体何を諦めた? 本物の感情を持つことか? 自我を持つことか? それとも――。
「ああ、もう時間です。ワタシは今すぐに戻らなければいけないので、またあの場所で」
これ以上話したくないと思ったのだろうか。まだ時間というほどの時間でもない気がするのに、リアは文字通りその場から「消えた」。テレポートを使ったわけでも、俺の目が変になったわけでもない。彼女の実体化が解けた。それだけだ。
……それだけのはずなのに。「ほら、俺達はこんなにも違う」と言われているようで、どこか虚しさを覚える。俺は名前を呼んだのに、リアは呼ばなかったことも……って、それは単なる押しつけか。
得意の幻影で彼女を生み出して今の気持ちをぶつけようかと思ったが、それこそホログラムに話しかけるようなものだ。幻影では影ができない。
「俺も、帰るか」
気のせいか、波の音が強まっているように思えた。今はもうこの音を聞きたくない。リアがいなくなった海に用はない。また来るのはリアを探しに来た時か、外せない用事ができた時くらいだろう。
彼女にとって何が現実で何が虚構かはまだわからない。俺自身があの時まで切り捨てていたのだから、わからなくても当然だ。これからゆっくりとでも知っていけばいい。それだけだ。
彼女にもいつか本物の感情が、自我が芽生えて俺や仲間達との距離を縮められたら。または既に芽生えていて、それを彼女がプログラムから成るものではない、本物だと受け入れられたら――。
そんなことを願いながら、俺は海から離れていく。海はいつまでも、壊れかけた波音を奏でていた。
「リアル――」 終わり