幸せの種
じゅわり。口に入れたそれを噛んだ途端、甘くて濃厚な蜜がトロリと広がる。その極上の甘さに頬を緩めていると、体の奥から力がみなぎってくるのを感じた。ああ、この時が僕にとってとても幸せな時間だ。だからこの種も「幸せの種」というのだろう。
貴重なものだが、その美味しさは天にも昇るほどのもの。そう言いだしたのはどこの誰だったっけ。それを言い出したポケモンが誰かは知らないけど、こんなに素敵な種を広めてくれたことは感謝してもしきれない。
このまま次の種へと手を伸ばしたくなるが、僅かに残った理性でそれを阻止する。この調子ではいつかのように持っている全てを平らげてしまう。あの時は貴重なアイテムを食い尽くすなと兄さんに怒られて、失った分を取り戻すのに苦労した。できればあの苦労はしたくない。
ああ、ふわんふわんと甘い暴力的な香りが風に乗って鼻をくすぐってくる。その香りはなぜ貴重だからといってとっておく? アイテムは使われることに喜びを覚えるんだ、と僕に訴えてくるかのようだ。
可能なら今すぐ種を口にしてその美味しさを堪能したい。また天国のような空間で幸せを謳歌したい。でも、それをしたらまた兄さんに怒られる。兄さんだってこの種を味わいたいんだ。僕が独り占めしていてはいけない。
「……ごめん!」
今もなお香りで誘ってくる種に謝ると、素早く元あったバッグへとしまい込む。先ほど種を一つ食べてしまったため、当然ながらバックの空きが増えている。この事実が何を現すのか、兄さんならすぐにわかるだろう。今日も食べたのは一つだけだったから、多分許してくれるはずだ。
いや、許してくれると思いたい。僕が今日も幸せを手にしてしまったせいで、兄さんとのレベル差は天と地ほど開いてしまった。俺は有名な探検家なのに弟より弱いなんて知られたら、恥ずかしさのあまり波導が暴発する。兄さんはいつも僕が種を食べたと知るといつもそう言っていた。
その言葉は正直聞き飽きているけど、兄さんに恥ずかしい思いはさせたくない。だから、僕は今日も違うバッグに入った種を取り出す。
「はあ、あの種の後にこれを食べるのは嫌だけど……仕方がないか」
幸せの種とは違い、黒くてどこか不吉な感じがする種を噛まずに一気に飲み込む。喉の奥に種が落ちた途端、全身から力が抜けるような感覚を覚える。どうやら無事にプラスをゼロにすることができたようだ。
不幸の種。普通の探検家からはレベルが下がるからと忌み嫌われるこの種は、僕の家ではかなり活躍する。いつの日だったか兄さんが上がり続ける僕のレベルに焦りを覚えて買ってきたことが、この習慣の始まりだ。
見た目で想像がつくだろうけど、この種は幸せの種とは違ってとても不味い。どのくらい不味いのかというものを描写するのも嫌になるほどの不味さだ。これだけ不味くてしかもレベルが下がるのだから、不幸以外の何者でもない。
用は済んだとばかりにバッグを視界に入らないところに押しやると、静かに目を閉じて兄さんの波導を探す。確かもうすぐ帰ってくるはずだ。
でも、いくら波導を探しても兄さんのものは見つからない。思ったよりもダンジョン攻略が大変なのだろうか。少し心配だけれど、ここは兄さんの無事を信じて待つしかない。これまでも似たようなことがあったけど、兄さんはちゃんと帰ってきていたのだから。
波導探知をやめて目を開けると、玄関の扉がノックされていることに気が付いた。兄さんの波導ばかり気にしていて他の波導に目を向けなかったから、家の前に誰か来ていることに気が付かなかったみたいだ。
「はい、今出ます!」
慌てて扉を開けると、そこには黒いマントを羽織った一匹のデリバードが立っていた。持っている袋は闇夜で目立たないためだろうか。よく知っている白色じゃなくて黒色をしている。
こんな夜遅くに一体何の用だろう。不思議に思っていると、デリバードが袋から赤いリボンでラッピングされた白い箱を取り出した。プレゼント、だろうか。でも、デリバードのプレゼントってダメージを受けることがあるんだよな……。
疑いの視線を箱に注いでいると、デリバードがこちらを見てニッコリと微笑む。
「今晩は。夜分遅くにすみません。実は、私は今日リオルさんにプレゼントを贈りに来たのです。ああ、もちろん技ではないのでご安心を。中身は幸せの種に改良を重ねた特殊な種です。これを食べれば、きっとリオルさんも幸せになることができますよ?」
幸せの種に改良を重ねたもの。そう聞いて僕の耳がピクリと動く。噛まないままとはいえ、先ほど不幸の種を食べたばかりであることには変わりない。種のせいでどこか憂鬱だった僕に、この贈り物はとても魅力的に映った。
「ほ、本当にいいのですか!?」
お金を取られたりはしないだろうかと不安になって聞くと、デリバードさんは静かに頷いた。お金という言葉が全く出てこないことから、きっと彼の善意でやっていることなのだろう。今日はということは、もしかしたら町のポケモン全員に配っているのかもしれない。
僕は先ほど覚えた疑いをすっかりと頭の隅に追いやると、リボンをほどいて箱を開けた。中にはとても美味しそうな種が一つ、入っている。その香りはとても甘くて、優しくて、どこか暴力的だった。
ああ、こんなことが兄さんにバレたらまた怒られるかな。でも、誰もデリバードさんが来るとは予想できなかったはずだ。だから、きっと許される。
「いただきます!」
僕は大きな声でそう言うと、その種を口の中に入れて噛み砕く。じゅわり。いつもの種よりも甘くて濃厚で、とても幸せな味が口中に広がる。僕はこの時間が本当に好きだ。
「――――がっ!?」
その直後、弱点の技を複数喰らったよりも酷い苦しみが僕を襲った。何が起きたのかもわからずに床に倒れる。痛みと共に視界がどんどん暗くなっていく。
「あなたのその姿を見ることが、私にとっての幸せなのです」
意識が消える直前、そう言って笑うデリバードさんの姿が目に映ったような気がした。そこでやっと、気が付いた。
僕が口にしたのは「幸せ」の種なんかではなくて、とびっきりの「不幸」の種だったんだ。
「不幸の種」 終わり