野分様
「いい天気だな」
雲一つない青空の下、降り注ぐ太陽光の気持ちよさにぐんと伸びをする。僕につられるようにして隣のオオタチも伸びをした。オオタチは伸びすぎてひっくり返るかと思ったけど、長い尻尾がいい具合に体を支えているからひっくり返らないらしい。
あの尻尾って、攻撃だけじゃなくてこんなところでも役に立つんだな。いや、オタチの頃から尻尾はよく使っていたから、彼からすればそれほど「こんなところ」でもないのかもしれない。
あまりの気持ちよさに思わず大あくびをしているパートナーの姿を見ながら、そんなことを考えた。
「ふああ……」
今度は僕がオオタチにつられてしまったけど、今日は昼寝をするために外に出たんじゃない。昔から頭の隅に引っかかっている、ある言い伝えの正体を知るために出たんだ。
僕が昔住んでいた村――時代の流れとか色々あって、今はもうない――には、「野分様」に関する言い伝えがあった。
「もうすぐ『野分様』が来るらしい」
「あの方はとても恐ろしい。私達では到底かなわないだろう」
『だから、何があっても遭ってはいけない』
「もしも『野分様』に遭ってしまったら、目を隠しなさい」
「そうしないと、お前の身が危ないよ」
村にいた頃はずっとそう言われてきた。でも、「野分様」って誰だろう。聞いただけでは人間なのかポケモンなのかわからなかった。「あう」が「会う」じゃなくて「遭う」だということを知ってからは、人間じゃなくてポケモンかもしれない。そう考えるようになった。
当時を思い返すと、言い伝えはかなり昔からあったようだった。だから、ポケモンが今のように身近じゃない時代に生まれた言い伝えなのかもしれない。それなら「会う」じゃなくて「遭う」でも不思議じゃない。言い伝えだけでは種族が特定できないのが残念だった。
人一倍好奇心が強かった僕はずっと「野分様」の正体が気になっていた。好奇心の赴くまま、誰かに「『野分様』は誰なのか」と聞きたかった。でも、あの頃は一度も言えなかった。「野分様」について語る村の人達の声が、視線がとても恐ろしかったから。
今も思い出すだけで恐怖が背中に這い上がってくる。恐怖が首筋に這い寄る寸前、ぶんぶんと首を振って恐怖を振り払う。もうあの村はない。「野分様」の正体を暴けない理由はどこにもない。
「たちい……?」
僕の様子がおかしいことに気づいたオオタチが、つぶらな瞳を歪ませ心配そうな表情で見ている。慌てて何でもないとパートナーを安心させつつ、リュックから地図を取り出した。
地図といっても今の地図じゃない。かつて僕が住んでいた村。今は文字通り建物一つ存在しない、ただの平原となっている場所――旋風村が載っているものだ。別に村があった場所に行くだけなら今も地図でもいい。でも、それじゃ僕の目的は達成できない。
僕の目的は、あくまでも「野分様」の正体を暴くことなのだから。
*****
「野分様」はかつての村の中心部、今は旋風の祭壇と呼ばれている場所に現れていたらしい。祭壇と言いながら実際には何もないし、新しい地図にも載っていない。ただ「旋風平原」と記されているだけだ。
ここから探そうにも範囲が広すぎる。闇雲に探していたらあっという間に真夜中になっているだろう。
だからこそ、この古い地図が役に立つ。村の詳細まで描かれたこの地図なら、迷うことなく祭壇まで辿り着けるはずだ。そう思っていた数時間前の僕に心からの目覚ましビンタを送りたい。
「どこだよ、ここっ!!」
「……たち」
僕は現在、旋風平原にいた。平原のどのあたりにいるのかは地図を見てもわからない。右を見ても左を見ても同じ景色なのだから判断のしようがない。オオタチからの視線が心なしか呆れを含んでいる気がする。
いや、だってしょうがないじゃないか。あの時は地図と見比べていけば何とかなると思っていたんだから。まさかここまで目印がないとは思っていなかった。これじゃあ見比べるも何もない。勘でここまで進んできたものの、進みすぎて戻り方もわからなくなってきている。
こうなったらセレビィに頼んでタイムスリップするくらいしか解決策が見つからない。セレビィなんて幻のポケモン、早々見つかるとは思えないからあくまでも希望論でしかないけど。
「どうしよう、オオタチ」
どこまでも続いている平原を眺めながら尋ねると、オオタチは「たち」とだけ言って地面に丸まってしまった。
お願いだから寝ないで? この場所に僕を放置しないで?
心で訴えてみるも、エスパータイプではないオオタチはそのまますやすやと眠りの世界に旅立ってしまった。薄情なやつめ。
でも、確かに今日は本当に天気がいい。昼寝にはもってこいかもしれない。僕もこんな状況じゃなかったらどこかの木の下で寝たい。むしろこの状況が夢で実際は寝ていると思いたい。頬をつねっても痛みしか残らないのが辛い。ここは痛くないのがよかった。
手持ちに空を飛ぶやテレポートを使えるポケモンがいればよかったのだけれど、現実はそう甘くない。僕の手持ちは現在進行形ですよすよと寝ているオオタチのみ。オオタチは空も飛べないし、テレポートもできない。可能性のある穴抜けの紐はそもそも買っていない。
詰んだ、とはまさしくこういうことを言うのかもしれない。まだ昼間だけど黄昏れたい。空の青さに泣きそうになっていると、ふいに一陣の風が通り抜けた。
「……?」
風の音に混じって何か別の音が聞こえた気がして、思わず周りを見回す。けれど音の発生源になりそうなものは見当たらない。強いていうのならオオタチの寝息くらいだろうが、風の音に勝つほど彼の寝息が大きいとは思えないから違うだろう。
だったら一体、何が。そんな僕の考えを吹き飛ばすように、また風が吹く。前髪が目に入り、痛みと涙から目を閉じ手で押さえる。瞬間、眼前に「何か」が現れたのを感じた。
「た、たちっ!?」
風がうるさくて起きたのか。それとも気配に気が付いて起きたのか。どちらが正しいかはわからないが、とにかく昼寝から目覚めたらしいオオタチの悲鳴が鼓膜に突き刺さる。後ずさる音が同時に聞こえたのを考えると、どうやら目の前にいる相手は相当やばいようだ。
風の音が聞こえる。大変な状況にも関わらず静けさを保った頭の中で、あの言葉が再生される。
「もうすぐ『野分様』が来るらしい」
「あの方はとても恐ろしい。私達では到底かなわないだろう」
『だから、何があっても遭ってはいけない』
「もしも『野分様』に遭ってしまったら、目を隠しなさい」
「そうしないと、お前の身が危ないよ」
そうだ。確かにこれはかなわない。「遭って」はいけないのもわかる。でも、目を隠すって一体どっちの目を隠せばいい? もしも僕の目だとしたら、もうこの手はどけられない。相手の目だとしたら、無謀にも程がある。
風の音が聞こえる。気が付いたらオオタチの声も気配もしない。トレーナーである僕を放って逃げたのか。オオタチに限ってまさかそんなことは……あるかもしれない。だって困るトレーナーを横目に堂々と昼寝をするようなやつだぞ。ないと断言できないのが悲しい。
もしも、気配を感じない理由が「逃げた」以外にあるとすれば。オオタチは。一瞬で脳裏をよぎった想像に、体が芯から凍えていく錯覚に陥る。そんなわけない。証拠は何も聞こえてこなかったし、漂ってこなかった。
……本当に?
風の音が止まない。耳元でうるさく鳴り続けるそれを聞いていれば他の音がしたとしても気が付かないし、臭いも流される。
真実を確かめたい。でも、確かめたら僕が危ない。目を閉じたまま逃げる? 逃げるべき方向すらわからないのに? 相手がこのまま見逃してくれるとは限らないのに?
何もわからないまま終えるか、わかってから終えるか。どちらかしか選べないのなら、後悔しない方を選ぶ。一度しかない人生なんだから、最後は悔いなく逝きたいじゃないか。……なんてカッコつけてみたけど、実際はそんな大層な理由じゃない。
結局僕は最初から最後まで、人一倍好奇心の強い子どものままだったんだ。
*****
今日はとても天気がいい。雲一つない青空を眺めながら、そんなことを思った。抱きかかえたオオタチはあれから一度も鳴いていない。僕が少しでも疑ってしまったから拗ねてしまったのかな。謝罪も込めてひんやりとした頭を撫でるも、相変わらず返事はない。
冷たいやつだな、と呟いた言葉は誰に聞かれることなく青空に吸い込まれていく。僕は一体いつまでこの空を見ていられるのだろう。体感としては長いけど、実際はかなり短いのかな。
風の音が聞こえる。でも、この音はさっきまで聞いていた音とは違う。あれは「野分様」が出していた音。これは「僕」が生み出している音。全身を流れていく風が心地よいのが唯一の救いだった。
僕の予想通り、「野分様」の正体はポケモンだった。今思えばヒントはいくらでもあった気がする。旋風村に旋風平原。ああ、まさにぴったりな名前じゃないか。ポケモンだと思った時点で調べるなり何なりしていれば、こうはならなかったかもしれない。
いや、先に正体に辿り着いていたとしても、きっと僕はここに来るのだろう。正体を知るのとは別の好奇心に突き動かされて。
「野分様」の、本当の名前は――。
「トルネロス」 終わり