狐の遣い
前半と後半は「*****」でわけています。
この秋のシルバーウィークの宿題は、プランターできのみを育てて観察すること。秋斗は、せっかくなら高くてうまいやつがいいとオボンのみを育てることにした。
そんな秋斗の前に現れたのは、紅のロコンを抱える長身の男。今時珍しい和装姿、狐の面で覆われたその素顔はわからない。
「そのきのみ、ぜったいに育て上げてくださいね」
『狐の遣い』
それはちょっとお得感のある秋の連休の前日のこと。
学校で、鉢やら土やら種やらを配られたとき、はっとした。まるできのみか何かが降ってきたかのように、もしくは突如目の前にそれが出現したのを目の当たりにしたように、思い出したのだ。
そうだ、おれはオボンを育てるんだった。
「あほらし。秋斗がオボンなんて。難しいきのみなんやろ?」
そう言われたのは今となっては遠い昔の、夏休み前。どこにいても熱という熱が体をしめつけてくるような、夏。二学期のシルバーウィークにきのみを育てる宿題があるからと、学校で注文のプリントを配られたのだった。
「それに、このなかで一番高いやつやし」
台所で汗をぬぐいながら用紙を睨む母親の言う通り、オボンのみは、載っていたほかのきのみよりもやや値が張った。だから選んだともいえる。クラボやオレンより高くて、しかも難しい。そんなきのみなら、一周まわって秋のおれもやる気になってくれるはずだと思ったのだ(でっかい夏休みの手前に秋のちょろっとした休みの宿題のことを言われたって、たいていの子供が無責任になるだろうと思う)。
それにこの手のきのみはジョウト地方には少なくて、オボンにいたっては食べたことがなかった。オボンは、クラボやオレンなんかよりずっと大きくて、うまいらしい。あのふっくらした果実をふたつに割るとどんな果肉が、汁が、においが出てくるのだろう。せっかく育てるのなら、高くてうまいやつにしたほうがいいに決まっている。ぜったいに。
それに、おれのおこづかいじゃないし。
となりの席のるいが、やっぱり夏休み前の母親と同じことを言ってきた。
「秋斗がオボン?」
オボンってなんだかまぬけな響きだなとそのときはじめて気がついた。オボンオボンオボン、言えば言うほど頭が悪そう。
「るいのは何? 何それ」
「うちのはセシナ」
鉢とかと一緒に配られた、種のパッケージを見せてもらう。そこには、つるっとした、食欲をそそられない緑色のきのみが行儀よく写っていた。
「まずそう」
「は? 食べんし。プランターじゃ、何育てても大したもんできひんよ」
「げ、マジ?」
「あんたのオボンも食べられたもんやないと思うけど?」
がーん、と口に出してみる。それは思ったより悲愴に響いた。
「どうせ捨てるんやったらラクにできるほうがええやん」
得意げに話するいに、はあーしっかりしとるなあと感心してしまう。聞けばセシナは――きのみそのものがどれも驚異的なスピードで実ができるものだけど――どのきのみよりも早く育つ種類のひとつらしい。るいの仲良しグループの女子はみんな、セシナとかブリーとかパイルとかそういう種類を選んでいた。そうか、できたきのみは食べないのか。
「おれも先に聞いときゃよかった」
夏休み前の無責任なおれを恨んだ。こんな小脇に抱えられるようなちっぽけな鉢で、でかくてうまいきのみなんか作れるはずがなかった。おれはあほだった。
鉢とか土とか種とかを片手に抱え、一人帰路につく。冗談のつもりで、あるいはこのビミョーな気持ちを冗談にしたくてあーあーあーと後悔の念をこめた発声をしていたら、暗い気分がおれのなかで決定的になって二重で後悔した。どんより曇った秋の空の、黒ずんだ橙色のせいもあったかもしれない。
おれの家はエンジュシティの北のほうにある。辺りには寺とか寺とか寺とかがあって、もっと北へいくと塔がある。それらの一つひとつにただ事でないレキシがあるのだろうけどおれはあんまり興味がない。なんならどれを見ても同じに見える。
雲が多いせいかものすごく道が暗かった。じっと息を潜めるように、けれども存在感だけは主張してそこにある寺たち。毎日のように歩いている道だから怖くはないけど、何か出そうな気はする。たとえば、遠い昔に無念な思いをした何か――そういうやつらに比べればおれの無念なんてへらへらしたもんだ。おれの無念は……なんだっけ。うまいきのみが作れないことというよりは、宿題をラクに済ませる術があったのに、それを掴み損ねたこと。あーあーあー、悔しい。
そんなことを考えながら歩いていたとき、横から飛び出してくる影があった。小さいポケモンのようだった。暗くて、それが何なのかはっきりとはわからない。
あ、と声が出た。
そいつは、何かを落としていった。……違う、明らかに、おれを意識して置いていった。拾えとでもいうような目でこちらを見て、そして走り去ったのだった。
ほとんど反射みたいな動きでそれを拾いにいくとこやしの入った袋だった。すくすくこやし、これできのみもすくすく、にこにこ。なんだかばかにされてる?
「うおぉぉぉ」
さほど遠くない位置から聞こえてきた唸り声に、びくりとする。強烈な無念のこもった、力強い声だった。
「ちょっとあんた!」
間もなくして野太い声に呼ばれた。おれはとっさにこやしをかばんにしまった。
「ロコンは? あのあほ狐、どこ行った?」
声は、見知らぬおばさんのものだった。どんな悪霊より恐ろしい形相で、うおぉぉぉと唸りながら怒っていた。その人は聞きもしないのに、買っておいたこやしをロコンに盗まれた、シンオウから取り寄せた高いものだったのに、とかなんとか、やはりうおぉぉぉと唸りながら説明した。そのあまりの剣幕に、こやしを持っていることを疑われたらどうしようかとおれは内心びくびくしていた。そのときすでに、こやしを返すという発想はもうなかった。
気が済んだのか、おばさんはうおぉぉぉとほとんど泣きながら帰っていった。なんだか理不尽に怒られたときのような、釈然としない気持ちで取り残されてしまった。実際、理不尽だった。勝手に人様のものを盗んで、勝手におれの前に置いていって、勝手に逃げていったロコン。なんだったんだ、いったい。
すくすくこやしは、きのみの成長を早くさせるものらしい。コガネシティなら売っている店があるから買いにいったらいいと、るいに言われた。
るいには、すくすくこやしってどんなん? と聞いただけだった。夜、メールしてみたのだった。ロコンが咥えてきたことや、それをおれが持ち帰ったことなんかは言わなかった。言えば、うおぉぉぉのおばさんのことまで説明しなければいけない気がしたし、説明といってもどう話せばいいかわからなかった。ようするに面倒だった。
連休初日の午前中に、オボンの準備をしてしまう。はよ作っとき、と母親に急かされたからだ。そうでもなければ昼から友達ん家でやる対戦ゲームの練習とかいって、何もしないまま一日が過ぎていた。だからありがたいといえばありがたいのだが、母親が居たら居たで、自分で買ってきたわけではないこやしを土に混ぜる隙がみつからなくてちょっと困った。――と思っていたらおとなりさんがおからの炊いたんをおすそ分けにきて母親と話し込んでくれたので助かった。
こやしを混ぜた土に、種を埋める。カメックスじょうろ――ゼニガメじょうろの両肩を改造してキャノンをつけたものだが、しょせん飾りなので水は口から出る、今思えばださいことこの上ない――で水をやる。土が黒く湿っていく。よし、今日のお勤めはおしまいだ。
「そのきのみ、ぜったいに育て上げてくださいね」
「わっ」
知らない声がすぐそばで聞こえて、おれはしりもちをついた。痛え。
「おや、失礼」
いつからそこにいたのか、おれのしゃがんでいたそのすぐとなりに、背の高い男が立っていた。おれはしりもちをついた体勢のまま、見上げた。
その男の和装姿は、たとえばエンジュで商いをする人たちのような着せられている感じやわざとっぽい感じがしなくて、ごく自然と馴染んでいる感じだった。正直、人ん家の庭に勝手に入ってきていたやつにしてはシュッとしていてかっこいい。なんでそんなものをしているのか意味不明だが顔を隠している狐の面もよく似合っている。髪は白く、けれども年寄りという感じはしない。よく見ると、それは単なる白ではなくて薄い金色だった。美しい金だった。
「って、誰だよ」
狐面は答えなかった。答える気があったかどうかはわからない。ちょうどそのときポケモンの鳴き声がして、その男の胸に飛び込んだからだ。
「あー? 昨日のあほ狐!」
そのポケモンはロコンだった。狐面は紅のロコンを抱え、おれのほうに向き直った。
「あほとは失礼ですね」
「あ、堪忍」
つい、うおぉぉぉのおばさんが感染っていた。そうだ、それだ。この男とロコンが、こやしを盗んでおれのところに持ってきたのだ。おれは立ち上がる。
「こやしまでよこして、なんなんだよ、お前ら」
オボンでも食いたいのか。そう聞くと狐面は、
「まあ、そんなところです」
とふわふわした答えを返してきた。なんだそりゃ。
聞きたいことはもっとあった。なんでオボンが食いたいのか、どうしてそんな恰好をしているのか、そもそも何者なのか――
折悪く、母親とおとなりさんのお喋りが終わったみたいだった。ほなまた、と二人の高い声が聞こえてきた。狐面とロコンも察したらしい。
「じゃあ、頼みましたよ」
そう言って狐面はロコンを抱いたまま、颯爽と庭の塀を飛び越えて消えてしまった。まさに、風のように現れて、風のように去っていったなと思った。
……そのとき、男の後ろ姿に、その髪と同じ金色に光る大きな尻尾があったように見えた。しかも三本も。だけどおれは、不思議なことに驚きというよりは「ああやっぱり」というような気持ちでいたような気がする。狐面に尻尾があったことについて、それが意味することや他のあれこれの理由はまったくわかっていないにもかかわらず。
午後、友達ん家で遊んで帰ってきたとき、オボンは枯れていた。土もからからに乾いてしまっていた。驚きのあまり庭で固まっていると、母親に叱られた。なんで自分で面倒見いひんのと。
すくすくこやし、すくすく育ちすぎだろう。
幸い、きのみというものは枯れても落ちた実からまた芽が出てくる。明日からはちゃんと水もやって、実も収穫して、観察日記もしっかりつけよう。そう思った。
こやしの効果は一回きりらしいから、あの狐面とロコンがしたことは無駄になっちゃったけど(ついでに、うおぉぉぉのおばさんも盗られ損になっちゃったけど)。
翌朝庭に見にいくと、芽はちゃんと出ていたし、狐面とロコンもちゃっかりそこに立っていた。
*****
「どうやら、昨日は失敗してしまったようですね」
狐面は水を求める芽に顔を向け、ロコンはじっとこちらを見つめている。今回は何のために来たのかわからないけど、せっかくあっちから来たのだから今のうちに色々と聞いてしまおう。
「なあ、お前らは何でオボンが食べたい? そもそもその恰好は? 一体何者なんだよ?」
次々と質問を並べていくも、狐面は肩をすくませるばかりで答えようとしない。答えたくないのか、答えられないのか――。疑問は解消されるどころかただただ膨らみ続けるだけで、答えがあるという点だけを見れば昨日のふわふわした答えの方が何倍もマシだった。
「時が来れば教える、としか言えませんね。それでは、また」
おれが答えを得られなかったことにモヤモヤしていることを見抜いたのか、この後何か用事でもあるのか――。狐面はそう言うとロコンを抱え、昨日のように庭の塀を飛び越えて消えてしまった。尻尾は、一本も見えなかった。
ぼうっと狐面とロコンが消えた方向を眺めていると、オボンに水やりをするのをすっかり忘れていたことを思い出した。慌ててカメックスじょうろで水を与えると、芽が待ってましたとばかりに人工の雨を受け、心なしか喜んでいるように見える。
芽に感情なんてあるわけがない。そう思いつつ昨日こいつの親(?)はカラカラなまま育っては枯れていったことを考えると、スッパリと切り捨てるのも何だか鬼のやることのような気がして何とも言えない。
黒々と潤った地面と水滴が乗った芽を見て、朝はこれで大丈夫だとじょうろを片付けた。すぐに観察日記も書かなくてはと方向転換しながら、オボンはいつ頃実をつけるのかを思い返す。
るいのセシナは早く実がなるけど、おれのオボンは実がなるのが遅い方に入るらしい。それだけならともかく、最近は品種改良とかでどこのオボンかによって実のなる時間に差が出るという。面倒なことこの上ない。
観察日記を手に取るついでにプリントも手に取り、時間に関する部分を探してみる。すると、このオボンは大体一日と少しで実がなることがわかった。昨日の夜に芽が出たとしたら、明日の朝には木の実を拝むことができるだろう。……今回はこやしが入っていないから、見たら枯れていた、なんてことはないはずだ。
ちなみに、るいが選んだセシナは八時間しかかからない。水をあげたらずっと鉢を観察していないと、観察日記に何も書けないのではないのだろうか。
一旦の役目を終えたプリントを置くと、日記をしっかりと持ったまま鉢の前へと移動する。黙々と書き込んでいると、もしもあの時ちゃんと育てられていたとしたら、この日記には突然木の実がなって終わったと書くしかないということに気が付いた。
時間がかかることで有名な木の実がなった事実だけが書かれた日記を見たら、先生はその時までサボっていたと思うかもしれない。サボっていないのにそう思われるのは嫌だ。こやしを使ったことを書いたら説明とかがかなり面倒そうだし、嘘をついたら心にずっと引っかかりが残りそうだ。あれが枯れて助かったのは、意外にもおれなのかもしれない。
オボンが水を吸い尽くすのはいつかわからない。でも昼や夕方に見てカラカラになっていたらあげよう。そう決めると、何とか一ページ分埋まった日記をパタンと閉じた。この調子だとあと二、三ページで終わりそうだ。元々シルバーウィーク用の宿題だから、そう長々と書くものではないのかもしれないし。
今日はどうしようか、とふわふわと予定を思い描いていると、時間を見るために持っていた携帯が振動した。来たのはメールで、差出人はるい。こんな朝早くから一体何の用だと内容を見る。
その中身を最後まで確認する前に、おれの口からはひゅっと変な声(のようなもの)が出た。
『うちの母親、昨日ポケモンらしき影がくわえとった何かを秋斗とよう似た子どもが持っていったのを見たって言うとったんやけど……。
昨夜すくすくこやしについて聞いてきたし、噂によると近所のおばちゃんがロコンにこやしを盗られたって泣き喚いとったようだし……。まさか、こやしをおばちゃんに返さへんでそのまま自分のものとして使うてへん?』
震える手で、違うと返信を打つ。こやしについては単純に早く育てたい時に思い浮かんだから聞いたまでで、目撃情報は単なる見間違いだろうと書いておいた。
おれだと断言していないから顔ははっきりとは見えなかったのだと思うし、真実を伝えたところでちゃんと伝わる気がしない。それに、もうこやしはないし。コガネまで買いに行って返したとしても、うおぉぉぉのおばさんが取り戻したかったものじゃないから完全な埋め合わせになるとは言いにくい。
胸にチクリと罪悪感の棘が突き刺さる。こういう思いをするのだったらあの時こやしを返しておけば、と発想が飛んでいたおれを恨みそうになる。でも時間は巻き戻せないし、ついてしまった嘘を撤回するには遅すぎた。
悪いのはあのロコンだ。いや、おれにオボンを育て上げろと言ったあの狐面だ。違う、きっかけはロコンだったとしても、やはり物を返す発想が飛んだおれがこの中では一番悪いんだ。
この棘が抜ける日は来るのだろうか。そんなことを考えながら、本来は楽しいものになるはずだった一日は空虚に過ぎていった。渇きを訴えるオボンに水をやり、朝よりも明らかに大きくなったそれを見ながら観察日記を書いた。朝と比べると、どこか弱弱しい文字が空白を埋めていた。
なるべくいつも通りに振る舞ったつもりだったとはいえ、やはり親には、しかも母親には余裕でバレてしまうものらしい。何があったのかは知らへんけど、やることはやって休みが終わる頃にはいつもの調子を取り戻してや? と言われてしまった。
あの時のことが誰かに見られていたのかもしれない。はぐらかしもあったとはいえ、嘘をついてしまった。その二つの思いが頭を巡り、いつもは眠っている時間なのに目がぱっちりと開いてしまっている。
昨日まではそれほど気にならなかったことが、こんなにも気になるだなんて。何かがあった時とない時の心境はこれほどまでに違うのかと考える、なんてことはなくおれはただ天井の顔に見える模様とにらめっこを繰り返していた。
翌日。朝早くに庭へと歩みを進めると、オボンの黄色い顔達がこちらを眺めていた。とはいっても、数は二つほどでどれも予想していた以上に小さい。本当にこれがオボンなのか、と問いただしたくなるレベルだ。
やはり、このちっぽけな鉢では大した木の実はできなかったようだ。二つも実をつけたのだからかなりいい方だと思う。食べられたもんじゃない、と言われていたことを考えると何とか食べられそうなのはもはや奇跡に近いだろう。
実を収穫する前に最後の観察日記をつけようと一旦戻ってから再び庭に行くと、待ち構えていたかのように狐面とロコンがいた。ロコンはおれの顔を見ると、小さくコンと鳴き声をあげる。
「無事に育てられたようですね」
「まあな。でもお前らのせいでおれは色々と大変だったんだけど」
「具体的なことはわかりませんが、人間というものは一つや二つくらいは大変なことを体験するものです。嘘であれば、一つもつかない者などいやしません。気に病む必要はあまりありませんよ」
まるでおれの心を見透かしたかのような言葉を並べると、狐面はある地名を口にする。それはおれからすると、とても身近な地名だった。
「ここに、オボンを持ってきて下さい。誰かにあげたり、自分で食べたりしてはいけませんよ。……この子にであれば、一口くらいは大丈夫ですが」
狐面はロコンを指さすと、昨日や一昨日と違ってロコンを抱えずに一人だけで塀を飛び越えて消えてしまった。ロコンは狐面に置いていかれたにも関わらず、ショックを受ける様子もなくただオボンとおれの顔を交互に見つめている。
やがてロコンの中で何かが決まったのか何なのか、木の実にたっぷりと視線を合わせた後、ロコンは軽やかな足取りでどこかへと去っていった。
何がなんだかわかりようがないものの、どうやら今日の予定は決まったようだ。実をきちんと収穫し、あれこれ支度をしてから家を出る。
すると、まるで見ていたかのようなタイミングでロコンがおれの前に現れた。ロコンはおれに視線を合わせると、くるりと向きを変える。自分が案内する、とでも言いたげなロコンの後ろ姿を追いながら、おれは歩みを進めていった。
目的の場所はロコンの案内すら不要に思えるほど近い場所にあった。この周辺は寺しかないと思っていたけど、こんなわかりにくい場所にそれはあったのだ。ここは……神社、なのだろうか。神社にしては鳥居も何もない。おれの目には、ただ石像が置いてある寂しい場所にしか映らなかった。
ぼろぼろになったキュウコンの石像の前まで来ると、ロコンは嬉しげに声をあげる。ふわりと柔らかな風が吹くと、石像の傍にはいつの間にか狐面が立っていた。
「うわ!?」
驚きのあまり後ずさりしそうになるも、妙な納得感と共にその場でポカンと口を開く。狐面はロコンの頭を撫でながら手を付けられていないオボンを見てうんうんと頷いた。
「ちゃんと持ってきて下さったようですね。ありがとうございます」
そう言うと、おれからオボンを一つ受け取って石像の前へと置く。その瞬間石像が淡く光って、狐面に四本の尻尾が生えている光景が見えた気がした。そこで狐面にとっての「時」が来たのか、ゆっくりとこの場所と自分の正体について語り始めた。
「ここは昔――」
狐面によると、ここはあるキュウコンを祀る神社だったらしい。しかし、時代の流れと共に信仰する者も減り、神社もこの石像を残すのみとなった。ここの神――狐面はこのままだと自分が消えることを悟ると、遣いとして過ごしてきたロコンの未来を憂い、託す人間を探していた。
よく神社の供物とされていたオボンを持ってくることができた人間。狐面はそいつにロコンを託そうとしていた。聞くと、おれ以外にもオボンを育てているやつらの前に現れては同じようなことを言っていたらしい。
だけどおれ以外のやつは途中で投げたり自分や家族で食べてしまったりでロコンを託せず、時間を費やすばかりだったという。信仰する人が増えれば何とかなるのではと思ったものの、狐面が言うにはここも休みが明けると共に工事で完全に壊されてしまうという。
おれ一人が誰かに言ったところで工事は止められないだろうし、言われた誰かはおれのことを信じてくれるとは思えない。もしおれが言われた側だったら、何言ってんだこいつと完全にスルーするだろう。
自分ではどうにもならない現実に唇を噛むと、狐面はロコンを頼みますよと言って姿を消してしまった。どうせなら、なぜ選ぶ方法があれだったのかも言って欲しかった。神のきまぐれ、なんてものだったのかもしれないけど。
おれはロコンを抱えると、一つだけ残ったオボンと一緒に家へと戻った。ロコンを連れてきた理由は――あとで考えるとしよう。
それから何とかロコンがいる理由をひねり出して親を納得させると、おれは庭の鉢を眺めながら最後の観察日記を書いていた。もう木に実はなっていない。でもその姿は記憶に新しいから、迷わずに書くことはできる。
味も書ければ最高だったに違いない。オボンをおれの膝の上でくつろいでいる紅のロコンが残らず食べてしまったから、それは叶わぬ夢になってしまったけれど。狐面にやった分を持ってきて食べる、という発想はできなかった。
「もうすぐ、シルバーウィークも終わりか……」
狐面はああ言ったものの、しばらく胸に刺さるこの棘が消えることはないだろうし、るいにちゃんと食べられるものを育てたと言っても、味がわからないから信じて貰える可能性は低いだろう。
かなりの時間が経ってしまえば、それらをいい思い出と言える日が来るのだろうか。夏のおれはきっとこんなことを考えるだなんて微塵も思わないだろうな。小さく笑みを浮かべると、くああと欠伸をして気持ちよさそうに寝息を立て始めるロコンの頭を撫でる。
すぐに過ぎると思っていた休みと、後悔と共に終わると思っていた宿題。それらは予想していたようで予想外の結末を迎えた。これからどうなるのかは全くわからない。でも、それは当たり前のことなのだろう。全てがわかっていては、楽しみがなくなってしまう。
「ん?」
その時、近くで何かが落ちるような音が聞こえた。ロコンをそっと隣に移してから、いつの間にか庭に落ちていた狐面を拾い上げる。
「へへっ!」
狐面の真似をしてそれを被ってみると、視界の端で狐顔の男がニコリと微笑んだのが見えた気がした。