ツユギツネ
真っ白な世界の中、私は最初の時のことを思い出します。
最初、まだ私がタマゴの状態だった頃。何も見えない、でも外からはくぐもった複数の音が聞こえ続けるという状況の中、その瞬間は突然に訪れました。
「――――」
パリン、と甲高い音が暗闇の中に響いたかと思うと、次の瞬間には暗闇は消え去り赤色や薄紫色、銀色、緑色といった色が私の目に飛び込んできました。私はそのことに酷く驚き、馴染みのある暗闇に戻ろうと、とっさに黒くて平たい何か生み出している近くの緑色に飛び込んだのです。
「――――!!」
ガサリという音を立てながら緑色に飛び込んだ私を見て、最初に見えた赤色が何か大きな音を発しました。その音がとても大きく、身の危険を感じたことから私は更に緑色の中に入ります。
緑色の中から様子を伺う私を見て、赤色は薄紫色に何か短い音を発しました。その直後、薄紫色の赤い何かと目が光って、突然私の体が浮き上がったのです。
視界がいきなり変わったことに軽くパニックを起こす私をよそに、赤色は自分の前に運ばれてきた私を両手で抱えるとそのままどこかに走り出しました。先ほどまであったはずの薄紫色や銀色は、いつの間にかなくなっていました。
次々と変わる色や頬や耳に当たっては通り過ぎていく見えない何かに興味を抱いていると、巨大な赤くて白いものの前で動きはピタリと止まりました。
止まった途端、ぴゅうとこれまでとは違う方向から何かが通り過ぎ、それを掴もうと私は前足を伸ばします。しかし前足が何かをとらえる前に、赤色はさっさと巨大な赤くて白いものの中に入っていってしまったのです。
赤色の行動に私が小さく文句の一つでも言おうと口を開いた時、赤色は慌てた様子で私を下へと下ろしました。口を開いたまま疑問符を浮かべていると、赤色はどこからか取り出した赤色と白色の球体を私の額に当てます。
その直後、私は再びあの頃とよく似た暗闇の中に放り出されていました。実家(?)に帰って来たような安心感にホッと息を吐いたのも束の間、今度は水色で上も下もないような世界が目の前に広がります。
次から次へと変わる状況に少し泣きそうになっていると、世界の向こうから弾むような音が聞こえてきました。世界が違うからかハッキリとはわかりませんでしたが、移動させられている最中頭に響いていた音によって、音――声の意味が段々とわかってきた私には、こう聞こえました。
「やった、ぜんぶ『さいこう』だ!!」
その後すぐに水色と暗闇の世界から赤色のいる世界に戻された私は、視界の奥の方に赤くて白いものが見えるところに首を傾げながら座っていました。赤色は私にそこから動くなと告げると、どこからか取り出した水色で真ん中に白い何かがある、とても綺麗なものを私の額に押し付けます。
その途端、私の体の中から心臓がどうにかなってしまいそうな、とても冷たいものが溢れてきました。冷たさに心が支配されてしまうかもしれない、という恐怖で私は狂ったように泣き叫びますが、赤色はただその様子を見るだけです。
やがて冷たさは光となり、私の体をすっぽりと包みこみました。普通の暗闇とは違う真っ白な世界に遂に叫ぶのも忘れてガタガタと震えている間に、その光と冷たさは嘘のように引いていきました。
視界が元の色に戻ると、まず目の前の色の位置が変わっていることに気が付きました。下のザラザラとした感触がわかるところが増えていることに気が付きました。私を見る赤色の目がキラキラと輝いていることに気が付きました。
赤色が弾むような声で、私に言いました。
「これからよろしくな、きゅうこん!」
それから、私はたくさんのことを教えて貰いました。赤色はカントーという場所からこのアローラという場所に来たトレーナーで、私のご主人様だということ。薄紫色はエーフィというポケモンだということ。
最初にチラリとだけ見た銀色は、私とは少し姿やタイプが違うものの同じキュウコンで、しかも色違いという珍しい存在だということ。私も色違いという存在らしいのですが、このキュウコンは色違いの中でも目の色までもが違うという、特に珍しい存在とのことでした。
その他にも緑色は草むら、見えない何かは風、赤色と白色の球体はモンスターボールという道具、赤くて白いものはポケモンセンター、水色の世界はパソコンの中など、頭がパンクしてしまいそうなほど多くのことを教えて貰いました。
あの綺麗なものは氷の石、というポケモンを進化させる不思議な石で、私はそれにより進化した、ということもご主人様は嬉々として教えてくれました。エーフィやキュウコンは進化の瞬間は力に満ち溢れ、変わっていく自分に戸惑いながらも嬉しさを覚えた、と語っていました。
しかし、私にはそれが――「進化」がとても恐ろしいものに思えてならなかったのです。私がご主人様になぜ「進化」させたのかを尋ねると、彼はさも当然といった感じでこう答えました。
「使えるやつは早めに準備を終えないといけないし、見せびらかしたかったからな。頑張ったんだぜ? 厳選。お前に会うまでにどれだけ『失敗』をしたか……」
いくつか知らない単語が混ざっていましたが、それを聞いた私は正体のわからない恐怖を抱いたのをよく覚えています。
そして、私が周りのことを全て知り尽くす前にそれはやってきました。
まず、念には念を入れるためと言われ、変な味のするドリンクを何種類もたくさん飲まされました。そして手元の端末を見て「これ以上は上がらないか……」と呟いてからは、円盤状の機械を操作して何度も私の脳みそに知らない情報を詰め込んだ後、重いものを持たされて他のトレーナーが連れた見ず知らずのポケモンと戦うよう言われました。
それまではエーフィやキュウコンの戦いを、ボールの中でこっそり見ていただけの私は驚きました。そのうえ指示をされても、頭の中に溢れる「情報」の中から目的のものを見つけられず、軽いパニック状態に陥っていました。
そんな私のことなどお構いなしに、相手のトレーナーは指示を出してきます。慌てたご主人様が避けろと叫びましたが、パニックで周りが見えていなかった私には聞こえておらず攻撃は命中。しかも当たりどころが悪かったのか、私は気絶をしてしまいました。
「能力はよくても、やはりレベルが低すぎたか……」
意識が消える直前、チッとご主人様が舌打ちをしたのがわかりました。
最初のバトルで敗北してから、ご主人様は私に戦いを命じることはなくただ不思議な味のする飴を与え続けました。もう入らない、と訴えても「せめて雑魚トレーナーを一発で倒せるくらいレベルを上げないといけないからダメだ」と言って聞いてくれません。
トレーナーに雑魚も何もあるのでしょうか。レベルとは何なのでしょうか。ご主人様は私に一体何を求めているのでしょうか。
様々な疑問が私の頭の中をよぎりました。しかしそれを聞こうとする度に真剣な表情をしたエーフィに止められ、仮に聞けたとしてもまともな答えは返ってきません。何度も何度も繰り返されるそのやり取りに、いつしか私は疑問を疑問と思うことすら諦めてしまいました。
私に飴が与えられ続けている間、エーフィとキュウコンは様々なバトルを勝ち抜き、ご主人様に褒められていました。特にキュウコンは、弱点の一つである水タイプの技を受けても一発で倒れることなくバトルを進めていました。
「どちらも俺が厳選した個体だから、こうなるのは当然だな。……はぁ、なんでこっちのやつは最高の個体でしかも色違いなのに役立たずなんだか。これじゃ『最強の色違い』として自慢しようにも、一匹しか自慢できないな……」
二匹の後ろでのそのそと飴を消費している私に聞かせるためか、やけに大きな声でご主人様は言いました。それを聞いたキュウコンが言い過ぎたと私を庇ってくれましたが、エーフィが事実だから仕方がないんじゃない? と冷たい言葉を吐きます。
しばらくして、飴を与えられることはピタリとなくなりました。理由は「飴を与えるのが勿体なくなったから」だそうです。無理に飴を食べなくてもいいと喜んだのも束の間、エーフィの言葉がまるで実体を持って心臓に刺さったかのように、私は異常な寒さに悩まされ始めました。
寒さで常に体がガタガタと震えるようになりました。本当のことを言ってもご主人様は「氷タイプなのだから、寒さに震えるはずがない」と否定し、それを見たエーフィは「臆病者だから震えているんでしょ?」と嗤っていました。
しかし、キュウコンだけは心配そうに私に色々と聞いてくれたり、ポケモンセンターで寝泊まりしている時はどこからか暖かなブランケットを持ってきてくれたりしました。
バトルに出されても指示を聞く余裕がなく、奇跡的に指示通りの技を出せたとしてもとても弱弱しいものになってしまいました。レベル差のせいか体力だけは減らず、時間をかけて痛めつけられた後気絶をさせられました。
ご主人様に毎日のように「能力詐欺」だと暴言を吐かれ、蹴り飛ばされたりご飯を減らされたりすることが増えました。バトルで負けてもすぐにはポケモンセンターに連れていかれず、長時間痛みに苦しむことが増えました。
寒さを感じる範囲が広がり、手足がうまく動かせないようになりました。ご主人様はボールから出されても震えるだけでピクリとも動かない私に「バトルをしたがらないニートにはお仕置きが必要だ」と言い、エーフィのサイコキネシスで何度も地面や壁に叩きつける行為をしました。
これらの光景を見た他のトレーナーやキュウコンが虐待だと叫ぶ度に、ご主人様は「これは手持ちに喝を入れたりサバイバルの特訓をさせたり、手持ち同士でバトルの練習をさせたりしているんだ。お前が『虐待』だと思った要素は一体どこだ? 『自分』(キュウコンに言う時は『他のやつ』)は絶対にそれをしていないと、お前は言い切れるのか?」と悪気も何もない顔で言い返します。
その言葉に叫んだトレーナーはぐっと言葉を詰まられると、何か言いたげな目をしながらも大人しくその場から去っていきました。キュウコンも「クズが……」と呟きながらご主人様を睨みつけることしかしませんでした。
ご主人様やエーフィ以外の誰もが「異常」だと感じる「日常」が、何十日か繰り返されたある日のこと。
ご主人様は私を真っ白な山の中腹あたりで出すと、今まで私が入っていたボールを白の中に落として足でぐしゃりと踏み潰しました。それと同時に、私を拘束していた「何か」が消えたのを感じました。恐らくボールとの「繋がり」が完全に切れたのでしょう。
突如自由を手に入れることになった私に、ご主人様……いえ、「元」ご主人様は感情のこもっていない目を向けました。
「お前は『最強』のはずなのに、どんだけ俺が頑張っても『最弱』のままだったよな。こっちの苦労も知らずに貴重な道具や金や時間を使わせやがって。ここならのびのびと暮らせるだろうから、さっさとどっかに行けよ」
最後のセリフは、恐らく私に向けられた最初で最後の「優しさ」だったのでしょう。その優しさは本来ならありがたく受け取るのですが、もう前足や後ろ足の感覚がほとんど残っていない私には受け取れませんでした。
私がいつまで経っても動かない理由を「離れたくないから」と勘違いしたらしい元ご主人様は、チッと舌打ちをした後エーフィを出してサイコキネシスを命じました。どうやら自分の視界に入らない場所に私を移動させるつもりのようです。
指示を聞いたエーフィは「全く、最後までワガママなキュウコンね!」と露骨に嫌そうな表情を見せながら、サイコキネシスで私を遠くまで放り投げます。勢いをかなりつけたのか、力がなくなっても私は飛ばされ続け、やっと着地したと思ったらゴロゴロと派手に地面を転がりました。
いつの間にボールから出たのか、遠くであのキュウコンが元ご主人様を怒鳴る声が聞こえてきます。視界の端が一瞬青く輝いたことから、炎技でも使ったのでしょうか。
しかし、炎が反対側まで飛んで数秒後に爆発音が聞こえたことから、エーフィのサイコキネシスで軌道を変えられてしまったのでしょう。キュウコンは二発目を放とうとしたようですが、雪に紛れる青色の輝きが大きくなる前に赤い光が伸び、消えたように見えました。
私はもう違いますが、キュウコンはまだ元ご主人様のポケモンです。強制的にボールに戻されてしまったのでしょう。その後、元ご主人様はエーフィもボールにしまったのか、ライドポケモンであるリザードンに乗って姿を消してしまいました。
あっという間に見えなくなるオレンジ色を見送った後、私はひっそりと涙を流しました。普通はこういう場合視界がぼやけるのだと思いますが、この山と体を蝕む寒さが視界すらも凍らせてしまったのか、全て真っ白にしか見えません。感覚も地面を転がり始めてから段々となくなってきたため、今頬が濡れているのかもわかりません。
ですが、私は泣いているのだと思いました。タマゴから生まれてから一年も経たないうちに、こちらの話も聞かれないまま捨てられたのです。振り回すだけ振り回しておいて、「弱い」という理由で簡単にどこかに行け、というなんて一体どちらが「ワガママ」なのでしょうか。
もうここにはいない元ご主人様に対してそう心の中で呼びかけていると、何かを考えることすら段々とできなくなってきました。思考までもが寒さで少しずつ真っ白にされる感じです。
もう後がないと感じた私は、今までのことを振り返ることにしました。
全てを振り返った私は白に染まり続ける思考の中、振り返っている途中から存在を感じ始めていた「誰か」に向けてこう言いました。
――千年も生きると言われた種族である私が、まさか一年経つのも待たずに消えてしまうなんて、誰が予想できたでしょうか。
――あなたも、そう思いますよね?
私の声は「声」になっていたのかどうか。それは私にもわかりません。わかったのは
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こちらを見て微笑み続ける氷タイプのキュウコンを前に、ワタシはそっと目を閉じた。何か騒々しいと思い草むらから出てみれば、この辺りではさほど珍しくもないキュウコンが雪にまみれ、涙を流しながら倒れているではないか。
不思議に思い声をかけてみても、反応がない。もしや死んでいるのかと思ったが、肺のある部分が僅かに上下していたことから生きていることがわかった。どうやら目や耳が機能を果たしていないらしい。それにずっと震えていることから、何かに怯えてもいるようにも見えた。
寒くても震えている可能性もあるが、氷タイプであるにも関わらず寒いと感じていることはありえないだろう。そう思った時、ふと以前大したものもないのに上を目指す人間同士が話していたことが頭の中をよぎった。
「そういえば、あまり知られていないらしいんだけどさ。タマゴから生まれて間もないポケモンに進化の石を使うと、まれに石の力を受け止めきれなくてまともに生活できなくなる個体が出てくるらしいのよ。しかも、症状が出てくるのは個々によって違うって」
「え〜!? なにそれ、初耳……。石を使うのなら、しばらく経ってからの方がいいってこと?」
「そうそう。何でもそのタイプであるにも関わらず熱い、寒い、痺れるなどの症状を訴えるらしいんだけど、知らないと『そのタイプなんだから、そんなわけないでしょ』で済ませて終わりそうよね……」
「アタシも知らなかったら絶対にそうしていたわ……。それ、放っておくとどうなっちゃうの」
「さすがにそこまでは知らないけど……。石の力でヤバいことになるんじゃない? 症状が酷かったら、最悪死んじゃうかもしれないよね――」
何の前触れもなしによぎった会話の内容には、「氷タイプだが寒さで震える」という可能性を納得させるものがあった。この会話から導き出した「真実」が間違っていなければ、このキュウコンもその「症状」に苦しめられた被害者なのだろう。そもそもの「前提」が違っていなければ、の話だが。
どちらにしても助ける方法を知らないワタシは、ただキュウコンの呼吸が止まるのを見届けることしかできなかった。最期に偶然こちらを見て弱弱しく微笑んだのを見た時は、もう胸が張り裂けるような思いだった。
知り合ってすらいないキュウコンにこうも感情が揺れ動くのは、恐らくワタシが「災い」を呼ぶポケモンと勘違いされて長年理解されようとしなかったからだろう。そう考えて、すぐさまそれを否定する。
ワタシは、大した理由もなしに「勝手に」このキュウコンに「同情」している。それだけなのだ。きっと夜が何度か明けてしまったら、この同情は綺麗さっぱりなくなっていることだろう。
チクリ、と小さな棘が刺さったような痛みを覚えながら、ワタシはキュウコンの体が降り続ける雪によって段々と見えなくなるのを眺めた。元々雪にまみれていたからか、見えなくなるのは本当に早かった。
雪とキュウコンの境が目を凝らしても完全にわからなくなってきた頃、ワタシは体を振るって雪を払いのけると、無言でその場から立ち去った。
「…………」
ワタシはあのキュウコンに何をしたかったのだろう。すぐに消えるような同情をして、一体何を得たかったのだろう。小さな棘が刺さったような痛みがずっと続いているのは、なぜなのだろう。溶けることのない塊をたくさん抱えながら、前を見続ける。
歩みを止めないワタシに向かって舞い降りてくる雪が角に触れて露となり、落ちて前足に当たっては砕け散っていった。
「 ギツネ」 終わり
これが、彼女の短くて儚い「物語」の全て。この「物語」が後にあるポケモンに大きな影響を与えることは、まだ誰も知らない。