蒼桜の彼方
「ユクシー症候群って、聞いたことある?」
友達からそう言われた時、私は顔が引きつらないようにしながらただコクリと頷いたのを覚えている。ユクシー症候群。準伝説のポケモンの名前がつけられたそれは、まさにユクシーのような症状を持っていた。
最初は目が黄色くなっていき、続いてはその目を見た人がアトランダムに記憶を忘れていく。その際本人にも軽い頭痛が発生するため、症候群を名乗っているらしい。果たしてこれは病気に位置付けていいのかもわかれないけれど、原因がわからない以上は病気ということにしているそうだ。
そういう私も、実はユクシー症候群にかかっている。いや、かかりかけていると言った方が正しいかもしれない。私の目は今、茶色からトパーズのような黄色に変わっている。どうしてもカラコンを外さないといけない時以外は、元の目とよく似た色のカラコンをして誤魔化している。
親には黄色い目の方がカラコンだと言っているけど、いつバレてしまうかわからない。もしかしたら既にバレているけど、私が言い出さないから何も言わない……なんて可能性もあるかもしれない。
今はまだ目の色だけで終わっているけど、しばらくしたら目を閉じて相手に迷惑をかけないようにしないといけない。ああ、ますますユクシーに似ていってしまう。名前をつけた人はポケモンの知識が豊富だったに違いない。
目を見た人が記憶を忘れていくというのなら、これはどうやって知られるようになったのだろう。症状が出た人が広めていったのか、目を見ないよう気をつけた他の人が広めていったのか。よくわかっていないけれど、情報の伝わり方を考えるとこの場合は両方やその他の方法で伝わったのだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか家の前についていた。いつもであればガーディが私を見るとすぐに駆け寄ってくるというのに、今日に限ってはこちらを見ても駆け寄る気配がない。
ずきん、と前触れもなく頭痛が起きた。
「がるる……!」
痛みに顔をしかめていると、ガーディは私に向かって低い唸り声を出して威嚇をしてきた。こちらを睨む目には敵意しか宿っておらず、あの甘えた目はどこにもない。まるで私のことを忘れてしまったかのような反応に、さっきの頭痛。すうっと背筋が冷たくなっていくのがわかった。
「ま、まさか……」
恐る恐るガーディを呼んでみる。いつもなら尻尾をぱたぱたと振って元気よく返事をするというのに、返ってきたのは先ほどよりも強い威嚇の声だった。やっぱり、そうだ。もう症状が進んでしまったんだ!
これ以上目を合わせてはいけない。ガーディから目を逸らした時、左前方から異常なまでの熱を感じた。本能が危険だと告げている。反射的に右後方へと避けると牙に炎をまとったガーディが通り過ぎていくのが見えた。
早く家に入らないと、ガーディにやられてしまう。今までは感じることのなかった恐怖に体が冷えていく感覚を覚えながら、ガーディが二度目の攻撃を開始する前にと扉を開けようとする。
「早く、早く開いてよ……!」
震える手でがちゃがちゃと鍵を差し込もうとしても、なかなか鍵が入っていかない。ガーディの唸り声が聞こえる。早くしないと、あの牙が私に……!
「やった、開いた!」
奇跡的に鍵が入ったのを確認し、素早くがちゃりと開けると滑り込むように家の中へと入った。扉を閉めた瞬間にドンと何かがぶつかる音が聞こえてきて、あと一歩遅かったらどうなっていたかと思うと恐ろしくなる。
ばくばくとなり続ける心臓をどうにか落ち着かせようとしていると、奥からお母さんが走ってきた。ガーディがぶつかった音を聞いて心配になったのか、乱暴に扉を閉める音を聞いて何があったか気になったのか。どっちかはわからないけれど、とりあえず起きたことを説明しないと。
目を合わせないように気をつけながら口を開こうとすると、お母さんの方が私の名前を呼んだ。顔が見えないから、続いて何を言われるかわからない。ただ、その声には怒りが混じっているように思えた。
「ちょっと、何よ今の音は!? ガーディと遊ぶのもいいけど、扉を壊すようなことをさせないでよ? それに、かなり乱暴に扉を閉めたでしょう!? 丈夫だからといっても乱暴に扱うと蝶番に負担がかかるんだから、もっと丁寧に扱いなさい!」
あのような状況に遭っていたことを知らないお母さんからすれば、その反応は当然のものだった。目を合わせないようにしながら「ごめんなさい」と口にする。理由は違えど目を合わせないという行為は反省しているように見えたのか、それ以上怒りが飛んでくることはなかった。
ただ、もう目を合わせてもいいのにいつまでも明後日の方向を向いているのがあらぬ疑いを招いたらしい。お母さんはなぜこちらを見ないのかと優しく私に尋ねてきた。声は優しいものの、その優しさが逆に恐ろしい。
ぽつりぽつりと理由を話し終えると、お母さんが大きなため息を吐く音が聞こえた。やっぱりお母さん達にはバレていて、やっと言い出したことに対してため息をついているのかな……?
そうだとしたら、とても申し訳ない気持ちになってくる。早く言わなかったことを謝ろうとした時、ぐいと無理やり顔を動かされた。このまま目が合ったら、お母さんもガーディみたいに……!
完全に目が合う前にぎゅっと目を閉じる。目の前が暗闇に閉ざされた次の瞬間、怒鳴り声が鼓膜に突き刺さった。
「ユクシー症候群? そんなよくできた作り話をお母さんが信じるとでも思っているの!? 最近カラーコンタクトなんてしているし、どうせ後ろめたいことでもしているんでしょう!? ほら、目を開けてちゃんとお母さんの目を見なさい!!」
お母さんの言葉が耳に突き刺さる度に、目の前の暗闇がその濃さを増していく。ユクシー症候群は作り話なんかじゃない。カラーコンタクトをしているからといって、後ろめたいことをしているとは限らない。目を合わせてはいけないからこうしているのに、全然わかってくれない!
私の話を全然聞いてくれないお母さんに対し、どこからか黒い感情が溢れてくる。どうせこのまま黙って目を閉じていても、状況は好転しないだろう。どっちに転んでも希望が見えないのなら、直接体験して貰った方がいい。
ずきん、と決して軽くはない頭痛が私を襲った。
「何も悪いことをしていないというのなら、しっかりと――」
また何か言い始めそうなお母さんだったけど、私がしっかりと目を合わせた途端パッと手を放して戸惑いの表情を浮かべた。
「あら、あなたは一体……。わたしったら、何で見ず知らずの子どもの顔を――、ごめんさないね。痛くなかった?」
完全に知らない子どもを相手にしているような態度に、もう戻れないことを知る。なぜこの家に入ったのかを不思議そうに尋ねてくるお母さんに適当な理由を言って離れると、扉を開けて走り出す。
「がるる……!」
ガーディが再び現れた私に対して攻撃を試みるものの、お母さんの一声できゅーんと耳を垂らして大人しくなった。それを横目に見ながら、私はただ走り続ける。この家から、町からなるべく遠くの場所へ行くために。
「……はあっ、……はあっ」
走って、走って、走って。いくつもの建物や人間、ポケモンを通り過ぎて辿り着いたのは森の中だった。とにかく遠くに行かなければという思いで走り続けたせいだろうか、喉が水分を欲している。
「とりあえず、水……」
森の中でも泉や小川くらいはあってもおかしくないだろう。そう思って歩き続けていると池か何かだろうか。周りの景色が映り込んでまるで鏡を見ているかのような光景が目の前に現れた。
見事なまでに反射しているせいで透明度はわからないものの、一口くらいなら飲んでも大丈夫だろう。二口目もいけるかどうかは味を見て判断するしかない。地面に膝をつけて鏡の表面を覗き込んだ時、自身の黄色い目と視線が合った。
ずきん。何でここに来たんだっけ。ずきん。私が住んでいる場所ってどこだっけ。ずきん。私の家族でどういう人達だっけ。ずきん。目の前でこっちを見ている人は誰だっけ。
絶え間なく襲ってくる頭痛と戦っていると、目の前でこちらを見ていたはずの人間はいつの間にか姿を消していた。その代わりに黄色い頭の何かが浮いている。あれってどういう生き物だっけ。わからない。
でも、あれが現れると同時に頭の痛みが消えていたから、悪いものではない気がする。ふと喉の渇きを覚えて水を一口飲み込むと、後ろから声をかけられた。首を傾げながらも振り向くと、そこにはわたしと同じ姿をした生き物がたくさん浮いていた。わたしの仲間だ。
わたしが何者なのかわからないけれど、彼らといればわかってくるのかもしれない。たくさんいるうちの誰かが手招きをしている。わたしは「きょううん」と声をあげると、すぐに仲間のところへ飛んで行った。
「????症候群」 終わり