ビター・ハートスイーツ
澄んだ青空の中をゆっくりと流れる白い雲。ぽかぽかと降り注ぐ陽光は、こちらの眠気を誘うかのようだ。今僕の心の中がまるでこの天気とは正反対でなければ、昼寝の一つや二つはしていただろう。
こちらの心をあざ笑うかのような天気をこれ以上見ていたくなくて、まだ太陽が高いというのにカーテンを閉めた。紺色のカーテンが腕の動きにつられて揺れると同時に、部屋の中には疑似的な夜が訪れる。
音の訪れさえも拒絶した空間の中、襲い掛かる衝動のままに虚空を殴りつけた。来るはずのない痛みを待ちながら、僕はこれまでのことを思い出し始める。どうせ、これくらいしかできることがないんだ。
*****
僕には長年一緒に過ごしてきたパートナーがいた。彼とはラルトスだった頃から一緒で、サーナイトに進化してからも旅に出たり観光に行ったりしてきた。「アンジュ」という名前の通り、彼の姿は天使のようだった。
最も、彼はその名前で呼ばれるのを恥ずかしがっていたからあまり呼んでいない。だから僕も種族名で呼ぶのに慣れてしまっていた。友達からはどうして名前で呼ばないのか不思議に思われることが多かったけど。
そんなサーナイトとの関係が変わったのは、先月アローラへ観光で行った時だ。アローラに着く前はいつも通りだった彼は、あの地に足を降ろしてから天使から悪魔へと変化を遂げてしまったのだ。
始まりは僕を無視して勝手に注文をするという、今で考えればかわいいものだった。それが観光を続けるうちにバトルで命令を無視してエスパー技を乱発し、ボールに入れても拒絶して無理やり出てくるようになった。
ここまで行くと、いくら僕でもさすがにおかしい。ただ変化したにしては度が過ぎると思い始める。サーナイトはテレパシーが使えるため、すぐに理由を聞いた。でも彼はただ笑顔で首を振るばかり。そういえば、最近全くと言ってもいいほど彼の声を聞いていない。
あえてテレパシーを使わないのか? いや、「使わない」のではなく「使えない」のかもしれない。当たり前のやり取りができないとなると、もうサーナイトの表情から読み取るしかない。
でも、サーナイトはただ笑みを浮かべていた。思えば、アローラに来てからサーナイトは笑顔でいることが増えたように思える。それが正の感情から来るものであれば問題ないのだけれど、明らかに場違いだろうという場面でも彼は笑みを浮かべていた。
まるで他の感情を忘れたかのような振る舞いは見た者に明らかな違和感を植え付け、一種の恐怖でさえ覚えさせるようだった。僕もその一人だったことは間違いない。すぐ病院に連れていけばよかったものの、僕はある時の体験から病院に行くのを避けるようになっていた。
あれが真実だとわかっていても、あれは何度も体験したいものではない――。本当はそんなことを考えている場合じゃないと理解していても、避けてしまうものは避けてしまうのだった。
僕がそんな自分だけにしか見えないつまらない檻に囚われず、さっさと行動していれば何かが違っていたかもしれない。観光を続けず、さっさとそういうものに詳しい病院を探して訪れていれば、間に合ったのかもしれない。
だけど、現実は違う。僕は、遅かった。遅すぎたんだ。ある日いつまで経ってもご飯を食べず、抜け殻のように立ち尽くすサーナイトを見て僕は慌てて病院に駆け込んだ。僕の少しもまとまっていない言葉でも、サーナイトの様子を見れば異常はすぐにわかる。
慌てて色々な検査をして、不安で頭がパンクしそうな僕に告げられたのはあの時よりももっと残酷な言葉だった。その言葉が耳に届いた時、様々な感情が溢れて目の前が涙で埋め尽くされた。
――サーナイトは以前の怪我がきっかけで少しずつ能力を制御できなくなり、完全に制御できなくなった結果。彼は、完全に壊れてしまった。
制御できなくなった能力が外で暴れることはよくあっても、内側で暴れることは滅多にない。能力が外で暴れたのであればすぐにでもわかるのだが、内側の場合はそのポケモンをよく見ている人間でない限り変化には気づけないらしい。
サーナイトの行動を考えると暴れたのは外のような気がしてならないけれど、もし本当に外で暴走をしていたのなら僕が伝えたものよりもっと酷いことになっていたという。言われてみれば技の乱発やボールへの拒絶を見ても、地形が変化するとかボールが壊れるというようなことはなかった。
明らかにおかしいと思える時はもう手遅れのことが多く、どうしてもっと早い段階で気が付かなかったのかと言われた。「気づいてはいたけれど、病院でのやり取りが嫌で行こうと思いませんでした」、なんて答えはあまりにも自分勝手すぎる。トレーナー失格だ。
最初の変化は、内側で少しずつ暴走する能力をどうにかしようと普段はしないことをした結果だろう。技ではなくても、力を使えば少しは落ち着くと思ったに違いない。それがあのようなことでは追い付かなくなり、段々とエスカレートしていった。
テレパシーですぐに伝えてくれれば、と思ったけれど彼は僕が病院を避けていることを知っていた。きっと僕に迷惑をかけたくなくて理由を言わなかったのだろう。言わないといけないレベルにまで行っていた時には、もう使えなくなっていたんだ。
俯いてはらはらと後悔の雫を流し続ける僕に待っていたのは、究極の選択だった。どちらを選んだとしても、僕を待っているのは絶望。それも、こんな状態になってしまったサーナイトのことを考えると選べるのは実質一つと言っても過言ではなかった。
僕を見つめる者達の視線が、声が、感情が。まるで実体化したかのように心に、体に突き刺さった。僕は選んだものを告げるために後悔を拭うと、ゆっくりと顔を上げた。
*****
そこまで思い出すと、僕はずっと突き出したままだった拳を下げる。望んでいた痛みはやはり来ることがなかった。当然だ。虚空が実体を持っているわけがない。自分で自分を殴る勇気がないから、無を殴ったんだ。
カーテンに遮られた青空を見て、深く息を吐く。彼は――アンジュは、名前の通り天使となって僕の前から消えた。今回のことで僕はトレーナーであることを止め、実家に帰っては夜の中で過ごしている。
両親にはトレーナーを止めることを伝えても、こちらを責めるような言葉は何も言われなかった。視線にもそのようなものは感じられなかった。もしかしたら既に僕はトレーナーとして見られていなかったのかもしれない。
どさりと椅子に腰を下ろすと、ここのところ一度も開けていなかったリュックを開いて中からチョコレートを取り出す。ハートスイーツ。とても甘ったるいチョコレートで、彼が好きなものだった。
この天気や放っておかれた時間を考えると、少しくらいは溶けていそうだった。それなのに溶けにくい加工をしているのかリュックの中が冷えていたのか、どこも形が変わっている様子はない。
もう相棒に食べさせる必要はないのだからリュックごと捨ててもよかったのだけれど、これだけは僕が食べなければいけないと思った。甘い香りにつられるように、恐る恐る一口かじってみる。
香りをそのまま食べたかのような味が広がり、飲み込んでもまだそこにチョコレートが残っている。そんな気さえするほど、このチョコレートは甘い。一口で十分だと思いながらも、一口、また一口チョコレートをかじっては口の中に入れる。
甘い。甘い。甘ったるい。ハートスイーツは、まるで僕の後悔のようだ。飲み込んだつもりでも、いつまでもそこに残り続ける。お前は彼に甘えていたのだと訴える。己の罪から目を背けるなと声をあげる。
食べ続けるうちに、甘いはずのチョコレートが段々苦くなる。ハートをかみ砕く度に、苦さが増していく。ハートはまだまだ残っている。でも、食べるのを止めてはいけない。これは僕の後悔そのものなのだから。
僕は暗闇を見つめながら、苦い苦いハートスイーツを食べ続けた。
「ビター・ハートスイーツ」 終わり