いざないの灯
少し冷えた風が僕の頬を撫でる。風によって目にかかってしまった前髪をずらすと、僕はじっとその光景を見つめた。まばらに建ったビルにはいくつもの明かりが灯っており、その中で多くの人が働いていることが伺える。
ビルはこの夜空の色を反射して一見すると何もないように見えるが、その明かりがそこにビルがあることを示していた。その明かりの上には無数の星々が瞬いており、うっすらと夜色の建物達を照らしている。
都会なら街の明かりに負けて、星なんてものは見えないだろう。これは都会に近い田舎、と称されるようなここだからこそ見られる光景、と言っても過言ではない気がする。ビルがある時点で僕にとってここは都会なのだけれど、僕の意見を言っても既に決められたことが変わるはずもない。
そう。僕が何を言おうと、変わるわけがない。だから、僕の判断は正しいんだ。そう自分に言い聞かせてはみるものの、目の前に立ちはだかるフェンスを一向に飛び越えられない。少しだけ山になっている場所に建てられた、鍵が壊れて誰でも入れる中学校の屋上にあるフェンスなんだ。もうすぐ高校を卒業する僕が越えられないはずがない。
事実、目の前にあるフェンスは僕が手すりのような部分を掴み、網目の部分に足を入れればひょいと超えられるくらいに低い。僕くらいの年齢になった人間なら、誰だって簡単に超えられるだろう。
でも、越えられない。僕は別に、高所恐怖症というわけでもない。そもそも高所恐怖症の人は屋上に行こうとは思わないだろう。だったら、僕をフェンスの前に留めているのは何だ? この世界への未練? 残された家族への心配? 友達や学校への心配?
いや、僕に絶望しか与えなかった世界に未練の欠片もないし、家族は僕がいなくなっても心配の欠片もしないだろう。友達もいなかったし、学校は少し影響があると思うけど心配する要素は感じられない。
つまり、僕は何のためらいもなくこのフェンスを越えられるはずなんだ。何度そう思っても、足は鉛にでもなったかのように動かない。ああ、何のためにこんな廃校にまで来たと思っているんだ!
力一杯自分の膝小僧を叩くと、鉛を無理やり動かしてフェンスを越える。そして一歩を踏み出して空に降り立とうとしたところで――突然体がぞくりと冷たくなった。それに驚き、僕の体はフェンスの向こう側で固まってしまう。
それと同時に、何が僕を留まらせていたのかがわかった。僕を留まらせていたのは、世界や家族や友達、学校なんかじゃない。死んだ後、自分の意識がどうなるのかが怖くて行動ができなかったんだ。
この世界では、人は死んだらデスマスというポケモンに生まれ変わると言われている。でも、その情報のどこに信用に値する根拠がある? 誰かがデスマスと話して確かめたわけでも、デスマス自身が紙に書いて伝えたり、人に乗り移って伝えたりしたというわけでもない。ポケモン図鑑に書いてあることが事実のように言われているだけだ。
もし、人が死んでもデスマスにならなかったら? 人の意識は死んだ瞬間になくなり、寝ているのと似た、つまり何もわからないし感じない状態になるのではないのだろうか。魂が体から離れるから、寝ているのと同じ状態ではないという意見もあるが、どうやって確かめたんだ?
ゴーストタイプのポケモンがいるのだから、幽霊も存在するという人は少なくない。だが、実際に幽霊を見たという人はほとんどいないだろう。幽霊は実在する、という説が科学的に証明されない限り、僕は到底信じる気持ちにはなれない。
だから、僕は死ぬのが怖いんだ。これから自分で飛び降りようという人間が、怖いだなんて聞いている方は呆れかえってしまうかもしれない。怖いのだったらさっさと家に帰って人生をやり直した方がいいと思うかもしれない。
僕だって、やり直しができるのだったらそうしていただろう。でも、もう僕の人生はやり直せない。進学や就職、ポケモントレーナーなど、選べたはずの多くの選択肢を無視し続けたせいで、僕の未来は壊し尽くされてしまった。
何もない未来を進むくらいなら、人生をリセットした方がマシなんだ。震える手に力を込め、シーソーのように向こう側へと体を傾けようとした、その時。
「――――あ」
今までそよそよと弱い空気を送り続けていた風が、突然ゴウと音と立てて僕の背中を押す。ちょうど体を傾け始めていたこともあり、僕の視界はあっという間にビルの明かりから下の暗闇を映し出した。
暗闇を見た途端、頭の中に浮かんでいた死への恐怖が一気に膨れ上がり、視界が真っ白に塗りつぶされる。体で感じる風、落ちていく感覚が全てゆっくりに思えた。このまま地面に叩きつけられるのか、と頭の片隅でぼんやりと考えていると、突然ふわりと体が浮いた。
これは地面に叩きつけられたことによる衝撃ではない。誰かが僕を抱え上げたのだ。恐怖に混乱が混ざったことで更に白さが増した視界の中で、足がぺたりと地面についたのがわかった。
足が地面についたことにより、安心感を得たのだろうか。白の世界が急速に色を取り戻していく。そして世界が色鮮やかな表情を見せた時、僕を助けたのはシャンデラだということに気が付いた。
「うわっ!」
驚いて思わず尻餅をつくと、シャンデラはおかしそうに両手の灯を揺らす。顔もどこか笑っているようで、僕は少し苛立ちを覚えた。灯を揺らすのを止めないシャンデラに文句を言おうと口を開いた時、ふとポケモン図鑑の一文を思い出す。
シャンデラは、魂を燃やすポケモンだ。だとしたら、僕の魂を燃やすために助けたのではないのか? 腕の炎を燃やして催眠状態にするともあったし、そう考えた方がいいだろう。シャンデラに燃やされた魂は、この世を永遠にさまようと言われている。
少しの間ならともかく、永遠にさまようのは御免だ。僕はシャンデラから視線を反らそうとして、自分の馬鹿さ加減に気が付いた。ポケモン図鑑に書いてあることが事実であることを暗に否定し、魂なんて存在しないと言っておきながら実際は図鑑を、魂を信じている。
あっちとこっちをフラフラ、フラフラ。どっちかに固まろうともせず、ただその間をさまよい続けている。まるで僕が歩んできた人生そのものだ。こんな様子だから家族に見捨てられ、友達も出会ってすぐに離れていったのだろう。
口から乾いた笑いを漏らすと、背中をフェンスに預ける。なぜこのシャンデラが地面ではなく屋上に下ろしたのかは知らないが、頬に吹き付ける風が気持ちいいからその疑問は置いておこう。
僕はやっと灯を揺らすのを止めたシャンデラに視線をやると、なぜ自分を助けたのかを尋ねた。尋ねたと言っても、人間とポケモン。言葉が通じるわけがない。返ってくるはずのない答えを待ちながらぼうっと空を見上げていると、落ち着いた女性の声が耳に飛び込んできた。
「なぜって……。あなたを助けたいと思ったからですよ。あと、私はあなたの魂を燃やそうだなんて微塵も考えていませんので」
声の内容、というよりもまず声が聞こえてきたこと自体に驚き、僕は慌てて首を声が聞こえてきた方向へと動かす。流れるように変わった視界に飛び込んできたのは、予想した通り見知らぬ女性、ではなくあのシャンデラだった。
ポケモンが喋る、というアニメの中でしか体験しようのない出来事に、ただ口をパクパクとさせることしかできない。それに対しシャンデラはというと、僕の反応を見てやや困ったように丸い目を欠けさせていた。このままの状態がしばらく続くかと思いきや、シャンデラはまるでセリフを予め用意していたかのように言葉を紡ぎだす。
「驚かれているようですね。それは無理もありません。普通、ポケモンは人間の言葉を話しませんから。私が人間の言葉を話せるのには少し事情があるのですが、それはあなたが知らなくてもいいことなので省きます。私がここに来たのは、あなたの未来を変えるためなのですから」
「僕の未来を変えるため?」
話の流れを途切れさせるのは不味いと思いながらも、疑問が口から出てしまったのだから仕方がない。シャンデラは話の流れが途切れたにも関わらず、不機嫌そうな顔は全く出さずに質問に答えた。
「はい。私が現れなかった場合、あなたはさっきので地面とお友達になっています。かろうじて生きていたとしても、近いうちにこの世界に別れを告げていたでしょう。場合によってはそれで救われることもありますが、あなたの場合はダメなのです。……あなたには、まだ選択肢が残っているのですから」
「選択肢?」
そんな馬鹿な。僕は選べる全ての選択肢を無視してきた。今更選べる選択肢が残っているはずがない。僕はきっと信じられない、という目でシャンデラを見ていたのだろう。シャンデラは小さく片手の灯を揺らした。
「あなたは全ての選択肢を無視したと思っているのかもしれません。しかし、それは間違いです。……確かに、進学や就職の選択肢を選ぶには今の状態では絶望的でしょう。ですが、ポケモントレーナーになるという選択肢は? 一般的なスタートから見たら遅いかもしれませんが、十分に選べる選択肢ですよ。あなた、ポケモンは嫌いではないでしょう?」
まるで僕の周りを全て知っているかのような口ぶりに、背筋が少しずつ冷えていくのを感じながら頷く。頭の片隅では逃げた方がいいという警報が鳴り響いているが、もう少しだけシャンデラの話を聞いていたいという思いが倍以上勝っていた。
「いつ、どのタイミングでトレーナーになるかは強制しません。仮に今夜トレーナーになると言っても、家族には特に反対されないでしょう。それどころか、歓迎すらしてくれる可能性があります。あなたから離れていった友達も、旅を続けるうちにバッタリと巡りあって意気投合するかもしれません。あなたはこれを聞いてもなお、人生をリセットするしかないと言いますか?」
畳みかけるような言葉の弾丸に、僕はただ首を横に振るしかなかった。何でそんなことまで知っているんだ、と聞きたい気持ちはある。だけど、その理由は何となく気が付いていた。からあえて聞かなかった。
もう、屋上にいる必要はない。そう悟った僕がフェンスから離れてシャンデラの傍を通り抜けた時、ホッと息を吐いた音に入った。
「意外と早く違う道を進むことを選びましたね。ああ、そうだ。どうやらこの世界では人は死んだらポケモンに、ポケモンは人になることが多いそうですよ。そして、違う道を歩めたはずの魂は、神によって過去に送られて自分で自分の人生を正すことになるそうです。まぁ、これは任意なので、戻るか戻らないかは本人次第だそうですが」
その言葉に「何となく」が消え去り、理由は明確なものとなる。思わずシャンデラがいた方を振り向くと、そこには夜空だけが広がっていた。どこを見回しても、あの紫色の灯は見えない。
当たり前か。僕がこの選択をした時点で、未来は変わってしまったのだから。小さな笑みを漏らすと、夜空を見上げてポツリと呟いた。
「ありがとう、
シャンデラ。僕を導いてくれて」
空には多くの星が僕を応援するかのように瞬いている。僕はここに来る前とは比べ物にならないほど軽い足取りで扉を抜けると、ペンライトを頼りに階段を下りていった。
「みちびきの灯」 終わり