Another Rain
ポチエナの毛のような色の空から、透明な雫が次から次へと落ちてきます。ざあざあと音を立てて踊る雫達は人々が行きかう町中や、多くのポケモン達が仲良く暮らしている森の中にまでも訪れていました。
その森の中を、ユイちゃんはとぼとぼと歩いていました。ひたすら「前」を見つめるその目には、森を覆う空と同じように「光」がありません。よく見ると、空のものとは別の雫も落ちているようです。
ユイちゃんは突然ピタリと歩みを止めると、そっとポチエナ色の空を見上げました。ざあざあと真上から落ちる雫が顔に当たるのも気にしないまま、ユイちゃんはぽつりと言葉を零します。
「……なんで、わたしはシャワーズになっちゃったんだろう」
零れた言葉は楽しげに踊るもの達にかき消され、誰の耳にも届きません。返ってくることのない言葉を待って、ユイちゃんはしばらく空を見上げていました。その間も雫はぽろぽろとユイちゃんの顔から落ちては小さな波を立てていきます。
耳元で聞こえる音がかなり大きくなった頃、ユイちゃんはゆっくりと重い顔を下に向けました。ざぱあ、という音を立てながら、溜まった雫達が地面へと逃げていきます。それでもまだ重い顔をそっと上げると、ユイちゃんの目にあるものが移りました。
「……どうくつ?」
空を見上げるまではずっと「前」を見ていたはずなのに、ユイちゃんにはその洞窟を見た記憶がありません。不思議そうに首を傾げていたユイちゃんでしたが、しばらくするとその洞窟へと歩みを進めていきました。
洞窟の中への興味は、ないと言ったら嘘になるでしょう。しかし、どちらかというとユイちゃんは「ずっと雫達といると自分も地面に吸い込まれてしまうかもしれない」という焦りから歩き出したのでした。
ユイちゃんは雫達に体を連れていかれないよう気をつけながら洞窟の前まで歩くと、早速中に入ろうとします。しかし、あと一歩というところで慌ててピタリと止まりました。もし先に「お客さま」がいたら、迷惑をかけてしまうかもしれません。
小さく息を吐くと、ユイちゃんはそっと中の様子を伺いました。洞窟の中はどれだけ目を凝らしても暗いままで、「お客さま」がいるのかどうかはよくわかりません。困って眉をハの字にしたユイちゃんの視界に、突然ぼうっと青い光が飛び込んできました。
「……?」
光の正体はよくわかりませんでしたが、もしかしたら「お客さま」がいるのかもしれません。ユイちゃんは「お客さま」にきちんと挨拶をするために、光が見える場所へといつもより早いスピードで歩き出しました。
とたたた、と洞窟内にユイちゃんの足音が響き渡ります。ユイちゃんはそれが自分のものだとわかっていても、時々ビクリと驚いては歩みを止めてしまいましたが、無事に光の近くへと辿り着きました。もしズバットなどイタズラ好きなポケモン達が待っていたら、きっと怖い目に遭っていたに違いありません。
彼らが繰り出す「イタズラ」の内容を想像してユイちゃんがぶるりと体を震わせた時、ふと光の「正体」が視界に飛び込んできます。
「うわぁ……!」
ユイちゃんの視界に飛び込んできたもの。それはとても美しい「青色」の雫達が一面で楽しげに踊る光景でした。洞窟という環境ではほとんど見ることがない光景に、ユイちゃんはただただ驚きと感動の声を漏らします。
その姿をどこからか見ていたのでしょうか。くすり、という小さな笑い声と共に、ユイちゃんの後ろから声が聞こえてきました。
「この『蒼雨の洞窟』の景色は気に入ったかしら?」
「『そうう』?」
ユイちゃんは聞きなれない言葉に首を傾げながら、声がした方向に体を動かします。すると、動いたことにより風がイタズラをしたのか、視界に映る純白のスカートがふわりと揺れました。
「……あ」
そのままでは顔が見えないと気がついたユイちゃんが少し首を上げて声の主に視線を合わせると、「彼女」は青色の髪を揺らしてニコリと微笑みました。
「蒼雨というのは、今あなたが見ている『青色』の雨のことよ。あ、私の名前はミオ。ここに住んでいるの。それで、お嬢さんのお名前は? どうしてここに来たのかしら?」
話しかけてきた女性……ミオさんの質問に、ユイちゃんは少し困ってしまいました。どうしてここに来たのか、に困っているのではありません。ミオさんがサーナイト……しかも、珍しい色違いだから困ってしまったのです。
ユイちゃんは以前、お母さんに「雨の森」には恐ろしい「魔女」が住んでいると聞いたことがありました。その魔女に出会ったこども達は、皆「笑顔」を忘れてしまうと言われています。
しばらくすると元に戻るのですが、それまでは何をしても笑顔になることはなく、まるで「嬉しい」という感情だけどこかに置いてきてしまったようになるのです。そのことから、魔女は「感情を消す者」とも言われていました。
こども達をそんな目に遭わせる魔女の種族はこの辺りにはあまりいない「サーナイト」で、しかもほとんど目撃されることのない「色違い」。もし見かけたら急いで逃げるように、とお母さんが真剣な眼差しで語っていたことをユイちゃんは思い出します。
ミオさんはちょうど、お母さんが話していた種族と特徴に当てはまっていました。それに何もない場所に突然現れたり、このような不思議な光景を見せたりする洞窟に住んでいるのです。どう考えても、ミオさんは「魔女」でした。
しかし、ユイちゃんはどうしても逃げ出せませんでした。それは恐ろしかったからでも、ミオさんから何か不思議な力が出ていたからでもありません。ミオさんの声は「感情を消す者」と言われているとは思えないほど優しく、暖かみに溢れていたからです。
それに、顔をわけるように伸びた前髪に隠れはっきりとは見えなかったものの、ミオさんの目はとても悲しげに見えたのです。なぜあんなに優しい声を出しているのに、目はとても悲しそうなのか。ユイちゃんはそれが気になって仕方がありませんでした。
口元に優しげな笑みを浮かべながらもずっと悲しい目をしているミオさんの顔を少し見た後、ユイちゃんは小さく口を開きました。
「わたしは、ユイ。ここにきたのは、ぐうぜんだよ」
ユイちゃんの言葉を聞いて、ミオさんはそう、と言ってふわりと目を細めます。しかし、ユイちゃんの目に「光」がないのを見て、スッと真剣な表情になりました。
「ユイちゃん。どうして、ここに来ることになったのかしら? もしよかったら、お姉さんに教えてくれない?」
その言葉に、ユイちゃんの尻尾がぶるりと震えました。じっとミオさんを見つめる目が光を受けて青色に揺れ、ぽろりと僅かに色を吸い込んだ雫が地面へと落ちます。いくつもの雫が弾けた後、ユイちゃんの口がゆっくりと開かれました。
「あ、あのね。わたしは『ニンゲン』っていうイキモノのところにいたの。わたしのなまえも、そのニンゲンがつけてくれたんだ。とてもたのしかった。でも、わたしがあおいものにさわってシャワーズになったから、ポイっておいだされちゃったの」
「何で、追い出されちゃったの?」
「えっとね。ニンゲンはわたしを『にんふぃあ』にしたかったんだって。だから『ユイ』ってつけたらしいの。だけど、わたしがシャワーズになったからいらない、って……」
そこまで話すとユイちゃんは口を閉じ、下を向いてしまいました。小刻みに震えているユイちゃんの頭を、ミオさんは優しく撫でます。
「そう。辛かったのね……」
「う、ん……」
ユイちゃんはミオさんに頭を撫でられ続けているうちに、なんだかポカポカとした気持ちになって、やがて小さな寝息を立て始めました。
*****
自分の手の下で小さな笑みを浮かべながらくうくうと小さな寝息を立てるユイちゃんを見て、ミオさんは静かに瞳を揺らします。そして、ユイちゃんからそっと手を放すと、踊り続けている青い雫達を見つめました。
ミオさんには、なぜユイちゃんが捨てられてしまったのかがわかっていました。タマゴや野生のイーブイのメスが出てくる確率は、オスが出てくる確率よりもかなり低い方に入ります。
恐らくその人間は、メスのニンフィアが欲しかったのでしょう。それなのにユイちゃんがシャワーズに進化してしまった。だから、捨てたのです。
「……本当、自分勝手ね」
ミオさんはその人間に、そして自分自身に対してその言葉を吐きました。ミオさんがこれからユイちゃんにしようとしていることも、十分自分勝手だとわかっていたからです。
ミオさんは、町の人間や森のポケモン達が噂している「魔女」でした。しかし、ミオさんも最初から「魔女」だったわけではありません。あの日、この森も奥深くで「本物」の魔女と出会ってしまったことにより、ミオさんの運命は変わってしまったのです。
目をゆっくりと閉じると、今でも映像と共にあの言葉が鮮明によみがえります。あの日、紫色の帽子とスカートを揺らした魔女は、口許を楽しげに歪ませながらこう言いました。
「お前に定期的に子供達の『笑顔』を奪わなければ生き続けられない呪いをかけたよ。奪い方は自ずと理解するだろう。笑顔を奪い続けるだけで生き続けられるのだから、いい呪いだろう? だが、もし奪うのをやめたら……どうなるかわかっているだろうね?」
なぜ偶然会っただけで魔女がそのような「呪い」をかけたのかは、今でもわかりません。魔女はその言葉を告げるとすぐに自身を飾る赤い宝石を光らせ、その場から消えてしまいました。なので、理由を聞くにも聞けませんでした。
それから、ミオさんは「生きるため」に偶然出会ったこども達の「笑顔」を奪い続けました。最初のうちは罪悪感に押しつぶされそうになり、自ら命を絶とうとしました。しかし、呪いの影響なのか、自分に技を向けても食事や睡眠を取らなくても死ぬことができません。それどころか、年を取ることすらできなくなっていたのです。
時間が経つにつれて、だんだんと罪悪感が薄れるのがわかりました。「笑顔」を奪うことにためらいを覚えなくなりました。人間やポケモンが他の命をいただくように、ただただミオさんはこども達の「笑顔」を奪い続けました。
そして、いつしかミオさんは周りから「魔女」と呼ばれるようになっていました。本物の魔女は別にいます。ですが、「魔女」と呼ばれても仕方のないことをし続けてきたのは、変えようのない事実です。
だったら、魔女としてずっと生き続けてやろう。ある日ミオさんはそう決めると、今までを過ごしてきました。こども達の笑顔を奪うことには、もう何の感情を抱いていません。息を吸うのと同じようなものなので、感情を抱くこと自体がおかしいとも思い始めていました。
それはついさっき出会ったばかりのユイちゃんに対しても同じ、なはずでした。
ミオさんはそっと目を開けると、再び雫達を眺めます。弾けて散っての楽しい踊りを続ける青い雫達は、ミオさんがこの洞窟に住み始めてから現れ始めました。外が晴れていても曇っていても、この雫達は踊り続けています。
この雫達の正体は何なのかはわかりませんでしたが、見ているだけで忘れていた何かを思い出せそうな、そんな不思議な気持ちをミオさんは抱いていました。何もない日々を過ごすミオさんにとって、その気持ちはとても大切なものでした。
その「何か」は、ずっと思い出せませんでした。しかし、思い出には「思い出した方がいいもの」と「思い出さない方がいいもの」の二種類があります。きっと、これは後者の思い出だったのでしょう。ミオさんはそう思うことで、思い出すことを諦めかけていました。
しかし、それがユイちゃんと会ってから、まるで思い出が自分から出てきたかのようによみがえったのです。
ミオさんが思い出した「何か」。それはこども達に対する「罪悪感」でした。自分に対する「怒り」でした。魔女に対する「憎しみ」でした。変われないことに対する「絶望」でした。変わらない日常に対する「虚無感」でした。
それらを思い出してしまったからでしょうか。いつもなら「さいみんじゅつ」をかけた後すぐに笑顔を奪っていたというのに、なかなかその行動ができません。それどころか、ユイちゃんに対して「憐れみ」さえも抱いていました。
しかし、ミオさんとユイちゃんは出会ってそれほど経っていません。なので、この憐れみは片方が一方的に抱いているだけのちっぽけな感情です。これは自分を終わらせる理由を見つけるためだけに抱いた感情、とも言えるでしょう。
視線をそっとユイちゃんへと落とすと、静かに両手を彼女へと向けました。
「本当、私って自分勝手ね――――」
そして、ミオさんは「ユイちゃんの悲しい過去を消すため」に、「今まで笑顔を奪ってきたこども達への罪滅ぼしのため」に、『自分の長い永い一生に幕を下ろすため』に、自身に宿る力を全て開放したのです。
*****
「……ここは?」
ユイちゃんは暗く、静かな世界の中、どこかでぴちょんと雫が跳ねる音で目を覚ましました。さっきまでは森の中にいたというのに気が付いたら暗闇の中だったのですから、ユイちゃんは驚きを隠せません。
ゴースやゴーストが出ないことを祈りながら微かに漏れる光の方に駆け足で近寄ると、ユイちゃんの目に明るい世界が飛び込んできました。
「うわあ……!」
暗闇の外に広がっていたのは、どこまでも広がる木々と青い空。先ほどまで踊っていた雫達のほとんどが帰ったことを表すように、木々を飾る木の実にはいくつかの雫が光り、空には大きな七色の橋が架かっています。
ユイちゃんがその光景に見とれていた直後、木の実の一つがぽとりと音を立てて地面に落ちてきました。黄色いその実は、まるでユイちゃんが食べるのを望むかのようにこちらへ転がると、ぴたりと止まってその存在をアピールしてきます。
ユイちゃんはどうしようかと少しの間悩みましたが、勇気を出して近くまで行くと、かりりとその実をかじりました。口の中に入ってきた実は、酸っぱさを始めとする様々な味を残しながら喉へと落ちていきます。そして、喉を落ちるのを同時に体に力が湧いてくるのを感じました。
どの味も嫌いではなかったユイちゃんは、一口食べた後もかりり、かりりとその実をかじり続けます。その実がほとんどなくなる頃には、ユイちゃんのお腹もだいぶ満たされていました。
お腹が満たされたことで幸せな気持ちになったユイちゃんは、ふと何か忘れていることに気がつきました。しかし、何を忘れたのかが全く思い出せません。これだけ考えても思い出せないのですから、きっとユイちゃんにとってもあまり大切ではないことだったのでしょう。
「何かを忘れていること」を忘れることにしたユイちゃんがこれからどうしようか、と虹の消えた空を眺めていると、突然「この森で暮らしていこう」という考えが浮かんできました。なぜその考えが浮かんだのかはわかりませんでしたが、今のユイちゃんにはそれがとても魅力的なものに思え、すぐにそうすることに決めました。
食べるものは多くあるので、困ることはないでしょう。寝る場所はこれから考えなければいけませんでしたが、ユイちゃんにはそれもどうにかなるという自信がありました。なぜなら、頭の中で優しい声が色々と教えてくれるからです。
「あれ?」
ユイちゃんはこの状況に一瞬違和感を覚えましたが、それもすぐに消え去りました。今ユイちゃんの思考を占めるのは、「この先をどう楽しく生きるか」だけです。
「よし、まずはみんなにあいさつしてこよう!」
ユイちゃんは雫達が休む地面を蹴って走り出します。そんな彼女を応援するように、風に揺れる木の実がきらりと輝きました。
「Another 〇 ○ ○」 終わり
彼女達を包んでいた「雨」はもうどこにも降っていません。しかし、それはこの話の中だけです。他の話に行けば、また別の「雨」が降り始めるのでしょう。