陽炎は伝えない
『クククッ』
ああ、おかしくてたまらない。思わず嗤いが零れてしまったが、オレの入る影の主……ユウヤは特に気にしていないようだった。オレの声に反応することなく視線を前へ戻すと、少しずれていたフードを被り直して先に進み始める。
今日の日差しはとても強く、ずっと照らされていると人間ポケモン関係なく焼け焦げてしまうだろう。そんな日差しが容赦なくやつを照らすが、影に入っているオレにはさほどダメージはない。
……いや、今はユウヤにも日差しのダメージは全くと言っていいほどないだろう。どういう原理かはわからないが、ゴーストタイプであるオレが影に入ったことにより影響を受けているはずなのだから。
これによりずっと歩きやすくなっただろうが、それだけだ。ユウヤがここから出ることはない。原因がわかっていれば何かあったかもしれないが、その心配もないだろう。ユウヤに残る記憶はもう、自分のことと常識以外ほとんどない。そう言っても過言ではないのだから。
なぜ「ここに偶然迷い込んだだけのゲンガー」がそれを知っているのか? 答えは単純だ。ユウヤがこの終わることのない道を歩き続けることになった「きっかけ」に、オレも関わっているからだ。迷い込んだ「だけ」のゲンガーに、ユウヤの事情がわかるはずがないだろ?
影の中でオレは思い返す。この人間が、ユウヤがこうなった理由を。オレが、陽炎がここにいる理由を。
*****
あれは、今と同じように日差しが雲で途切れることなく降り注いでいた日のことだった。ユウヤは冷房が効いた部屋ではなく、わざわざ外を出歩いていた。何か目的でもない限り、こんな地獄のようなところを出歩くなんてまっぴらごめんだろう。
事実、ユウヤはある目的のために外に出ていた。手にはコーラの缶が握られているが、ユウヤが飲む気配はない。
塀と道路ばかりの場所を歩き続けて辿り着いたのは、とあるガードレールの近くだった。そこにはささやかながら花が供えられており、ユウヤも花ではないがコーラを供える。この場所で一体何があったのかは、状況を見ればすぐに予想できるだろう。
タイミングを見計らって、オレは塀の影から飛び出す。ずっと様々な建物の影から影へと移動してユウヤをつけていたのだが、やつは気付きもしない。オレの姿を見て目を丸くし、一言「陽炎」と零す。
『ケケケッ』
よう、ユウヤ。そういうつもりでオレは嗤う。人間にポケモンの言葉は通用しないから、きっとやつには何か話したように見えただろう。
……おっと、遠い大陸で有名になったとある組織のボスは別だったな。そんなやつがこの辺にいるとは思えないが、これからは気を付けよう。エスパータイプがパートナーのトレーナーなら、パートナーが教える可能性もあるだろうし。
「――陽炎も、あいつの?」
傍目からはそう見えるだろう。事実、ユウヤもそれを期待している目でこちらを見つめている。オレの目的は違うが、あえてその通りだという意味を込め、頷きを返す。
「……そうか」
ユウヤはどこか悲しげに、そして満足そうな顔をして笑う。一見すると共通点が見つからない表情をしていることに、やつは気が付いているのだろうか。いや、気が付いていないのだろう。口よりも達者な目も、あの表情も無意識からなるものだ。
……そもそも。こいつが気付いていたら、彼女はこうはならなかったからな。
誰も彼も、あれは不幸が偶然重なったものだと言った。目の前にいたユウヤも、そうだと信じて疑わなかった。直前に教えられたオレ以外、誰も彼女の意思に気が付かない。あまりにもおかしくて嗤いを零すと、それを何と勘違いしたのかユウヤが口を開く。
「陽炎。俺、願いの館に行こうと思うんだ」
願いの館。森の奥深くにあると言われるそこは、「眠らないジラーチがどんな願いも本人がいいと言うまで叶えてくれる」らしい。願いを叶えて欲しいやつにとってはまさに、夢のような場所だ。……何の代償もなく、叶えられるのであれば、な。
タダより高いものはない。そう言ったのは誰だったか。誰が言ったかはこの際あまり関係ないが、誰もが飛びつくご馳走が無料で頂けるほどこの世の中は甘くない。きっと、叶えて貰えた願いと同じくらいの代償を支払うことになるに決まっている。
オレでさえそう思うのに、ユウヤは何も疑問に持たずいつ行くつもりなのかを語る。やつの中では随分前から計画していたもののようで、場所も特定できているらしく今日中に行くらしい。
ユウヤの願いがやつだけに関係するものなら放っておくが、そうではないとしか予想できないから放っておくにおけない。彼女のことを家族よりも知ろうとしていて、一番知らなかったのは他ならぬやつだ。
オレもついていくとジェスチャーで伝えると、やつは予想した通り受け入れてくれる。むしろ、オレがそうするのを望んでいたような感じさえあった。
モンスターボールがあれば入っていただろうが、今のオレは自由の身。勝手にユウヤの影に入らせて貰う。あいつは一瞬驚いたらしく息を飲む音が聞こえたが、すぐに慣れたようで「涼しくていいな」と言っている。かつて似た光景を見ていた影響もあるのだろう。
我ながらでかいと思う口から飛び出しそうになる感情を抑え、そのまま影の中で目的地へ辿り着くのを待つ。途中ユウヤが何回か話しかけていたが、オレは答えるつもりもないし答えても本当の意味は伝わらない。やつの勝手な独り言だけが影の中に響いていた。
「――ここが、そうなのか」
片手がちょうど埋まる回数のまどろみを楽しんだ頃、突然そんな声が落ちてきた。どのくらい時間が経ったのかわからないが、声に疲れが滲み出ていることから分単位ではないのは明らかだろう。
目的地に着いたのだからさっさと早く出てこい。声には出ていないが、そう言いたいのがよく伝わってくる。
顔が素直なのはいつものことだが、疲れると声の調子も素直になるらしい。大して嬉しくもない発見を胸に影から飛び出ると、ちょうど館の主がオレ達を出迎えてくれた。その時やつが口にした言葉と表情は、恐らくずっと忘れることはないだろう。
予想した通りの実に欠伸の出る願いをたっぷりと聞いた後、館の主は約束通り願いを叶えると言ってきた。ユウヤは見ていて恥ずかしくなるほど喜んでいたが、それは少しの間だけだった。
館の主が代償について話し始めた途端、時が止められたかのようにその動きを止める。まるで錆びた機械のような動きで主を見た後、飛び出したのはやつが持てる限りの全てを尽くした怒りだ。
館の主にとってはもう日常茶飯事になっているらしく、ユウヤの怒りに対して特に変わった反応は見せない。どちらかと言うと、願いは叶えたのだからさっさと帰って欲しい。そんな反応だった。
オレもユウヤにはさっさと帰って欲しいが、影の中にいたせいで帰り道がわからない。それがなくとも、ユウヤはオレと一緒に帰ろうとするだろう。理由は何となくわかるが、わかりたくない。わかってたまるか。
オレは彼女のために、まだここを離れるわけにはいかない。外で待っていて貰うのが一番だが、一部を除いて人間はポケモンの言葉を理解しない。
大変なところ申し訳ないが、館の主に協力して貰おうか。そう考えていた時だった。
「陽炎、そいつに悪の波動だ!」
怒りを放ち続けていたユウヤが突然、そんなことを口にした。指と怒りに満ちた目が向けられた先にいるのは、館の主。指示の内容を考えると、どう考えても館の主を攻撃しようとしているのだろう。
やつが相棒であれば指示に従うが、今のオレは自由の身。ふいとユウヤの顔から視線を逸らし、命令拒否の意思を伝える。
「おい、陽炎!」
オレの態度にユウヤはこれ以上ないほど顔を赤黒くしている。おいおい、オレはいつからお前のポケモンになった? 仮になったとしても、オレのトレーナーは後にも先にも彼女だけだ。ジムバッジを一つも手に入れていないやつの指示なんか、聞くはずがないだろ。
うるさいので催眠術で眠らせたいが、代償が代償故に眠らせることができない。どうしようかと考えていると、館の主が深く息を吐く。
「……君、うるさすぎるよ。少し風に当たって頭を冷やしてくるといい」
ギロリとユウヤを睨みつけると、強制的に館の外へと移動させる。うるさすぎて半ば慣れつつあった耳が、突然の静寂に驚いたように思える。館の主はテーブルの上に残っていた菓子をつまむと、先ほどとは違う息を吐いた。
「やれやれ。やっと静かになった。これでやっと、君と話ができるというものだ。――君も、叶えたい願いがあるのだろう?」
こちらの気持ちを読んでいたかのような発言に、自然とオレの口から笑みが零れる。
『ああ。オレが叶えたい願いは――』
*****
ふと、大きめな声で名前を呼ばれた。何だと問いかけると、ずっと静かだがどうしたのかと言われる。考え事をしていただけだと答えると、ユウヤはそうかとだけ返してきた。やつにとってオレは「初めまして」だからか、詳しい内容を知ろうとは思わないようだ。
ユウヤのせいで思考が中途半端なところで途切れたが、もう一度思い返すのも面倒臭い。短く結論だけを思い返すと、オレは自らの願いでやつの願いを「上書き」した。
当人が願いを追加することはできない。逆に言えば、当人以外の願いを叶えて貰っていない者なら、何の問題もないというわけだ。オレは十分すぎるほどそれを活用した。そのお陰でユウヤは終わることのない道を、今日を歩き続ける。
願いを叶えて貰った結果オレも同じ状況になったが、ずっとやつを監視できるのだから都合がいい。館の主を信用していないわけではないが、何かのきっかけで記憶が戻る可能性がないとは言い切れない。
もし戻ってしまったら、やつは何としてでもこの空間から出ようとするだろう。最初にオレに命令するのは目に見えている。あの時と違い思疎通が可能だから、色々と面倒な展開になるに違いない。今は館の主の力を信じるしかないだろう。
ユウヤは塀と道路しかない、暑さのあまりテッカニンも鳴いていないところをずっと歩き続ける。そろそろ記憶がリセットされる頃だから、タイミングを見計らって影から出るとしよう。一体どのくらい同じことを繰り返しているかを考え、自然と口許が緩む。
……ああ、本当におかしい。オレの願いのお陰で、やつは彼女を思い出さない。会うこともない。館の主すら想定していなかった出来事が起こらない限り、やつは彼女がオレのトレーナーでなくなった日を彷徨い続ける。オレが自分の味方だと信じ続ける。
記憶がないユウヤはオレの言葉を疑わない。一度くらい疑って、尋ねてしまえばいいのに。もっとも、尋ねられても真実を伝える気はさらさらないのだが。
彼女の気持ちを考えすらしなかった罰だ。一生、この忌々しい日を彷徨い続けろ。
心の中で言葉を吐き捨てると、オレはまた声に出してやつを嗤った。
「陽炎は伝えない」 終わり