袋の鼠
ぴしゃり。足先から水分が飛ぶ。足元は固いがじっとりと湿っており、毛に纏わりつく空気も湿っているようでどことなく不快だ。覗く空は抜けるように青く、太陽が明るさを落としているというのに。矛盾している。
ずっと走り続けているせいで体中から嫌な汗が流れ落ちる。呼吸は既に乱れ、心臓の音が耳にまで響いてくる。酸素は取り込めているはずなのに頭がガンガンと痛い。下手をすると視界まで歪みそうだ。
そんな状態にまでなって、どうして走り続けるのか。理由は一つしかない。いや、少し違うな。今の状況では一つだけ、と言うべきか。
「っ!」
背後から俺を追いかけ続けるポケモンが奏でる音色が響いた。襲われた時の恐怖を思い出し、ぞわりと全身の毛が逆立つ。空気中の水分は足りているというのに、どんどんと口の中が乾いていくのがわかる。
「くそっ、どうしてこんなことになったんだ!」
思わず舌打ちをするも、過去は戻ってきてくれない。ディアルガの力を借りればワンチャンありそうだが、旅の中でバッヂを半分も集められなかった俺がそんな神と呼ばれるポケモンをゲットできるはずがない。
それに、どうしてこうなったのかは俺自身よくわかっていた。少し前とは違い、今の俺は人間ですらない。視界にチラチラと入る黄色ではない薄いオレンジ色の手足が、今はとても憎らしい。色は予想外とはいえ、心の底から憧れていた姿だったというのに。
「……はっ」
どうやら俺は夢に夢を見るだけで、現実になるとお断りするタイプだったらしい。自分では知らなかった一面がわかったのはいいが、この状況では喜ぶに喜べない。
ふと、ざらりとした何かが首元を掠めた。その感触に喉からひゅっと空気が漏れ、背筋が凍る。
「う、うわああぁぁぁぁ!!!」
俺は無理やり全神経に意識を集中させて電気を集めると、振り返らないままエレキボールを打ち出した。
*****
ポケモンになった少年少女が世界を救う。そんな小説や漫画に憧れていた。もちろん人間がポケモンになるなんて話は生きてきた中で一度も聞いたこともないし、あり得ると思ってすらいない。図鑑の説明を読んでも期待すら湧いてこない。
そんな現実しか見ないようなやつが、どうして小説や漫画の世界に憧れたのか。誰かに何度も聞かれたような気がするが、俺自身にもわからないのだからどうしようもない。表面上は諦めているようで、心の底では信じたいとでも思っていたのだろうか。
夢を見ているのか現実を見ているのかわからない俺は、周りと同じようにトレーナーの道を進んだ。最初は何とか進んでいったが、現実は甘くない。すぐに己の実力を知り、チャンピオンどころかジムの制覇ですら無理だと思い知らされた。
何かに追われるように実家に逃げ帰り、手持ちのポケモンをボールから出すことすらなくなった頃。近所で不思議な噂を耳にした。
どこかの森の奥深くにある館では、他とは違い千年も眠らず起きたままのジラーチがどんな願いも叶えてくれる。その願いの数に限りはなく、本人がいいと言うまで何個でも叶えられる。
正直現実味がない噂だ。千年も眠らないジラーチがいるのなら、誰かがとっくに捕まえて独り占めしているだろう。人々の夢を具現化したような美味しすぎる存在が、どうしてずっと無事なのか。
答えは簡単。噂は噂だからだ。どうせ噂に引き寄せられて行ったやつが真実を知った途端に恥ずかしくなり、それをごまかすために本当だと言っているに違いない。もしくは噂をコントロールしている人間がいて、自身に不利な話が広まらないようにしているのか。
どちらにしても、俺には関係のない噂のはずだった。……はずだったのに、噂を知った翌日から俺の行動は変わった。朝早くにもはや存在すら忘れかけていた手持ちのポケモンを出し、可能な限り情報を集めては夜遅くに戻る。
親は俺がかつての頃に戻ったと喜んでいたが、そんな話はどうでもよかった。あの時の俺の脳内にあったのは、「ポケモンになってどこかの世界を救う」願いを叶えたい。それだけだった。
もしも脳内に冷静な俺がいたのなら、バカな真似はやめろと止めたかバカらしいと鼻で嗤っただろう。夢に夢を見る俺しかいなかったのは、今まで蓋をしていたのが壊れたのか何なのか。
当時は理由も何もわからないまま行動を続け、遂に目的だった館の場所を突き止めた。家からはなかなか遠い距離にあったが、短いながらも旅をしていた時の経験を活かせば行けないことはない。
何日間かかけて目的地に向かうと、そこには噂通りジラーチがいた。できればゲットしたいという気持ちがあったが、実際に見ると捕まえる気はなくなってしまった。レベルからして俺がゲットできる相手とは思えなかったから、逆によかったのかもしれないが。
興奮のままに願いを口にし、気が付くと知らない場所で倒れていた。何となく体に違和感を覚え傍にあった水たまりで姿を見ると、驚くことにピカチュウ――しかも色違い――になっていた。
具体的に何をいくつ願ったのかは覚えていない。ついでに言うと、館の情報をどれだけ集めたかも覚えていない。俺の正体やここに来るまでの記憶ははっきり残っていることを考えると、俺自身が忘れるように願ったのだろう。
そういえば、よく見ていた小説や漫画の主人公は記憶を失った状態で始まっていた気がする。ほんの一部だけなのが解せないが、俺らしいと言えば俺らしい。本当に何もかも忘れた状態では、敵に立ち向かおうにも立ち向かえない。大方そんなことを考えたのだろう。
だが、覚えていた技がエレキボールだけなのは俺らしいとは思うに思えなかった。技の事実がわかったのは近くにいい感じの岩場――現在必死で走っている場所――を見つけ、腕試しにちょうどいいと入ってからだ。
トレーナー時代に持っていた図鑑はない。今の俺が何の技を使えるのか、確認する方法は一つ。実際に使えそうな技を片っ端から試してみることだけだった。
いいタイミングでアノプスが来たので、攻撃を喰らわないように気を付けながら試す。レベルが低くても覚えていそうな電気ショックや鳴き声、尻尾を振る、電磁波。どれに挑戦しても不発。やり方が悪いのかと何度か挑戦してみても出ることはなかった。
もしかして元が人間である俺に技は使えないのか。全く考えていなかった可能性に気が付き絶望しかけた時、偶然にもエレキボールが発生してアノプスが倒れた。
一つだけでも技が使えた事実に喜び、他にも使えないかと試し続けて少し。気が付くとエレキボール以外は何も出せないまま、アノプスやカラナクシ、リリーラに囲まれていた。どいつもこいつも目が正気を失っており、話し合いでどうにかなりそうな相手じゃない。
頭が一瞬で恐怖に塗り替えられた俺は唯一の技であるエレキボールを連発しその場から逃げ、必死で下へ下へと進み続けた。技を使える回数はギリギリ頭の中にあったから途中で敵を見かけても戦いを避けるため隠れ、隠れ切れなかったら素手で倒す。
反撃を喰らい何度も痛い目に遭ったが、たまたま落ちていたオレンの実を拾って食べたり歩き回ったりして何とか体力を回復させていった。歩きすぎて小腹が空いた時はリンゴを見つけ次第食べ、空腹で倒れるのを防いだ。
ある程度進んだと感じ、これなら脱出できるかもしれないと希望が見え始めた時。あいつと出会ってしまった。進化すると夏に癒し効果がありそうな鳴き声を出すポケモン、リーシャン。一見するとつぶらな瞳に狂気が宿っているようには見えない。
その見た目に油断し、他と同じように倒そうと手を伸ばした直後。しゅるりと伸びた紐が首に巻き付いた。紅白の紐が強い力で締め上げていくのを感じ、俺は恐怖から技をしっかりと出せず、暴発させた。
一瞬だけ紐の力が緩んだ隙に離れ、むせながら酸素を確保する。特性が発動して痺れたのか、リーシャンの動きが緩慢になった。こちらを探るような、何かを楽しむようなリーシャンの瞳がこちらを捉えた瞬間、俺は転がるようにしてその場から逃げ出した。
麻痺が残っている間に倒してしまおう、なんてことは全く思い浮かばなかった。ただ、逃げなければ命が危ない。そんな考えばかりが脳を支配していた。
そこからは、今に至るまで何度風が吹こうが他の敵が現れようがお構いなしの鬼ごっこだ。
*****
エレキボールが当たったのか暴発するのを恐れたのか一旦気配が遠ざかり、俺は一時の平和を手に入れた。それは本当に一時だけで、すぐに恐怖の時間は戻ってきたのだが。
あれから何度岩場の中を上ったり下りたりしたかわからない。わかるのは恐らく同じリーシャンが追いかけてくることだけ。移動すれば撒けると思ったのに、懲りずにずっと追いかけてくる。
速く走れば速く、遅く走れば遅く。立ち止まると止まる……なんてことはないが、こちらが逃げ出すまで非常にゆっくりとしたスピードで近づいてくる。ここまで来ると、もうこちらの動きを楽しんでいるとしか思えない。性格が悪すぎる。
一度ちょうどいい隙間を見つけたので隠れて諦めて貰おうとしたが、隙間に体をねじ込もうとした瞬間体が飛びそうなほどの強風が吹いた。正しい受け身のやり方なんて知らない俺が風に任せて浮いたらどうなるのか。想像して血の気が引いた。
飛ばされないよう壁にしがみつきながら下に進むと、不思議なことに風がピタリと止んだ。どうやら一か所に留まり続けると風に飛ばされ終わる仕組みらしい。強さを変えて何回か吹くのは警告のようなものか。
小説や漫画の世界というより何だかゲームの世界だな。残念ながらそんなゲームは今まで一度も見たことがないから、完全に想像でしかないが。
もしもゲームの世界ならこの状況をリセットしたい。いや、ポケモンの力を借りる時とは違ってリセットした瞬間記憶や体がどうなるのか予想できない。やっぱりリセットしなくていい。本当、俺は現実でしか生きられないやつのようだ。
「――ちっ!」
でたらめに進んだ道の先が行き止まりで、何度目かの舌打ちをする。これまでは比較的短い道での行き止まりだったから追いつかれる前に広い空間へ戻れたが、今回は長い一本道での行き止まり。テレポートでも覚えていない限り会わずに戻るのは無理だろう。
遠くから鈴の音が聞こえる。こちらを焦らせるように、楽しむように。シルエットが見えたらすぐにエレキボールを放とう。両手で数えられるくらい経験した記憶を元に動こうとして、頭を強く殴られたかと思うほどの衝撃を覚えた。
たった今脳内で思い浮かべた回数は、ちょうど両手の指が折りたためる数。対してエレキボールが使える回数も、ちょうど両手の指が折りたためる数。もっと早くに気が付いておくべき事実に、今更ながら気が付いた。
もう、俺は何も技を出せない。出せるとしたら悪あがきくらいだが、あがいたところでリーシャンの紐から逃れられるとは思えない。素手なんてもってのほかだ。
鈴の音が近づいてくる。視線が俺に近づいてくる。道の幅からして、走って横を抜けるなんて真似はできない。近づいたら紐の餌食になるだけだ。見た目ただの飾りなのに。動かせるなんて聞いていない。
俺が止まっているからか近づく動きがゆっくりだが、ギリギリで止まって様子見なんて真似はしないだろう。顔がはっきり見えるくらい近づいてきたから、目に宿る感情がよく読み取れる。
しゃん。軽やかな鈴の音が耳をすり抜けた。相手の目には、俺が怯えている姿が映りこんでいる。もう終わりだ。終わりなんだ。
こんなことなら噂を聞かなければよかった。夢に夢を見る自分を捨てきるか一生蓋をする覚悟を持っていればよかった。手持ちを傍に置いて忘れるんじゃなくて、どこか遠くに預ければよかった。
景色が歪み、頬に温い水が染み込んでいく。もう汗やら岩場の水分やらで全体がじっとりしているから、今更何の水分が染み込もうと気にならない。気にしても、それをどうこうする機会は永遠に訪れないのだから。
紐がこちらに伸び、力強く巻き付く直前。元いた世界で使っていた慣用句が頭に浮かんだ。
「袋のピカチュウ」 終わり