はれぞらティータイム
今日も空は青く、見渡す限り雲一つない。
だというのに、幸子(さちこ)の心の中はどんよりと重い雲に覆われていた。傍にいるパートナーのイエッサンも彼女の気持ちに反応してか、上に伸びた角が心なしか下がっているように見える。
溜息と共に飲み干したティーカップをカタリとソーサ―に置くと、待ってましたとばかりに身体をカタカタと揺らしながら一匹のポットデスがやってくる。その光景にイエッサンが小さく息を吐いたのがわかった。
このポットデスは彼女が外で紅茶を飲んでいると、見計らったかのようにカップに飲み残しがないかを確認しに来るのだ。
いつから来るようになったのか、どうして自分の元にやって来るのか。そんな疑問を抱くのも面倒になってしまうほど、幸子とポットデスの付き合いは長い。ポットデスがやってくるようになってから、幸子はのんびりと紅茶を楽しむ余裕がなくなってしまった。
うっかり飲み残しをそのままにし、結果として仲間を増やす手助けをしてしまった記憶は片手では足りない。今のところできる対策はポットデスが来るより前に中身を飲み切る。それだけだった。
一応最初の頃はバトルで追い返していたのだが、こうも頻繁に来られるといちいちバトルで追い出すのも面倒になる。そうやって面倒がいくつも積み重なっていった結果、いつの間にかバトルをやらなくなっていった。
イエッサンは幸子の行動に文句こそ言わなかったが、たまに何か言いたそうな目をしているので全面的に賛成しているわけではないのだろう。イエッサンは相手の感情を感じ取ることができるため、なおさら言いたいことがあっても不思議ではない。
出会った時からずっと世話を焼き続けてくれる老執事に、幸子は感謝の気持ちしかなかった。それがイエッサンというポケモンだから、と言われたらそれまででしかないが、今更そんなことを言うのは野暮というものだろう。
それはそうと、ここ暫くティータイムの間はいつポットデスが来るかに神経を注いでいたため、豊かな香りも味も満足に楽しめない。このままではあの時間が嫌いになってしまうかもしれない。もしかすると既に片足くらいは突っ込んでいる可能性さえある。
紅茶好きな幸子としては、それは何としてでも避けたい事態だった。
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「そこまで言うんだったら、家の中で楽しめばいいんじゃない? その子、あんたが外で飲んでいる時しか出てこないんでしょ?」
全く、あんたは変なところでこだわるねえ。そう言ってカラリと笑うのは幸子にとって長年の大親友、キャシーだ。彼女はお気に入りのクラフトビール片手にやや赤らんだ顔でちらと部屋の隅に追いやられたテーブルを見る。
金糸で細かな刺繍が施されたクロスは埃を被り、それを羽織ったテーブルは寂しげに出番を待っている。誰が見てもティータイムに最適なテーブルが放置されている光景は、知らない人が見たら誰もが首を傾げるだろう。
幸子は親友の相変わらずな発言に苦い笑いを零すと、彼女の持ってきたビールを一口喉に流し込む。
「できないのを知っていて、そう言うんだから。本当、あなたはいい性格をしているわ」
肩をすくめてビールの味を楽しむ幸子の耳には、止む気配のない雨の音色と親友の声しか聞こえない。普通は出かけるのを控える日にもこうして遊びに来る彼女に感心しつつ、時折投げかけられる視線を避けるように目を彷徨わせる。
窓から見える景色は雨で歪められており、あの特徴的なカラーを見つけることはできない。こういう日、ポットデスはどう過ごしているのだろう。ゴーストタイプとはいえ、寒くはないのだろうか。
ふとそんな考えが頭をよぎり、慌てて頭を振る。楽しみを邪魔している敵の心配をしてしまうだなんて、わたしも甘くなったものね。そう零すと、年よ、年! という声が飛んできて思わずポケモンバトルを挑んでしまった。
確かにお互い年だけど、まだまだ若いと思いたいの! 叫ぶ幸子に対し、キャシーはそれだけ叫べて行動できるのなら確かに若いわね、と笑った。
ちなみに雨が降っているにも関わらず家の中では狭いからと外でバトルをしたせいで、二人とも仲良く風邪を引いてしまう。なんてことは、この時点では幸子もキャシーも全く予想していなかったのだった。
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幸子の心と同じ、どんより重い雲が空を覆う日のこと。
いつ降るかわからない天気の下ティータイムにするわけにもいかず、幸子は久しぶりに家の中を片づけていた。手を付けられないでいた部屋に入ると埃が舞い立ち、容赦なく喉を刺激して咳が出る。
こんなことならマスクをしてくるんだった、と後悔をしつつも家にそれがないので代わりにスカーフを巻く。息苦しいが咳込み続けるよりマシだと己に言い聞かせ、はたき片手に埃と格闘する。
気が付くとイエッサンも口元に布を巻き、はたき片手に悪戦苦闘していた。エスパー技を使わずあくまでもはたきだけで何とかしようとしているのは、トレーナーに似たのか何なのか。
スカーフの内側で口が弧を描くのを感じながら、手元を止めることなく動かし続ける。一瞬意識がイエッサンに向かっていたせいか、はたきの先が窓際の棚の上にあった写真立てにぶつかる。
勢いが強かったのか、写真立てが棚から落ちてガラスが割れてしまう。
「た、大変!」
慌てて回収しようとした幸子だが、ぴっと両手を広げたイエッサンに静止をかけられる。静止を振り払うように手を伸ばすも、サイコキネシスで止められてしまう。
何度もそのやり取りを繰り返すうちに、幸子は自分が素手でガラス片を回収しようとしていることに気が付いた。あまりのことに頭が真っ白になり、少し考えればわかることもわからなくなっていたらしい。
止めてくれたパートナーに感謝の言葉を述べると、イエッサンはゆるりと首を振ってからサイコキネシスで破片を集め始める。後に残ったのは、ガラスが綺麗になくなった写真立てのみ。
写真立てを拾い、中身に傷がないことに安堵してそっと写真を見つめる。そこには幸子と同じくらいの年齢の男性と、一匹のヤバチャが写っていた。
「あら?」
ヤバチャにどこか既視感を覚え、幸子は首を傾げる。イエッサンと同じ、いやそれ以上の年月を連れ添った人のポケモンなのだから、既視感があるのは別に不思議ではない。
ならば、この感覚は一体何なのか。じっと写真を見つめる幸子の脳裏に浮かんだのは、いつも外でのティータイムを邪魔するあのポットデスだった。
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幸子は今から何十年も前に、両親の仕事の都合でここに引っ越してきた。聞こえてくる言葉、食べ物、見かけるポケモン。今までとは何もかも違う世界に怯え、一時引きこもりになりかけた彼女を救ったのが当時近所に住んでいた彼、ジェフだった。
彼はどこで学んだのか、片言ながらも彼女が慣れ親しんだ言葉で必死に幸子に話しかけ、抱いていた恐怖や不安を取り除こうとしてくれた。友達ができず寂しがる彼女にキャシーを紹介してくれた。紅茶が苦手だと話す彼女に美味しさを教えてくれた。
ボール投げが苦手でパートナーポケモンができなかった彼女に、今のパートナーであるイエッサンをプレゼントしてくれたのもジェフだ。
今考えるとやや距離を詰めすぎな感じもするが、当時の幸子にとってはその距離感こそが不安な世界にもたらされる光そのものだった。彼に対して依存していた、とも言うのかもしれない。
キャシーがちょいちょい幸子達に対してちょっかいをかけていたのは、その依存がより深くなるのを防止するためでもあったのだろう。
今の幸子がすらすらとここの言葉を話し、食べ物を食べ、ポケモンにも慣れているのはジェフのお陰だった。だからこそ、彼女達が結ばれたのはある意味当然とも言える結果なのかもしれない。
結婚してからの二人は一軒家で幸せな日々を過ごした。天気のいい日は外に金糸の刺繍が入ったクロスが敷かれたテーブルを出してティータイムを楽しみ、雨の日は自然の音色を楽しみながら語らいをする。
時にキャシーを交え、熱いポケモンバトルを繰り広げることもあった。結果は大抵がキャシーの圧勝だった。
そんな幸せな日々が崩壊したのは、ジェフが不治の病でこの世を去ってからだった。幸子は突然のことにショックを受け、イエッサンの世話がなければ彼に続いていたかもしれないほど何もできなくなっていた。
キャシーが乗り込んできてからは自力で行動するようになったが、最愛の夫がこの世を去った現実を受け止めきるまでには至らなかった。
主のいない空間を目に入れないよう、彼の使っていた部屋には入らないようにした。使うと胸が苦しくなるから、いつものテーブルとクロスは部屋の隅に移動させた。
それでも彼がいたのと変わらない、いつもと同じ日々を繰り返したのはこうしていればいつの日かひょっこりと彼が姿を見せるのではと思ったからだ。
そんなこと、あるわけがないというのは幸子自身がよくわかっていた。わかっていたから、幸子は時々寂しくなり声を殺して泣いた。だからこそ、彼女の心の中ではずっと重い雲がかかっていたのだろう。
ジェフのパートナー、ヤバチャがいなくなっていることには写真を見るまで気が付きもしなかった。少しずつ現実が見えてきたと思っていたが、まだまだ受け止めきれていなかったらしい。どうやってポットデスに進化したのかはわからない。
そういえば、いつの間にか家にあったはずの欠けたポットがなくなっていた。もしかすると、いやもしかしなくてもあれはヤバチャが持って行ったのだろう。どうして進化を選んだのかはわからない。
だが、ポットデスは信頼するトレーナーには少しだけ味見を許してくれると言われている。ここ暫くのやり取りを思い出せば、ポットデスが幸子に味見をさせようとする場面がいくつかあった。
当時は何故そうするのかわからなかったが、ポットデスなりに考えての行動だったのだろう。仲間を増やしていたのも幸子が寂しくないよう、気を遣っての行動だったのかもしれない。
ポットデスの行動を始めにあれこれ考えていくと、イエッサンの目やキャシーの行動にも共通する部分があると気が付いた。皆、幸子を思い幸子のために行動してくれている。名前の通り幸子は今でも幸せだったのだ。
それなのに幸子が前に進まないのでは、周りに、そしてジェフに対して失礼というものだろう。写真を手に、彼女は立ち上がった。
幸子の心の中を覆い続けていた重い雲は、いつの間にかどこかに消え去っていた。
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今日は雲一つ見えない青空、絶好のティータイム日和だ。
幸子は綺麗になったクロスが敷かれたテーブルを、イエッサンや親友に手伝って貰いながらいつもの場所に置いた。陽光を受けて金色に光る模様を見て眩しそうにしながら、ポットデスとその仲間達がふよふよとカップに紅茶が注がれるのを待つ。
そんなポットデスに対して微笑みながら、幸子はカップに紅茶を注ぐ。カップの中で揺蕩うのは上空で広がるのにも負けないくらい綺麗な青。バタフリーピーと呼ばれるそれは、ノメルの果汁を加えると色が変化することで知られている。
キャシーがノメルをそのまま口にしてしまい、イエッサンに口直しのモモンを渡されている。促されたポットデスが果汁を入れ、変化した色に驚いた他のポットデスがポットをかちゃかちゃと鳴らす。
そんな彼らを見ながら幸子は色の変わった紅茶を口に入れる。幸子の傍では写真の中でジェフが楽しそうにその様子を眺めていた。
晴天の下、いくつもの笑い声がはじける。
さあ、楽しいティータイムは始まったばかりだ。